第三章二節前半


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「これは参ったな」

 無理矢理に余裕の表情を浮かべ、俺はゼムにむけてつぶやいた。ゼムは本当にピンチだと受けとったか、それとも冗談を口にしたと判断したか。俺にも見当がつかないまま、かまええをとる。足をやられたのだ。スピードで相手をかきまわすのは無理っぽい。――いや、それはないか。俺は呼吸を整えた。

 ここは『忘却の時刻』だ。言ってみれば、現在であって現在ではない空間である。ゼムが母国語をしゃべろうと、俺には日本語として聞こえるし、静流の家族は水中で生きていく本来の姿を晒して見せた。そして、それを目撃する人間は皆無である。ありがたいことに、もう日も暮れているし。

 ここは、俺たちの“変貌”の時間だった。

「GRRRRRRRR――」

 俺は力の種類を変えた。全身に獣気が満ちていく。足からの出血が見る見るうちに止まり、傷口がふさがりはじめた。俺の雰囲気が一変したのを察したのか、ゼムが眉をひそめた。

「貴様、まさか、むこうの世界の――」

 最後までしゃべらせず、俺は突っこんだ。骨格が変形し、前傾姿勢になると同時に爪と牙が鋼の硬度を持ちながら変形する。俺は手を伸ばした。鉤爪という武器があるが、いまの俺の指はまさにそれである。軽自動車のドアくらいなら、軽く両断できるだろう。

 あたれば、の話だが。

 加減なしに突っこんだ俺の動きを、ゼムは軽く数歩移動するだけで避けてのけたのである! 闘牛士が紙一重で闘牛の突進を避けるような感じだった。同時に背中へ突きたったのは、あの激痛。――俺は足をとめることなく走りぬけた。ゼムから距離をとったと判断してから振りむく。目測だが、五メートルか。

「どうした? 気配が変わったのは驚かされたが、所詮はその程度か?」

 ゼムはニヤニヤしていた。返事をせずに背中へ手を伸ばすと、案の定、触角の感触がある。ゼムが避けざま、俺の背中に突き刺したらしい。無理矢理にひき抜き、俺は触角を地面に捨てた。あらためてかまえる。ゼムが両手を振った。

 次の瞬間、俺の手足に痛みが走った。見ると、あの触角が突き刺さっている。五メートルだぞ? ゼムはダーツの要領で触角を投げたのか。

「距離をとっても、俺には関係ない」

 ゼムが言うと同時に、さらに触角が突き刺さった。俺の腹にだ。なんだこの感触? これが内臓を傷つけられるってことか。経験のない苦痛を意地でこらえながら、俺は触角を抜いた。手足のも抜きながら、ゼムにむかって近づく。

「こちらには、闘うこともできない無能ばかりがうろついていると聞いていたが、その通りのようだな。貴様も、もとはむこうの亜種だろう? その亜種でさえ、この程度の実力しかないとは、あきれたものよ」

 同時にゼムが手を振った。妙な感触が走る。急に身体の動きが停止させられたような感じだ。見ると、俺の胸に触角が突き刺さっていた。

「心臓を刺した。なかの血液が流れでて、貴様はおわりだな」

 俺はあわてて触角をつかんだ。さっきと同様、ひき抜いて地面に捨てる。心臓は――とりあえず、動きは止まってなかった。傷口は獣毛がからんで出血をとめてくれる。助かったぜ。それにしても、この男、どれだけ飛び道具を仕込んでやがるんだか。

