第4話 デスティモナ公国の陥落-1


 温暖なパルトー王国にも一つだけ雪の溶けぬ場所がある。大陸の東に聳えるモロブ山脈、その奥地にぽっかりと開けたヘルバン高地。一年を通じて雪に閉ざされ、流れる水の音さえめったに聞く事がない。

 鉱脈として有名なこの地は、かつてデスティモナ公国と呼ばれていた。


 国と名は付いているものの、その実情は古より鉱業を生業としてきた小さな部族の住処に過ぎず、デスティモナ公とはすなわち部族を治める長であ る。デスティモナ公の城はヘルバン高地の端、モロブの切り立った山々に寄りかかり、溶け込むようにして聳えていた。山々と同じく雪に覆われ、一見しただけでは、どこからどこまでが城なのか分らぬ有様。城は学校であり、病院であり、保育所であり、関所であり、要塞である。デスティモナの民が一人残らず篭城出来ようかというほどに広い。

 それもそのはず。

 事実、有事には女子供を中に匿って立て籠もる手筈になっていた。だが、その城には隠し通路も抜け穴も作られてはいなかった。

 意味をなさぬからである。

 城から一歩出れば、極寒の雪原である。準備も無いまま外へ出れば、遠くない未来に確実な死が待っていた。

 常日頃から、寒さとの命がけの闘いに身を置いているためであろう。デスティモナの民は虚飾を嫌い、堅実を尊ぶ。城は頑丈の一点張りで、装飾はごく少ない。民の目を楽しませるのは、自然の作り出す氷の芸術、そして宮殿の蔵に納められたいくつかの宝物のみ。

 だが、無明の白は人の心を脅かす。

 デスティモナの民は、琥珀色の瞳で見つめ合い、互いの黒髪を抱き寄せて正気を保った。

 彼らは地味な色の毛皮を着込んで寒さに抗い、勤勉な瞳に喜びさえ滲ませて、機械油の匂いのする鉱山へ赴く。氷の女神の息吹の中で、生き永らえようとする者は、みな同胞。民は寄り添い合って暮らしていた。


 そのデスティモナ公国にパルトー王国が侵攻したのは、十三年前の夏であった。歴代国王の中でも随一の戦上手と名高い、現国王ドラトのもと、破竹の勢いで版図を広げるパルトーが、世界有数の鉱山に目をつけたのだ。

あまりに低い気温のために、ヘルバン高地の雪は真夏でも粉雪のまま溶ける事がない。

 晴れた空の下でも突然襲い来る吹雪はまるで砂漠の砂嵐。

寒さに慣れぬパルトー軍は大分苦しめられたようであるが、そもそも兵の数が桁違いである。小さな砦に雲霞とパルトーの兵士達が押し寄せるのに時間はかからなかった。


 当時ジラルドは五歳になったばかり。

 彼女はまだジルと呼ばれており、毛皮の民族衣装を身に付けていた。

同じ年頃の子供達と城の中を駆け回り、宝物庫に忍び込んで、不思議な形をした銀色の楽器に触っては叱られ、霜焼けの出来た指も気にせず雪玉を作り、太いつららを握って剣術の真似事。

 鼻の先は薔薇色、膝には青あざが耐えない。大きな琥珀色の瞳は、贅沢も退廃も知らず、澄み切っている。

 幼い少女であった。


 祖国の陥落について、ジラルドが思い出せる事はごく少ない。

 だが、傷付いた大勢の男達が、広間に通じる最後の門に丸太を斜めに組んで、必死で押さえ込んで居た事と、そのすぐ手前で、女と子供と老人が面識のある者も無い者も、王族、平民の別無く寄り添って、互いに固く抱き合っていた事は覚えている。

 その頃、少女の母、デスティモナ后妃ゲルダは身重であった。

 少女がはしゃいで大きな腹の側を駆け抜けたり、勢いを付けて抱きついたりする度に、幼い彼女は良く叱られていた。弟か妹かは分らぬが、母の腹の中には赤子がある。大事にしなくてはならない、と。

 実感を持って弟妹を思い浮かべるには彼女はあまりに幼かったが、他所の赤子の柔らかな布で包まれた様を見て、赤子というのが何か尊いものなのだという事だけは分かっていた。

