第二話 うめや

 私が回想に浸っている間に、しずちゃんの頭が再びぐつぐつ煮えだぎってきたんだろう。通りがかった人が驚くほど大きな声で、しずちゃんが吠えた。


「くっそ! おもろないっ! 飲むぞーっ!!」

「またですか?」

「いや?」

「ははは。付き合いますよ」

「そう来なくっちゃ!」


 派手に軍艦マーチを歌いながら、私の手を勢いよく引っぱるしずちゃん。それは、出会った時から今まで全く変わっていない。いつものように行きつけの飲み屋になだれ込んだしずちゃんは、カウンター前の椅子に体を放り出すなり大将に声を掛けた。


「大将っ! いつものっ!」

「あいよっ! ってか、しずちゃん、まあたリックを引きずりこんでぇ」

「ははは。いいんですよ。どっかで息抜きしないとね」

「んだー。ったくクソ腹立つ! あの馬鹿親父っ!」

「なに、まあたリックのことでぶつかったのかい?」

「ただの大酒飲みのじじぃのくせしやがって、人の恋人にケチつけるなんざ親のするこっちゃないね! ったく!」

「おやっさんも昔気質だからなあ」

「あんな野郎は、江戸時代にぶっ飛ばされちまえっ!」


 おーおー。過激だなあ。自分と僕の前にコップをどんどんと置いたしずちゃんが、豪快に一升瓶を傾ける。


「おっしゃあっ! 飲むぜいっ!」


 言い終わらないうちに、最初の一杯を一気飲みした。私は、微苦笑とともにその時のことを鮮明に思い出す。出会いもこうだったんだよなあと。


◇ ◇ ◇


 しずちゃんは、私が勤めている会社のすぐ近くにある運送会社の事務社員だ。港湾への貨物搬送を請け負っているその会社は、手続きに必要な事務書類を郵送せず、いつも事務員に書類を持たせて直接社に届けに来た。出先との打ち合わせでオフィスを頻繁に出入りしている私は、度々その社の社員さんと顔を合わせる。そして、しずちゃんはその一人に過ぎなかった。

 書類を届けてくれてありがとう。お疲れさま。私は、いつものようにそう言って大判封筒を受け取ったが、しずちゃん的には、私のその態度がどうにも気に食わなかったらしい。お礼に心がこもってないぞ、と。なぜその抗議がナンパという形になるのかは、私には全く理解出来ない。でも、それがしずちゃんなんだろう。


 ショートヘアの小柄で細身の子。でも、そういう華奢な外見とは裏腹に、しずちゃんはおそろしく気が強かった。やや切れ上がった目で私を捉えるや否や、機関銃のようにまくし立てた。ぼさっと突っ立ってないで、さっさと返事しろい、と。

 まあ一回飲みに付き合えばいいかと思ってバーに誘ったら、そんな気取ったところで飲めるか、ぼけぇと一喝された。安月給の社員が行けるところなんかそんなにないよと説教されて引きずり込まれたのが、この店。うめや、だった。

 そう。しずちゃんは、自分の飲み代を私に払わせるつもりがまるっきりなかったのだ。その時に、私は初めて女性との割り勘というのを経験して、奇妙な感慨を抱いたことを覚えている。


 しずちゃんに引きずられるようにして連れ込まれた場末の大衆居酒屋。でもそこで私が目にしたのは、夢にまで見た世界だった。誰もが気取らず裃を脱ぎ、コップ酒片手に自分を曝け出す。そして、しずちゃんもその例外ではなかった。

 とにかく飲みながら愚痴る。上司の悪口をぶちまけ、女子社員の待遇の悪さをぶちまけ、石頭の親への憤懣をぶちまけ。そこまでぶちまけたら、もうあとは何も残ってないだろうと言うところまで一切合切ぶちまけた。それが、しずちゃんとの初めての飲み。初めてで、それだ。でも、私にはしずちゃんのその姿勢がとても気持ちよかった。

