勇「重要な、一言を――」

 焦る気持ちに、二ヶ月ほどの付き合いとなるこの体が力を貸してくれるとは思いませんでした。大人になると全力疾走などする機会もなくなるもので、現在のように喫茶店から少し距離を有したあの公園までを走って初めて気が付いたのです。


 私は小学校の頃は野球に夢中で――でも結局は、女性の体では他の男の子達とは身体能力に差が生まれ、それに加えて中学校では思春期がもたらす男女の壁によって女子生徒としての私は野球部に受け入れられないだろう。そんな理由でやめてしまったのです。


 しかし、小学校の時に培った運動神経は残っています。


 即ち、効率のよい体の動かし方だとか、速く走るためのコツのようなものを本能的に覚えていて。そんな知識に勇が自分の理想とする男性像を作り上げるために鍛えたこの体。その相乗効果によって、途轍もないスピードで走る事が可能となっている現状。


 ――まぁ、傍から見れば髭面の男が何をこんな歳になってまで走っているのか。そんな風に思われるかも知れませんが、焦燥感のようなものに突き動かされて体は自然と走る事を選び取っていた。それが、私の現状を構成する理由としては正鵠を射ているでしょうか。


 そんなわけで走り連ね、大きく息を切らす事もなく到着した公園。


 朱に染め上げられた夕景が映える園内、噴水の飛沫が温暖色の輝きを纏って幻想的な風景を描き出すその中にあって地面に緩やかな影を落とし、蜂蜜を零したような斜光に焼かれた空を見つめる女性。言うまでもなく、優でした。


 瞬間、躊躇う気持ちを胸中に宿しながらも、自分の本心に背くのか、それとも従っているのか分からない茫漠とした心持ちでゆっくりと歩み寄る私。


 そんな足音に呼応するかのように私の方を向く優。

 ――私の理想の女性。


 自分が描き、自分のために演出したはずの身体。そんな器を適材適所とした彼女が今、私の知らぬ、私の予想を遥かに超える美しさを纏ってその場に佇んでいるように見えるのです。


 そして、それはきっと、夕焼けがもたらした幻想ではないはず。


「遅刻だなんて言いませんよね?」


 やはり拭えない気まずさと恥ずかしさに苛まれて、顔を背けつつ切り出した私。視線だけを彼女のほうに配ると、私の言葉に優はゆっくりと微笑みます。


「すまんな、文字入力にえらく手間取って。十六時に公園って文章を送った頃にはもう、十六時十五分。やっぱり俺ってば、機械に弱いんだよなぁ」


 後ろ頭を掻きながら照れくさそうに語る優。


 そんな彼女の態度に私の妙な緊張、それを構成する気まずさと恥ずかしさが解けるように消え去り、自然と頬は緩んで微笑みを描き出します。


「愛衣から聞きましたよ。アニメを見ようとしてディスクをプレイヤーに押し込んでいたって。まったく……電源の入っているかどうかくらい、確認してくださいよ」


 私はそう語って、嘆息しました。


 すると、そんな私の言葉に対して表情を暗くする優。理由は単純明快。早くも私は話題の確信に触れるワードを盛り込んでしまったからでしょう。


 優が、私の趣味に触れたという事実に。


 幾許かの時間を優は無言で佇み、私はそれに対して間を持たせる言葉を用いるべきかと思考しました。しかし、私から言える言葉を携えていない以上、優の言葉を待つべきでしょう。きっと、言葉を失っているのでもなくて、私の言葉を待っているのでもなくただ、胸中で散らばった気持ちを言葉に変換して、それを口にする勇気を震える彼女の唇が待っているだけ。


 それだけの事なら――他ならぬ私でなくとも、誰だって分かります。


 臆病が勇気に変わる瞬間だけは、誰だって同じはずです。


「俺さ、あれからアニメ……そう、あのアニメを見たんだ。勇が希望を貰った作品だって愛衣ちゃんが言ってたからさ。そんでもって、愛衣ちゃんから聞いたんだよ。お前さんの過去について。本当は勇の口から自発的に語られるのを待つべきだったんだろうけど。でも、出来る限りの理解を深めてからお前さんの趣味に触れたかったからさ」

「愛衣が語った、という事は……そうですか。私が夢に破れた事も、中学校で学生生活を終えた事も――そして、ネットに溺れて依存した事も」

「うん、全部聞いた」


 優はゆっくり首肯し、そのまま顔を上げずに俯いたまま続けます。


「俺はてっきりお前さんの全てを理解している気でいたんだよ。他ならぬ俺だから――他ならぬ、俺達だからってな。でも俺の知らない、お前さんってのはまだまだ沢山あったんだって気付いた。……辛かっただろうなって、言葉にすれば素っ気ないけど思った」


 優の言葉にただ黙って頷く私。


 何か言葉を添えても良かったですし、辛かったという言葉を否定しても構わなかった。そう思いつつもしなかったのは端的に言って、出来なかったからです。


 そう、何か言葉を口にしようとした瞬間、私の頬を涙が伝っていて……そんな落涙の様相を湛える私が何かを語れば、その声は涙に汚される。それが、想起した悲しみに触れて泣いてしまっている自分を認めるようで。しかし、気丈に彼女の「辛かっただろう」という言葉を否定出来ないのは、もう認めてしまっているのです。


 ――今日まで。


 人生の全体からすればきっと僅かな期間。物語に例えれば第一章の出来事でも、長い目で見れば些細な期間でも、私にとってはあの日から今日までの年月とは人生の半分。


 そう、人生の半分近くを蝕んだ悲しみ。それを、誰にも話せずに乗り越えた気になって仕舞い込んだ悲しみを今、目の前に佇む最大の理解者に言葉として「辛かっただろう」と形容されたのです。


