声の道と剣の道

「李牧殿のことは残念でした」

 田光の声は低く豊かだ。春の陽射しのように穏やかな笑みを湛えつつ、その瞳には強い光が宿っている。すでにかなりの高齢だが、ただそこに居るだけで大侠の風格を漂わせる男だ。田光に比べれば、秦舞陽しんぶようなどただ暴勇をひけらかすだけの黄口児ひよっこに過ぎない。


「力及ばず、郭開を討つことはできませんでした」

「荊卿が無事であってくれれば良いのです。生きていればいずれまた機会もありましょう」

 田光は決して笑みを絶やさない。この男を見ていると、孟宣に敗北した憂鬱など吹き飛んでいくような気分になる。

「ところで、私に何か御用なのですか」

「実は先日、王太子殿下に呼び出されましてね。声の道について訊かれたのですよ」

「ほう、殿下が声の道を」

 太子丹が声の道に興味を示すとは予想外だった。しかしなぜこのような技に丹が関心を持つのか、荊軻にはそこがわからない。


「殿下はどうやら、声が人の心に与える影響について知りたいようなのです。何でも秦王はやまいぬのような声を持っているのだそうで、それが殿下が秦王を恐れる理由なのだと」

 秦王が人を平伏させる威厳の持ち主であることは荊軻も噂には聞いているが、やまいぬのような声とやらもその威厳を形づくる要因なのだろうか。

「私も若き日には歌舞音曲に熱中した時期がありますが、貴方ほど声の道には詳しくはありません。そこで貴方の見解をうかがいたいと思いましてね」

「どのようなことについて知りたいのですか?」

「殿下は今、燕の行く末について憂慮しておられる。そこで少しでも役に立つ人材を求めているのです。声の道にはどのようなことができるのか、それを教えて頂きたいのです」

 田光は荊軻に深く頭をさげた。この腰の低さも、諸国の人士の尊敬を集める理由のひとつとなっている。


「私の技量など大したことはありませんが、それでも羽声には多少通じていると自負しております。羽声は上手く使えば人の心を乱し、その身を恐怖で縛ることができる」

「ほう、そんなことが可能なのですか」

「ですが、私も実は羽声の奥義には達していないのです。この奥義を会得した者は万人の心を震わせ、如何様にも動かせるのだと聞いております」

「では、秦王もそのような力を持っていると?」

「そこまでは解りません。ですが、秦王が尋常ならざる人物であることだけは確かでしょう」


「しかし、荊卿にも羽声の奥義が使えないとなれば、その奥義を会得した者は果たしてこの世に存在するのでしょうか」

「私もまだ見たことはありません。ただ、奥義を会得するには感情の昂ぶりが鍵となる、とは聞いています」

「ふむ、昂ぶりですか」

 田光は少し俯き、顎に手を当てて考え込んだ。

「では、荊卿は羽声の秘奥に達するほどの昂ぶりをまだ感じていない、と?」

「恐らくはそうなのでしょう。しかしどのような体験をすればそれほどに心が昂ぶるのか、私には想像もつきません」

「なるほど、それは恐らく意志ではどうにもならない領域なのでしょう。羽声の奥義に達することができた者がいるとしても、その者の人生は幸福とは言えないかもしれませんな」

