第十話 もう一つの和解

 私は、結婚式を済ませてから新婚旅行を兼ねてしずちゃんを私の実家に連れて行こうと考えていた。だけど、しずちゃんのお母さんが言ったセリフが、心に深く刺さって抜けなくなった。


『結婚が親との縁の切れ目じゃない』


 私との距離を遠ざけたのは両親ではない。私の両親は、多分に遠慮があったにせよ、ずっと私に好意と愛情を向けてくれていた。心の距離を作ろうとしていたのは、私の両親ではなくいつも私の方だったのだ。


 なぜ私がしずちゃんに強く惹かれたのか。しずちゃんが、自分を開く、見せるという姿勢を徹底していたからだ。しずちゃんとご両親との関係もそうだ。それぞれの立場で言い分があり、それが激しく衝突することもある。でも言わなければならないことをこそこそ隠さずに、相手に真正面からぶつけてお互いを理解している。

 私はその姿勢がうらやましかった。だけど、うらやんでいただけではいけなかったんだ。それが、本当に覚悟するっていうこと。


 私は、自分では大人だと思っていた。小さいことを一々気に病まず、耐えられる限り逆風は我慢する。我慢できる。そう思っていた。でもよく考えてみると、それは逃げだ。最初にしずちゃんを怒らせたように、私が黙って何もかも飲み込んでしまえば、私は誰からも見えなくなる。何も……見えなくなる。それは、勝手にしろと言ってスネてしまったしずちゃんのお父さんの子供っぽい姿勢と、何一つ変わらないんだ。


 私が、両親の過剰な遠慮をあえて咎めなかったこと。それは、私が大人だったからじゃない。私がずっとスネていたからだ。自分の感情を隠し、両親の愛情に背を向けて、ずっと逃げ場所を探していたからだ。


 もう覚悟しよう。


 私は、これからしずちゃんの夫になる。しずちゃんとのキャッチボールがうまく行かなければ、しずちゃんを追い詰めることになる。受けるだけでなくて、投げ返すこと。そうしないと、キャッチボールにならない。だから、今まで一番私にいっぱい球を投げてくれた両親の、そのボールを。ちゃんと受け止めて、投げ返してこよう。実家に向かうバスの中で、私はずっとそう考えていた。


 ……私一人で。


◇ ◇ ◇


「リーック!!」

「ははは。ママ、久しぶりだね」

「久しぶりじゃないわよ。この親不孝もの!」

「ごめん、ごめん」

「どうしたの? 向こうで仕事してるからこっちには帰って来ないと思ってたのに」

「ああ、ちょっと大事な話があってね」

「へえ……」

「ジムは今日は遅くまで仕事?」

「いや、いつも通り帰ってくるはずよ」

「そっか。ボビーとケイトが学校から帰ってくるのは夕方か」

「スクールバスが四時に着くわ」

「分かった。みんな揃ってからにしよう」

「でも、本当にどうしたの? いきなり?」

「いくつかあるんだ。先に、ママとだけ出来る話をしておこうか」


 しばらく見ないうちに、ママはだいぶ年を取った気がする。私はそれに、少なからずショックを受けた。ダイニングの椅子にどさっと座ったママが、じっと僕を見つめた。


「わたしとだけって?」

「あの手紙のことだよ」


 ママはきつい表情になって、僕をきっと睨んだ。


「思い出したくもないね!」

「うん。そうだと思う。でも、それでも、あの人が僕の本当のダディなんだよ。ママにとっては他人でも、僕にとっては実の父なんだ」

「ジムじゃだめなのかい?」

「そういうことじゃないよ。僕が今の今までずーっと引っかかっていたこと。僕がどうしてもジムをダディと呼びきれなかった原因。それをなんとかしておきたいんだ」

「……」

「ママがなぜ僕のダディと別れたか。僕はそれが知りたいんだ。見当はついてる。姉に、ダディのことを聞いてきたからね」

「姉って?」

「ママだって薄々分かってるだろ? あの手紙を送ってきたのは、僕のダディが唯一認知している正統な子供。万谷コンツェルンの総帥だった巴さんだ」


 びっくりした顔で、ママが立ち上がった。


「あ、あれは……女の人かい!?」

「そう。だから、僕の姉になるんだ」

「そうかい」

「姉がダディの死を関係者全員に知らせたこと。それは、ダディのしでかしたことが常識外れだったとはいえ、その最期があまりに悲惨だったから。そして姉からは、ダディがどうしてそんな非常識なことをしたのか、その背景も聞いてきたんだ」


