不具合 #008

十月一日。


 どうやら観念したのか、九月の幾重にも渡る説得に応じた暑さがついにご勇退なさった様子の今日この頃。酷使され続けてきた扇風機が卒業の喜びに高々と学生帽を投げあげた感動も束の間、よく考えたら解体したとしても片付ける所が無いので結局部屋の隅に置きっぱなしにさせられているあの首の落ちようったら申し訳ないの一言だったのだが、今日は首を振ることも忘れてコンセントから供給されるエネルギーを風に変え、目の前にいる人物目掛けていつもより勢いよく唸りを上げているようにさえ見えた。扇風機よ、お前も男子だったのかい? だとしたらさもあろう、さもあろうぞ、鼻……前面カバー先には、黒髪ロングの高校生おぼしき女の子が暑そうにパタパタと胸元を指ではたつかせながら座り込んでいるのだ。この季節には見ているこちらが寒くなりそうなノースリーブの紫ワンピースに黒のレギンス――っていうのこれ、タイツでいいじゃんね――に、足だけを覆うような金のレース靴下みたいなのを履いている。首には粒の大きなネックレイスが緑系のインナーの上にぺたんと、ぺたんと平坦で何の凹凸もない胸元を飾っている。腰ほどまであるストレートの黒髪は、眉が隠れるギリギリの所でパッツンに揃っている。かといって田舎っぺな印象はまるでなく、嫌味など全く感じられず気取った様子も無い、着たい物を身に付けたい物を纏ったら押し並べて似合った、ただそれだけ、を体現したような、一言で言えば心地よいオシャレさん、だ。

 しかもなかなかのべっぴんさんで御座いましてね、えぇ。

 「見てんじゃないわよ、目潰すわよ、ハゲ」

 これがなかったらね、えぇ。


 時間は数日前に遡る。長短期納品のお仕事をいただき、しかもそれは何やらビックなプロジェクトの一部分の一部分の一部分である、と、凄いんだか何だかよくわからない説明と共に、時間厳守を念に念を押されて電話が切れた。"11分59秒"。

 こちらで出来うる検証段階までは恐ろしく順調にすべての項目をクリアし、予定より半日以上も早く提出を済ませる事が出来たのが少し前の事。このまま完了になればなんて割のいい仕事だろう、十月のスタートダッシュも申し分ないなー、なーんて思いながらトイレに入って用を足し、鼻唄混じりに出てきてみれば、見知らぬ女の子が廊下と呼ぶには心苦しい床とワンルームの間で棒立ちになっていた、というスンポー。

 「ねぇ、あんたもバ……」

 ワタクシが口を開けたのはここまででありまして、この異常な日常を平然と受け止められた調子に乗ってある漫画のパロディっぽく語りかけ出したが最後、その後は押しては返らず押しては押してくる、怒涛とはまさにこういう事を言うんだね、マシンガントークなぞ沈黙に等しく思える程の言葉達が毒のしたたる舌の上を滑って覇気を纏い、対象者の息の根を確実に仕留めにかかってきたのであります。その後ろ姿の可愛らしさからガードを怠り、初撃を真正面から喰らってしまった自分に残されていたのは、言葉の毒爆撃全弾被弾という結果でありながらも、その見た目の可愛さとのギャップ萌えという、かねてより己のうちに燻っていた新たな領域へ続く扉が堕天使達の吹くラッパの音色と共にゆっくりと開くようなイメージだった。

 「もーなんなのよここ! どこなのよここ! ふざけないでよまたアイツの悪戯なの!?」

 「狭いし汚いしカビ臭いしもーーーー最悪! 水回りが汚いのが何よりも許せない、なんなのこの部屋、部室の方が百万倍マシよ!」

 「あーーーやだやだやだやだキモいキモいキモいキモいキモい無理無理絶対無理明らかに誰かの部屋よねあり得ないわ臭すぎる」

 ぶるんぶるんと振った首が止まった先で、こちらとばっちり目が合い、

 「って、はぁ!?!!??? 誰よあんた!」

 「お、お前こそ誰だよ!」

 「寄らないで! 警察呼ぶわよ! 変態! 下衆!! 犯罪者!!!」

 ――ぷつん――

 「っけんじゃねぇ!!!!!!!」

 「なによ! ……て、ちょ、ちょっと!? 何泣いてんのよ!」

 「泣いてねーよ! ばーか! ばーかばーかばーか!!」

 「うわ、ガキくさ! きっしょ!」

 「うっせー、あほーあほあほー、ぺちゃぱいー」

 「#$&*##$%@!!!」

 マンドラゴラの断末魔って、こんな感じなんだろうか。

 