 荊軻は月輪山で香月の亡骸を抱いて号泣したときのことを思い出した。あれほどの経験をしてもなお、羽声の奥義に達することはできないというのか。


「そう、そういえば殿下は雪蘭のことも気にかけておられました」

「雪蘭を?」

「声の道を知ったため、使い物になるのではないかと思われたようです。あの娘の歌は見事ですからな」

 荊軻の心に影が差した。確かに雪蘭は邯鄲に出しても恥ずかしくないほどの才能を持っている。しかし太子が雪蘭を利用しようとしているのではないかと思うと気が気ではない。

「雪蘭はまだまだ未熟です。役には立ちますまい」

「彼女も羽声を得意としているようですが、荊卿の耳を満足させることはできませんか」

「あの程度の歌を太子の耳に入れるわけにはいきません」

「そうですか、私は殿下の心を愉しませるに十分であるように思えましたが、貴方がそう言うのならそうなのでしょう」

 荊軻は田光に嘘をついたことを少し心苦しく思ったが、雪蘭を面倒事に巻き込むのだけは避けたかった。


「ところで荊卿、まだ剣は握れませんか?」

「撃剣の術は所詮、一人を相手にすることしかできません。ですが、歌は万人の心を動かすことができます」

 荊軻はまた嘘をついた。もし剣を使えていれば孟宣相手に遅れを取ることはなく、郭開を討つことだってできていたかもしれないのだ。未だ香月のことを引きずり、剣を握れない己の弱さを隠そうとする自分を荊軻は哂った。

「では、剣を向ける相手が万人を統べる者であったなら、どうです」

 荊軻は言葉に詰まった。田光は暗にもう一度荊軻に剣を握るよう促している。


「魯の曹沫そうばつを思い起こしてほしいのです。彼は一本の剣で、千軍万馬の名将に匹敵する働きをしたではありませんか」

 曹沫とは春秋時代の刺客である。故国である魯を侵略した斉の桓公に和睦の席上で匕首を突きつけ、斉が併呑した土地をすべて返却することを認めさせたと伝えられる。

「仰る通りです。私ももう一度、剣の道について考え直してみることにしましょう」

 目が開かれる思いだった。やはり田光は視野が広い。使いようによっては、ひと振りの剣で国を動かすことすらできる。剣はただの人殺しの道具ではないのだ。


(万人を統べる者に向ける剣、か)


 いつか我が撃剣の術がそのように用いられる日が来るだろうか、と思いながら、荊軻は田光に力強い笑みを返した。



 数日の後、雪蘭は燕の王宮に召し出されていた。雪蘭のうしろには高漸離こうぜんりがいる。太子丹は階上から二人を見おろしているが、その脇には田光が侍っていた。


「よくぞ参った。今日は私にお前の歌を聴かせて欲しい」

「私のような東夷とういの娘が、殿下のお耳を満足させられるかはわかりませんが」

「構わぬ。存分に歌うがよい」

 田光はこの頃、鞠武きくぶの推薦を受け丹の助言者となっていた。田光は荊軻の言葉を受け、雪蘭はまだ未熟だと丹に言上したが、丹は田光の言葉を聞き入れなかった。少しでも声の道を知っていそうな者が欲しいという焦りがあるらしい。


 雪蘭は丹に一礼すると、高漸離に目で合図を送った。ちくの音が鳴り、雪蘭がその音に合わせて歌い始める。高く澄んだ羽声が王宮にこだました。荊軻の助言を受け喉の力を抜くよう心がけていたため、雪蘭の歌声はかすかな震えを伴い伸びやかに響きわたった。その歌声に丹も酔いしれたのか、しばらく目を閉じたまま聞き入っていた。


 やがて高漸離が最後の一音を打ち終えると、丹がゆっくりと目をひらいた。

「いかがでしょう、殿下。私はなかなかのものだと思うのですが」

田光は雪蘭の歌に深く感じいった様子だった。

「うむ、確かに悪くはない。だが趙の女の歌に比べると、まだ少し物足りぬな」

 丹は幼い日々を趙で人質として過ごし、後に秦の人質となり王宮で趙女ちょうじょがもてはやされる様をつぶさに見ている。中原の文化の洗礼を浴びた丹からすると、雪蘭の歌はやや洗練さに欠けていると思われたのかもしれない。


「殿下のお耳を満足させられず、申し訳ございません」

 雪蘭はしおれたようにうつむいた。

「いや、良いのだ。お前はまだ若い。その才を一心に磨けば、いずれは天下に名の響く歌妓ともなれよう」

「本当でございますか」

「私の耳に狂いはない」

 雪蘭はようやく愁眉をひらいた。趙の音楽を知る太子の言葉に嘘はないだろう。少し希望がみえてきた。

「これからもよく師の言うことを聞き、修行に励むがよい。下がってよいぞ」

 雪蘭は丹に深々と頭を下げると、高漸離と連れ立って王宮を退出した。

(師匠、か)

