第8話 『 』の話

 その日の授業はなかなか始まらなかった。中学校の教師達は、朝(十早とはや)のニュースの対応について、会議室で長々と議論を続けていた。ニュースについて詳しく話すのか、何も言及しないのか、生徒を家へ帰させるべきなのか、結論はなかなか出なかった。

 欠勤した教師が多かった。皮肉なことに、教職を選ぶ者に精神的に耐性が弱い人間が多いのかもしれない。それに加え、宗教に傾倒している者も多いのかもしれない。いや、宗教に傾倒したものが教師という職業を選ぶ傾向が強いのだろうか。

 日本の教職員の中での西救光教信者の比率は、他の職業に比べ非常に高かった。その信者の大半が欠席し、結果的に教師全体の出勤率を下げることとなった。

 例えば、この中学校では四割近くの教師が欠勤した。一方、生徒の方はというと、四分の一ぐらいの欠席率で、教師よりもむしろ低かったのだ。

 ところで、もう一つの救光教である東救光教信者が教職に就く比率は、他の職業に比べるとかなり低い。使えない言葉が多すぎることが大きな障壁だった。東の信者の教師がいない学校も少なくなかった。

 この学校には珍しく三人の信者がいたが、そのうち二人は欠席していた。そして、今回、その残り一人の東救光教信者が問題を起こした。数学教師の高原輝子だった。

 職員会議には、その少し痩せた白いスーツ姿の高原も参加していた。彼女は自分からは何も喋ることもなく大人しく座っていた。顔色が悪かった。元気がないのはあのニュースが原因だろうと、同僚達は当然のように思った。あまり話しかけない方が良さそうだと感じていた。

 それでもやはり、教師達は信者の考えが知りたかった。学年主任が彼女に意見を求めた。

「今回の件、高原さんはどう思いますか?」

 高原は自分の名が呼ばれた瞬間、ぴくりと体を震わせ、その後、小さい声で言った。

「わ、私からは……特に……意見は……ございません」

 彼女は恐怖に震えていた。まるで借金の取り立てに怯えるかのようだった。

 意見を求めた学年主任は、彼女の様子に、謝罪する必要などないのに

「そ、そうですか、みません」

と謝った。その言葉にも、彼女はぴくりと体を震わせたので、十早のニュースがよほどショックだったんだろうなと、教師達は皆思った。

 しかし、彼女がそのような精神状況に追い込まれた本当の原因は、ニュースではなかった。彼女は脅されていたのだ。高原は、会議中も時折携帯で誰かと連絡をとっていた。それと、彼女が体を震わせたのは『済みません』という言葉に反応したからだ。

 その後、高原は、気分が悪くなったと言って席を離れ、再び戻ってくることはなかった。

 しばらくして、教師達の議論はようやく収束を迎えた。女性の校長が立ち上がった。

「それでは、今までの議論の内容を整理します。まず、各クラスで担任が今回の対応について話した後、三時間目からは通常通り授業を行うことにします。教師が不足する教室は自習ということでお願いします」

 会議室のスクリーンの表示が消え、教師達がゆっくり立ち上がった。

「高原さん、戻ってきませんね」

「やはり、帰ったんじゃないでしょうか」

「東の信者には今回のことはかなり辛いことなんでしょうねぇ」

「信者じゃない私だって結構辛いですよ」

 教師達は彼女はてっきり帰宅したのだとばかり思っていた。


   ◆


 教師が不在の教室というのはいつの時代も騒がしい。綾子のクラスも例外ではなかった。綾子は静かに自習をしていたが、他の生徒達は、今日のニュースの話題で持ちきりだった。いつもはあまり話題にならない救光教の話で盛り上がった。

「貴様、西の信者じゃん。今日はよく来たな」

「親は行くなって止めたんだけど、俺は関係ないよ。あんな宗教うざいだけ。聴講会は多いし、時々、主争岡しゅそうおかの総本山に行ったり、めんどくさいことばかり。大体、何でダメなのか、さっぱり分からないよ。今日もお祈りをするとか言っちゃってさ。学校に来てたほうがまだましだよ。ツキで大騒ぎなんてバカみたい」

「ツキって言われても、ピンと来ないよねぇ」

「わー、みんな平気で言っちゃってるわね。じゃあ、私も言ってみようかなぁ……。ツキ! きゃぁ、言っちゃったあ!」

 刺激的な言葉も、敬虔な信者が皆欠席している今なら気楽に言える。気づけば教室は、誰もが、ツキツキと騒ぐ状況になっていた。

 そこに、突然、担任が入ってきた。教室は静かになった。

「こらー、貴様等やかましいぞ。少しは黙れな。それと、その言葉はいい加減やめとけよー」

 教室の後の方から、男子生徒が叫んだ。

「今言っとかないと、言うチャンスはもう二度と来ませーん。翌日には信者が来ますからー」

 一同爆笑となった。教師は苦笑いしながら頭を掻いた。そして、一人の生徒が言った。

「センセー、俺達、今日、もう帰っていいのぉ?」

「んー、教師の俺がこんなことを言うのも変なんだけど、ぶっちゃけ、学校としては生徒を帰す正当な理由がないそうだ。だから、色々と意見は出たけど、三時間目から授業を行うことになった。まー今回は特別に、帰りたいやつは帰ってもいいよ。誰かいるかな?」

