第6章 聖眼の巫女 1

 歓迎の塔の中は、緋色の光が満ちていた。

 魔物から得る魔の欠片ダークフォトンから精製される燐火粒を用いた人や妖精族が作った明かりではなく、元から魔都フェリオスにある明かりだ。床から細長い筒状の物が何本も突き出ていた。そのてっぺんに炎が燃え盛っている。

 このような照明は、魔都フェリオスの限られた場所に設置されている。陽が没する直前、勝手に火が灯る。魔力による炎だ。

 夜、この魔の都を歩けば、不気味な鬼火に出くわし成り立ての闘魔種を怖がらせる。

 尤もベテランの闘魔種であっても、魔物が徘徊するこの都市で人の手によらぬ炎が忽然と灯れば、ぞっとし人外境の中にあって何者かの見えざる意思のようなものを感じずにはいられない。この都市は、〝魔神〟が支配している、と。

 市壁と繋がった塔の最上階。

 今そこに、フィリスはいた。

 フィリスともう一人暗黒色の鎧を纏った男が、赤々とした炎に照らし出されていた。

 男が纏う鎧は全体として禍々しく、揺らめく炎が不気味に影を踊らせる。背後は柱だけで、市壁の外が広がっていた。

 壁には、魔界と繋がっていた破壊された大鏡が誰も映し出すことなく、置かれていた。

「久し振りです、ランヘルト」

 フィリスは、別段勇を鼓舞するでもなく、当たり前の口調で話しかけた。

 闇墜ちし魔人となり、狂戦士バーサーカーとまでなりはてたかつての契約闘魔種に、恐れはなかった。何故なら、そうなる前のランヘルトをフィリスは知っていたからだ。フィリスの知る彼は、とても優しい青年だった。

「元気そうだね、フィリス」

 朗々と、狂戦士バーサーカー――ランヘルトの言葉が、塔の最上階に響き渡った。

 不思議な音律を帯びた声だった。

 本人の声に、別の何者かの声が重なっているような、そんな聞こえ方だった。

 これまで知っていたランヘルトとは、確実に何かが違っている。それが、フィリスには悲しい。ランヘルトの声は、明らかに魔の力が宿っている。

「それが、ダークメイルですね?」

 ランヘルトを覆う禍々しい鎧に、フィリスは視線を注いだ。

 魔力を帯びたランヘルトの声に、呪われた鎧は確実に彼を蝕んでいると分かる。ダークメイルは、宿主を徐々に支配下に置いてくる。受け答えをした感じでは、まだ浸食は少しだけだと思える。

 完全に、ダークメイルの支配下に置かれれば、もはやランヘルトの意思などは存在しなくなる。最終的に本物の狂戦士バーサーカーたらしめる。今の段階で話せてよかったと、フィリスは安堵した。と、同時に抑えようのない悲しみが込み上げてくる。己の意識を宿したランヘルトと話し、フィリスは彼に死を受け入れてもらわなくてはならない。

「そんな辛そうな顔をしないでくれ、フィリス」

 ランヘルトは、情愛のこもった表情と口調をしていた。

 それは、フィリスが知る以前の彼だ。よけい辛くなる。

「どうして、わたしから離れたのですか? 自分でも、わたしは至らぬグランターだと分かっています」

 聞いておきたいことだった。

 ランヘルトが姿を消すまで、フィリスはそのような前触れなど全く感じていなかった。

「前から、誘惑を感じていた。闘魔種になったその日、魔の天秤エビルスピリットをこの身に蓄積させたそのときから、どうしようもない快感を感じた」

 昔を思い出すように、ランヘルトは話し出した。

 その面には、喜びとも悲しみともつかぬ表情が浮かんでいた。

「闘魔種であれば、誰でもそうです。皆、その誘惑と戦っています」

 フィリスは、淡々と口にした。

 口調とは裏腹に、フィリスの中で悲しみが増大していく。声に魔の力を帯びていても、ランヘルト自身は以前と変わっていないように見える。なのに、彼は既に闇墜ちした魔人なのだ。その上、災厄の存在である狂戦士バーサーカーだ。

「ランクが上がれば上がるほど、その快感は強まっていった。何にも代えがたいものとなっていった」

 恍惚とした表情が、ランヘルトの顔に浮かび上がった。

 それを見てフィリスは、このようなランヘルトなど知らないと切なくなった。これまで、ずっと一緒にいながら、ランヘルトは自分よりもその快感に心惹かれていたのか、と。

 フィリスは、これまでランヘルトに大切に扱われてきた。その自分に寄せていた注いできた愛情は何だったのだろうと、フィリスは思う。本心ではないと思いたい。もしそうなら、ランヘルトにとって自分は、その程度の存在だったということだ。