 「……あー、もー、わるかったわよ」

 「全然悪いと思ってねーだろ!」

 「ちゃんと謝ってんじゃない」

 「どぉおこぉおがぁぁあ!?」

 「はいはいはいすみませんでしたーワタシがわるーございましたー、はい、もういいでしょ」

 「よかねーよ! なんなんだよ! こっちの身にもなってみろ! 家に勝手に現れた何処の誰かもわからん奴に罵詈雑言の限りを尽くされた挙句犯罪者扱いだぞ!」

 暫く仕事にありつけず生活の心配をし始めた頃にやっとの思いでお請けさせていただいた仕事が嘔気させていただきたくなる不具合バグの化身であろう彼女を目の前にしてへばりつく焦りに胃が痛くなろうって時にこの仕打ちだ。これが正当防衛なのか人権擁護なのか八つ当たりなのか自身でも判別が付かない程に怒りに満ちてしまっていたようで。

 「お前な! まずその物の言い方に気をつけろ! 知り合いはおろか見ず知らずの人間にまでそんな口叩いてまわって来たってんなら今までの強運と受け入れてくれていた友人に感謝しろ! 場合によっちゃ最悪本気で生きて帰れねぇ事態にだってなりかねねえぞ! 言葉ってのはお前が思っている程軽くねえんだよ、言って良い事と悪い事の区別がどうこうをもう一度言いたいんじゃねえぞ、そんな歳でもねえだろ、お前の適当な一言が誰かの人生狂わす事だってあるんだ、その誰かが自分自身にもなり得るんだ、折角可愛い容姿してんだ、今までまかり通ってきたからって調子こいて言葉を自分を軽んじるような事してんじゃねえ! 思った事は一度頭ん中で吟味しろ推敲しろ咀嚼しろ反芻しろ! 何よりも反省しろ馬鹿野郎!!!」

 あれだけ回っていた彼女の口が開いたまま固まった。なんか途中から変なこと口走んなって言おうとして変なこと口走ってしまった気もするけど、足りない酸素をかき集める方が急務だと両肩が上がり下がりしながら警告してくる。

 「……なに、黙って、んだよ……」

 「……い」

 「へ?」

 「ぺちゃぱい」

 「え、あ、あれはだな」

 「コンプレックスだったのに……酷い……馬鹿にされた……」

 うつむいたままゆっくりと膝から、とん、と崩れ、ぱらりと黒髪が流れ落ちてきた。黒い滝の切れ間から覗く華奢な肩が小刻みに震えている。

 「いや、あの、あのな、売り言葉に買い言葉というものが昔からあって、だな」

 「傷ついた……生きるの、もうやだ……」

 「ご、ごごごめん、ごめんな、本っ当にごめん! そこは全面的に俺が悪い! 謝る!!」

 「うん、じゃ、おあいこって事で」

 けろっ、て表現、一体どこの誰が考えたんだろう。くるりと掌を返す雰囲気にしては少々コミカルすぎやしないかと常々思っていたんだけど、今ならわかる、天才の所業だわ。この軽さ、音の腹立たしさ、悪びれなさ、これまでの全てを一瞬で忘れ去ってしまった様子を的確に表したような吃音からの舌巻き音。文句なしだ、感服、そして

 「あほーーー!!!」

 彼女は足を伸ばして座り直し、真っ直ぐな黒髪をさっと耳にかけると両手を後ろについて天井を見上げてふーっと息をつき、そのまま目線だけをこちらに向けて少しだけ笑った。


 カタカタカタ

 たまむらまゆこ

 「どんな字?」

 「くち、に、ともえ」

 タンタンタン、ッターン

 玉邑 繭子

 「変わった字だなー、初めて見たかも。市町村の"むら"じゃないのな」

 「よく言われる」

 パソコンのテキストエディタで彼女の名前を変換しながら、でこをぺちぺちと叩いた。あ、髪はデコ全開なほど短くなく、かといってハゲているわけではありません、今の所は。寧ろあんまり切りに行かないから伸び放題な事が多く、邪魔になってくると百均で買った髪ゴムでちょこんと縛っちゃうわけです。一人暮らしだし、別に見た目を気にするような必要もないわけで。たまにそのまま買い物に出ちゃったりして、風呂入って気付いてギャーなんて事は何度かあります。

