第四話 小野塚稲荷の社殿にて

 我はすでに覚悟を決めておった。


 茗荷山に巣食う夜盗が村長むらおさの屋敷や幾つかの寺を襲っていることは聞き知っておったが、小野塚稲荷はほんの小さな社。おとなう者も少なく、宮司の父や兄も普段は社を空けて、小さな畑を打っていた。

 社殿が我らの暮らし振りに釣り合わぬほど大きいのは、ひとえに禁所の抑えのためじゃ。決して、我らの富がもたらしたものではない。我らは日々の糧を得るのがやっとで、貯め込むような財などはどこにもあらぬ。さればこそ、我らは賊に狙われるなどとは夢にも思っておらなんだ。


 薄暮に紛れて突如押し入って来た賊は、いきなり虫けらのように父と兄を斬り殺し、我をなぶろうとした。じゃが、賊は久保様の繰り出した手勢を見て慌てふためき、我から目を逸らした。我は這うようにして拝殿を抜け出し、廊下に逃れたが、社を出て村人に助けを乞うつもりはない。その意味もない。


 父が、兄が、我が。何をした? かような惨い目に遭わねばならぬような、何をした? 強く噛み締めた唇がざくりと切れて、口元からぱたぱたと血が滴り落ちた。


「うぬれ、賊どもっ!」


 許せぬ。あやつらだけはどうしても許せぬ! 然れど、女の身で何が出来るわけでもない。このひ弱な体が恨めしい。我は廊下に倒れ伏して、ただただ泣くばかりであった。


「騒がしいのう」


 突如。闇の中から低い声が響いた。体を起こして目を凝らしたものの、姿は皆目分からぬ。


たれじゃ」


 そう問うと。


 ふわあああっ! 大きな欠伸あくびの音と生臭い息が、闇の向こうからごうっと流れ込んで来た。


「気持ちよう眠っておったに、かように騒がしくてはおちおち寝ておられぬわ」


 ぼりぼりぼり。体のどこかを爪で掻くような音。それから。

 ぽっかりと闇の中に目が開いた。金色こんじきの。魔性の目。身体中の力が抜ける。凄まじい瘴気しょうきであった。もしや……。


白狐びゃっこ様であらせられまするか?」

「違う」


 ぴしりと否定の言葉が投げ返された。


「儂はただ古妖こようよ。なりは狐じゃがな」


 我の体が芯から痺れるほどの強い妖気。常の我ならば、悲鳴を上げて逃げ出していたであろう。されど憤怒に震えていた我は、おそれの心が抜け落ちておった。伏して必死に乞う。


「この社を護るものの端呉れとして一つ御願いがございますれば、どうか何卒、何卒聞き届けていただけませぬでしょうか?」


 面倒臭そうに古妖が聞き返した。


「願いじゃと?」

「はい。そなたさまの御力で、我を鬼に変えてはくださりませぬか?」


 闇にぽかりと浮き上がる、一対の金色のまなこ。それが我をじっと見据える。しばし無音の時が流れ。そののち、古妖の低い声が我に投げ掛けられた。


「問う。そちのしきはなんじゃ?」

「小野塚稲荷の巫女みこにございまする」

「然らば、その勤めを知らぬ訳はなかろう?」

「は、はい」

「神域を荒らされ、禁所の抑えは今やける寸前じゃ。そちまで鬼と化せば、抑えは外れる。溢れた災厄がこの地を覆うじゃろうが」

「は……い」

「よいか。儂はこののちもうらうらと眠って過ごしたいのじゃ。鬼界きかいの連中と事を構える面倒なぞ真っ平じゃ。お主ら人間どもが小賢しく儂の眠りを妨げるのであれば、一切容赦せぬ!」


 我はそのとてつもない怒りの気に触れて、伏したままぴくりとも動けなくなった。


「そちで血脈けちみゃくが絶えれば、禁所の抑えがままならぬ。さればこそ、そちの鬼は儂が向こうに捨て置いて来ようぞ。そちは世継ぎを産んでこの社の神事をまもれ。しかと心得よ!」

「は? あ、あの」


 我の鬼、とは?


 我が戸惑っておる間に、暗闇からいきなりぬっと黒光りする太い腕が現れた。そして我の右肩をがっと掴むなり、腕をちぎり取った。


 ぐしゃっ!


「いぎいっ!!」


 激痛に身悶えしてうずくまり、左手で肩を押さえる。


「えっ?」


 確かに。確かにたった今、古妖にむしり取られたはずの右腕。それは我の肩にそのまま付いておった。傷一つなく。我は右のたなごころを握り、開いてみる。何も変わりはない。じゃが、先程の痛みは尋常ではなかった。あれは、何であったのだろう?


 我は廊下に這いつくばったまま、気配の消えた暗闇を悚然しょうぜんと見つめるばかりであった。


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