恋人ごっこ



あっという間に、また日曜の朝がやって来た。


僕は少しソワソワしながら、いつものように電車に揺られ、競馬場に向かった。


今日はねえさんに会えるかな。


おじさんの具合も気に掛かる。


こんなに暑いのに、たいした馬券も買わない僕が、開催日でもない競馬場にせっせと足を運ぶなんて、ホントにおかしな話だ。


そう言えばこの間、“最近付き合いが悪いな”って、先輩から言われたっけ。


先輩は合コンに来いとか、女の子のいるお店に行こうとか、何かにつけて僕を誘ってくれるけど、そんなものは今の僕にとって、なんの価値もない。


僕が心から会いたいと思う女性は、ねえさんだけだから。


しばらくねえさんに会っていない。


会いたい。


本当は日曜日だけじゃなく、毎日だって会いたいと思う。


競馬場でだけじゃなく、次に会う約束ができる関係になりたい。




それにしても暑い。


仁川の駅から競馬場に向かう途中の自販機で、ペットボトル入りのコーヒーとスポーツドリンクを買った。


一度競馬場に入ると、わざわざ飲み物を買いに建物の中に入るのが煩わしいので、先に用意しておく事をいつの間にか覚えた。


買った飲み物をバッグに入れて、競馬場を目指してまた歩き出した。



競馬場に着いた僕は、いつものように真っ先にパドックに向かった。


目を皿のようにして、ねえさんの姿を探す。


いつもの事ながら女性客の姿は少ない。


数少ない女性客の隣に背の高い男性の姿を見掛けるたびにドキッとしてしまう。


そのカップルの向こうに視線を移した時、割とあっけなくねえさんの姿を見つけた。


……いた!!


僕は慌てて階段を駆け降りて、ねえさんのそばを目指した。


ねえさんはうつむき加減で、いつになくぼんやりしている。



そう言えばねえさんはいつも、レース前になるとパドックにいる。


開催日なら馬を見るためにいるのだろうけど、開催日でない日でも、必ずここにいるから不思議だ。



「おはようございます。」


僕が声を掛けると、ねえさんはゆっくりと顔を上げた。


「アンチャン…おはよう、久しぶりやな。」


「久しぶりですね。しばらく顔見なかったから心配してたんですよ。」


「そうか、ごめんな。ちょっといろいろ忙しくてな…。」


ねえさんの横顔に疲れが見える。


どうしてそんなに忙しかったのか、聞こうと思ったけどやめておいた。


なんとなく、聞ける雰囲気じゃなかった。


「ちょっと疲れてます?」


「ああ、うん。そうかも知れん。」


「コーヒーでも飲みますか?」


僕がバッグから取り出したコーヒーを差し出すと、ねえさんは僕の方を見て笑った。


「ありがとう。」


ねえさんはコーヒーを受け取り、ペットボトルのキャップを開けて一口飲んだ。


「優しいなあ、アンチャンは。」


優しいなあ、って…。


たいした事はしていないけど、ねえさんにそう言われるとなんだか素直に嬉しい。



できればもっと、優しくしたいんだけどな。




その日、結局おじさんは来なかった。


ただ暑いから部屋でのんびりしてるだけならいいんだけど、やっぱりまだ具合が悪いのかと気になってしまう。


「おっちゃん、今日は来んかったな。」


「そうですね…。」


おじさんの具合が良くない事を、ねえさんに話した方がいいだろうか?