 「んじゃあ、繭子と呼べばよろしいか」

 「きも」

 「お前なぁ」

 「はぁ……はいはい。いいわよそれで、好きにしたら」

 「へいへい。じゃあ、繭子、あのさ」

 「やっぱきも」

 「しばくぞオラァ!」

 握り拳を作りながら椅子から降り、台を挟んで繭子と反対側にどっかと座った。

 「変態! 寄るな!」

 「はぁ……もう……"変態"も十分レッドな資質持ってんだからな? さっきは"犯罪者"ってワードにムカッときちまった申し訳ない事になったけど」

 「え、なになに、なんでそんなにムキになったの? もしかして前科持ち? なにやったの? あ、痴漢?」

 なんだその飛びつきようは、というか実際飛びついてきた。寄るなっつったのお前だろうが! と言ってやりたかったんだが、目の前にはこの片腕を両手で掴んでずずいと鼻先まで詰め寄ってくる女子高校生、口は悪いが、均整のとれた顔立ちと、あとね、うん、これは、シャンプー? リンス? とにもかくにも、

 「いい匂いなんだ」

 「っ……! このド変態!!!」

 繭子はものすごい速さで部屋の隅まで飛ぶように逃げていった。実際ちょっとだけ飛んでいたかもしれない。そのくらい早かった。今は手首から先が見えないレベルで手のひらを振って空気除菌してらっしゃる。

 「また、声……出てたか」

 「ウソでしょ……もうホントやだ帰りたい帰る」

 そう言いながら立ち上がって玄関の方に歩いて行くが、暫くして眉を尖らせて帰ってきて、観念したように座り込むのだった。

 「靴なら適当に貸してやるから行きたきゃ行けよ、止めねえよ」

 「あんなの履くくらいなら死んだほうがマシ。あーもーやだやだ最悪帰りたい帰りたい帰りたい」

 「せめて、裸足のほうがマシ、くらいにしとけよそこは……」

 突然現れた時はヒステリックに近かったが、今は、ムキー、の方に近い。怒りのボルテージは限界を知らねど、当初むき出しにしていた恐怖心はもう無いみたいだ。毒舌の凄まじさはこの物怖じしない威勢の良さ、胆力の強さが根っこにあるんだろうな。いや、ちょっとだけ、ちょっとだけだけど、羨ましいなと思っちゃったりもしたんだよな。平身低頭、沈黙は金が魂にまで刻まれたような者なら、一度は歯に衣着せぬ物言いというのを憧れの対象として見た経験があったりはしないだろうか。ここでこれを言っては場の空気が悪くなる、この言い回しはきっと相手が不快になる。そんな"クッション"を設けすぎた頭の中は、物事がまっすぐ通過する事も出来ないくらいに圧迫され、真綿の海を懸命にかき分けていくうちに本題を見失い、言いたいことがわからなくなり、多数派の意見がよく見えてきてあまつさえ、なんて事がしばしばだ。果ては、周囲を気にしすぎる余り自分を見失っちゃ元も子もない、というのが心情だったりしてもう救えないのである。無論全て自分の事だ。はぁ。

 繭子は、どこにでもいる普通の高専生と言った。そういう時は大概特異な超能力の一つや二つ持っていたりするものだが残念ながら本当に何も無いそうで、しつこいと怒られた。放課後にサークル活動のために部室に向かったが、着いてみれば一番乗りだったのでサボって帰ろうかと思っている間に眠くなってきて、気がついたらここにいた、と。

 「信じてもらえないでしょうけど」

 「いや、信じるよ。信じるというか、慣れてる」

 「なにそれ」

 「話すとこっちの方が長くなるからなぁ……」

 信じてもらえなさそうな話を全く動じずに二言目には信じると言われ、逆に話し相手の方がより複雑な事情を抱えている顔をしている。そんな状況が繭子の興味となって目に伝わり爛々と輝いたが、その光もすぐに消えてしまった。

