第七話 親子激突

 まるで死んだ父が引き寄せてくれたかのように、磁石がぱちんとくっつくように、私としずちゃんは結婚を考えるようになった。友達から、恋人をすっ飛ばしていきなり結婚へ。でもそれは、お互いにドアを開け放った私たちにとって特別なことではなかった。ただ……結婚に踏み切るには大きな支障があった。それがしずちゃんの親とのことだった。


 私の両親は、もう私を独立した存在として考えている。私がどんな相手を選ぼうが、決してそれに文句を付けることはないだろう。しかし、しずちゃんの親はそうは行かなかった。しずちゃんとどんぱちやっているとは言え、お父さんは一人娘に強い思い入れがあるようだった。私がもし普通の日本人であっても、大もめにもめただろう。ましてや私は外国人だ。日本語に不自由ないとは言っても、見かけも中身も決して日本人ではない。頑固なお父さんが、私たちの結婚を素直に認めるとは到底思えなかった。


 私の懸念は的中した。挨拶に出向いた私はしずちゃんの実家に上げてもらえず、玄関口でこの黒んぼめとっとと帰りやがれと悪し様に罵られた。それに対するしずちゃんの怒りはとんでもなく凄まじかった。あんたなんかきぃきぃ喚くだけの黄色いサルじゃないかとお父さんに罵り返し、玄関のガラス戸を蹴破って帰った。私は、罵られたショックよりもしずちゃんの擁護がものすごく嬉しかったし、この親にしてこの子ありだなあと妙な感慨を覚えたりもした。


 その後も何度か機を見てお父さんの説得を図るも、いつも惨敗。でも、私たちはご両親を説得することだけは決して諦めなかった。私の父が犯した失敗を、どうしても繰り返したくなかったのだ。ちゃんとしずちゃんのご両親に認めてもらった上で、結婚に踏み切りたい。だけど、今日も惨敗だった。はああ……。


◇ ◇ ◇


 うめやになだれ込んで、飲んで憂さ晴らしするはずだった。でも。


「ったく、あのクソ親父はどうにかならんのかよ!」


 しずちゃんの愚痴が、だんだん怒りに変わり始めた。お酒を飲むのに、いつまでもくさくさしていたんじゃ悪酔いしてしまう。私は、一段と声が大きくなり出したしずちゃんに別の話題を振った。


「ねえ、しずちゃん。苗字のことなんですけど」

「ん?」


 しずちゃんがくるっとこっちを向いた。


「結婚する時に、どっちかの姓にしますよね?」

「んあー、そうだなー」

「しずちゃんの方にしたらだめですか?」

「ええー?」


 しずちゃんが、不満そうに頬をぷっと膨らませた。


「静流マクブライトってのはかっこいーなーって思ってたのにぃ!」

「まあ、そっちでもいいんですけど、どうも私にはその姓がしっくり来ないので」


 しずちゃんが黙った。私の姓は再婚した父のものだ。嫌いではないけれど、どうも私には居心地が悪い。しずちゃんにもそれが分かったんだろう。


「そっかあ。確かにね」

「はい」

「まあ、いいや。苗字がどうでも、リックはリックだし」

「はははっ! 嬉しいです」


 話題が父親のことからそれてほっとしたのも束の間。すぐ近くの席から大きな刺々しいだみ声が聞こえて、身がすくんだ。


「丸子ってぇのは由緒ある名だ。おめえみたいな黒んぼに名乗らせるわけにはいかねえな!!」


 げっ!


「娘だけでなくって、名前まで盗もうってぇのか、このこそ泥がっ!」


 な、なんでここに……。


 酒で赤黒く濁った目を剥き出して、しずちゃんのお父さんが私を睨み下ろしていた。明らかに酔っているし、激高している相手に何を反論したところで火に油を注ぐだけだ。私はいつものように黙ってやり過ごそうとした。だけど……。しずちゃんの怒りが私より先に臨界点を超えた。


 ばしゃっ!


 憤然と席を立ったしずちゃんがお父さんの前に出るなり、手にしていたコップの酒をお父さんの顔にぶちまけた。


「な、なにしやがんでいっ!」

「ばっきゃろーっ!」


 店内にいる他のお客さんが全員黙るほどの大声で、しずちゃんがお父さんを一喝した。しずちゃんはだらだらと涙を流しながら、お父さんの胸ぐらを掴んで揺すった。


「ここまで……ここまで、あんたが性根の腐ったやつだとは思わんかったよ」


 どんとお父さんを突き放すしずちゃん。


「なあ、親父。リックがあんたに何をした? 今まで、親父を馬鹿にするようなことを一言でも言ったか? 何かひどいことをしたか? 何にもしてねえだろがっ!」


 体をぶるぶる震わせて、全身全霊で怒りを放出するしずちゃん。


「あたしゃね、なんだかんだ言って親父を尊敬してたんだよ。頑固だけど絶対に仕事を手抜きしない。中途半端にしない。きちんと筋を通す。やっぱ男ってなあ、こうじゃなきゃあって。だけど、こんな根性腐ったやつだとは思わなかったよっ!」