「まあ、おっちゃんかって、たまには競馬より大事な用もあるやろ。」


だといいんだけど…。


「アンチャン、今日は勝ったなぁ。」


珍しく何度も予想が的中して、今日はかなり儲かった。


別に儲けるために来ているわけじゃないから、ここはねえさんに還元しよう。


「珍しく当たりました。晩御飯でも食べに行きますか?ご馳走しますよ。」


「ホンマに?何食べさしてもらおかな。」


ねえさんは楽しそうに笑う。


「お寿司でも食べますか?」


「お寿司より肉がええな。焼肉食べたい!」


「よし、じゃあ焼肉行きましょう!」



競馬場を出て、僕とねえさんは駅のそばの焼肉屋に足を運んだ。


その店は半個室になっていて、なんとなく二人きりになったようで緊張する。


「焼肉なんか久しぶりや。」


「僕もです。好きなもの頼んで下さいね。」


「太っ腹やなあ。」


何種類かの肉と野菜の盛り合わせ、それから生ビールを注文した。


ジョッキのビールで乾杯して、運ばれてきた肉や野菜を網の上に乗せた。


肉の焼ける匂いが食欲をそそる。


ねえさんは肉が焼けるのを眺めながらビールを飲んでいる。


朝は疲れているように見えたけど、今は随分表情が明るい。


気分がまぎれたのか、それとも少し無理をしてなんともないふうを装っているのか。


なんとなく、ねえさんのビールを飲むペースが少し早い気がした。


「ねえさん、飲むペース早くないですか?」


「アンチャンの奢りやから美味しいねん。」


「だったら急いで飲まなくても大丈夫です。ゆっくり飲んで下さいね。」


網の上の肉をひっくり返しながらそう言うと、ねえさんはジョッキを片手にニヤッと笑った。


「ホンマに優しいなあ、アンチャン。自分で気ぃ付かんうちに、女の子タラシ込んでるんちゃうかぁ?」


ねえさんのタチの悪い冗談に、僕は思わずビールを吹き出しそうになった。


そんな事ができるなら、僕は今頃、もう少しくらいはモテてるんじゃなかろうか?


「タラシ込むなんて人聞き悪いですね。僕にはそんな高度な技術ありません。」


そう、そんなのできるわけがない。


もしできるなら、僕はねえさんをタラシ込みたいんだけど。


…簡単にはいかないだろうな。


そんな事を思いながら、食べ頃に焼けた肉をねえさんの皿に入れてあげると、ねえさんはニコッと八重歯を覗かせて笑った。


「自覚してやってるやつは、ただのタラシや。アンチャンはそんなやつとちゃうって、わかってるよ。」


ねえさんは箸でつまんだ肉にタレをつけて、僕の方へ差し出した。


「アタシもたまには優しくしたらんとな。」


「え?」


ポカンとしている僕の方へ、ねえさんは身を乗り出して、うんと腕を伸ばしている。


「ちょっとだけ恋人ごっこでもしてみよか。ほらアンチャン、口開けて。」


「ええっ…。」


これって…いわゆる“あーんして”ってやつ?


夢?夢なのか?!


ねえさんの方からそんな事してくれるなんて!!


いや、もう夢でもなんでもいい!!


「早よ。腕疲れるやん。」


「は、はい…。」


おそるおそる口を開くと、ねえさんは僕の口に肉を入れてくれた。


「美味しい?」


「美味しいです…。」


ねえさんの食べさせてくれた肉が、まずいわけないよ!


「言うても、アンチャンの奢りやけどな!」


ねえさんはいたずらっぽく笑って、今度は自分の口に肉を運んだ。


あ、その箸…。


今、僕の口に付きましたけど…!


そんな事はまったく気にも留めない様子で、ねえさんは美味しそうに肉を食べている。


「ほらアンチャン、焦げる焦げる!」


「あっ、はい!」


僕は慌ててトングで肉をひっくり返した。


こんな些細な事にさえ動揺している僕は、やっぱり子供みたいだ。


それでも僕はねえさんに会うたびにドキドキして、ねえさんが僕に笑ってくれるだけで、たまらなく嬉しい。




お腹いっぱい焼肉を食べて、いつもよりゆっくりとビールを飲んだ。


ねえさんはジョッキの生ビールを何杯もおかわりして、かなり酔っている。


焼肉屋を出ると、ねえさんはおぼつかない足取りで、陽気に笑っていた。


一人で帰れるかな?


