12個月

樹以 空人(じゅい からと)

【陽】禊月(けいげつ):三月の別称


「だから別れたいって、お前、どういうことなんだよ!」


 彼の大声が、店中に響く。

 駅前というには少し外れた場所に、ぽつんと転がる喫茶店。二人がけの席が四つほどのこじんまりとした店内は、マスターの趣味でアンティーク調の家具に埋もれている。

 今店内に居る客は私と彼と、お得意先に行く途中で休憩している様子のサラリーマンが一人だけ。それでも彼が大声を出すたび、カウンターの向こうでマスターのヒゲ面が歪んだ。


「急に、そんな、今まで何も言ってなかったのに」

「さっき、言ったわ」


 見るからに高そうなカップの繊細な取っ手に指先を引っ掛けて、琥珀色の紅茶を一口。

 ふわりと口内に広がるのは、私の好きなアールグレイの香り。やんわりと立ち上る湯気からも、爽やかな匂い。

 少しだけ安らいだ気分を味わってカップを下ろすと、白磁の向こう側で彼の顔が真っ赤になっていた。


「なんでだよ! なんで急に別れるなんて! 他に好きな奴でもできたのか?」

「違うわ」

「じゃあ、なんで」

「言ったってきっと、貴方には解らないわ」


 ランチを済ませた後、私の一言から唐突に始まった話し合いは、ずっとこの調子。前にも後ろにも進まない、交じり合わない平行線。

 彼は私の顔を穴が開くほど見つめていて、私は視線を斜め向こうにやってそれを流している。


「こないだだって服買ってやったし、お前が欲しいって言うものは時間かかっても金溜めて買ってやってるだろ?」

「そうね」

「俺から毎日電話してるし、たまにメールもしてる。そりゃ、残業だの何だので家に帰る時間がずれ込んだりすることもあるけど、それでも夜中の零時を回る前までにはと思って、かなり無理してるんだ。会社から携帯でかけたことだって、何回もあるんだぜ」

「そうだったの、知らなかった」

「デートはどんなに忙しくも、最低月に1回してるし、お前からの誘いを断ったことなんて一回も無いじゃないか」

「そうだったかしら」

「そうだよ!」


 苛立ちを重ねて彼の声がまた大きくなってきたので、マスターの顔色を覗ったら、案の定私達の方をちらりと見て溜息を零していた。気になるなら注意でもすればいいのに、なんて他人事の感想を浮かべながら、私はテーブルに肘をつく。

 いい加減痴話げんかを聞かされる事に飽きたらしいサラリーマンが、自分の座っていたテーブルにコーヒー代を置いて店から出て行くのを横目で見物。

 扉に備え付けられたベルの音に、マスターの「有難うございました」が重なった。


「それでもまだ足りないってのか」

「そんなこと、言ってないでしょ」

「じゃあ、なんで」

「だから、貴方には言ったって解らない」


 何度投げられたか分からない問いに、同じ返答を投げ返す。詳しい説明が面倒だから、という気持ちもあるけれど、実際、そうだろうとも思う。


 友達にそれとなく相談した時だって、全然解らないと言われた。顔はそこそこ、年収も人並みで、貴女のこと大切に扱ってくれてるのに、何が足りないっていうの、と。

 足りないとかじゃないの、と私は返した。主観的に見ても客観的に見ても、何かが足りないとは思わない。

 だから私は世間一般レベルから判断すると、贅沢ぜいたく我が儘わがまま娘の部類に入るんでしょうね、と笑った。友達はそうよ贅沢よと、少し怒った顔をしてみせた。

 話はそれでお終い。他人の意見を聞いて、私自身の幸福が確認できたからじゃない。ああ、やっぱり彼女にも、私の気持ちは分からないんだと気付いたから。

 同性だから、旧友だからと言って、何でもわかり合えるとは限らないと知ったから。多分家族の中で一番馬が合うと思っている母親にも、理解できない感情なんじゃないかと思う。


 それなのに、数年付き合っただけの目の前の男になんて。

 わかるはずが無い。


「何が不満なんだ、言ってくれ。出来る限り直すように努力するから」

「貴方が悪いんじゃないのよ、きっと。私が悪いの」


 おざなりのいらえをしながら腕時計を盗み見ると、店に入ってから既に一時間半が経過していた。

 もう、うんざりだ。

 カップの底で水溜りを作っていた紅茶を一気に飲み干して、立ち上がる。隣の席に預けておいたバックとコートを引っつかんで、扉の方へ。

 正面に立つ彼が、慌てて立ち上がる気配がした。机が傾いてカップとソーサーが擦れる音を背中に聞きながら、それでも私は振り返らない。


「待てよ!」


 ニットからはみ出した二の腕めがけて伸ばされた彼の指。それを私は、全身で振り払った。


「待ってくれよ……」


 ついでに合ってしまった視線の先、彼の瞳はわずかに潤んでいた。私が瞳で拒絶すると、行き場を失った手が、ゆるゆると下がっていく。


「愛してる」


 呟いた声は、低く重く。


「愛してるんだ」


 湿ったままで熱を帯びていた。


「お前のこと、愛してるんだよ」


 多分これは、心の底から搾り出された、彼の心そのものなんだろう。少なくとも私にはそう感じられて、ほとんど扉に向いていた自分の身体を、彼の方へ向け直した。


「愛してる?」

「ああ」

「心から、愛してくれてるのね」

「もちろん」

「そう」


 私は溜息と一緒に、わずかな笑みを零した。沈みきっていた彼の顔が、少しだけ明るくなる。

 そこを狙った、というわけでは無いけれど。


「だから、嫌なのよ」


 思わず本音をもらしてしまって、彼は一瞬で表情を失った。

 まずいと思ったけれど、もう遅かった。相手は言葉の意味を把握することは元より、自分が何を言われたのかさえ理解出来ていない状態で立ち尽くしている。

 おまけに「へ?」だの「は?」だの奇妙な音を発し続けているので、引くに引けなくなった私はもう一度盛大に溜息をついて、説明するために腹をくくるしか無かった。


「愛してるんでしょ? 私のこと」

「……うん」

「心から、愛してる」

「……そう」

「それが嫌なの! 私は、私のことを愛してない貴方が好きだったのよ! 私のことなんか関係なく、自分のしたいことして輝いてる貴方が好きだったの。だから今の貴方なんか好きじゃない。私の顔色覗って、仕事全部ほっぽり出して私だけ見てる貴方なんか、全然魅力無いもの。愛してるなんて言われたら、虫唾むしずが走るわ」


 鳩が豆鉄砲食らったような顔、というのは、こういうものを言うのだろう。

 コトワザの本に挿絵として載せたら、一発で皆が納得してくれそうな表情を張付けた彼は、中途半端に片手を浮かせた体勢のままで固まってしまった。

 もう完全に言い残す事など無い私は、今度こそ店の外へ出た。木枠の扉が、カランカランと軽やかな音を鳴らす。


 それがまるで祝福の鐘のようだと感じたのは、きっと私だけなんだろう。

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