 そしてそれを大事にしなければ大好きな母が悲しむ事も。

 しかし戦乱の最中、今まさに破られようとしている砦のうちで、少女の身体は、中の赤子を潰さんばかりに強く母の腹に押し付けられていた。隣に立つ大柄な老人が、彼女とその母ゲルダ、そして二三人の子供達をまとめて抱きしめるようにしているせいもあるが、母の柔らかく暖かな手の平もまた彼女の背中をしっかりと抱いていたのだ。

 ついに門が破られた。

 光と冷気と共に、大勢のパルトー兵が雪崩れ込んでくる。

 絶望の叫び声と、一層強くなる抱擁に少女の息が詰まった。

 その時、幼い彼女の心を占めていたのは、次のような懸念だ。

 このように強く腹を押さえつけてしまって、中の赤子は大丈夫なのか。母上が苦しみ出したらどうしよう。父上はどう思うだろう。また叱られてしまうかもしれない。

 それでも――いや、後ろめたいからこそ余計に――背中に感じる久しぶりの母の体温は、少女にとって喜ばしい物だったのだろう。

 ジラルドはその手の感触を今でも時折思い出す。

 やがて広間がしんと静まり返った。

 大人たちの身体に耳を塞がれ、阿鼻叫喚の中に居た少女には聞こえるはずもなかったが、少女の父、デスティモナ公が交渉を願い出たのだ。

 デスティモナの民には男も女も大柄な者が多い。デスティモナ公カッゾもまた、一族の長に相応しい体躯の持ち主であった。髭を蓄えた厳しい貌は戦士のそれ、風雪に磨き清められた禁欲的な双眸は、ヘルバン高地にこそ相応しい。

 門が破られた後、彼はもはや抵抗が意味を成さぬと悟り、自軍に呼びかけた。

 刃金の石畳を打つ音が響く。デスティモナの男達が一斉に武器を捨てたのだ。

「ほう」

 それを見てパルトー王ドラトは空色の瞳を眇めた。

 一斉に兵を進ませるは容易い。しかし、兵に武器を捨てさせるには、いかに熟練した将といえども、それなりの言葉を費やす。

 デスティモナ公はやってのけた。

 一声であった。

 従う戦士達の側にも、些かの躊躇も見られなかった。

 いかに閉鎖的な国家であるとはいえ、これは――ドラトは身震いした。もうすでに、ドラトはデスティモナ公を贔屓したくなっている。戦の将としての誇りに何より重きを置くドラトは、乙女が恋に恋するように、強い戦士を求めて止まぬ。

 彼も自軍を抑え、尊敬すべき敵の将が名乗りを上げるのを待った。

「我が名はカッゾ、ウルヘルの息子にしてデスティモナの主。兵を抑えて下さった事、感謝する。交渉を願いたい。パルトー王はどちらにおられる」

「ここだ、デスティモナ公よ。我が名はドラト、パルトーの国王だ。話を聞こう」

 ヘルバン高地に馬は入れぬ。ドラトは徒歩であった。彼も戦士として見劣りしない頑強さを備えていたが、デスティモナ公はそれ以上。

 パルトー王は軽々、見下ろされた。

 ドラトはデスティモナ公と相対して、彼をますます気に入った。身体が大きいだけでなく、纏う気配も実に大きい。鎧に描かれた派手な青い狼の紋章にも負けてはいない。

 ――欲しい。

 ドラトは状況も忘れて、底抜けに明るい青の目に笑みを浮かべそうになった。しかし、王妃である妻マルギルの言葉を思い出す。

 デスティモナの民はなるべく殺さぬ事、民の感情を逆なでせぬ事。公の血筋は必ず絶やす事。

 ――そうであった。殺さねばならぬ。

 失恋の痛みを味わいながら、ドラトはデスティモナ公を見遣った。デスティモナ公が厳かに告げる。

「パルトーの王よ、そなたらが我が領地に何を求めているかは知っている。ヘルバンの鉱脈が目当てであろう」

 ドラトは頷いた。

 厳密に言えば、違う。

 が、今ここでそれを言う事もなかろうと考えたのである。デスティモナ公の目を見れば、彼が何に重きを置くかは分る。デスティモナ公が救おうとしているもの、それは元よりパルトー側には害するつもりのないものだ。馬鹿正直にそれを教えて、みすみす宝を逃す手はない。