 両親にも、友人にも、そして……愛衣にも言われたって響かない言葉がどうしたって痛烈で、鮮烈でもあり――かつ、鮮明に私の心を反響する。


 今まで蓄積した感情が放流するみたいに、私の涙は止まらなくなりました。


「辛かった……辛かったんですよ。でも、でも……分かってくれる人なんて、どこにもいない! 分からせられるような人なんて、誰もいなかったんですよ! それなのに、それなのに……現実は一人で抱えろって! 一人で背負っていけって言うんです! こんな重荷を、たった一人で! ただ普通に生まれて、ただ普通に生きていきたいだけなのにそんな事さえ許されなかった!」


 私は涙を堪えながら、それでも絡みつく悲しみを吐き出すように強く、強く叩き付けるように言いました。


 溢れるままに、零れるままに。


 でも……そんな言葉を濁し、不鮮明にする感情が上手く纏まらない思いを見切り発車で口にさせれば思考もままならぬ状態でただ心に散乱する言葉を吐き出すだけ。


「死んでしまおうと思いました。生きていても意味がない。楽になろう。終わらせよう。そう考えた日々がありました。でも、死の恐怖には勝てなくて。こんなにも許せない自分という存在がまだ命なんかを可愛がっている事に苛立ちもしました」


 乱暴な私の言葉。それを優は丁寧に、相槌を打って聞いてくれました。それが当たり前のようで……しかし、今日までの人生を考えれば奇跡的なのです。


 そんな人がいるとは、思わなかった。

 そんな人に会えると、思わなかった。


 この世には一人も、私を理解できる人はいないのだと思っていた。でも……あの日、入れ替わった時に優と同じ境遇だと知り、運命なのだと感じた。


 初めて、運命というものに感謝出来た。

 そんな、瞬間だったのです。


「死にたい日々、でもそんな全てが過去形で終わっていてよかった思えたのは間違いなく、あなたに会えたからです。優――あなたに会えたからです」


 まるで自分の苦悩が完結し、浄化されていく感覚。


 あれだけの苦悩がちっぽけに思えるのは実際に矮小な悩みだったという証明ではなく、この胸を満たす幸福感があまりに膨大だという対比がもたらした感覚なのでしょう。


 それから、みっともない話だとは思いますが暫し――そう、暫しの時間を私は感情の清算とばかりに泣き連ねてしまいました。


 そんな私に逐一、「大丈夫」とか「よく耐えてきたな」という言葉でなぐさめてくれる優。


 この世で最も私を理解出来る人間。そう思っているからこそ、私自身が理解したいと思うのです。


 そろそろ、本題へと入っていくべきでしょう。

 ――彼女がここへ私を呼んだ理由を聞きたい。


 私の趣味に触れて、どう思ったのかを。

 その、全てを優は語り出しました。


「俺はあのアニメを見て、そして――勇の境遇を知って『確かにお前さんにとっては希望になるのかも知れない』って思った。今日、俺が歩み寄った事によって、そういう解釈が存在する事も知った。でも、俺はそれで自分の意見が大きく変わるほどの衝撃を得たつもりはない。結局、俺は自分の意見として持っている『アニメのああいった表現が好きじゃない』って価値観は崩していない。……人間はそもそも、簡単に変わるものじゃないと思ってる。もしかしたら、変わらないのかも知れない。そんな風に思っている。だから、俺の根本的な意見は変わってない。けど、



 ――それは勇も同じなんじゃないのか?」



 芯の強い視線と共に、決意を宿した口調を携えて語った優の言葉は勇ましいもので。でも、だからこその私達なのだと思いました。


 彼女の言葉に触発され、影響され、それでも変わる事のない自分を見つけた時、それは変化ではない何かで。


 そうか、なるほど――と、確信したのです。


 ありのまま、という言葉がどういう事なのか?

 誰かを受け入れるとは――どういう事なのか?



 そして――分かり合うとはどういう事なのか?



 それらに対する答えを得た瞬間、私の語るべき言葉は定まったのでした。


「私は優と別意見を抱えています。ですからその言葉には同意です。誰かと分かり合うというのはどういう事なのか。その答えをずっと考えてきました。受け入れるべきは何であるのか。でも、例えば私がアニメという趣味を捨てる事。それはある意味で、優の意見を『分からされた』という事。例えば、優が私の趣味を無理に理解し自分の意見を押し込める結果になったとして、それは私の意見をあなたに『分からせた』という事で、その二つは全然『分かり合う』という事ではないのです。なら、相手の何をどうすればいいのか。そんな問いに対してもっと細かく考察すれば、『相手』とは何であるのか? そう考えれば答えは簡単です。優……あなたがあなたであるためには、アニメという趣味が理解出来ない価値観を持っている。機械音痴で、会社の機材だって簡単に壊してしまう。ずばずばと物を言う割には奥ゆかしく、明言を自重して察する事を望む一面も持っている。これらを有しているあなたこそ、優なのです。ですから、私はこう明言しましょう。優は自分の価値観、意見を無理に曲げる必要はありません、それは何故なら――私が私であるために、私は一切の妥協をする気がないからです。



 アニメの趣味をやめたりなんて、しません! けれど、優が私の趣味に嫌悪を抱くその姿勢を、尊重します!」



 そう強く、激しく語って最後に私は付け加えます。

 好きなものは、好きだと言いたい。

 そんな重要な、一言を――。



「そんな、そんな優が――私は大好きです!」


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