 「面白そうだけど、気にはならないわね。めんどくさそう」

 何センサーだよ。

 「んなら簡単に言うとだな、こうやって突然誰かがこの部屋に居るなんて事は、これまでに何度もあった」

 「何度も?」

 らんっ、と音がしたような気がした。小さなちゃぶ台越しに前のめって伸ばしてきた繭子の片手が肩肘をついたこちらの腕を掴んでくる。癖なのかな、これ、つくづく勘違いされやすいタイプだな。

 「その人達は皆、仕事や趣味で作ったプログラムの不具合バグの化身だったんだよ」

 「だったんだよ、って……ぷっ、あははははは!!」

 ぱしぱしとこちらの前腕を叩いて笑う繭子。うはー、黙ってるか笑ってるかしてれば可愛いな。手離してもらっていいかな、おぢさん色々やばいから。

 「あー、おっかしー。あるわけないじゃないそんな事、面白いからまだ許すけど、おちょくるのもいい加減にして」

 「じゃあ、今繭子が此処に居る事はどう説明すんだよ」

 「う……」

 パッと手を離したかと思ったら、曲げた人差し指の第二関節を下唇とアゴの間に添え、視線だけを真横にやりながら眉間にしわを寄せて、そうよね、と呟いた。

 「じゃあ、繭子は不具合バグではない、と」

 「見りゃわかるでしょ」

 類を見ないケースだった。これまでの経験上、繭子は十中八九、不具合バグだ。だがこれまでの不具合バグ達にはあった――かどうか解らなかった人達もいたけど――自覚が繭子には無い。

 「でもなぁ、たぶん、きっと、恐らく、繭子は不具合バグの発生によってここに来たんだと思う。たぶん」

 「曖昧なのキライなんだけど」

 「こっちも慣れてるとはいえ毎度混乱はするからな、察してくれ」

 「わかってるわよ。今が異常なことくらい」

 お察しスキルは高いようだ。口に反して、所作というか無意識レベルでやってしまう習慣というか、そういう素の部分はとてもいい子なんだよな。さっき玄関に行って戻ってきた時も、死んでも履くのは嫌だと言った靴達は無重力下に放り出されたような状態だったのに、踵を揃えて綺麗に並べ直されていた。シンクで必要以上に手を洗っていたのはそのためだったのかと後から思ったが、その水回りも布巾を使って周囲の水気がさっと掛け取られていた。気遣ってどうこうという話であれば、天邪鬼であろう繭子は"敢えてやらない"だろうな。だからそれが無意識レベルでやってしまう習慣だとひと目で解った。

 「じゃあ早いとこその不具合バグってのを直して、ワタシを家に返してよ、のろま」

 これがなかったらね、えぇ。つくづくだよ。


 冷蔵庫から適当に取って何か飲んで待っててくれ。そう伝えたが、繭子が用意したのは大きめのトートから取り出した紙パックの飲み物と一冊の本だった。このやりとりがイニシアチブの取り合いとでも思っていたのだろうか、パック片手にしてやったり顔だ。はいかわいい。だって喋ってないから。

 「んじゃ、やるわ。電話するかもしんないから、よろしくな」

 「ん」

 手をひらひら、というより、しっしっだなこれは。目線は開いた本の文字をなぞり始めていた。ちょうどいい、こっちも時間があまりなさそうだ。一連のやりとりでこれまでのスムーズ作業で得たアドバンテージが吹っ飛んで逆釣りがきてしまった程だ。

 まずはメールの確認、案の定【バグ報告】から始まるタイトルのメールがこれでもかと主張してきた。早速電話をかけて状況を伺う。接続の確立が上手くいっておらず、このままでは他の機能全ての動作検証が出来ない。守秘義務の関係で実機を送る事が出来ないし、例え送れても届く前に納期リミットが来てしまう。トライアルアンドエラーで行くしか無い、急いでくれ後は任せた。"7分22秒"。

 「やっべぇな」

 このクライアント様が提出期限を指定しない時は本気で切羽詰まっているフラグでもあった。しかし、今回は実機が手元に無いためこちらでの検証が出来ず、雲を掴むような作業をしている事は先方も重々承知の上なので強く言えないのだろう。いつもなら五分置きに震えだす携帯が安眠をキープし続けている。

