風、蕭蕭として

 雪蘭は今日も蝋燭の炎と向き合っていた。大きく息を吸い込み、立てた人差し指の先に息を集中させるようにすると、一瞬でその指の先にある蝋燭の炎が消えた。

「だいぶ良くなったな、雪蘭。近頃は息もよく飛んでいるし、羽声も伸びやかだ。もう私が教えることは何もない」

 日一日と、荊軻の出立の時は迫っていた。今日この時をもって、雪蘭の指導を終えると荊軻は心に決めていた。

「そんな、私はまだまだ未熟です。それにまだ羽声の奥義を教えてもらっていないじゃありませんか」

 雪蘭は荊軻けいかに強く抗議した。最近の雪蘭はどうしても羽声の奥義を知りたいと言ってきかない。

「羽声の奥義など、知らないほうが幸せなのだよ」

「なぜ、そんなことを言うんですか?歌が上手くなって不幸なことなんてあるんですか」

「羽声の奥義を会得するには、感情の昂ぶりが必要だ、と言っているではないか」

「その昂ぶりを、不幸な事でなければ感じることができないとは限らないじゃないですか。誰かが亡くなったり、傷つけられたりしなければいけないんですか?」

 荊軻は少し目を伏せた。田光の犠牲の上に自分は羽声の秘奥に達することができたと思うと、やはり平静ではいられなかった。


「……ごめんなさい」

「いや、いいんだ、雪蘭。確かに不幸な思いをしなければ羽声の奥義を会得できないかどうかは、一考の余地があるかもしれない」

「では、ひとつ試してみませんか」

「試す、とは?」

「喜びによる昂ぶりで羽声の奥義に達することができるかどうか、を試すのです」

 雪蘭は声を弾ませた。どうやら何かいいことを考えついたらしい。

「で、雪蘭はどんな喜びを体験してみたいのだ」

「一度、馬に乗ってみたいんです。そして広野を思う様駆けてみたい。馬上の高みから広い大地を見たら、きっと喜びで胸が震えるでしょう」

 雪蘭はずいぶんと気楽な事を言ってくれる。一度も馬に乗ったことがない者が、広野を思う様駆け回るのは簡単ではない。

「馬に乗ったことがない者が、そんなに簡単に馬を操れるものではない。少しづつ慣さなければ」

「ですから、荊軻さんが私を後ろに乗せてくれればいいんです。それなら問題ないでしょう」

「しかし、それでは前が見えなくなってしまうではないか」

「後ろに乗るほうが安心ですし、横から景色は見えるはずです。さあ、行きましょう」

 荊軻は首を傾げたが、渋々雪蘭の言い分に従うことにした。


 雪蘭と二人で馬の背に乗り、薊の城門を出てしばらく駆けると、地平の果てまで続くような大地が広がっていた。やはり初めての馬上には慣れないのか、雪蘭は先程よりずっと必死で荊軻の背中にしがみついている。

「どうだ、雪蘭、馬上から見える景色は」

「少し怖いですけど、やはり気持ちがいいものですね。……ちょっと歌う余裕はないですけど」

「はは、それでは羽声の奥義が掴めるかどうか、確かめようがない」

「それでも、私は構いません」

「おかしな事を言う」

 荊軻は馬速を緩めると、薊の東方へと目を向けた。荊軻の視線の先で、天と地が曖昧に交わっている。この遥か東の果てに、まだ見たことのない東夷の住む地がある。

「そういえば雪蘭は、東夷の血を引いているそうだな。東夷の地とは、どれくらい遠いのだ」

「私は物心ついた時には燕にいましたから、詳しいことはわかりません。ただお父さんは、私は東海の彼方の蓬莱ほうらいと呼ばれる地から来たと言っていました」

「蓬莱?」

「ええ、そこでは誰もが礼を知り互いを慈しみ、争うことなく暮らしているのだと聞いています」

 そんな土地があるのなら、それはこの世の理想郷だ。いっそのこと雪蘭と二人で海を渡り、蓬莱で秦の脅威など忘れて暮らせないものか、という考えが一時心に兆したが、荊軻はかぶりを振って迷いを振り払った。