 デスティモナ公を惜しいと思うその同じ心で、ドラトはそう判じた。

「その通りだ」

「採掘場への道は全て封鎖した。雪崩に埋めたものもあれば、橋を落としたものもある。いくつかの坑道には扉を設け、鍵をかけた」

 ――やはり、そう来たか。

 パルトーの兵士達はざわめく。デスティモナの民達は揃って頷く。

「扉など破れば良いとお思いか」

 低く問われて、ドラトは思う――デスティモナ公、やはり惜しい。

「無理に破れば、坑道は崩れる。そのように作った。千年の長きに渡って、ヘルバンを守ってきた我が一族、外より攻められるは初めてではない」

 ドラトは、証はあるか、などと尋ねなかった。

「して、デスティモナ公よ、何を望む」

 ドラトには続く応えが分かっていたが、問うた。

「民と……我が子、ジルの命を」

 城内はしんと静まり返った。

「鍵の在り処はこのカッゾと、我が妻ゲルダ、そこな産み月の女しか知らぬ」

 注目を集めたデスティモナ公の妻ゲルダは、目鼻立ちのはっきりした顔を引き締め、ゆっくりと首肯した。

「民と我が子が永らえるならば、鍵の在り処をお教えした後、デスティモナ公と后妃の命を差し上げよう」

 ――容れられぬのならば、共々自害する……という訳か。

 ドラトはうっすらと口元に笑みをはいだ。

「その申し出、慎んでお受けする」

 この申し出はパルトー側にとっても、ありがたかった。

 パルトー王は、いかにデスティモナの民の心証を損なわず、王を弑するか、頭を悩ませていた所だったのである。パルトーは労せずして、デスティモナ公と后妃を殺す口実を手に入れた事になる。

 加えて、坑道の鍵だ――デスティモナ王のたばかりでなければ。しかも、デスティモナの民の見守る前で。

 デスティモナ公カッゾは賢明な主であったが、下界の事情には疎かった。パルトーの王妃の真意を汲むには、至らなかった。

「パルトーの王、ドラトよ」

 呼びかけられてドラトは、かの気高き城主を見た。

「パルトーは敗れた民にも寛大な処遇をすると聞く。そなたを信じて死のう。しかし、約定が違えられる事あらば、我が民はパルトーを許しはしない。たとえ扉が開いても、ヘルバンの坑道は魔の住処。デスティモナの民の力なくして山へ入るは、死を意味すると思え」

「心得た」

 ここに到って偶然にも、デスティモナ公の言葉はパルトー王妃の真意にかすった。しかし、その事に気付かぬまま、デスティモナ公は約束通りに鍵の在り処を教えた。

 やがてパルトーの国王、自らの手によって、デスティモナ公カッゾの首が刎ねられた。パルトーのしきたりでは、敵の将へ最高の敬意を表す作法であった。

 あとは妻と……子供――ドラトの目は獣さながらに光った。

 パルトー王はすぐに命じて、デスティモナ公の妻ゲルダとその子、ジルの身柄を押さえさせる。幼子の悲鳴を聞きながら、ドラトは死に際のデスティモナ公を思い出していた。デスティモナ公カッゾは首を刎ねられるにあたり、兵に抑え付けられたりはしなかった。