「――なんだと?」

 ゼムが眉をひそめた。

「いまのは、確かに心臓を貫いたはずだ。そこいらの亜種なら、それで息絶えているはず。貴様、なぜ死なん?」

「俺が知るもんか。それよりも、なんで俺を殺そうとする?」

 俺の質問に、ゼムが顔をしかめながら触角を抜きだした。まだ持ってやがる。

「貴様のような男が姫様のそばにいるなど、赦されるはずもなかろう」

 想像通りの答えだな。大臣の命令か、それともこいつの暴走か。まァいい。ブッ飛ばしてからゆっくりと聞こう。俺が勝てればの話だが。

 あらためて、俺は全身の力を抜いた。脱力してる状態から瞬間に力を入れると瞬発力が増す。その力を利用して俺は駆けた。ゼムが手の届く間合いに入った瞬間、蹴りを放つ。その直後、足に例の触角の突き刺さる痛みが。それを無視し、俺は蹴りを振り切った。ゼムの身体がくの字に折れて、三メートル近くも横に吹き飛ぶ。ざまァ見やがれ。くると覚悟していたら、この程度の痛み、こらえられないこともない。のたうちまわるのは、ずっとあとになってからだ。まずこいつを眠らせないと。

 本音言うと無茶苦茶痛いんだが、それを表情にださず、足の触角を抜きとった俺は、あらためてかまえをとった。ゼムが憤怒の表情で顔をあげる。着こんでいた蟹の甲羅の鎧が欠けていた。クリーンヒットの蹴りでへし折れた感触があったんだが、あれはあの鎧だけだったか。中身は無事らしい。

「この俺の血吸針を、貴様――」

 そういう名前の武器らしい。絶対の自信がある技を破られて怒り心頭ってところか。これで自分を見失ったりしてくれたら隙を突けるんだが、そう簡単にはいかないだろう。かまえを解かず、俺はポーカーフェイスのまま近づいた。ゼムもかまえなおす。あとは、カウンターでやり合って、どっちが先に力尽きるかってパターンかな。消耗戦なら、タフネスには自信があるぜ。はじめようと思って俺はゼムに駆けより、右拳を放った。

 だが、ゼムは防御しようとしなかった。なんだ? どうしてか、俺の拳があっさりとゼムの顔面にヒットする。同時にヌルッとした感触が拳に伝わってきた。骨を砕いたって感じはない。

 その直後、ゼムが真っ黒い鼻血を吹きだした。いや、鼻血ではない。それに、この量。まるで毒霧を吐きだしたみたいだった。いや、これはタコの墨だぞ!! ようやく気づいた俺は後ずさった。本気で蹴りを入れても骨が砕けないはずだぜ。ゼムはタコの化身だったのだ。

 次の瞬間、俺の目に耐え難い痛みが走った。

「ヌウ――」

 いままでとは比べ物にならない激痛に、俺は顔を押さえた。触角の感触がある、俺の目から。

「この俺が、血吸針の技だけではなく、生まれついての能力にまで頼らなければならんとはな」

 ゼムの声が聞こえた。触角が刺さっているのは左目である。右目は無事だが、そっちはタコの墨で、やっぱり見えない。それに、この痛み。軽く砂粒が入っただけでも、目ってのは洒落にならない痛みが走るもんだが、これは予想以上だった。獣人類の最大の急所と言われるだけあるぜ。うつむいて膝を突く俺の顔があげられた。ゼムが俺の髪の毛をつかんでひきあげたらしい。

「ふむ? まだ動けるか。闘い方の初歩も身につけていない無能かと思っていたが。どういう生命力なのだ貴様」

「だから、知らないって言ってるだろう――」

「これは本当に驚いたな。この状態で、まだ話もできるのか」

 ゼムが言うと同時に、のどに得体の知れない痛みが走った。触角を喉にも突き刺されたらしい。

「やっとおとなしくなったな。あとは首を切り落として持って帰れば、足はつかんだろう。名前は佐山秀人だったな」

 とんでもないひとり言をゼムがほざいた。なんだか、ガシャガシャと音がする。墨をぬぐった右目で見ると、ゼムはザリガニのハサミみたいなのをとりだしていた。鎧の背後にでも装着していた得物だろう。それで俺の首を切り落とすつもりらしい。

 静流の笑顔が急に脳裏をよぎった。

「姫様に近づいた愚行を地獄で悔め」

 ゼムの声が聞けると同時に、硬質なハサミの感触が首にあたったときだった。

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