天体観測

「今、見てる星の光は、本当ははるか昔に発したものなんだ」


 望遠鏡を覗いたまま、あなたは白い息を吐き出しながら、笑ってそう教えてくれた。


「だから、星の本体はもしかすると、今はもう存在していないかもしれないんだよ」


 空を見上げたまま呟く声は、どこか寂しかった。


「消えたと分かるのも、ずっと時間が経ってからなのね」


 うるさくならないよう声を潜めて応じながら、私はずり落ちた毛布をそっと彼の肩に掛け直す。


 また、風邪を引いてくれたら、暖かい部屋でシチューを作ってあげられるけれど(自分から望んでしているのに、『してあげる』という言い方は随分おこがましいけれど)、この人が一番好きなことが出来なくなってはいけない。


「そう。ずっと経ってから」


 レンズから目を離して、やおら片付け始める。


「あれ、今日はもうおしまい?」

「寒いからね」


 何だか言い訳する風に笑う頃には、もうすっかり道具を撤収していた。


「いっつも遅くまで付き合わしちゃ駄目だ」


 早足で歩きながら、あなたは半ば独り言のように言う。


「私に遠慮しなくていいから」


 あなたの後を追いながら、自分のオロオロ声に苛立った。

 きっと、鬱陶しい女と思われてるんだ。

 星のことだってろくに知らないし。


「もし、邪魔だったら……」


 言いかけたまま、そこで言葉を繋げられなくなった。

 立ち止まって振り向いたあなたの顔は、酷く怒っているようだった。


「俺は……」


 *****

 久し振りに歩いた公園は、並木がもうほとんど葉桜になっていた。


 桜の木の下には死体が埋まっているとは言うけれど、骨になったあなたはここから電車で一時間半もかかる墓地に入れられた。


 左手の薬指にこの指輪を嵌めてくれた数日後、熱を出した私の代わりに買い物に出掛けたあなたはそれきり帰らなかった。


 会わずに追い返したから顔は知らないけれど、日暮れ時に無免許で灯りも点けずにバイクを飛ばした十七歳のガキが悪いんじゃない。


 本当のところは、少しばかりの熱に甘えてあなたを一人で送り出した私が、全ての元凶なんだ。


――まだお若いのだから、息子のことで縛られないで下さい。


 あなたそっくりの大きな瞳をしたお母さんは、その実、自分が灯りの消えた目でそう言った。


 多分、私もそんな目つきをしているんだろう。


 左手の薬指にはまだ変わらず指輪が収まっているけれど、冷たい石の光は目を刺すばかりで、一人で眺めてもちっとも輝いて見えない。


 冷めた夜風の運ぶアスファルトの匂いを吸い込んで、空を見上げてみる。


 死ぬと星になるのだとしたら、あなたは、どこ?


 黒紫色のビロードじみた空には星がいくつも輝いているけれど、さっぱり見当がつかない。

 あれじゃない、これじゃない、どれも違う。


 目に入る一つ一つの星とあなたが教えてくれた名前はちっとも結び付かないけれど、探してるものが見当たらないことだけは良く分かる。


 こんな風に地球から見上げて呆けてる女の姿だって、見下ろす星の側では微粒子ですらないだろう。


 一応はまだ若い女が一人歩きするにはもう完全に非常識な時刻だ。

 頭では知りつつ、公園の隅の錆び付いたベンチに腰を下ろした。

 ここにいたって、待ち人は来ない。

 分かっていても、一人の部屋に戻るのが怖い。


 私が生きている内に、あなたの光はここまで届くの?

 後を追ったとしても、もう一度抱き合えるのはいつ?


 返事の代わりに、ほの白い花びらがはらりと一枚、また膝の上に落ちる。(了)

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