 目も瞑らなかった。

 彼はその死に際して、敵国の王を見据えてただ立ち、微動だにしなかったのだ。

 彼の琥珀色の瞳は、唸りを上げて迫り来る斬撃を受けるその寸前まで、ドラトの青い瞳を映し、一瞬たりとも揺らがなかった。

 ドラトは、転がる首級を見下ろした。血に塗れた目は見開かれ、虚空を睨み据える。

 死してなお、パルトー王の心を突き刺すかのように。


 一方、件のデスティモナ公の子、幼い彼女には何が起きたかとんと分らぬ。分らぬままに、母の腹にしがみ付いていた。

 急に緩んだ手の力に、少女は思わずたたらを踏んだ。

 つい先程まで門の前で踏ん張っていた屈強な男達は、今や門の代わりにパルトー軍から女子供を守らんとするがごとく立ち塞がっている。

 それらに遮られて見えないまでも、何事かが起きた事は空気で悟った。

 もはや幼児の本能とも言える好奇心に駆られて、少女は人だかりの向こう側を見ようと試みた。

 小さな子供の背丈では上から覗こうとは考え付きもしない。すぐさましゃがみこみ、それでも足りずに血糊で汚れた冷たい床へ膝を突く。

 運の良い事に男達の足と足の間から、彼女はすぐさま父を見つけた。

 青い狼の紋章は城主の印だ。

 胸から上を見なくても、それが父である事は疑いようがなかった。

 呼びかけようとして少女は息を呑んだ。

 青い狼がゆっくりと斃れていく。

 その父の身体には、

 首が、無かった。

 それからの事をジラルドは曖昧にしか思い出せない。

 泣き叫んだのかもしれぬ。声も出せずに目を見開いていたのかもしれぬ。

 やがて鎧を着込んだ屈強な腕によって彼女は母と引き離された。髭を生やした男が無機質な瞳で少女を覗き込み、その母に問うた。

「女子か」

「女です!」

 問われて叫んだデスティモナ公の妻ゲルダの声は悲壮なほどに強かった。

 自分も夫も死した後、パルトー王家が約束を守るかどうかは分らない。しかし女ならばせめて、という気持ちの現れであろう。そしてそれが皮肉にも、これから十数年間を男として過ごす事となるデスティモナの姫が、最後に聞いた母の言葉となった。


 ***


 デスティモナの姫――後のジラルド・パルトーが、パルトー王妃マルギルと出会ったのはそれから数日後の事であった。

 デスティモナの砦を落としたパルトー軍は、モロブ山脈の麓のムーグ村に駐屯していた。雪の多さで知られるムーグ村であるが、それでもやはり地上の村。ヘルバン高地とは違う。凡庸ではあるものの心安らぐ夏の景色は、吹雪に凍てついたパルトーの兵士達の手足を、ゆるゆると融かした。

 その小さな村は今、人で溢れ返っていた。

 パルトー軍だけでなく、デスティモナの民のほとんどが今この村に連れて来られていたからである。

 ヘルバン高地で採れるのは鉱物だけではない。

 燃える水や燃える石もまた、デスティモナ公国の重要な飯の種であった。賢明なデスティモナ公はそれらに戦火が及ぶのを恐れ、採掘場を雪崩に埋めた――おそらくはこの時にすでに、敗北と自らの死を覚悟していたのであろう。

 宝は失われた訳ではないが、掘り出すには少なくとも半年はかかると思われた。

 デスティモナの民があのような厳しい気候の中で生活しえたのは、一重にこれらの特別な火の力のおかげである。氷を溶かすにも、麓の村まで降りるためのからくりを動かすにも、強い火力が必要だった。それらが雪に埋もれてしまった今、風をしのぐ家もなく、ヘルバン高地で人が生きてゆけるはずがない。

 そのため、敗戦国の民に対する放任で有名なドラト王にしては珍しく、デスティモナの民は捕虜としてパルトー軍に保護される事となったのである。


 パルトー軍は、ムーグ領主のデルエーロ男爵の居城を本部として接収し、モロブの麓に留まっていた。

 首脳部を悩ませていたのはデスティモナの民の処遇に関してであった。

 ――ヘルバンの山奥に置いてくるわけにはいかない。かといって王都へ連れて帰るわけにもいかない。

 放埓で知られる国王ドラトとて例外ではなかった。屈強な身体を丸め、側近達、そしてデスティモナの代表者達ともに、話し合いを続けていた。戦術以外の事に国王が真剣に頭を使うのは、まことに珍しい事ではあったが。


 そこへやって来たのが、まだ幼い息子を連れた王妃マルギルであった。

 王妃は夫がこのような雑事を得手としないのをよく知っていた。そもそも、デスティモナ公国への進撃を国王に勧めたのは彼女であった。王妃がヘルバン高地の豊富な鉱山資源を欲していたのはもちろんである。

 しかし、王妃の一番手に入れたがっていたのは、デスティモナの民そのものであった。

 過酷な環境で生き抜くためにデスティモナ公国は独自の技術をいくつも生み出していた。人力を使わずに高所へと人を運ぶ台車、蒸気を浴びて回る水車、どれもパルトーにはないものだ。

 王妃はこれらを採掘作業以外にも流用出来ぬかと考えたのだ。

 ――技という財産に形はない。それは人に宿るものだ。

 断じてその宝の運び手の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

 宝たるデスティモナの民の扱いを荒っぽい軍人達には任せておけぬ。そう考えた王妃は、息子を連れ自ら戦地へと赴いたのだ。

 この時、皇子バルセイは四歳。

 王妃と瓜二つの顔はまるで妖精、華奢な手足は飴細工よりも頼りない。現在のバルゼイしか知らぬ者には到底信じられないような、頬の白さばかりが目立つ、ひ弱な子供であった。