 「繭子、ちょっと助けてくれ」

 「いや」

 一秒でも早く帰るためだ、頼む。

 「一秒でも早くこの胃の痛みから解放されたいがためだ、頼む」

 「……逆よ、多分」

 「あ」

 やれやれ、って、言葉に出して言う人いるんだね、しかも花の女子高校生が。繭子は心底嫌そうな顔で、腕組みをしながら仕事机の近くまで歩み寄ってきた。

 「で、何を手伝えばいいのよ。無駄な労力使わせたら蹴るわよ」

 椅子がゴッと横にずれる。

 「蹴ってる、もう蹴ってる……あー、えーとな」

 不具合バグの手がかりになるような情報を聞き出さないとな。

 「繭子のことをもっと知りたい」

 「はぁ!?」

 背中で巻き起こったストームが椅子を蹴りながら暴言を吐きまくってくる。

 「このっ、へんっ、たいっ!」

 「そうだ! うおっ、さっきサークルのために部室に行ってうんぬんって言ってた、おうっ!? よな! 何のサークル入ってんの?」

 「あーもうどこまで癪に障る事言うのよあんたは!!」

 「なんでだよ!」

 意味のわからなさに思わず振り返ると、顔から耳まで真っ赤にした繭子と目が合った。キッと睨まれたと思ったらすぐに俯いてしまって、椅子を蹴る速度が増してしまった。

 「もうっ、そのっ、くくった髪、見てるとっ、腹がっ、たって、しかた、ないっ、のっ、よっ!!」

 「ちょい、おい! 蹴らないで! 蹴らないで! 壊れる! 椅子っ、こわっ、れっ、るっ!?」

 前髪くくってたら何だってんだよ。わけわかんねーな。爆発力は凄まじいが持久力はあまり無いらしい。繭子はすぐにヘバッてしまい、肩で大きく息をしながら黙りこんでしまった。

 「なんでサークル名聞くのが癪に障るんだよ、そんな怪しげなとこなのか?」

 「……ネ」

 「ね?」

 「メガネ」

 「眼鏡……って、眼鏡のサークルなんてあんのか! え、ちょっと楽しそうじゃん。何すんの、最新技術追っかけたりとかフレーム集めたりとか?」

 そんな変化球が来るとは思わなかった。そして純粋に活動内容によっては面白そうだな、とか思ってしまったんだけど。

 「もういいでしょ、アタシは、メガネなんか大嫌いなのよ……あんたのメガネも割りたいくらい」

 そういや誰かが、今から皆さんに殺し合いをしていただきますって突然言われたら、まず眼鏡の奴見つけて眼鏡破壊するって言ってたな。視力を奪ってあとはじっくり、みたいな事を。あれ、なんでこんな時にこんな事思い出してんだろ。

 「じゃあ何で入ったんだよ」

 「それは……色々あって……」

 「へんなの」

 「うるさい」

 眼鏡、ねぇ……仕事の内容には箸にも棒にもかからんなぁ。ひー時間だけが過ぎていく。やっぱこんな超常現象に頼らず自力でなんとかしろって事なんだろうな。

 「これまで不具合バグとして現れた人達ってのは、発生している問題に何らかの関係というか、性格というか、多少なりとも似ている所があったんだよ、だから」

 「……先に言いなさいよ」

 「ごもっとも」

 「で、アタシがメガネサークルに入ってるって事で何か解ったの?」

 「いや、ハズレっぽい。もう少し調べてみるわ、すまん」

 繭子の返事は無かったが、幾許かしてカサカサとバッグを漁る音が聞こえてきたので、納得してくれたんだと解った。

 さあて、と。先方様が仰るには、接続、というか、認証の失敗が起こっている、と。実機が手元に無いのでログをとる――問題箇所を特定するために目印を付ける事、で通じるかな――事も出来ないから困り物だが、よほど設計者が賢いのか、仕様書を読む限りでは恐ろしい程に簡単に処理できるように作られている。そう難しい事では無い、はずなんだよなぁ。こういう時は過去の経験上、赤面必至なケアレスミスだったりするんだよな。プログラム全体もそこまで長いものではないんだ、一行ずつ見なおしてってみるか。

 バギャッ 

 まずは、導線の見直しだ。まずこれが動くだろ? そしたらこっちが待機になる。この値を送った時の返り値によってその後の動作を振り分ける仕組みに間違いはないかな……?