 むっすり黙り込んだママの前で、これまでママがずっと私に伏せてきたことをオープンにする。


「ダディは婿養子だったんだね。奥さんから蔑まれて、まともな家庭を持てなかった。それをどこかで作ろうとして、仕事でアメリカに来る度にあちこちで子供をこしらえた」


 ママが頭を抱えた。


「ああ。ああ、そうさ」


 ママはしょうがないという顔をして、大きな溜息をついた。


「前にも、あんたに言ったことがあるよね。『あの人』は。フミヤは一生誰からも愛情を受けられない。それが彼の運命だからしょうがないって」

「ああ」

「フミヤは欲しがることしかしなかったんだ。でも愛情をお金っていう柵で囲っても、それをとどめておくことは出来ないんだよ。フミヤは、それをどうしても分かってくれなかったんだ」

「そうか……」

「自分から与えない愛情は相手からもらえないよ。わたしもね、手紙をもらって思ったさ。かわいそうな人だったなってね」

「うん」

「わたしだって、フミヤに偉そうなことを言える生き方はしてない。スラムのはしっこで自堕落な生き方をしてたわたしを拾ってくれたのはフミヤだ。もしフミヤとの出会いがなければ、わたしはぼろきれのようになってドブの中でくたばっていたかもしれない」

「うん」

「だから、フミヤに感謝はしてる。ただね、フミヤはわたしの感謝も愛情も受け入れてくれなかった。フミヤの望むものがわたしにはまるっきり分かんなかったんだ。だから別れたんだよ」