 今と変わらぬは見事な金髪と、炯々と光る青い瞳のみ。その性根に至っては今以上。苛烈極まる。知性の鎧を纏わぬ荒々しい魂は無垢なる邪悪。自らも周囲も傷つけて止まぬ。

 パルトーの皇子バルゼイは天使の身体に悪鬼の心を宿して生まれたとまで噂される始末であった。

 このような戦禍の跡も生々しい国境へ、幼子を連れて来るのは、本来なれば在り得ぬ事だ。王妃とて大事な我が子を戦場に連れ出したくはなかった。

 彼女としても苦渋の選択であったのだ。

 この戦が終わる少し前、王妃がしばらく王都を離れる事を告げるとバルセイは怒り狂った。部屋の中で暴れ、王宮にある割れやすい物は全て割り、押えつける者に歯を立てた。

 母に対するとて例外ではなく、王妃の柔肌に――おそらく彼女の人生において初めてではないかと思われる――ひっかき傷が付いた。

 それでも母の決定が覆らぬと悟ると、小さな暴君は自らの身体を盾にした。

 食事を一切取らぬのである。

 四歳といえば遅い子供はまだ下の世話すら人に頼る年齢である。その頃からすでに、空腹に耐え、目的を遂げるまでは梃子でも動かぬ、大人にそう思わせるとなると、その我の強さたるや推して知るべし。

 己がいかに大事にされているか知り抜いている子供ほど性質の悪い者はない。病気がちで身体も小さい皇子の、捨て身の懇願に勝てる者はなかった。

 王妃は折れた。

 これも実に珍しい事であった。

 だが、さすがに幼い第一皇子を捕虜や軍人のひしめき合う中に放ちはしない。バルゼイはデルエーロ男爵の胃を散々に痛めつけながら、城で最も安全な一角に閉じ込めて置かれた。


 さて、デスティモナの姫と言えば、彼女も状況としてはパルトーの皇子と似たようなものであった。

 幼い姫は民に愛されていたようだ。

 戦場においては、後の処遇はどうであれ、敗戦国の王族が一般の捕虜達と別に置かれるのは、なんらおかしな事ではない。だが、デスティモナは執拗に姫を民と共に捕らえ置くよう求めた。それが叶わぬなら、せめてお付きの者をと。

 その要求が容れられる事はなかった。

 民を助けるため命を散らした公の一粒種が、父母の死に幼い心を壊されて呆けているところなど、デスティモナの民に見せてよいはずがない――パルトー軍はそう判じたのだ。

 こうして少女もまた、いかつい兵士の見張りのもと、厳重に隠しておかれた。

 こんな状況でなかったら、少女は初めて目にする下界の色鮮やかさに目を見張っただろう。彼女は生まれて初めて山を降りた。彼女が知る色といえば、雪の白と岩の黒、空の青さ、陽の橙。むせ返るような夏の緑は彼女を虜にしたに違いない。

 だが、どんなに美しい花も、鳥も、傷付いた少女の心は癒せぬ。

 その彼女も、下界のあまりの暑さには参った。

 毛皮を脱いでしまうと、彼女の身を覆うのは白い簡素な包衣のみ。涼しげなそれに不釣合いな毛皮の長靴は、とうに脱ぎ捨てられていた。

 けれど幼心にも、唯一故郷の匂いのする服を手放したくはなく、下界の夏にはお荷物にしかならない暑い毛皮を、どうする事も出来ずにただ握り締めていた。

 早熟だったデスティモナの姫は、もはや父の死を理解していた。

 少女の中の幼さは母がまだ生きていると思い込みたがっていたが、母の死ですら、うっすら予想はついていた。

 ――ここはどこだろう。あの怖い顔の男の人は誰。それに、みんなは……

 ある可能性を思うと、それだけで幼い少女は、何も考えられなくなるのを感じた。

 ――死にたくない。お父さん、お母さん。お母さんお母さんお母さんお母さんお母さん

 少女は幼い皇子に比べれば、なんともささやかにではあったが、母を思って声を上げ、泣いた。

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