送ってあげられたらいいんだけど、僕はねえさんの住んでいる場所を知らない。


ねえさんはどこに向かおうとしているのか、フラフラしながら歩く。


今にも転んでしまいそうで危なっかしい。


見かねた僕は、ねえさんの体を支えた。


僕の背が低いから、ねえさんの綺麗に整った顔がすぐ目の前にある事に、ドキドキする。


「ねえさん、いくら僕の奢りだからって飲みすぎですよ。帰り、一人で大丈夫ですか?」


僕が尋ねると、ねえさんは更に顔を近付けた。


「もう一軒!もう一軒行こう、アンチャン!」


ち、近い…!


こんなに嬉しい状況、もうないかも知れない。


本当はまだ一緒にいたいけど、もう結構いい時間だ。


こんなに酔っているねえさんを連れ回すわけにもいかない。


「もう一軒じゃありません。こんなに酔ってるのに。帰りますよ。」


僕が少し語気を強めてそう言うと、ねえさんは立ち止まり、僕に抱きついた。


「ねっ、ねっ、ねえさん?!」


突然の事に驚き、僕は声を裏返らせた。


ねえさんは僕にしっかりとしがみついてくる。


「……まだ…。」


「…え?」


「まだ…帰りたくない…。」


ねえさんのか細い声が震えていた。


「一人でいたくない…。」


「ねえさん…。」


僕の肩口に顔をうずめて、ねえさんは迷子の子供のように僕にしがみつく。


いつになく頼りなげなねえさんの背中を、僕はおそるおそる抱きしめた。


「僕で良ければ、一緒にいます。」


「うん…。」


ねえさんは小さくうなずいた。


一緒にいるとは言ったものの、このままここでずっとこうしているわけにもいかない。


僕はこれまでにないくらい胸が高鳴るのを感じながら、ありったけの勇気を振り絞る。


「僕の部屋…来ますか?」


「…うん…。」


また小さくうなずいたねえさんの背中を、僕は優しくトントンと叩いた。


「行きましょう。タクシー拾います。」


いつかねえさんが競馬場でそうしてくれたように、僕はねえさんの手を引いて歩き出した。




仁川の駅前でタクシーに乗り、20分ほどで自宅に着いた。


部屋の明かりをつけて、エアコンのスイッチを入れた。


部屋に入ると、ねえさんはベッドにもたれて床に座った。


ねえさんはあれから一言も話さず、ただ黙ってうつむいている。


けっして広くはない一人暮らしの僕の部屋に、ねえさんがいる事が不思議で仕方ない。


お互いの歳も名前も住んでいる場所も知らないのが当たり前だったのに、ここ数週間で何かが変わり始めているような気がした。



「気分は悪くないですか?」


ぼんやりしているねえさんに、ミネラルウォーターを注いだグラスを差し出した。


ねえさんはうなずいて、それを受け取りゆっくりと飲んだ。


「僕のしかないけど…着替え、出しますね。」


引き出しの中からゆったりめの部屋着を出しながら、この状況が普通じゃない事をだんだん理解し始めて、酔いが覚めていく頭とは逆に、鼓動はどんどん速くなった。



まずいな、これ。



後先なんにも考えずに僕の部屋に連れてきちゃったけど、僕だって男だし、何が起こってもおかしくない状況だ。


酔って正しい判断ができなくなっているねえさんを前にして、僕の理性は保てるだろうか?