「家庭っていう形だけを、欲しがったのかな」


 ママが大きく頷いた。


「ああ、そうかもしれないね。でも、わたしにはそれを深く考える余裕はなかった。あんたを抱えてどう生きてくか。それで精いっぱいだったんだよ」


 ちょうどその時。スクールバスを降りたボブとケイトが、家に走り込んできた。


「ただいまーっ!」

「腹減ったーっ!」


 それから私の顔を見て、大仰に驚いた。


「わあっ! リーック!!」

「はっはっは。久しぶりだね。二人とも大きくなったなー」


 そりゃあそうだ。僕が留学で日本に行く時、二人はまだエレメンタリーだった。もう二人ともミドルだからなあ。


「ボブは来年、ハイスクールか」

「そう。兄貴は元気でやってるの?」

「見ての通りさ」


 ぱん! ハイタッチして、がっちり抱き合う。


「お兄ちゃん、どうして帰ってきたの? こっちで仕事するの?」


 ケイトとハグしてすぐ、そう聞かれた。


「いや。向こうで就職したからね。今回はちょっとみんなに話があって帰ってきたのさ」

「えー、なんだろ?」

「まあ、ジムが帰ってきてから話すよ。それより、みんなにお土産があるよ」

「わあお!」

「やりぃ!」


 ママが、やれやれって顔で私を見ている。ママには、話の一つは分かっているだろう。もう一つは多分サプライズになると……思う。


◇ ◇ ◇


 ジムも、私が突然帰ってきたことに本当に驚いていた。


「何かあったのかい? リック」


 夕食の食卓で、ジムが私にそう切り出した。


「あった」

「ほう?」


 みんなの手が止まる。視線が私に集まる。話を切り出す順番が難しいなと思ったけど、一番難しい話を最初にしておこう。


「みんなも知ってると思うけど、僕は向こうの大学を卒業して日本の企業に就職した。これから、日本人として暮らして行こうと思う」


 しばらく黙っていたジムが、ゆっくり頷いた。


「帰化するということだな」

「ああ」


 ふうっと大きな息を吐いたジムが、とんとテーブルを指で弾いた。


「寂しいが、それがリックの選択なら仕方ないな」


 ボブもケイトもしょんぼりしてしまった。私はみんなを見回す。


「僕は、アメリカが嫌いで日本人になるわけじゃない。こっちより日本の方がいいなって思っただけ。同じように、この家族が嫌だから向こうに行くわけじゃないんだ」


 ジムがじっと私の目を見つめた。


「僕は、ママやジムが僕のことをすごく愛してくれたことは分かってる。でも、それが息苦しかった。なかなか受け入れることが出来なかった。僕は、早くここから出たかったんだ」


 ジムがむすっとした顔で俯く。


「でもね。いざ出てみると、一人っていうのは本当に寂しいんだよ。だから」


 私はシャツの胸ポケットから一枚の写真を出して、それをテーブルに乗せた。それは巴さんにもらった、私の父の写真。


「父が誰からも受け入れられなかった悲しさが、よく分かるようになった。そして、このままなら僕はきっと父が失敗したのと同じ道を歩んでしまう。そう思うようになったんだ」


 ジムが写真から目を離して、私に視線を戻した。ボブとケイトは、まだ写真の男をじっと見つめている。


「一番近くにいる家族の愛情も受け取らない僕が、他の人の愛情なんてもらえるはずなんかない。僕は、父のことなんか言えなかったね」


 涙が……溢れてくる。


「ママ、ダディ。これまでごめんね」


 長い、長い間ずっと私の中にわだかまっていたこと。それがすうっと融けて、涙になって流れた。


 きっと。私がどこかで、ほんの少しだけでもドアを開けていれば。私たちはもっと早くから本当の家族になれたんだろう。私は最初から家族の一員だったのに、たったそれだけのことに気付くのにこんなに時間がかかって……バカみたいだ。


 ジムは赤くなった目を擦って、それから私の肩をぱんと叩いて抱き寄せた。言葉はなかった。私も……ジムも。静まり返った食卓。その静寂を破るように、ジムが私に聞いた。


「いつか、こっちに帰ってこないのか?」

「うん。帰らない。いや、帰れないんだ」

「なぜ?」


 ママに聞かれる。私はゆっくりと微笑んだ。


「日本に、ワイフがいるからね」


◇ ◇ ◇


 私の最後の一言で、蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまった。


 ママは、何百回おーまいがーを言ったことだろう。ジムは、ガッデムとコングラチュレーションの間を行ったり来たりしていた。ボブとケイトは大はしゃぎで、私が持っていったしずちゃんの写真を、かわいいかわいいを連発しながらとっかえひっかえ見ていた。


 うーん。正直言って、ここまでリアクションが大きいとは予想していなかったなあ。でも私にとっては、それはどこまでも嬉しい方のサプライズだった。これで話を切り出しやすくなった。


 東京で結婚式をする。私は家族全員揃っての式にしたい。本当に身内しか来ない小じんまりした式だから、気楽に来て欲しい。ちょっと時期的に寒いんだけど、クリスマス休暇に合わせて日程を組みたい。ジムの仕事やボブとケイトの学校関係の都合を聞いて、航空券を手配する。足代は私が負担するけど、宿泊費を持って欲しい。


 ジムが私の提案にこう答えた。


「大事な息子の式だ。借金してでも自費で行くよ。金のことは心配するな。なんとかなる」


 ジムには金銭的な負担をかけたくなかったけど、男にはプライドっていうものがある。それは、しずちゃんのお父さんを見ているからよく分かる。私は、それ以上お金のことで強く押さなかった。


 短い滞在だったけど、私は大きな心の荷物を下ろした。ママの作ったガンボをお腹いっぱい食べて、日本での暮らしぶりをいろいろ話して。私は最後のドアを。真っ赤に錆び付いていて、もう二度と開かないだろうと思っていた重たいドアを、すっきりと開け放って日本に帰ることが出来た。


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