第五話 実父の死

 それからしばらくして。しずちゃんの体調は完全に回復して、いつもの元気なしずちゃんに戻った。それを待っていたかのように、しずちゃんは連日私をあちこち連れ回した。確かにしずちゃんは強引だったけど、私はいつもしずちゃんの提案を飲んだ。なぜって? それがいつも提案だったからだ。


「いや?」


 しずちゃんが、何か私に切り出す度に必ず最後に言うセリフ。そう。しずちゃんは、必ず最後にイエスノーの選択肢をつける。私がちゃんとノーと言えるように。仕事の都合や体調不良がもとで付き合えないことがあっても、しずちゃんがそれを責めることはなかったし、すねることもなかった。


 デートの度に、私としずちゃんはいっぱい話をした。会話を重ねる度に、しずちゃんのドアが一つずつ開いていく。私はそれを見るのが本当に楽しかった。ただ……。しずちゃんは本当に身持ちが堅かった。キスはおろか、人前で手を繋ぐことさえ嫌がった。辛抱強くしずちゃんのわがままに付き合う私の真意がどこにあるのか。私がしずちゃんの信頼に本当に応えられる存在なのか。それをきちんと確かめられるまでは、決して最後のドアは開けないよ。そういうしずちゃんの声が聞こえるようだった。


 恋人と言うより、友達の延長にあった私としずちゃんの関係。私がそれに焦れていなかったと言えば嘘になる。でも、もともと恋愛に臆病なしずちゃんに強引に迫れば、そのアプローチが拒否されるということは分かっていた。私はじっと機が熟すのを待つしかなかった。


 その間に。私に思いがけない出来事が降ってきた。


◇ ◇ ◇


 ある日、母から明らかに苛立った口調の電話がかかって来た。万谷よろずたにともえという日本人から、フミヤの死去を知らせる手紙が送られてきた、と。


 私は……心臓が止まるかと思った。


 不実な、それがゆえに母に愛想を尽かされた私の父。母の中では、最初の父とのことはとうの昔に過去のちっぽけな出来事にされていたのだろう。今の父との間で作り直した人生は、全て幸福で彩られているのだから。だけど、私は違う! 父がいれば、その面前で問い詰めたかったことが山のようにあるんだ。だけど私の父は死んだ。もう二度とそのチャンスはない。


 私は母に、その手紙を私のところに転送してくれるように頼んだ。そして……その日は潰れるまで飲んだ。一人きりで。


◇ ◇ ◇


 父の死がショックで、それからしばらくはうめやにも顔を出さず、しずちゃんの電話での誘いも断り続けた。しずちゃんは私の様子がおかしいことに気付いて、初めて私のマンションを訪ねてきた。それまでは、決して私の部屋には来なかったのに。


「リックー?」


 呼び鈴を押さずに、ドアの外で私に声を掛けるしずちゃん。私が無言でドアを開けたら、しずちゃんがぎょっとしたように後ずさった。


「ちょ! どしたん? げっそりこけて」

「どうぞ。入ってください」

「うん」


 おずおずと。へっぴり腰でしずちゃんが部屋に入ってきた。


「座ってください。今、コーヒーをいれます」


 私がお湯を沸かして支度している間に、ガラステーブルの上に広げてあった手紙をなんの気なしに読んだらしい。私が振り向いた時には、しずちゃんの顔色が変わっていた。


「……読んだんですか?」

「ご、ごめん」

「いえ、いずれ話をしようと思っていたので」


 私はテーブルの上にコーヒーを置いて、一つ大きな溜息をついた。


「ふうっ」

「大変……だったんだね」

「ええ。私にとっては実の父親はいないも同然でした。その父が生きていようが死んでいようがどうでもいいと、そう思ってました。でも」


 私は両手で顔を覆う。母からあの電話が来たあと、私はどれほど泣いただろう。私は父から、望まない血と寂しさしかもらっていない。他には何ももらっていない。それなのに。どうしてこんなに悲しいのだろう? 手のひらで目を塞いでも、涙は隙間から溢れていく。次々に溢れていく。声は出したくない。漏らしたくないのに、それは出てしまう。


 私は床に顔を伏せて大声で泣いた。なぜ自分がそんなに悲しかったのか分からない。実の父親からは何も愛情を受けていないのに。それなのになぜ? でも、私にはどうしようもなく父の死が悲しかったのだ。浮き草のように漂う私に、辛うじてつながっていたはずの一本の糸。それがぷっつりと切れてしまったような、絶望的な喪失感。


「ごめん」


 小さなしずちゃんの声が聞こえて、私はしゃくり上げながら顔を上げた。しずちゃんは、顔を歪めて泣いていた。


「ごめんね。気付いてあげられなくて」


 私の側に寄ったしずちゃんが、私を抱きしめてくれる。


「ごめんねぇ……」


 嬉しかった。私は一人じゃない。切れてしまった糸の代わりに、結ばれる糸がある。肩を震わせて私のために泣いてくれるしずちゃんが、きっとその糸になってくれるだろう。私はしずちゃんの温もりを感じながら、そう信じることにした。


◇ ◇ ◇


 しずちゃんが来てくれて、気持ちが落ち着いた。私は、父の死を静かに受け入れることにした。でも手紙をたたんで封筒に戻した私に、しずちゃんから思わぬ提案が投げかけられた。


「ねえ、リック」

「なんですか?」

「この手紙を出した人も、お父さんが万谷よろずたに文哉ふみやって人なんだよね」

「そうですね。巴さんは、私の姉ということになるんですね」

「この人に会った方がいいよ」

「なぜですか?」

「リックは、大泣きするくらいお父さんのことが深い傷になってる。この人に会って、話ぃ聞いて、ちゃんとけりをつけた方がいいと思う」

「けり、ですか……」

「リックのお父さんがどんな人だったんか。なんで、リックのお母さんに愛想尽かされちゃったのか。それぇ知らないままじゃ、リックが心の中に閉じ込めちゃってるもんを吐き出せないよ」

「うん」

「それって、きっと辛いよ」


 しずちゃんの提案。中途半端に終わったことにしないで、自分が納得行くまで真相を探った方がいい。それは、私には思いもよらないことだった。腕組みしてじっと考え込む。これからしずちゃんともっと心を通わせるには。私を支えてもらうには。私の荷物を軽くしておかないと、しずちゃんに余計な心配をかける。


「そうですね。確かにそうです」

「あたしも一緒に行ったげるからさ」


 うん。しずちゃんは、きっと最後のドアを開けようとしてくれているんだ。だから、私も自分のベストを尽くすことにしよう。しずちゃんとの糸をしっかり結ぶためにも。


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