 ボギッ

 仮にこれが動作していたとして、の連続にはなってしまうが、仕様書から返り値の文言をコピーしてきているから間違っていないとしておこう。もし、無事成功したならばこのルートに進むはずだから、えーと

 ゴッ ガゴッ

 「何の音だろう!!!?」

 つっこまずにはいられなかったし、語尾も大きくズレた。いつの間にこの六畳ワンルームは整体業を始めたの? それとも解体業? 完全に色々折れた音してんだけど。なんかもう一周回って笑いがこみ上げてきた。

 「ん、あんたも食べる?」

 本を読みながら、なにやら妙な形をしたクッキーみたいなものを差し出してきた。

 「な、なにそれ」

 「堅パン」

 思わず手を伸ばして受け取ってしまった。

 「かたぱん、て、何」

 「乾パンの硬いやつ」

 女子高校生が乾パンて、戦後か! あれ、なんか前にもこんな事あった気がする、まぁいいか。てか、乾パンも結構硬いと思うけど……いや、しかし、手渡された堅パンというものは表面がつるっとしていて、黒ゴマが練りこまれた生地がこんがりきつね色。形も乾パンのあの歯で繋ぎ目をカリッと真っ二つに出来そうな長方形ではなく、なにやら鎖を真正面から見たような形をしている。

 「これ、何の形? 鎖?」

 「……メガネ」

 これはフラグですよね。

 「大好きじゃねえか!」

 「大嫌いよ!!」

 繭子の地元で名物の一つなんだってさ。眼鏡型の乾パンねぇ、面白いな。これ、そんな面白効果音出ちゃうくらい堅いの? そうは見えないけど……いただきます。んぐ。

 「ぐ、ぐぎぎぎ……」

 ギッ

 「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃっ!?」

 ボギッ

 「かっっっってええええ!!」

 なんだこれ! 硬いってもんじゃないぞ! 口の中にあるのは本当にこれだよな、自分の歯じゃないよな、そう思いながらコロコロと舌で転がしてみる。

 「お」

 程よい甘味が口の中にわーっと広がる。それだけじゃない、これはゴマの風味だ。鼻からも、勢い良く割った堅パンの方からも胡麻の匂いがふわりと漂ってくる。繭子は本に向けていた視線をこちらにやり、口元が少し緩んだ。

 「おおお! 美味いなこれ!」

 「でしょ」

 「こりゃいい糖分補給になりそうだ、サンキューな!」

 ガギッ、ゴリッ、ボグッ、ぼりぼりぼり、もぐもぐもぐ。

 口の中で臨時開業した整体業の方に本腰が入ってしまう程に美味な堅パンとやらをたいらげた頃には、すうっと溶け入るようにプログラムの波に沈んでいった。


 何度同じことを繰り返したら気が済むのか。

 今日の教訓はこの一言に尽きる。いや、今日の教訓"も"だな。

 プログラムで扱う"値"と呼ばれる、まぁ、情報の識別記号だな、これには、英数字などを使って自分で好きな名前を付ける事ができる。aiueo でも katapan でもなんでもいい。複数人の人間が一つのものを作ったりする、通称大規模開発と言われる作業では、この命名の仕方にまで厳密なルールを敷いたりもする。しっかりとした基盤あっての高効率・高安全な作業だ。しかし、自分のようなスタンドアロンな現場では、その辺の厳密さには欠け、その時の気分や体調に応じて出てきたインスピレーションに任せる事が多い。自分がわかりゃそれでいい。これが孤独なプログラマのやっかみ兼悟りの一存である。

 その日の自分は"接続認証"と聞いて、新たな扉が開くような燃え上がる情熱を連想したのだろう。その状態を記憶しておく値に "heat" と名づけていた。うわダサ。これもう綴りたくないんだけど辞めていいですか。繭子がこれを知ったらば、こんな悪態をつく絶好の機会は無いとばかりに毒針を乱射してきただろうな。……とにかく、そういう名前にしておいたんだ。それが有ろう事か、って自爆以外のなにものでもないんだけど、所々で "hate" になっていたんですね、いやー、天狗の仕業ですよね、これね、怖いですね、実際あるんですねこういう事って。