ホントにいろいろマズイ状況だ。


男なら美味しい状況だと思うのが当たり前かも知れないけれど、僕はねえさんが好きだからこそ、その場の雰囲気に流されて一線を越えるような事があってはいけないと思う。


とにかく理性が崩壊して、無理やり襲いかかるような事だけはしないようにしないと。



「今日は暑かったから、汗かいたでしょう。ねえさん、シャワー使って下さい。これ着替えです。」


目一杯平静を装って部屋着を手渡すと、ねえさんは小さく首を横に振った。


「アタシは後でええから。アンチャン先に使って。」


やっとねえさんがしゃべった。


少しホッとした。


「じゃあ…もししんどくなったら、横になってて下さいね。ベッド使っていいですから。」


「うん、ありがとう。」



シャワーを浴びながら、ありもしない事への期待に、うるさいくらいに胸が高鳴っていた。


頭では有り得ないと思っているのに、体は正直なようで、理性では抑えきれないみたいだ。


とにかく身体中が熱い。


身体中の血が沸き上がるように、熱い。


テンパって非常にマズイ事になっている。


このままではねえさんを襲いかねない。


もし万が一そんな状況になったとしても、まさかの事態だから、なんの準備もしていない。


それこそ非常にマズイだろう。


そうならないための予防策として、自力でなんとかクールダウンしておこう。


…情けないけど。


僕がシャワーを浴びながら煩悩まみれになっているなんて、ねえさんは思いもしないだろう。


歳だけはもう大人なのに、余裕の欠片もない、こんな自分が本当に恥ずかしい。




僕が浴室から出た後、ねえさんも続いてシャワーを済ませた。


ねえさんが僕の部屋着を着ている事に、またドキドキしてしまう。


なんでもない部屋着を着ているだけなのに、内側からにじみ出る色気がダダ漏れだ。


完全にこれは反則だろう。


色っぽすぎて、直視できない。


余計な事は考えずに、とっとと寝てしまおう。


ベッドの上の肌掛け布団を整え、枕に新しいバスタオルを巻いた。


「今日は暑かったし、疲れたでしょう。もう遅いし、そろそろ寝ましょうか。ねえさん、ベッド使って下さい。」


「アンチャンは?」


「僕は大丈夫です。その辺で寝ますから。」


クローゼットの中から、普段は使っていないタオルケットを引っ張り出した。


「アンチャン、明日仕事ちゃうの?」


「明日は先週の土曜出勤の代休取ってるんで休みです。ゆっくり寝てもらっていいですよ。」


床に転がっているクッションを枕がわりにしようと、手でたぐり寄せる。


「電気、消しますね。」



部屋の明かりを消して、ベッドから離れた場所で、固く冷たい床に寝転がった。


常夜灯のオレンジ色の灯りが、ベッドに横になるねえさんのシルエットをぼんやりと浮き上がらせる。


ねえさんの腰の辺りのくびれとか、華奢な肩のラインがあまりにも艶かしくて、僕はそれを見ないように背を向けて目を閉じた。



結局、ねえさんがどうして帰りたくないと言ったのか、どうして一人でいたくないのかは、聞かなかった。


これで良かったのかな。


こんな時、先輩みたいな大人の男ならどうするんだろう?


優しく抱きしめて話を聞いて、添い寝でもしてあげるんだろうか。


ねえさんの事も、こんな時、女の人がどうして欲しいのかも知らない僕は、こうする事が精一杯だ。


変な気を起こさないうちに寝てしまおうと思うのに、同じ部屋にねえさんがいると思うと、なんだか緊張して寝付けない。


寝返りを打とうとしたけれど、ねえさんの方を向くのがなんだか後ろめたくて、やめる。


ねえさん、もう寝たかな。


「アンチャン…まだ起きてる?」


ねえさんが遠慮がちに小さな声で尋ねた。


どうしようか。


返事、した方がいいのかな?


迷っていると、背後でねえさんがベッドから起き上がり、近付いてくる気配がした。


なんだろう…?


眠れないのかな?


