優「俺の体を欲する理由――か」

 結局、俺は屈強な髭面超絶イケメンに捕まえられ、満更でもなさそうな締まりのない表情を浮かべつつ近所の公園に連行された。


 ちなみにあの曲がり角で彼と激突した時、俺は遅刻寸前なので必死に走って駅を目指していた最中だった。本来はこんな場所に来ている場合ではないのだが、現状を考えれば寧ろ出社の事を考えている場合ではない。とはいえ、遅刻は揺るがない事実なのだけれど。


 とりあえず遅れたとは言っても勤務開始時間ではなく電車を乗り過ごしたという意味だったので、会社からまだ無断欠勤を叱りつけるための電話は鳴り響いていない。


 というか、鳴り響くのは腕をがっしりと掴んで公園まで引っ張ってきた彼のポケットに入っている携帯であるため、今の俺には最早どうしようもないような気もする。ならば社会人としての非礼をどう埋め合わせるべきか……などと考えている時、ふと気付く。


 ――あれ?


 よく考えてみれば俺もう、出勤する事なんて出来ないんじゃねーの? 


 髭面がっしり筋肉質男子だった俺が突然、こんな金髪ロングへアの巨乳女子になっちゃいましたー、なんて誰が信じると思う。


 そもそも仕事といえば、会社には深い付き合いだった友人もいたわけで。そういう人間に加えて、家族にも会わせる顔がないよな。平然と家に帰宅したら不法侵入になるって、精神的ダメージがでか過ぎる。


 得たものと引き換えに家族と友人、その全てを失っているような……。


 などと考えているも、現状――俺の中では女性になった喜びが勝っている。当然、一番の実感として自分自身が感じている変化だからというのもあるだろうし、何よりも悲願だったのだ。


 まぁ、どうしても打ち消せない不安感と入り混じって正直、胸中は滅茶苦茶だけれど。


 公園の噴水が小気味よい音を立てて水を吐き出している。そんな光景をあろう事か平日の早朝に見つめていれば、不思議と落ち着かせる効果でも含んでいそうなその流水の音色が今は、落ち着かない心情を加速させる。


 俺の隣、ベンチに腰掛けて溜め息を吐きながら噴水を見つめる髭面スーツの男。まるで失業してしまったものの、家族に負担は掛けまいと公園で夕方まで時間を潰しているかのような惨めさや苦悩を湛えたサラリーマン、という構図に思えなくない。そう思うと少し笑えてくる気もするが、紛れもなく目の前の笑えるサラリーマンは俺だった。


 笑えないし、自虐的。

 他人を見て自虐出来るって、そうそうある事じゃない。


「それにしても、まさかあなた……逃げ出すなんて思いませんでしたよ。あれから私の言葉なんて聞く耳持たずで、結局ここまで強制的に連行しましたけど」


 溜め息交じりに語る彼の言葉に、俺は表情を不機嫌そうに歪める。


「いや、だけどさぁ、俺も必死だったわけよ。目の前にはこの体の持ち主がいて、返却を要求されかねない。かといって、どうやってこの肉体を返却するのかって考えたら……あぁ、おぞましい。変な研究所に連れて行かれて、しこたま体を弄繰り回されるに違いねーだろ」


 俺は情感たっぷりに自分の狼狽し、本能的に逃走してしまった時の心情を語ったのだが……やはり慣れないのはこの声である。


 甲高く、アニメ声優みたいに特徴的な声質。男性の体との対比故か、ヘリウムガスでも吸ったのかと思う違和感は言葉を発する度に伴っていた。


 一方、彼は俺の方を向き、述べた心理状況に対してまたもや嘆息する。


「いやいや、宇宙人でもあるまいしそんなわけないでしょう。――っていうかそもそも入れ替わったのであれば弄り回される標的は私も例外ではないのですから拒否するに決まってるでしょう」

「おお、確かに。冷静に考えてみればそうだなぁ」


 ちなみに俺は「研究所が弄らなくても、俺が弄繰り回すけどな」とおふざけを付け加えようと思ったが、彼の表情が真剣なものだったため自粛しておいた。


 それに、俺は女性の体や下着、衣服に憧れはあったものの体を触ったり眺めたりしても興奮したりはしない。無論、そういう趣向の人間ではないからだ。


 寧ろ――キリっとした表情に生真面目そうなスーツ。なのに顎鬚というワイルドなアクセントが素敵、などと自分の体であったはずの彼に対して痺れるような好感触を抱いてしまうこの感覚。