 「入れなきゃ良かったなぁ……」

 英語が極端に苦手な自分は、最近目にした"英語スペル自動補完ツール"というものを導入していた。簡単に書くと、"nait" とか書いた時に "night" じゃないんですか? と、正しいスペルを教えてくれる超便利そうなツールだ。そいつが親切すぎるあまり、試しに "heat" と書いてみると "hate" じゃないんですか? と、聞いてきたのだ。そのイエス・ノーを伝えるキーボード操作が用意されているが、そんな機能を気にも止めていなかった自分は一心不乱にプログラムを打っていたため、ところどころで候補の方を選んで変換されてしまっていたのでは、っていうね。こいつが天狗の正体、かもしれないし、単純に自分が寝ぼけ頭で起こしたミスかもしれない。

 「これはこれ、それはそれ、ミスはミス」

 深い溜息を一つ付き、送信ボタンを押したメールが飛んでいったのを確認しながら、携帯の履歴にリダイヤルをした。


 電話を繋ぎっぱなしにして待機していて欲しいと言われ、はいわかりましたと言ったものの、こちらは片時も受話器を耳から離すわけにはいかないじゃないか! と、ある種の心理マジックにかかったように携帯が耳から離れなくなったまま、その先から聞こえてくるざわつきや怒号をビクビクしながら聞いていた。暫くしてゴゾゴゾっと機器を持ち上げる音が聞こえ、無事繋がったので切ります、ガチャ。"21分46秒"。

 「どんだけ切羽詰まってんだ……」

 こちらは、初期の約束日時にはなんとか間に合ったので、自分が原因でそうなっているのでは無さそうだ……無いといいんだけど、怖くなってきた。違ってもいいや、後日謝りの電話を入れておこう。

 ああ、そうそう。こちらも一応区切りをつけておかないとな。納品を終えた後、部屋の中に繭子の姿は当然あるはずもなく。元々が静かだったせいで、何か特別な思いを感じる事すら出来なかった。終わってみれば非常にライトな修正だったし、本人が自信を不具合バグだという自覚の無いレベルだったのも頷けるわけで。それに、彼女の事だ、深く会話をしたくもなかっただろうし、無論別れの言葉なんか必要なかっただろうし、あっさりすっぱりはっきりさっぱり、こういう幕切れが一番良いよな、って、

 「トレンディードラマの恋人かっての」

 自分で言った"トレンディードラマ"の単語が暫しツボに入る。ひとしきり笑ったら急激な眠気に襲われ、こりゃ布団まで持たないわと早々に諦めて机に突っ伏した。


 翌日。着信音で叩き起こされた先の声は、色々と面白い事を伝えてくれた。

 昨日はドタバタしていて申し訳なかった、とクライアント様が開口一番。こちらこそ不具合バグを抱えさせてしまってすみませんと謝るも、何を仰る大将、みたいなノリでものすごい激励が次々と飛んできた。なんでも、今の最先端をゆくスマートグラス(ARグラスとも言うらしい、よくわからん)とやらの開発の初陣だったそうで。一体何物かというと、字のごとく"眼鏡型のスマートフォン"みたいなものだそうだ。ほうらご覧、点と点が繋がって線になったね。わかるわけねえだろアホー!

 そして、しつこいまでに社外秘でお願いしますよと何度も何度も念を押してくるので、言いふらせる知人もおりません、と自虐ネタで応戦した。全然泣いてません。"10分59秒"。

 

 一息ついて、改めて六畳ワンルームを見渡した。まず目に飛び込んできたのは、ちゃぶ台の上に乗った小さな細長い包みだった。

 「お? おおお!」

 眼鏡型の堅パンが一つ、紙切れにくるまれて置かれていたのだ。

 「あげる」

 たった三文字の起き書き。整ってはいるものの斜めに釣り上がるような字体に繭子らしさを感じた。

 「あいつ、絶対眼鏡好きだよな……その熱がなにをどうしたらあんな嫌悪に変わっちゃったんだろうなー」

 ま、いっか。聞くことなんで出来ないし、聞いたって答えちゃくれないだろ。うーっし、これ食ったら買い物にでも行くかー! んで、こないだ見つけてブクマしといたウェブ4コマまんが読もーっと、んぐ、ぐぎぎぎぎぎ……

 ボギッ


 ――キッチンの水回りが磨かれたように綺麗になっていた事に気がつくのは、夜中に食べようとした袋麺焼きそばの開封に失敗して木っ端になった乾燥麺をぶちまけた時だった。


不具合 #008 修正完了

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