 ぶっちゃけな若い教師は答えた。

 誰も返事をしなかった。帰りたい生徒は保護者を呼ぶなりしてとっくに帰っていたし、今日に限っては、学校にいたほうがむしろ楽しいと誰もが思っていた。


   ◆


 授業が終わり、昼休み。教師が教室を去り、整然と並んでいた机と椅子が、自由な向きに並べ替えられた。給食を食べながら、生徒達は再びツキの話で盛り上がった。

「そもそも、ツキってさー、どんなもんなのか誰か知ってる?」

 まずは、そんな言葉から始まった。

「その話はしちゃいけないって、ママが言ってたよ」

「信者にツキの話をちょっとでもすると大変だよね」

「信者が恐いから、ずっと内緒にしてたんだけどさー、こないだトモが教えてくれたよー。なんか、ツキは、昔、地球のまわりをグルグル回ってたんだって!」

 それを聞いた生徒達は一斉に驚きの声をあげた。

 一人の生徒が身を乗り出して、興奮気味に言った。

「えー、なに、それってひまわり二八号とかBVSAT9とかの衛星とは違うの?」

 衛星とは人工衛星のことである。この時代、地球を回る衛星は人工のものしかなかったし、他の惑星を回る衛星に興味を持つ者など、日本にはほとんどいなかった。なぜなら、日本の学校では天文に関してほとんど教えなくなっていたのだ。

「衛星よりずっとでっかいってさ。なんか、空にはっきり見えるくらいの大きさだったとか」

「えー、嘘でしょ。それってどのくらいの大きさなのさ?」

「トモの話じゃ、それは太陽を隠せるぐらいの大きさだったんじゃないかって」

「まさかぁー! そんな大きいものが地球を回るなんて、そんなのでき得ないよぉ! 落下ししてきて、地球と衝突しちゃうよぉ!」

「やっぱ、トモのホラだろ。それは」

「そうだよなー。いくらなんでも、もっと小さいよな」

 約三〇〇年前に失われた月の大きさを知る者など教室には誰一人いなかった。

「で、そのツキはどうして無くなっちゃったの?」

「オレもあんまり詳しく聞かなかったけど、トモもそれは知らないみたいだよ」

「それならさー、なんでツキの話をしちゃダメなんだろうね」

「なんか、大昔、ツキがなくなったせいで、いっぱい人が死んだことに関係するみたいだね」

「あ、それ知ってるー。僕、中国人が街頭で演説していた時にその話、聞いたー」

「中国人? それじゃあ当てにならない話だなぁ」

 この時代、日本人の多くは中国人を嫌っていたし、中国人も日本人を嫌っていた。

「でも、それはなんかホントみたいな感じだったよ。それと、その中国人は、日本はツキを含む言葉をいっぱい失ったって言ってた。それに抗議して演説してるんだって……」

「ツキを含む言葉? なんだそれ」

「やっぱり、中国人の言うことなんて嘘八百なんじゃないの?」

「まー、結局そいつ、報されて警察に逮されちゃったんだけどさ」

「ははは。やっぱそれなら、そいつの言ってることはでたらめなんだろ」

「でもさー、例えば、その通報の『通』とか、逮捕の『捕』って、東救光教の信者は使わないよね。失われたツキの言葉もそれと関係するんだ……ってその中国人は叫んでたよ」

「東救光教の人は、てっきり、通報とか逮捕とかという言葉が恐くて、使わないんだとばかり思ってたよ」

「おいおい。いくら何でもそれはないだろ」

 クラスメート達はどっと笑った。その時、教室の後ろの方から大きな声がした。

「貴様ら、何にも知らないんだなぁ」

 一人の少年が、顔をニヤニヤさせながら、前に出てきて教壇に立った。

 彼の名は平田翔。少々気取った髪型をキメて、一応不良少年を気取ってはいたが、少し肥満気味の日焼けしたその姿には、むしろ腕白小僧という言葉の方が似合っていた。但し、この時代、『白』という言葉は失われてしまっていたのだが……。

「例えば、報はこう書くだろ、それに逮ってのはこう書くだろ……」

 翔は『通報』と『逮捕』という二つの単語をボードの左右の両端に大きく縦書きした。その書き順はでたらめだ。学校の教室でもボードに漢字を手書きすることは珍しいことなのだ。

「で、ツキって字は、ほんとはな――こう書くんだよ」

 ニヤニヤしながら、今度は、ボード中央に大きく『』と書いた。

「――きゃぁーっ!」と女子生徒から悲鳴があがった。何人かは顔を真っ赤にしている。

 実はほとんどの生徒達は、その字がツキであることを知らなかったのだ。ただ、この形を書いてはならないことは、ほとんどの生徒が、誰かからこっそり教わっていた。所謂『便所の落書き』としても偶に見かける文字だった。しかしこの時代、日本が使用するデジタル文字セットに、この形は用意されていない。