 隠すな! 本気で人と付き合おうと思うなら、自分を出さないで、曝さないでどうする! それは……とても真っ当な、気合いの入った説教だった。


 私は。それで恋に落ちた。


 ぐでんぐでんに酔ったしずちゃんをアパートまで送り届けて、私は思った。今度は、私の方から誘おうと。


◇ ◇ ◇


 まさか彼女のアパートを直接訪ねるわけにも行かず、私はじりじりしながらしずちゃんが社に書類を届けに来るチャンスを待った。一緒に飲んでから二週間後、やっとそのチャンスが巡ってきた。うちの事務の女性と大声で話してる人がいるなあと思ったら、それがしずちゃんだった。


「ああ、この前はどうも」


 平静を装って声を掛ける。しずちゃんは恥ずかしがるでもなく、私につらっと言った。


「あたしハイペースだったから、リックは充分飲めなかったんじゃないの?」


 思わず、笑いが弾けた。なんて。なんて、楽しい女の子だろう。


「はっはっは! そんなことはないですけど、再戦はいつでも受けて立ちますよ」


 しずちゃんは、一瞬おやっと訝るような表情を見せて、それからにやりと笑った。


「あんたはタフそうだね」

「どうでしょうね。潰れるまで飲んだことはないので」

「ちっ。飲ませるだけ損てやつかあ」

「試しましょうか?」

「受けて立つよ」


 そう言ったしずちゃんが私の携帯に転送した電話番号は、しずちゃんの携帯の番号ではなく、あの店の、うめやの番号だった。


「まあ、二日にいっぺんは行ってるから、あたしがいるかどうか大将に聞いてくれりゃいいよ。じゃあね」

「あ……」


 しずちゃんは、私が誘う前にさっと帰ってしまった。その時に、私は思い知らされた。しずちゃんは、私を警戒していると。


 へべれけになるまで飲んで、自分を曝け出す。でもしずちゃんにとっては、その相手が私であろうがなかろうが構わないんだ。そのことが無性に寂しかった。そして、私がこれまで付き合って来た女の子の要求が決して理不尽なものではなく、とても真っ当なのだということを初めて思い知らされた。


◇ ◇ ◇


 うめやでしずちゃんと二度目に飲んだ時、私はしずちゃんがこの前と同じように愚痴をぶちまけるんだろうと覚悟していた。だけど、しずちゃんは奇妙なくらい自分のことを言わなかった。そして……自分から何も話題を出さなかった。間が保たなくて、三十分もしないうちにしずちゃんが立ち上がった。


「じゃあね」


 不機嫌そうにそう言い残して、私の方を振り返らずにささっと店を出るしずちゃん。私が呆然としていると、大将に言われた。


「なあ、外人さん」

「あ、はい?」

「リックさんて言ったっけ?」

「はい」

「しずちゃんと付き合いたいなら、もうちょいアタマ使いなよ」


 大将が、やれやれって感じで口をへの字にして首を振った。


「見てたら、あんたはずーっと聞き役だ」

「ええ」

「それじゃあ、お地蔵さん相手に酒飲んでるのと何も変わらんだろ? つまらん」


 ああ、そういうことか。最初にカードを切ったのはしずちゃんだ。しずちゃんは、相手が誰であっても自分からカードを切るんだろう。そして、私はそのカードを見ただけで、まだ私のカードを一つも見せてない。考えてみれば、しずちゃんの苛立ちは当然だった。失敗した。しょげてしまった私の肩を、大将がカウンター越しにばしんと叩いた。


「そうそう。それだよ。そいつを見せてやりゃあいいのさ」


 自分の感情を出すこと。自分の表情を見せること。自分を戸棚の中にしまったままじゃ、付き合いなんか出来るわけはない。なんとなくではなく、自分の意思で相手にちゃんと思いを伝えてコミュニケーションを始める。その結果、相手から返ってくるものが好意ばかりなんてことは現実にはありえない。でも、それを覚悟しないと何も得られない。


 自分を曝す。それは、私にとって今までの処世術を変える大決心だった。


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