「そうか、ずいぶんと良いところなのだな。本来ならば雪蘭は、蓬莱から出ることなく一生を過ごせれば良かったのだろうが」

「いいえ、私は後悔なんてしていません。この燕で、たくさんの大切な人に会えましたから」

 その中で一番大切なのは誰なのだ、とは荊軻は訊かなかった。


「ところで雪蘭、心はどうだ。昂ぶっているか」

「ええ、とても」

 雪蘭は声を震わせると、荊軻の背に額を押し当てた。

「それでは景色が見えないではないか。広い大地を見るのが喜びだったのではないのか」

「この方が、いいんです」

 背に感じる雪蘭の吐息が熱を帯びていた。荊軻は何も言わず、黙って馬を走らせる。

「今はまだ無理ですけど、もっと馬上に慣れたら、二人で歌いましょう。私にも何かがつかめるかもしれません」

 雪蘭は一層強く荊軻の背にしがみついた。その手がわずかに震えているように思えた。

(済まない、雪蘭。それはできないのだ)

 荊軻はそう口に出すことはできないまま、強く馬腹を蹴った。このまま地平線の彼方まで駆けてゆきたい、と強く思った。



「では、これが約束の督亢とくこうの地図だ」

 王宮に呼び出された荊軻の眼前に、巻物が差し出された。それは荊軻が以前より丹に求めていた品だった。

「これがあれば、秦王に近づくことができます」

「間違いないのだな」

「まず、こちらから秦が求めているものを差し出さなければなりません。督亢こそ、まずは秦が求めている地です」

 丹は腕を組み、しばらく考え込んだ。荊軻の策を一時受け入れはしたものの、まだどこか納得が言っていない様子だ。

「荊卿よ、どうしても行かなくてはならないのか。雪蘭を行かせたくないのはわかるが、もっと他に良い方策はないのか」

「秦はこの中華の統一を目指しているのです。我が国がどのような態度に出たところで、いずれ王翦おうせんが侵攻してくることはあまりにも明白です。秦を国境から追い払うには、やはり秦王を討たなければいけません」

「そんな危険を冒さずとも、魯句践ろこうせん張廉ちょうれんの鍛えた軍があれば、王翦を迎え打てるのではないか」

「秦には李信や蒙恬もうてんなど、若手の将軍も育ちつつあります。たとえ王翦を討つことができたとしても、秦王が生きている限り、また代わりの将軍が派遣されてくるだけでしょう。私が秦王を討つことに成功した暁には、撤退する王翦の後背を突いてください。さすれば勝利は間違いないでしょう」

「しかし、咸陽かんように乗り込むなど危険過ぎるではないか」

「では、座して秦の侵攻を待つのは危険ではないのですか」

 丹は口を閉ざした。その目はそんなことは百も承知だ、と言っている。


「張廉の馬の訓練も進んでいますし、魯句践も日々調練に励んでいます。あとは私が、やれることをやるだけです」

「本当に、これで良いのか。恐らく生きては帰れぬぞ」

「殿下、見事に生きるとはどういうことか、ということを、私はずっと考えてきました」

 荊軻は一呼吸置くと、丹を真正面から見据えた。

「人は死ぬ時を選ぶことはできません。しかしどう死ぬか、を選ぶことはできます。どう死ぬかとはつまり、どう生きたか、ということでもあるでしょう。田光先生が私にそれを教えてくれたのです」

