第9話

 青い蝶。あの人だ。

「パピヨン」

 直子はバスタオルをかぶったまま振り向いた。

「え?」

 白いスウェットシャツを着た女は、そのフランス語に反応して直子を見た。

「間違っていたらすみません。バスで、バスで会った方ですか? あの、二十円……お金を貸してくださった……」

 下半身が下着だけの女は、シャツの襟首から長い髪を引き出しながら、丸い眼をぱちぱちとさせている。

「すみません。間違っていたら、人違いだったら……」

 バスタオルを取り払った直子が自信なさげに言うと女は、「あ」と眼を見開いた。

「ああ、あなた。思い出したわ。あの時の女子高生ね。どこかで会ったような気がしていたの」

「あの時は、ありがとうございました。とても助かりました」

 直子は、バスタオルをくしゃくしゃ丸めながら頭をさげた。

「今、お金を持っていなくて……。あの、あの、返しに伺うつもりで……行ったんです。映画館の近くまで、行ったんです。だけど、その、見つけられなくて……お店が、どこにあるのか見つけられなくて……」

「いいのよ」

 頭をさげたままの直子に、女は静かに言った。

「ごめんなさい。すぐに取りに帰ってきます」

「いいのよ、あのくらい」

「家、近いんです……だから……その……」

「本当に、いいのよ」

「少し待っていてください……すぐに……」

「ごめんね」

「え?」

 溜め息交じりの声に、直子はようやく眼を上げた。女は感情の無い顔に、くちもとだけ笑みを浮かべている。

「あなたのような女の子が来る店じゃないの。来ても、きっと追い返したと思う。だから、ごめんね。いいじゃない、あのくらいのこと。あげるわ、二十円なんて、お小遣いにもならない額で悪いけど」

「……すみません」

 うつむいた直子は、小さな声で言った。

「それに、辞めちゃったのよ、あの店」

 女はロッカーからジーンズを取り出しながら、ひそめていた声を朗らかに替えた。

「……そ、そうなんですか」

「うん、だから、もう、この町ともお別れね」

 百貨店の紙袋に下着を包んだバスタオルをしまった女は、そう言って風呂屋の出口に向かった。下駄箱に残った白いバスケットシューズをぽんっと足下に投げると、しゃがんで靴紐を結ぶ。

「あなた、いいお嬢さんね。この町のいい思い出になったわ。もう、会うこともないと思うけど。お元気でね、さようなら」

 子供のような素顔で直子を見る女は、また、三日月の眼で笑っていた。シンプルな服装で、すっと立ち上がった姿が、とても凛として見えた。

 そうして、わたしは、あの日から、直子の中に棲みついたのだった。


 直子は高校卒業と同時に町を出た。

「すごいな、これ、シールじゃないの?」

 美術大学で知り合った誠は、直子のふとももに指を這わせた。

「本物」

「本当? 何で? 直子みたいな女の子がさ……意外だよな」

「気分……かなあ」

 ほんのり湿った毛布を胸まで引き上げながら、直子はかすれた声で言った。毛布から男の臭いが漂い、一瞬、眉を寄せる。

「気分って……気分で入れるもの?」

 直子の肌に咲いたわたしを誠は毛布の下から撫でる。

「うん……そう」

「ウッソだ。ヤバイ家系じゃないんでしょう?」

「普通のサラリーマンだけど……うちの田舎って、気の荒い人が多いの。やくざでもない近所のおじさんの背中に、観音様だとか昇り龍だとか……子供の頃、父親と銭湯に行くとよく見たよ」

 誠に背を向けた直子は、胸の前でぎゅっと毛布を握りしめた。流し台の下で赤く汚れたシーツが放られているのが目に入る。

「嫌いなら、べつに……いい……」

 洗濯しなくちゃ、と思いながらも、長い間胸の中でごろごろと転がっていた岩が、粉々に砕けたことに安堵していた。

「嫌いじゃあないよ」

 毛布ごと背中から抱きしめた誠は、直子のうなじに額をすり寄せた。

「俺も入れようかな。何が似合うと思う?」

「バカじゃないの?」

「何でよ。直子とお揃いがいいかな。ああ、そうだ、獅子なんてどう? 唐獅子牡丹っていうじゃん」

 直子の首筋にくちびるを這わせ軽い調子で言う。

「獅子……」

 窓から射し込む光が、ワンルームマンションの床に陽だまりをつくっている。ベッドから眺めると、窓際に置かれたゴミ袋の下に、綿埃がふわふわ浮いているのが見えた。

 洗濯のついでに掃除もしたいな。

「獅子って……百獣の王だけど、勝てないモノがひとつだけあるの……知ってる?」

 心は安らかだけれど、腰から下の関節がきしきしと音をたてているようだ。疲れた。まだ眠れそうだ。

 二度寝して目覚めたら、洗濯機を回して掃除機をかけて、買い物でもして……それから、どうしようかな。くるくると考えながら、直子は誠の手を包み込む。

「ひとつだけ? 何?」

「……お腹の中の虫」

「虫?」

 誠は直子の顔を覗き込むように、肩越しに頬を寄せた。

「お腹の虫を下すために牡丹の露を飲むんだって。だから獅子は、いつも牡丹の傍にいるの」

「ふうん、虫下しなの?」

「……そうだよ」

「強い者でも病気には勝てないってこと?」

「……違うよ」

 予想通りの答えに、くすりと笑ってしまった。直子は体をひねると、誠のみぞおちに指を置き、つつっとへそまで線をひいた。

「……ううん、あってるかも……お腹の虫っていうのはね、裏切者のことだよ」

 誠は少しの間をおいて、

「そっか…………じゃあ、俺、やっぱり獅子にする」

 直子の頭を引き寄せ、乾燥したくちびるを重ねた。そして、ひと声だけ付け加える。

「……な?」

 その念押しのひと言が、とても本気には聞こえなくて、ぷい、と顔を背けると、ベランダの先に花壇が見えた。白いラッパ型の水仙が、肩を寄せ合うように咲き誇り、そよそよとゆれている。まるで、女子高生の集団がおしゃべりでもしているようで、直子は、ふっ、とほほえんだ。 

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