 昔の体でこういった発言をすれば同性愛者として好奇な目を向けられただろう。


 しかし女性の体を有する俺の発言であれば、普遍的と形容できるはずで。だからこそ、俺は女性の体を欲していたと言えば「悩み」の全容は語り尽くしたようなものである。


 そう、適材適所なのだ――と思う。


「で、さっきから何度も言っていますが、あなたがその体を返したくないように、私の方もこの体を可能な限り返却したくないと思っているんですよね」


 彼の言葉に思わず俺はうんうん、と頷いてしまう。


「そりゃそうだろうな。だって、俺の体だし。愛着が湧いたって言われたら同意せざるを得ないな。こうやって傍から見ると、見ていて飽きないって言葉に懐疑的だった自分を否定したくなるな」


 俺はもう存在しなくなった顎鬚を触ってしまう癖をつい伴わせつつ、彼の抱く「俺の体を欲する理由」を推測で語った。


 俺の体を欲する理由――か。

 危ない台詞だな、これ。


 一方で、真剣そのものな表情の彼は首を横に振って俺の言葉を否定する。


「残念ながら、あなたの体だからではありません。男性の体だからですよ。私はずっと男性の肉体が欲しくてたまらなかったのですから」

「……お前さん、甘い魅惑の低音ボイスでそのセリフはアウトだと思うぞ」


 俺がそう指摘すると、彼は少し恥ずかしそうに顔を紅潮させて視線を逸らしてしまう。


 いや、頬を赤らめるのもそのワイルド風味満載な男の挙動としては明らかに見苦しいからな。


 それにしても、声って本当に第三者的立場で聞くと違って聞こえるものなんだな。録音した声に違和感を持つ、という現象と同じなのだろうけれど。


 咳払いをし、失態の払拭とするように会話を仕切りなおす彼。


「とにかく、私は男性の体を求めていたのですから、利害で言えば女性の体を手放す事に抵抗はありません。……ですから、問題はあなたの方ですよ。この体に未練があると言われれば少々、問題はややこしくなりますが」

「――いや、それはねぇよ」


 俺はあっけらかんと答えた。


 彼の方も俺がそう答える事を予め予測していたようで、特に驚いた風ではなかった。


「俺だって女性の体が欲しくて堪らなかった。干されてぶらさがってる姉の下着を横目で見つめて『いいなぁ』とか一人で呟いてたくらいだし」

「そういう趣味の人なんですか?」


 蔑視としか言いようのない冷たい視線をこちらに送ってくる彼。


 無論、そうではない。


 反論として「いやいや、お前さんも男の体に憧れてたんなら、お父さんのトランクスやら、ブリーフを羨ましがっただろう」と言ってやろうかと思ったものの……断言できる。


 絶対にそんな事を思ったりはしていないはず。

 確信的にそう思う。


 男女の隔たりを越える時、男性側は常にハイリスクなんだよなぁ。


「ちげぇよ。当然のものとして自分の手元にあるべきものがない悔しさみたいなもんだよ。純粋な意味での憧れに近いんじゃねぇかな」


 所詮、意に介されないのだろう、と俺は語りながらも思った。

 それは無論、他人に理解され難い、という事を俺自身がよく分かっているからである。


 しかし、逆に――。


 そんな「意に介されないだろう」と思う、ある意味で「自分の秘密」を開示する事に何の抵抗もなかったのは何故だろうか?


 守るべき秘密を、こうもあっさりと?

 今まで――家族にすら、言えなかったのに?


 そして、俺の言葉に対して特に難色を示す事無く寧ろ「なるほど、やはりですか」と呟く彼を見て俺の方もようやく合点がいく。


 まさか、と思う。

 こんな奇怪で、奇妙で――奇跡的な事があるのか、と。

 端的に言って、類は「友」を呼ぶ的な事なのだ。


 そう。性の垣根を越える時、男性側は常にハイリスクだ。性的興奮を覚える女装趣味と俺の悩みは混同されかねない。ならば逆に――これは偏見的とも言えるが、そういった興奮を感じて男装する女性というのは存在するのだろうか?


 そんな風に考えれば、彼が語る「男の体を欲する理由」というのはかなり限定的な状況下で抱かれる欲望のように思えてくる。


 それは、自分のような。

 だから、同じ悩みを持つ人間に対して、臆する事無く秘密を開示出来た。


「つまり、偶然にもあんたと俺は性同一性障害同士――ぶつかって入れ替わっちまったって事だな」

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