「先生も、罪なことをしてくれたものだ」

「田光先生は命を賭けて、私に羽声の奥義を伝えてくれました。それからずっと思っていたのです。私は何のために命を賭けるべきなのかと」

 荊軻の言葉は次第に熱を帯びてきた。沈痛な面持ちで黙り込む丹を前に、荊軻は話し続ける。

「田光先生は私に、万人を統べる者に向ける剣は一国を動かすこともできる、と教えてくれました。ならば私はこの剣をもって秦王を討つ、と心に決めたのです」

 丹は深く嘆息すると、ようやく諦めたように笑った。

「もう、何を言っても聞く気はないのだろう。貴方はそういう方だ」

「ご理解頂き、有り難く思います」

 荊軻は丹に深く頭をさげた。もうこの王宮に戻ることもないのだろう、と思うと急に寂しさが胸に込み上げてきたが、その寂しさを荊軻は無理やり意識の隅へ押しやった。



 王宮を下がった荊軻が市場に立ち寄ると、王真はすでに店仕舞いを始めていた。荊軻と目が合うと、王真は小走りに近寄ってきた。

「のう荊軻、もう少し他の手はないのか考えてみてくれんか。何もお主がそこまで自分を危険に晒すことはなかろう」

「もう心に決めたことです。意志を翻すことはできません」

「何もそんなに生き急がんでもいいではないか。お主は今や燕の上卿なのだぞ。せめて秦との戦いが始まるまで、良い暮らしを楽しんでおればいいだろうに」

「おや、王真さんが一番よくわかっているのではないですか?私の命数がもうすぐ尽きることを」

「……知っておったのか」

「貴方は何も言わなくても、誰より言いたいことが顔に出る人です」

 王真は気まずそうに顔を背けると、足元に目を落とした。

「しかし、何も敵地で果てることはない。この燕で、皆の顔を見ながら逝くことはできんか」

「何もできないままここで死ぬわけにはいきません。残された命をどう使うべきか、ということを田光先生が教えてくれましたからね」

「まったく、頑固なやつだ」

「申し訳ありません」

「いや、いいのだ。そもそも、このような事態を招いたのも儂なのだからな。儂にお主を責める資格などないのだ」

「それは、どういう意味です?」

「……年寄りの繰り言を聞く気はあるか」

「もちろんです。何でもお聞きしましょう」

 荊軻は神妙な顔つきになった王真に、訳を話すよう促した。


「もう三十年以上昔の話になるが、儂は若い頃、邯鄲におってな」

 家へと戻る道すがら、王真は少しづつ口を開き始めた。その表情はいつになく打ち萎れているようにみえる。

「まだ人相見として売り出したばかりだった儂は、腕試しがしたくてあちこちに自分を売り込んだ。そのうちに裕福な商人に腕を見込まれ、ある高貴な方の品定めをすることになったのよ」

「その高貴な方、とは?」

「秦の公子だ。あの頃はまだ大勢の公子の中のひとりに過ぎず、みすぼらしい格好をしておったが、その顔に儂は今まで見たこともないほどの貴相を見て取ってな。あれこそ未来の王となる方だ、と儂はその商人に進言したのだよ」

「それで、その公子はどうなったのです」

「その商人は公子に千金を当じ、趙での評判を高めた。その上で商人は秦の太子のお気に入りの華陽夫人と接触し、公子を後継者とすることを認めさせたのだ」

「まさか、その商人というのは……」

「そう、呂不韋りょふいだ」

 荊軻は絶句した。呂不韋が千金を投じた公子とは、今の秦王の父である子楚である。政商である呂不韋の後押しがなければ、子楚が荘襄王となり、その子である政が秦王となることは叶わなかった。王真は自らの助言によって、政を秦王へと押し上げてしまったことになる。


「儂は浅墓だった。よもやあの男がここまで燕を苦しめる男に育つとはな。少しでも天下に関わってみたいとつまらぬ欲を出したせいで、お主を秦に行かせることになってしまった」