 フィリスは、ランヘルトを慕っていた。子供っぽい感情ながら、恋心にも似た淡い思いを抱いていた。三年前契約した当時、フィリスはまだ子供でしかなかった。年上であるランヘルトは、何でもできる頼りになる存在に映った。自然と、フィリスはランヘルトに好意を寄せた。

 美青年といっていいランヘルトに、ただただフィリスは寄りかかっていた。それは、とても心地よいものだった。熱意に満ちたリオンは、フィリスに優しい。が、どこか頼りなく危なっかしい。自分がしっかりしなくてはと、保護欲のようなものを掻き立てられる。ランヘルトに感じていた安心感とは真逆だ。

 自分は甘えたいのだろうかと、フィリスは自身の子供っぽさが嫌になる。

 聖眼の巫女などと呼ばれ、まるでアネット・デューク・ロクサーヌのグランターであったミルス・シュラールの再来のように言われてきた。天上の神々と同列であるかのように、フィリスは扱われ見られてきた。そんな自分が、このような稚拙な存在でしかないことが、フィリスは悲しい。

 ランヘルトは、闘魔種の中にあっても抜きんでた存在だった。ランクを上げていく速度といい、闇墜ちし魔人となればダークメイルに選ばれる。底知れぬ実力を有していた。

 神ブリュンヒルデと契約した巫女――グランターであっても、フィリスは一一歳の女の子でしかなかった。ランヘルトを繋ぎ止められるだけの、包容力など持ち合わせていない。英雄になれる可能性を有していた彼を。

「ランヘルトは、そのような誘惑に抗えないはずがありません。どうして……どうして……わたしの元を離れたのですか?」

 それでも、そう尋ねずにフィリスはいられない。

 自分を見捨てたことを、許せぬ自分がいるのだ。

「グランターであるフィリスには、決して分からないことだ」

 初めて、ランヘルトから拒絶のような雰囲気が発せられた。

 ――ああ……。

 悲しい思いが、フィリスの中で溢れてくる。

 三年間一緒にいながら、自分はランヘルトのことを全く理解していなかったのだと。結局、ランヘルトへの思いは、独りよがりなものでしかなかったのかと。

 フィリスは、闇の力が増すことへの誘惑は分からない。ランヘルトの言うとおり、フィリスはグランターだ。契約闘魔種から魔の天秤エビルスピリットをもらうが、それは神と契約する対価として昇華される。闘魔種のように神聖核ホーリーコア魔の天秤エビルスピリットで活性化させ、力を増させていくわけではない。力を増させるため、闇の力と密接な関係にある闘魔種とは違うのだ。魔の天秤エビルスピリットの蓄積で増していく力の快感は、フィリスには分からない。

 ランヘルトを闘魔種にしたのは、フィリスだ。そのせいで、平穏な生き方をできたかも知れない彼を、フィリスが闇へと導いたことになる。

 フィリスは元のランヘルトに戻って欲しかった。理解できぬままのランヘルトでいて欲しくなかった。

 金色の双眸に、フィリスは固い決意を浮かべる。

「ランヘルト、闇墜ちし魔人となりダークメイルに選ばれたあなたでも、まだ完全な〝魔神〟の手先となったわけではありません。今なら、まだ人として死ねます」

 懐から、フィリスは短剣を取り出した。

 じっと金色の瞳で、フィリスはランヘルトの濃褐色ブラウンをした瞳を見詰める。ありったけの意思を込めて。フィリスの瞳には、曇り一つなくどこまでもピュアな煌めきがあった。

 一瞬、ランヘルトの顔に、眩しげな表情が掠めた。

「わたしと一緒に死にましょう」

 フィリスは、まだ幼さが残る整った顔に、憂いのない笑みを浮かべた。そうすることで、ランヘルトを救いたいと。

 慈愛すら感じさせる笑み。

 まだ一一歳の女の子だというのに、ともすれば包み込まれそうな笑みだった。己の全てを賭けてランヘルトを救いたいとの思いから発せられる笑み。

 ただ、フィリスはリオンのことが心残りだった。

 闘魔種となることを願い、フィリスと出会うことでなれた。災厄の巫女と呼ばれる自分と一緒にいることを選んでくれた。リオンの、優しげな笑みが思い出される。

 リオンを残して逝くことに、一抹の未練を感じる。だが、リオンのグランターに自分は相応しくないと、フィリスは思う。自分とこのまま関わっていては、リオンの闘魔種としての道を閉ざしてしまう。

