第39回 理想と現実
三月、武田氏征伐のために信長より軍令が下った。
昨年の九月には伊賀へ出陣した。
ここ毎年、戦がない時はなく、大和を空けることもたびたびだった。
しかし戦の流れが変わっていることを実感する。
本願寺という大敵を和解という形で下したあとは、小さな綻(ほころ)びを繕(つくろ)うような戦だという感じだった。
着実に抵抗線力を排除していた。
先の長篠での戦では兵を派するだけだっただったが、今度は順慶自身が兵を率いての出陣。
三月三日、光秀の麾下(きか)として出陣した。
一方で吉野の不穏な動きを牽制に兵の一部を割いていた。
「今回は我々に手柄をたてる機会はない」
光秀の言う通り、順慶や光秀が配されたのは揖斐川のそばの信長の本陣ちかく。
後援である。
武田攻めは二月の初めよりおこなわれ、三月に入ってからは武田領の大部分は織田の手に落ちていた。
信長がこうしてやってきたのも戦後処理のためという意味合いが強い。
順慶としては微妙だ。
兵を死なせずに済むと思う一方で、手柄をたてる機会がない。
といっても前線に出られるわけもない。
自然、陣の空気はいくらか弛んでいる。
士気が低いわけでも乱れているわけでもないが、ここ数年、かなりの激戦をかいくぐり、息のしにくい緊張感にさらされつづけたせいか、嫌でも分かる。
ここではなに不自由なく息が吸える。
順慶たちがこうしている間にも戦がおこなわれ、遠く中国地方でも羽柴秀吉という有力な家臣が毛利と対峙しているのだ。
「光秀、おかしなものだな。戦が終わったあとはいつも犠牲者の数に己の未熟さが苦しくなり、もう戦になどでたくないと思う。なのにこうして後方で戦のにおいが薄い場所にいるとこんなところをじっとしていて
大丈夫なのかと思えてきてしまう」
「しかし伊賀攻めの地獄を経験したいとは思わないだろう」
「……まあな」
伊賀攻めは去年の秋口のこと。
伊賀への攻勢は二年前にもおこなわれていたが、その時は織田軍が山深く、迷路のようにまがりくねった地の利を得た土豪たちにさんざんかきまわされて敗北したのだ。
満を持しての再出陣。
五日後には伊賀のほとんどを制圧することに成功した。
ただ、筒井勢は本陣を急襲され、なんとかおしかえしたものの動員した三千七百あまりの手勢のうち、半数を死傷させる被害をうけてしまう。
「幻聴が聞こえてきそうだった。四方を木立に囲まれ、昼間はもちろん、夜にも月明かりさえほとんど届かなくてな。一日ごとに兵の顔つきが変わっていくようで。滞在時期が一月もつづけば精神がどうなっていたかもわからない」
「苦しい戦だったのだな」
「光秀の丹波での苦労を思えばこんなことはなんでもないさ」
光秀はただうなずくだけだった。
順慶が自陣に戻ってしばらくすると騒がしくなった。身構えると、信長が入ってきた。
「これは」
床机しょうぎが運ばれてくると、信長は座る。
人払いがおこなわれた。
順慶と信長は対面する格好で、自然と額は汗で濡れてしまう。
「俺がしているのはなんなのだろうな」
「は?」
「無駄な時間をすごしている」
「そんなことは。信長様が目を光らせていればこそ前線の将兵は奮うのですから」
「こんなものは俺の戦ではない。物見遊山だな。だからなにもかもが長いと感じられて億劫なのだ」
信長は順慶に語るようで単なる独り言を呟いているだけではないかという気がした。
「みずから兵を督戦すればその長さも感じられまいが、滅ぶことが分かっている相手が粘るたび、苛立ちが深くなる。夜はいつも海にこぎ出す夢を見る。俺は甲板で一人の船乗りとして生きている。星で方角を読み、誰かの合図に合わせて綱を引いては帆をたたみ、帆を張る。そして甲板の上で泥のように眠る」
信長の視線に射貫かれる。
「順慶。伊賀の戦でなぜ曲事といったか分かるか」
信長から戦のあと、そのような書状を受け取っていた。
「はっ、それはもちろん。不覚をとり、本陣にまで攻めこまれました。陣はそれを統率するものの心と思っております。あれは私に隙があったということです。それを叱責された、と考えています」
叱責されるのか、それとも国をとりあげられるのか。順慶はすくみ上がりながらそんなことを考えてしまう。
「お前は伊賀の侍どもを皆殺しにしなかった」
命じられたわけではないが、他の部将たちは村を焼き、寺を焼き、織田家に逆らうものを一切許さなかった。
そうしなければ掃討(そうとう)は難しいという理由もあるにはあった。
順慶は殺すよりも許し、道案内をさせることのほうが合理的だと考えたのだ。
伊賀は山深く、けもの道が縦横に伸び、地元の人間でなければわからないほど複雑だった。
「俺はそれを不手際とは言わん。しかし無用な慈悲をみせた結果、お前は兵を損なった。国を治めるには非道さが必要だ。お前は大和を守るためには命を賭けるといったが、そのままでは少なからず国を失う。俺が奪うなどということではなく流れに押されて消えるということだ。力の前には歴史などただの重なりにすぎん。民がいればそれで済む。国人が必要という時代はなくなる。その証拠に武田が消えようとしている。長くこの地にいたものだがあっさりと消える。それでも民は治められるだろう」
「……心得ておきます」