ねえさんは僕のそばまで歩いて来ると、床に座り込んだ。


「もう…寝た…?」


また小さな声で尋ねたかと思うと、ねえさんは僕の背中にしがみつくようにして横になった。


僕の鼓動が急激に速くなる。


「……眠れないんですか?」


僕が尋ねると、ねえさんは僕の背中に額を押し当てて、うん、と返事をした。


「一人はイヤや。一緒に寝て欲しい。」


背中から、ねえさんの体温が伝わってくる。


「ここ、冷えますよ。それに固くて体が痛いでしょう。」


「…うん。」


僕は起き上がって、ねえさんを抱き起こした。


「じゃあ…ベッドに横になって。僕、そばにいますから。」


ねえさんは黙ってうなずいた。


固くて冷たい床に、ねえさんを寝かせるわけにはいかない。


もしかすると、そんな事は自分に対する言い訳かも知れない。


僕はただ、今にも消えてしまいそうなほど儚げなねえさんを、どこにも行かないように抱きしめたいと、そう思ったのだから。



ねえさんはベッドに横になると、僕の目をじっと見つめた。


「アンチャンも、ここに一緒に寝て。」


ためらったのは、ほんの少しだけだった。


僕はねえさんの隣で横になり、華奢なその背中に腕をまわして抱きしめた。


「こうしていても、いいですか。」


「うん…。」


ねえさんは僕の腕の中で、仔猫のようにおとなしくしている。


ねえさんの髪から、いつもとは違う、僕と同じシャンプーの匂いがした。


それだけの事で煽られる欲情を、僕は必死で理性で抑え込もうと固く目を閉じる。


「アンチャン、あったかいな。」


「あったかい?暑くないですか?」


「うん、あったかくて気持ちいい。」


今すぐこの手で、ねえさんのすべてを温められたらいいのに。


ねえさんの背中にまわした腕に、力がこもる。


「眠れそうですか?」


「どうやろ…。でもアタシよりアンチャンが寝られへんか?」


「えっ?!」


「めちゃめちゃドキドキ言うてる。」


「……仕方ないでしょう…。僕はこういう事に慣れてないんです。」


こんなふうに女の人を抱きしめるのも、一緒に寝るのも、慣れてないどころか初めてだよ!!


しかもそれが大好きなねえさんなんだから、ドキドキするなって言う方が無理な話だ。


「心臓の音、聞いとったらな…なんかようわからんけど、安心するねん。」


「それ、なんかで聞いた事ありますよ。母親のお腹にいる時に、胎内で聞いた母親の心音の記憶がどこかに残ってるとか。」


「うーん…なんやろな。似てるけど、そういうのとはまたちょっとちゃう気がする。」


ねえさんは目を閉じて、僕の左胸に耳を押し当てた。


そして少し笑って、顔を上げた。


「でもやっぱり…これは速すぎるな。」


ねえさんにドキドキしている事を、ねえさん本人に指摘されたのが恥ずかしくて、また鼓動が速くなった。


こんな僕は、大人の男には程遠い。


情けなくて奥歯をギュッと噛みしめる。


「…やっぱり僕じゃダメですね。ねえさんが一人で不安な時も、安心させてあげられない。」


僕はねえさんの体から腕をほどいた。


ねえさんは小さく笑って、僕の胸に顔をうずめた。


「そんな事ないよ。今日はアンチャンが一緒にいてくれるから、一人で泣かんで済む。」


「…泣いてたんですか?」


「ん?うん、なんでかなあ…アタシにも、ようわからんけど…。ここ最近、毎晩夢見てさ…目ぇ覚めたら、なんか悲しくて泣いてんねん。」


「悲しい夢なんですか?」


「どんな夢かは全然覚えてへん…。でもな、多分幸せな夢なんやと思う。夢見てる時は、あったかくてフワフワして気持ちいいねん。」


「幸せな夢なのに…なんで?」


「わからん。目ぇ覚めたらめちゃめちゃ悲しくて、ここら辺がギューッて痛いと言うか…。」


ねえさんは胸の辺りを押さえて、うつむいた。


「なんて言うたらええんやろう…。痛いと言うか…苦しいと言うか…穴が空きそうな感じで気持ち悪くて、なんぼ押さえても叩いても、治らへん。なんでかわからんのに、涙ばっかり出てくるんよ。」


その感覚は僕にも経験があるような気がする。


いつだっただろう?