 生徒の中には、その文字にはとても猥褻な意味を持つと勘違いしている子も結構いた。

「こ、これって、ツキって読むのか?」「知らなかった……」

「みんなそんなことも知らないのかよ。大人はみんな知ってるぞ」

 確かに、大人はみんな知っているのだ。

「逮捕の捕の字のここの部分がさ、月を含むんだよ。だから、東じゃ、これを書いたり読んだりするのがダメなんだよな」

 翔は『捕』の月という形を含む部分を赤色でなぞりながら説明した。

 続いて腕白小僧は『通』の月の部分を赤丸で囲んだ。

「そして、通はここの部分。どっちも真ん中に縦線が入ってる。実はな、昔はこの月という字がそのまま入っている漢字もいっぱい存在したんだけど、日本では全部無くなっちゃったんだよ。中国人の言ってたことは本当のことなんだ。中国では今もちゃんと残ってるんだぞ」

 翔の話を、クラスメート達は感心ながら聞いている。

「へえー、そうなんだ」

「貴様、そういうことだけはやたら詳しいな」

 それを聞いた翔は、突然綾子に顔を向けて言った。

「綾子だって、当然このこと知ってるだよな」

「え……え……う、うん」

 それまで、友達の会話や翔の解説を、黙って自習しながら、実は内心とても興味深く聞いていた綾子は、突然話を振られてびっくりした。

「綾子、本当にそうなの?」

 綾子の隣で顔を真っ赤にしている女生徒が訊ねた。

「うん、多分……」

 実は綾子はその話を誰かから直接聞いたことはなかった。

 月に詳しいトモとは小学校の頃からの友達だったので、月という天体に関しては、昔から、色々と聞かされてきた。しかし、月という字に関する話をしたことはなかった。

 でも、彼女が手に入れていた放送禁止語辞典などからそれは類推できた。

『済』『用』『備』『構』『通』そして『捕』、それらの文字がいけないとすれば、そこから導きだされる形は、『月』しかない。それは彼女にとっては、揺るぎない結論であった。

「じゃ、じゃあ、別にエッチな意味はないんだ」

「うん、全然無いと思うよ。昔はいっぱいツキを含む言葉が存在したそうだし」

 綾子はそう答えたが、『月』という言葉に、性的な意味が全くないかと言えばそういう訳でもない。でも、彼女のバイブルである放送禁止語辞典にも、生理や妊娠期間を示すのに使われた『ツキ』は載っていなかった。

 友人の問いに答えながら、綾子は翔の話から、言葉から失われた月のことを知るヒントが、中国に残されているのを知った。日本と国交のない中国に行きたいなと思った。

「おい、優等生の綾子が、ツキって言ったぞー」「なんか驚きだよな」

「何言ってるんだよ……。コイツ、実はツキの言葉の専門家なんだぜ。貴様がいつもこっそり読んでいる本って、ツキに関係した言葉とかがいっぱい書かれているんだよな。なっ!」

 翔に同意を求められて、綾子は当惑した。

「えっ……いや……それは……」

 綾子が言葉を濁している間に、側にいた別の少年が、綾子の机の中から本を抜き取った。

「これのことかぁ?」

 少年はその本を高く差し上げた。放送禁止語辞典だった。

「あっ、それは!」彼女には珍しく大きな声になった。

「おぉ、それそれ。その本は、ほかに、エッチな言葉とかも、色々書かれてるんだ。実は、オレ、ちょっと昔、こっそり、この本の中身を見たんだけど面白かったぜ」

 教壇の上のマセガキは、意地の悪い笑みを浮かべた。

「えー、綾子ってそんな本読んでるのかよ。意外だな」

「返して、返してよ!」

 綾子は血相を変え、必死に本を取り返そうとしたが、その少年は、本を翔に投げた。

「ほーら、翔!」

 翔は、投げられた本をキャッチしようとしたが、取り損ね、本は背を下にして床に落ちた。中のページがぱらぱらと広がった。

「ああっ!」

 と綾子が悲しい声をあげたその時、突然、扉が開き、四人の男が入ってきた。筒帽子に白装束姿。それは、よりによって東救光教の信者だった。

 教壇に立っていた翔は、あわててボードの文字を消した。デジタルパネルに書かれた字は、瞬時に跡形もなく消えた。幸いにも信者達はその文字には気づかなかった。

「――おい、貴様。今、何をしていた!」

 リーダー格の男が、よく通る声で訊いた。神神しさを感じさせる深い声だった。騒がしかった教室が一瞬に水を打ったように静まりかえった。

「な、何もしてないよ。絵を描いてたんだ。関係ないだろ。それより貴様等こそなんだよ!」

 翔は、声を震わせながらも、去勢を張って叫んだが、男はその質問には答えず、再び教室内に声を響かせた。

「七王トモはいるか?」

 生徒からの返事は無かった。四人は教室を隅々見廻った。魚のように大きく見開かれた濁った瞳が、次々と子供達を凍りつかせていった。

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