 闘魔種となり僅か十日ほどで、リオンは神の恩寵グレイスを発現させた。自分さえいなければ、将来有望だった。ただ、人のいいリオンのことを、放っておくのは心配だった。

 ――未練です……。

 フィリスは、思い浮かんだリオンの笑顔を振り払う。

 ランヘルトを、精一杯の思いを込めて見詰める。

「…………」

 暫し目を細めながら、ランヘルトは無言だった。

 まるで、愛しい妹を見るような温かみを感じさせる、濃褐色ブラウンの瞳。

「ランヘルト――」

 自分の思いを受け入れつつあると感じたフィリスは優しく声をかけるが、凍てつくランヘルトの声に遮られた。

「死ぬなら、勝手にすればいい」

 突き放すような、冷たい口調でランヘルトは言い放った。濃褐色ブラウンの瞳に冷厳な輝きを宿させる。整った顔からも表情を消し去った。フィリスに対する愛情が、全て消失したようだった。

「わたしの手で救わせてはくれないんですか……」

 フィリスは、ランヘルトの言葉に打ち拉がれた。

「闇墜ちする前、俺は〝魔神〟と出会った。とても大きな存在だった。己の欲望のため足を引っ張り合う各国の王たちとは全く違う。完璧な存在だ。〝魔神〟は、俺に言った。次元秩序崩壊は、この世の摂理だと。我が儘に驕った人類に対する浄化だと。神々はより大きな摂理に逆らっている、と。〝魔神〟は、己に仕えよと言った。太古、魔との共存を行っていたトルキア帝国を滅ぼした人類に、永劫の闇に落ちた者たちの無念を教えよう、と。この魔界の都フェリオス――帝都イクスをもってトルキア帝国を復活させよう、と。闘魔種の俺は、決して魔が悪ではないことを直感していた。こうも俺は、魔への誘惑と快感を感じているのだから。昼と夜のように、この世界には必要なものだと。過去、神々のみによる支配を望んだ人類が行った蛮行を、正そうと。俺は、〝魔神〟の騎士となった」

 朗々と、ランヘルトは語った。

 目の前にいるのはランヘルトであっても、もう既にフィリスが知るランヘルトではないのかも知れない。明らかに、ランヘルトは己の意思を宿している。ダークメイルに意識を乗っ取られているわけでもなく、どこまでも彼自身であり正気だ。

「ランヘルト、もう元のあなたには戻ってくれないのですね。魔への誘惑に負けたわけではなく、自分の意思で闇墜ちした」

 フィリスの綺麗に整った面が、悲しみで曇った。

 自分ではもうランヘルトを救えないと分かった。

「これが、俺だ。帰れ。嫌ならここで死ね、聖眼の巫女」

 ランヘルトは、漆黒の大剣を背のラックから外した。暗黒色のダークメイルが、不気味な青黒い瘴気を放った。

 ――リオン……。

 フィリスは、少年のことを思った。死を覚悟してここに来たが、生きたいとの思いが迫り上がってくる。少しの間だったが、リオンと二人、闘魔種とグランターの関係を続けていくことに、わくわくするものを感じていたのは事実だ。だが、それも詮無きことと思う。

 ここで、ランヘルトに背を向ければ、フィリスは彼を見捨てたことになる。

 ギュッと、フィリスは目を瞑った。

 その様子を見てランヘルト――狂戦士バーサーカーは、大剣を振り上げる。

 今まさに漆黒の大剣が振り下ろされたが、鋭い銀色の軌跡が防いだ。

 甲高い金属音が、辺りに鳴り響く。

 びくりとして、フィリスは目を開けた。

 そこには、漆黒の大剣を受け止めるリオンの姿があった。

「リオン、来てしまったのですか?」

 勝手に沸き立つ嬉しさを押し殺し、フィリスは自分の責務を妨害したリオンに責めるような視線を向けた。

「一人で何でも背負い込もうとしないで、フィリス。僕は確かに頼りないけど、フィリスと契約した闘魔種だ。一緒に乗り越えていこうよ」

 爽やかな優しい笑みを、リオンは浮かべた。

 それを見た瞬間、フィリスの両の瞳の堰が決壊した。涙がぽろぽろと溢れ出した。

 ランヘルトと共に死のうと思っていたフィリスだったが、リオンから受けるどうしようもない温かみが、生きたいと思わせてくる。リオンと共に。

「リオンは、お馬鹿さんです」

 フィリスは、優しくリオンを叱った。

 リオンと狂戦士バーサーカーと化したランヘルトが出会ってしまった。フィリスの決意は、崩れ去っていく。リオンを、何としても生きて帰さなくてはならない。そして、フィリス自身も、リオンと共に歩んでいきたかった。

「グランター一人でどうにかなることではないのよ」

 ミスリル製の精妙な鎧を纏ったアーダが、長剣をランヘルトに向けている。その口調は、どことなく優しげで砕けたものだった。

 その横では、ジゼルとルナが長剣と盾を構えている。

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