 雪蘭の心に荊軻の顔が浮かんだが、雪蘭は慌ててその顔を意識の隅へ押し込んだ。



「やはり、声の道など当てになるものではありませんな、田光先生」

 丹は田光を敬って先生と呼んでいる。個人的に田光の徳を慕っているということもあるが、田光を厚く遇すれば燕に仕官を求める人材もいるのではないか、という下心もある。

「羽声とは万人の心を震わせる力を持っているということですが、あの娘の歌を聞く限り、声の道にそのような力があるとは思えないのですが」

「雪蘭はまだ羽声の奥義に達していないのです。奥義を会得したものは、人の心を自在に操ることができると聞き及びます」

「しかし先生、そのようなことができる者が、果たしてこの世におりましょうか」

「いまだ奥義には達しておりませんが、この薊には荊軻という者がおります。私の見たところ、あと一歩突き抜ければ奥義を会得できるというところまで来ております」

「それは惜しい。それほどの者がまだこの燕におりましたか」

「荊軻は見聞も広く教養もあり、沈着な人物です。私のような老いぼれなどよりよほど殿下の役に立ちましょう」

「これはご謙遜を。しかし先生がそこまで仰るからには、相当な人物なのでしょうな」

「もし私に万が一のことがあれば、この荊軻を用いられますよう」

「縁起でもないことを言われる。しかしその者の名、心に留めおきましょう」

丹は満足げにうなづいた。田光は丹にゆっくりと頭を下げると、王宮を下がった。



 屋敷に戻る途中、田光は何者かに後をつけられている気配を感じていた。

(いよいよ、来るべきものが来たか)

 若き日は撃剣の名手として鳴らしたが、老いさらばえた身には刺客を退ける力もない。丹にはすでに荊軻も紹介したし、これで思い残すことは何もない。どの道王真にはもうすぐ命数は尽きると告げられている。あとはどうこの命を終わらせるかだ。


 羽声の会得には感情の昂ぶりが必要だと荊軻はいった。ならばこの一命を賭し、荊軻の開眼に望みを託すのも良いだろう。そう思い定めると、田光は屋敷の門をくぐり、独り自室へと足を進めた。


 部屋の空気が不気味に揺らいだ。この時のため、すでに全ての使用人には暇を出してある。今ここに入ってくるものは曲者しかいない。

「田光先生、お初にお目にかかる」

 暗がりから這い出るように、痩身の男が音もなく田光の前にあらわれた。その顔の上半分は仮面で覆われている。


「お前のような者に先生と呼ばれる筋合いはない」

「では、何とお呼びすればよろしいか」

「何とでも呼べ。それよりお前の目的を聞かせよ」

 仮面の男は酷薄そうな薄い唇を舐めると、くつくつと笑った。

「私は人の壊れるさまを見るのが好きなのですよ、先生。貴方が死ねば悲しむ者がいる。誰かの宝を奪い、人の悶え苦しむ姿を眺めることこそ私の生きがいなのです」

「くだらぬ男だ」

 田光は吐き捨てるように言ったが、男は構わずに話し続ける。

「そのくだらぬ男に殺される気分はいかがです?何か言い残すことはありませんか」

「死ぬ前に、せめて名を聞かせよ」

「孟宣と申します」

 男は恭しく一礼した。この男は所作の一つ一つが全て芝居じみている。


「さあ、ひと思いにやるがよい。もう覚悟はできている」

「さすがは薊の大侠、お見事です。あなたがもう少し若ければ、剣を交えてみたかったのですがね」

「無駄口を叩くな」

 田光は大きく息を吐くと、静かに目を閉じた。

「さらばだ、田光!」

 孟宣の剣が田光の胸を刺し貫き、田光は吐血して机に突っ伏した。孟宣が踵を返し、夜の暗がりに溶け込んでいくのを見届けると、田光は最後の力を振りしぼり、机に血文字で「孟」の一字を記した。