 王真は呻くように言った。荊軻は憂いに沈むその肩を叩いた。

「王真さんのせいではありません。それほどの貴相の持ち主なら、貴方が何もしなくてもいずれ王になったでしょう」

「気休めはよしてくれ。儂が余計なことをしなければ、皆が苦しまずに済んだのだ」

「過ぎた事を言っても仕方がありません。その苦しみを除くために、私は秦へゆくのです」

「荊軻よ、儂を斬ってくれ。そうでなければ気が済まぬ」

「貴方が死んだところで誰も喜びませんよ。第一、雪蘭はどうなるのです」

「お主とて、雪蘭を置いて行こうとしているではないか」

 荊軻は胸を突かれた。雪蘭を教え導くことも、邯鄲にその歌声を響かせる夢も、もはや幻と消えてしまった。

「……いや、済まん。年を取るとどうも抑えが効かなくなってな」

「秦王が燕を攻めようとしていることも、私が秦へ向かうことも、天が定めた運命なのでしょう。誰が悪いわけでもありません」

「うむ、困ったときには運命のせいにすればいい。儂は人事を尽くしたとは言えんだろうが、ここは天命のせいにしておこう。儂の商売は、そういう欲目で成り立っておるのよ」

 王真はようやく笑顔を取り戻した。笑っているような泣いているような、そんな曖昧な笑顔だった。



 その夜、樊於期はんおきが珍しく荊軻を屋敷へと招待した。荊軻を酒肴でもてなす樊於期の顔は、いつになく晴れやかだ。

「荊卿とも、いよいよお別れですね」

「ええ、名残惜しいことです。このような時代でなければ、樊将軍とはもっと語り合ってみたいこともあったのですが」

「私如きが貴方に語れることなどありはしません。ただ、出立の前に話しておきたいことがあるのです」

「ほう、それはどのような事でしょう」

「貴方は督亢の地図をすでにお持ちだと思いますが、秦王に謁見するのに果たしてそれで十分でしょうか」

「と、言いますと」

「秦王はとても疑り深い。雪蘭とは違い、貴方が撃剣の名手であることは秦王も知っています。秦王を信用させるには、その地図だけでは足りないでしょう」

「では、他に何が必要なのです?」

「それは貴方が一番よくご存知の筈でしょう。そして貴方はそれを言い出せずにいる」

 荊軻は息を呑んだ。樊於期はすでに荊軻の心中を読んでいる。

「貴方は優しい方だ。自分は命を投げ出すことができても、他人に命を寄越せということはできない。しかしそのような優しさは、今は貴方の足枷となっているというべきでしょう」

「仰る意味が、よく解らないのですが」

 荊軻は心にもないことをいった。たとえ樊於期が自ら命を差し出すといっても、そんな好意は拒否してしまいたかった。


「田光先生は見事に命を使い切った。そして貴方もそうされるおつもりでしょう。私だけがそうしなくて良い理由がありましょうか」

「しかし、樊将軍」

「聞き分けがないことを言われるな。秦王が求めているのは、この私の首でしょう」

樊於期は手で自らの首を掻き切る仕草をすると、静かに微笑んだ。

「今、私の首には千斤の黄金と一万戸の封地が懸かっています。私の首を差し出せば、秦王も貴方を信用するでしょう」

 荊軻はそれ以上、何も言うことができなかった。樊於期を死なせたくないが、ここまで覚悟を決めている男の決意を止めることはできない。

「私は、今に至ってようやく己の命の使い道を知ったのです。この首をもって、貴方への手向けとしましょう」

 樊於期は立ち上がると、剣を抜いて首筋に当て、思い切り引いた。勢いよく鮮血がほとばしり、樊於期は目を見開いたまま床に倒れ伏した。

 荊軻は床に膝まづくと、掌を樊於期の顔にかざし、ゆっくりとその目を閉じさせた。



 秦舞陽を伴として薊を出立した荊軻は、やがて国境地帯である易水えきすいへとたどりついた。丹は魯句践と張廉を伴い、白い喪服をつけて荊軻を見送ることとした。

「じゃあ、お前の最後の羽声を聞かせてもらうとしようか」

 高漸離こうぜんりは、さすがに今は酩酊していなかった。普段と何も変わらぬ様子で筑を取り出すと、地に座して筑を打ち始めた。

 易水に吹きつける朔風に乗り、荊軻の羽声が高らかに響き始めた。かすかに震える哀調を帯びた歌声が、並み居る者達の心を強く揺さぶっていく。丹は金縛りにあったように、その場を動くことができなくなった。


――風蕭蕭として易水寒し

  壮士ひとたび去ってまた還らず


 筑の音を背景に、荊軻の声が哭いていた。それは音楽を超えた音楽だった。魂を鷲掴みにされるような声音に丹は目を怒らせ、魯句践と張廉は全身を強く震わせた。皆が滂沱の涙を流し、ただその場に立ち尽くしていた。


 高漸離が最後の一音を打ち終えると、荊軻は黙って丹に背を向けた。丹が一言も発することができずにいる内にに二人の後ろ姿は小さくなり、荊軻と秦舞陽は易水の彼方へ姿を消した。

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