「あのさ…勝手にしゃべるから返事もせんでええし、眠なったら寝てくれてええから、しょうもない独り言や思て聞き流してくれる?」


「え?あ…はい…。」


ねえさんは僕の腕を掴んで、自分の背中にまわした。


「あとな…もう少しだけでええから、こうしといて欲しい。」


「…はい…。」


僕はもう一度、ねえさんの体を抱きしめた。


強く抱きしめると壊れてしまいそうな華奢なその体を、壊さないように、優しく包むように抱きしめた。



「こないだ、オヤジが死んだ。」


「ええっ?!」


ねえさんの突然の言葉に僕は驚き、思わず大きな声を上げた。


「人間いつかは死ぬんやし、そない驚かんでも…。」


「いや…そこは普通に驚くでしょう…。」


「オヤジ言うても、血の繋がりのない赤の他人やねん。アタシが子供の頃にオカンが再婚した相手や。そのオカンも、アタシが中学上がる前に病気で死んだけどな。」


「兄弟は?」


「おらんよ。オカンが死んでから、オヤジと二人やった。」


家族との縁が薄いのか…。


ねえさんは淡々と話す。


「どうしようもないオヤジやってん。飲んだくれて仕事もせんと、博打で負けて借金ばっかり増やしてな、オカンの事、よう殴ってた。家にはしょっちゅうヤクザみたいな借金取りが来るしな、アタシは子供やったから、なんもできんといつも泣いてたわ。オカンは借金返すために寝る間も惜しんで必死で働いて、それでも足りんで、いっつも身内とか知り合いにイヤな顔されても頭下げて、借金取りに払う金借りて…そのうち病気で死んでしもた。」


ひどい話だ。


ドラマなんかではよくある話だけど、実際にそんな男と暮らしていくのは苦労が絶えなかったのだろうと思うと、胸が痛む。


「オカンが死んでから、生意気や言うてアタシもよう殴られたわ。中学に上がったら、体でも売って金稼げとかも言われたしな。そんなしょうもないオヤジやったから、早よ死んだらええのにとずっと思ってたけど、こないだやっと死んだ。」


ねえさんは小さく息をついて話を続ける。


「アタシは中学出てしばらくしてから、一緒には暮らしてなかったんやけど、オヤジは何年か前に酒飲みすぎて体壊してな、一人で生活でけんから、なんや知らんけど施設に入れられとったらしい。そこで息引き取ったって。」


「じゃあ…ねえさんは一人ぼっちになっちゃったんですか?」


「オカンの妹が遠くにいてるみたいやけどな。いつやったか忘れたけど、そこの家の事情で、アタシの事は引き取れん言うてたの聞いた事がある。まあ…オヤジの事はええねん。戸籍上は親子やし、死んだ後はなんやかんやで忙しかったから、しばらく競馬場にも行けんかった。」


誰かが亡くなった時、残された身内は何かとやらなければならない事が多い。


僕の母方の祖父が亡くなった時、両親や親戚のおじさんたちが、しばらく忙しそうにしていた事を覚えている。


それなりの歳の人生経験を積んだ大人が、何人がかりかで処理していた事を、ねえさんはきっと、たった一人で済ませたのだろう。


ねえさんが二週続けて競馬場に姿を見せなかった事や、随分疲れた様子だった理由が、やっとわかった。


もしかしたら、父親が亡くなってホッとした事で、自分でも覚えていないほど幼く幸せだった頃の夢を見て、虚無感みたいな物に悩まされているんだろうか。


「一人で大変だったでしょう。それで疲れてたんですね。」


「うーん…、確かにそれも少しあるけど、それだけちゃうねん。」


「他に何かあるんですか?」


「さっき言うたやん、夢の話。オヤジが死んでから、なんぼ疲れてても、夜寝たら夢見て夜中に目ぇ覚まして泣いて…。それでよく眠れんのよ。なんでやろ…目ぇ覚めた時に一人やと、余計につらい気がするねん。なんか大事なこと、忘れてるような気がする。」


どうすればねえさんを安心させてあげられるだろう。


僕の隣で安心してくれたら、ぐっすり眠らせてあげられるのに。


僕は子供を寝付かせる時のように、ねえさんの背中をトントンと優しく叩いた。


「僕で良ければ、ねえさんが安心してぐっすり眠れるように…もし目が覚めても一人で泣かなくて済むように…こうしてそばにいます。」


「アンチャン、やっぱり優しいなぁ…。」


ねえさんは僕の背中に腕をまわして、僕をギュッと抱きしめた。


やっと少しおさまっていたのに、突然ねえさんに抱きしめられて、また鼓動が速くなった。


「アンチャン、今のままでもじゅうぶんええ男やで。」


「…そんな事ない…。」


非力で無力な自分を隠すために優しいふりなんかしている僕は、ねえさんにそんなふうに言ってもらえるような男じゃない。


僕が本当にいい男なら、きっとねえさんをまるごと包み込んで、受け止められるはずだ。


ねえさんが背負ってきたものは、僕には想像もつかないほど、重くて悲しい。


ねえさんはたった一人で、華奢な体でその重さに耐えてきたんだ。


僕はそれを少しでも軽くしてあげられるだろうか?