信長はすべてに興味を失ったように「帰る」と言った。
「俺は甘い、のか……っ」
順慶は本陣で一人、呟いた。
信長や光秀のように明確な国のありかたがあるわけではない。
順慶に思いつくことは秩序をつくりあげることくらいだ。
筒井城から郡山城に腰を据えてより何人かの国人たちを討ったのはそれが将来における戦の芽になりかねないと判断したからだ。
乱れさせない、考えているのはそれだけだ。
しかし新しい時代はそれだけではいけないのか。考えればかんがえるほど分からなくなる。
信長と光秀。
二人と接するにつれ、それまで自分の中の芯が揺らいでしまうのを感じつつも、その代わりのように天下を見据える眼差しというものの眩しさに見入られていた。
(まるで大人の仲間入りをしたばかりの子どもだな)
自分の単純さに苦笑せずにはいられない。
甲州への討ち入りは勝頼の天目山での自害で終結する。
出陣してから八日あまりのことだ。
大和に戻ってからは久しぶりに安らぐ時を得た。春日大社へ参詣に赴き、国づくりのために家臣に目を配った。
甲州より大和へ帰国した五月十五日、順慶は信長の招きで総見寺にいた。
総見寺は安土城の城郭内に建立されたもので、近在の寺社より建物をいくつも移築したという。
安土山からうかがえる琵琶湖が陽を照り返しているのがよく見えた。
寺でもよおされる宴は先の戦で、駿河一国を賜り、信長に対する礼を述べるために上洛した家康をもてなすためのものだ。
光秀は前日まで準備に奔走していたが今はもう居城の坂本城へ戻っている。
饗応きょうおう役を務めたのが光秀なだけあってすべてにおいて抜かりはなかった。
食事はうずらや、びわ、くるみなどの山の幸、ほややまながつおという海の幸まで豪華な食材がつくられた膳が五つ。
順慶が今まで口にしたことのない食材も多く、一口一口噛みしめるたびにうまみが広がり、箸がとまらない。
酒もまた喉ごしがよく、かおりもいい。
胃の腑ふに広がるほのかな熱、口の残る甘みとともに、心地よい酔いに心身にひたる。
宴席に招かれた客は口々に宴(うたげ)の食事を褒めそやした。
座は終始、和やかだ。
しかし上座にいる信長は退屈そうに見えた。
甲州征伐の時、信長から話されたことが頭にあるから、そう見えてしまうのだろうか。
勝頼の自害のあと、信長は甲府から駿府を経、富士の山を見、安土へと東国を十日あまりで巡回した。
光秀はもちろん順慶もそれに従った。
信長と言葉を交わすことはなかったが、光秀とは交わした。
落ちた城を、焼けた村を、暗い表情をしながらも再建のために働く民を見た。
それ以上に織田方の将兵の誇らしい表情を見た。
光秀はただ信長の供を粛々と務めていた。
信長は制札せいさつを掲げさせ、治安の維持を第一にする一方で、残党狩りは徹底させた。
残党を匿かくまったとして僧侶もろとも寺を焼いたらしいことを耳にもした。
信長はまるでつまらぬ話を聞いたという風に眉一つ動かさず、引き続き、残党を狩るよう命じるだけだった。
宴が終わり、帰り際、順慶は信長に呼ばれ、私室へ入った。
順慶は訝いぶかしんだ。
信長がわざわざ自分を呼び出す心当たりはなかったのだ。
信長は脇息にもたれながら杯を干したまま順慶を迎える。
「昨日、光秀と話をした。この先もずっと根絶やしにする戦をつづけるつもりなのかと言ってきた。こんなことはやめるべきだとな。従えぬのなら、自分の力ですべてをなせと言った」
「光秀は、なんと」
光秀が信長に対して直談判したことで、まるで我がことのように心臓が早鐘を打つ。
「なにも言わず、坂本へ帰っていった」
「……そう、ですか」
「お前は親しかったな。光秀は最近、おかしくはないか」
「いえ……特には」
不用意な言葉は光秀をおいこみかねないと思うと、そうとしか言えなかった。信長は順慶の胸中を図ったように笑う。
「前前からそういう気はあったが、やつは潔癖がすぎる。それがここ最近、露骨に見えてくるようになった。叡山の焼き打ちの時にはまともだったのに。天下太平という夢に冒されている病人だ」
「病人……」
「天下をほしいままにしたいと思うのは自然な欲望だ。しかし民のために天下をおさめる、これは人の手に余る夢想だ」
「しかし民の平穏を祈ることは……私も、同様でございます」
「天下の民となれば話は別だ。順慶、お前が望むのは大和一国の民の平穏に過ぎん。それさえも、お前の手に余るのではないか。光秀は天下の民の平穏を本気で得ようとしている。が、民にとってみれば上に立つものが変わる程度にすぎん。民はしぶとく、身勝手。現実と理想の違いは、やつ自身を殺すだろう。やつを失うのは惜しい。お前から言ってやれ、そんな夢は忘れ、身の丈に合うことだけで満足しろとな。話は以上だ」
信長は順慶を手で払うそぶりを見せる。
信長はこの国の天下よりも、早くこの国の外にでることのほうに興味があるのだということを光秀に告げたのだろうか。
聞きたかったが、言葉にできなかった。
「なんだ」
「いえ……失礼いたします」
部屋を出た順慶は、廊下に控えていた小姓(こしょう)の案内を受けて玄関へ向かった。
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