 俯いたしずちゃんが、あえぎながら声を絞り出した。


「あんた、リックの何を知ってるってんだよ。何も知らねえだろがっ! 向こうでバイトして自力で渡航費用貯めて、自費で日本の大学に留学して、質素な生活しながら大学出て、職を探して。今ぁまじめに働いてんだ! それ以上の何がいるってんだよっ! 言ってみろいっ!」


 お父さんが何か言い返そうとしたのを、しずちゃんが全力でぶっ飛ばす。


「リックにだって言い分はあったろうさ。でもリックが一度でも親父に口答えしたことあったか? ねえだろうがっ!」

「く……」

「肌の色がなんだってんだよっ! 日本人でないことがなんだってんだよっ! そんなの、リックにはどうしようもねえことだろがっ! それを女の腐ったみたいにぐちぐちぐちぐちとっ! それでも江戸っ子かっ! このクソ野郎があっ!」


 私は。しずちゃんが体を張って、私が言いたかったことを代弁してくれたのがものすごく嬉しかった。だけどこのままじゃ、しずちゃんがお父さんと完全に絶縁してしまう。これまで私がじっと我慢してきた意味がなくなる。どうすればいい? どうすれば? 私には一つしか思いつかなかった。私は席を立って、しずちゃんの剣幕に押されて立ち尽くしていたお父さんの前に出た。床の上に正座して、頭を床に擦り付ける。


「どうかお嬢さんと結婚させてください。必ず。必ず幸せにします。どうか、お願いいたします」

「ちょ、ちょっと、リックっ!」


 しずちゃんが慌ててしゃがんで、私の頭を上げさせようとしたけれど、私は絶対に頭を上げないつもりだった。本当ならしずちゃんの家で、ご両親の前で言うつもりだったんだ。その場所がここに変わっただけだ。私は、結婚に頑として反対し続けているお父さんの前で、どうしてもしずちゃんとの結婚の許しを請いたかった。それを直接私の口から言い、私の覚悟を見て欲しかった。


 し……ん。騒がしい店の中が静まり返った。全ての客の視線が、私とお父さんに注がれているんだろう。私はゆっくり顔を上げて、お父さんの顔を見上げる。お父さんは、私や客の視線に気圧されるようにしてじりっと後ずさると、忌々しげに頭を振ってくるっと背を向けた。


「勝手にしろいっ!」


 ばしん! 乱暴に店のガラス戸を引いたお父さんが、私たちの方を振り返らずに足早に店を出て行った。しずちゃんが涙で顔をぐしゃぐしゃにして、立ち上がった私に抱きついた。そして……声を上げて泣いた。


「大丈夫ですよ。私はまだ大丈夫です。しずちゃんと一緒になるためには、このくらいのことはまだ障害のうちに入らないですよ」

「うん……うん」

「さ、飲み直しましょう」


 私としずちゃんがカウンター席に戻って、店の中はいつもの喧噪で埋まった。


「大将、いつもの」

「あいよっ!」


 大将が私たちの前にひょいと置こうとした一升瓶を、しずちゃんがゆっくり押し返した。


「いい」

「ええっ?」

「今日はもう飲みたくない」

「どうしたんですか? しずちゃんらしくない」


 しずちゃんは目を擦りながら私の方を向いて、最高の笑顔を見せた。


「リックが根性据えて見せてくれた覚悟。あたしは、それを酔っぱらって忘れたくないんだ。ありがと」


 しずちゃんは、そう言って私に深々と頭を下げた。


「私も嬉しかったですよ。私が言いたかったこと、分かって欲しかったことは、みんなしずちゃんが言ってくれた。本当に嬉しかったです」

「うん!」


 ひょんなことから繋がった糸。その糸は、二本の糸から継ぎ目のない一本の糸になろうとしている。私たちは、それをじっくりと味わっていた。


 店の奥で飲んでいたお客さんが何人か帰り支度をして、私たちの後ろを通った。


 ぱん! ぱん! ぱん! 私としずちゃんの肩が次々に叩かれる。


「負けんなよ」

「がんばんな」

「まあ、親父ってなあ、あんなもんだ」

「なんとかなるさ」

「仲良くせえや」


 かけられるコトバ。私はそれにくすぐったさを覚えながら、繋がっていく糸の不思議に心が震えた。それはずっと孤独だった私が心から欲していたこと。望んでいたこと。しずちゃんだけじゃない。私もその時、最後のドアを開け放った。


「大将! 味のしみたとこ、見繕ってください」

「あいよっ!」


 大将が蓋を開けたおでん鍋から、もうもうと湯気が立ち上る。それに目を細めて。それから私は、しずちゃんを見つめた。


「じゃあ、食べましょうか!」

「うん!」


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