ねえさんが望んでくれるなら、ずっとそばにいるのに。


「もっと自分に自信持てって言うたのに。」


「どうすれば自信持てるだろう…。自信持てるようなもの、僕はなんにも持ってない。」


「そのまんまでええよ。」


ねえさんは両手で僕の頬を包んで、僕の目をじっと見つめた。


「なぁ、アンチャン…恋人ごっこの続きでもしよか。」


「えっ…?」


一体何を言い出すんだ?!


恋人ごっこの続きって、なんだ?


心臓が壊れそうなくらい大きな音をたてて、身体中の血が沸き立つように熱くなる。


「そのつもりで連れて来たんとちゃうの?」


それはもしかして、好きとかそんな恋愛感情はないけれど、遊びでなら一度くらい体の関係を持ってもいいって、そう言ってる?


確かに、まったく考えなかったと言ったら嘘になるけれど、僕は遊びなんかでねえさんをどうにかしたいなんて、思っていないんだ。


「恋人ごっこなんて、しない…。」


ひどく掠れた声が、僕の口からこぼれた。


「…ん?」


ねえさんは僕の目を覗き込むようにして、少し首をかしげた。


「僕は、そんないい加減な気持ちで…ねえさんを…。」


不意に、唇に柔らかい物が触れた。


ねえさんが、唇で僕の唇を塞いで、僕の言葉を遮った。


ねえさんにキスされているのだと理解すると、僕の頭の中は真っ白になった。


「今だけ、遊びじゃなくて、本気になろ。」


ねえさんが小さく呟いた。


「今だけ…?」


「うん、今だけ…恋人になろ。」


そんなの、遊びと同じじゃないか。


今だけとか、遊びなんかじゃイヤだ。


「ねえさん、僕は…!」


「お願い、もう黙って。」


ねえさんはまた僕の唇を塞いだ。


ねえさんの唇の柔らかさとか、絡められた舌の温かさに、頭がボーッとしてしまう。



ねえさんが、欲しい。



遊びなんかじゃなくて、本気で、ねえさんのすべてが欲しい。



精一杯理性で抑えていたはずの本能が、堰を切ったように溢れだした。


僕はねえさんの頭を引き寄せて、貪るように唇を重ねた。



ねえさんが、好きだ。



安い建前とか理性なんかでは抑えきれない。


僕は全身でねえさんを求めた。


わけもわからなくなるくらい、ただがむしゃらに、ねえさんを抱きしめて、この手でねえさんの肌に触れ、柔らかい部分に舌を這わせた。


今だけなんて言わずに、ずっと僕の腕の中で、僕だけを感じていて欲しい。



ねえさんがいつも安心して笑っているれるように、強くなるから。





カーテンの隙間から射し込む日射しの眩しさに目を覚ました。


随分日が高くなっているのだろう。


僕はゆっくりと目を開く。


夕べ一緒に眠ったはずのねえさんの姿は、そこになかった。



「…ねえさん?」



起き上がり、部屋の中を見回した。


エアコンが冷たい風を吐き出す音と、冷蔵庫のモーター音が微かに響く以外は、何一つ物音がしない。



「ねえさん…いないの…?」



僕の貸した部屋着が、ベッドのそばにきちんとたたまれて置かれていた。


確かにねえさんはここにいたはずなのに、ベッドはもう、ねえさんの体温をすっかり失って冷たくなっている。



「なんで…?なんで何も言わずに出て行っちゃうんだよ…。」




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