(あとは頼みましたよ、荊卿)

 遠のく意識の中で荊軻の名を呼ぶと、そのまま田光は絶命した。



 悲報は瞬く間に薊の街を駆けた。凶行がおこなわれた翌日、侠客仲間と田光の屋敷に駆けつけ「孟」の血文字を目にすると、荊軻の全身の血が沸騰した。


(またしても、あの男か)


 孟の一字は孟宣を示している、と荊軻は直感した。孟宣は誰かの朋友や最愛の人物を奪うことを至上の喜びとしている。一刀のもとに田光を屠った腕前からしても、犯人は孟宣以外には考えられない。田光は最期に孟宣の名を記そうとして、中途で息絶えたのだろう、と荊軻は推測した。


 肚の底から突き上げるような衝動が湧いてきた。涙が頬を下り、ひとりでに喉がふるえた。感情の昂ぶるままに、荊軻は羽声を発した。響き渡る声が張り詰めた空気を破り、並み居る者達の心を強烈に揺さぶっていく。皆が哭いていた。高漸離も秦舞陽も、哭いていた。荊軻の羽声の技量はここに極まり、ついにその奥義へと達した。


 荊軻の歌はこのとき絶唱となり、薊の街を揺るがした。



「荊卿よ、貴方は見聞も広く、この薊では評判の高い人物と聞き及んでいる。田光先生はすでに亡くなった。どうか今後は先生に代わり、私を導いてはくれまいか」

 丹は自ら、田光を失い打ち沈む荊軻の元を訪れていた。荊軻はすでに二度丹の申し出を断っていたが、丹は諦めずにしつこく食い下がった。

「私ごときでは、田光先生の代わりにはなれません」

「先生は生前、貴方の名前を挙げておられた。私に万が一のことがあれば、貴公を用いよと」

「なんと、先生が」

 荊軻は驚きに目を見開いた。田光の推薦とあれば、太子の頼みはそう簡単には断れない。

「李牧を失った趙は、もはや秦を支え切れまい。趙を呑み込んだ秦はいずれ我が国へも迫り来るであろう。今後ますます情勢は厳しくなる。このような時こそ、貴方のような方の力が必要なのだ」

 丹は熱心に荊軻を掻き口説いた。荊軻の心も次第に揺れ始めた。

「私に何程の力がありましょうか」

「貴方は声の道に詳しいと聞いている。私は以前、秦の人質として咸陽にあり、秦王の恐ろしき声を間近に聴いた。並み居る者を平伏させるような、帝王の声だった。あのような力に対抗できるのは、荊卿しかいない」

「しかし、私が直接秦王と相対するわけではありますまい」

「何か、手掛かりだけでも欲しいのだ。貴方は何か人を圧する力を持つ声について、心当たりはないか」

「この世には希に、ひどく情に乏しい者がおります。人を人とも思わぬような冷酷さが心の底にあると、その心情が声音に現れます。そして王としての覇気もまた、秦王の声の恐ろしさを増しているのかもしれません」

「やはり秦王は、尋常な者ではないのだな。羽声ならば、そのような者にでも打ち勝てるのか」

「羽声とは人の心に働きかけるものです。心を持たぬ者の前では無意味です。やはり私では殿下のお役には立てません」

 荊軻は静かに言い渡したが、丹は荊軻の手を取った。

「いや、それでもよいのだ。そのような男と知ればこそ、今後の策も立てられよう。やはり荊卿には私に仕えて欲しい。王宮に来てはくれまいか」

(士は己を知る者ために死す、か)

 魯句践はよくそんな事を言っていた。丹は今、荊軻の力を買ってくれている。今自分を必要としている人物の期待に応えることこそが士の生きる道である、という気分がこの時代の侠客には満ちていた。荊軻もそのような心情を濃厚にもっている。

「わかりました。殿下の頼み、お引き受けしましょう」

「やってくれるか」

 丹はようやくその顔に喜色をあらわした。田光を失い彷徨っていた荊軻の生の道筋が、この時明確に定まった。

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