第2次選考 目を覚ますとそこにはお約束が。⑦

 ショッピングセンターは地上五階。地下二階という構造になっている。


 五階建てと聞くと、割と普通の大型スーパーマーケットとさほど変わらない印象があるが、地下を除く一つ一つのフロアが二階分の高さがあり、五階といってもビル十階建てに相当する高さがある。その分、売り場の総面積が少ないが、高さがあるぶん顧客に息苦しさを感じさせないような作りになっている。


 まず円筒状になっているエントランス部分があり、これが五階まで吹き抜けになっている。屋根はドーム状になっていて、どんな角度でも太陽の光を取り込む作りになっており、照明がなくても明るい。その周りをブティックや小物雑貨、国内外のブランド店が並んでいる。エントランスから駅の方へ向かって建物が伸びており、上空から見ると鍵のような形をしている。鍵のブレード部分に当たる建物には生鮮食品売り場や大型の本屋、映画館やアミューズメントパークなどが入っている。


 大都心にあるようなショッピング街に比べれば、小さなものだが、傘薙よみが住まう辺りでは、一番大きな商業施設と言えた。


 そのショッピングセンターに――今――幻想上でしかいないはずの生き物が浮かんでいた。


 正確には、傘薙よみの目の前。吹き抜けになっているエントランスに、翼を羽ばたかせ、中空で静止している。


 一言で説明するなら、それは「竜」であった。


 しかし昔読んだことのある竜という生物の印象からはあまりにかけ離れている。主人公の王子を助ける優しさもなければ、主人公の仇敵たる猛々しさもない。


 あるのは、ひたすらだっだ。


 まるで腐っているかのような朽ち落ちた十二枚の羽根。表皮は溶岩のようにゴツゴツし、気味の悪い紫色をしている。口はワニのように大きく、目は昆虫のように複眼をしており、常に見張られているような感じがする。かと思えば、小さく飛び出た足は体毛を帯び、金色に輝いていた。全体的には縦に細長い体躯をしており、百メートルはくだらない。


 人が恐怖する対象をすべて複合したかのような統一感がない姿。


 それは魔導に触れたことのない人間の心を、絶望に染め上げるには十分なインパクトを内包していた。


 よみは手からクレープが滑り落ちた事さえ気付かず、突如現れた竜から目を離すことが出来なかった。

 驚いていたのは、よみだけではない。悪魔と幾たびと刃を交えたフルカスでさえ、状況を眺めているだけだ。


「カルキュドリ……」


 小さな少女からもたらされた言葉に、よみは少しだけ反応した。

 有名な魔導書に出てくる竜の悪魔のことだ。

 あるファンタジー小説で名前が使われていたのを覚えている。


 空想の中でも恐ろしい怪物だった。だが、今目の前にあるカルキュドリは決して空想の産物ではなく、現実に現れた悪魔だ。


 フルカスはカルキュドリから、目の前に立ちはだかるショートカットの少女を睨んだ。


“君主の読物”をかざした少女は、一片の動揺も感じさせない表情で、ソロモンの悪魔と対峙している。


「どういうことですか、静原しずはら光里ひかり。こんな人の多い場所で、悪魔召喚などをして。正気ですか?」


 突然の竜の襲来に、驚いていたのはフルカスやよみだけではなかった。


 ショッピングセンターに来ていた買い物客は、どよめきの声を上げている。一部大きな声で悲鳴を上げる者もいたが、まだパニックという状態ではない。おそろく催し物か何かだと勘違いしているのだろう。

 緊急事態だということも知らず、悠長に携帯電話を使って竜を撮影する者も少なくなかった。


 静原は何も返さなかった。ただ手を振るった。


 同時にカルキュドリが動く。

 大木の幹のような尾をしならせると、近くの階上のフロアに叩きつけた。


 重い音がエントランス一杯に響く。土煙が舞った。


 一同声を失う。煙の中から現れたのは、エントランスに飛び出たバルコニー部分が完全に破壊された姿と、尾っぽの形に曲がった無惨な店の姿だった。


 幸い、人はいなかったようだが、一歩間違えれば、大惨事になっていたはずだ。


 そうしてやっと観衆は、自分たちの置かれている立場を理解した。

 あちこちで悲鳴が同時に上がると、蜘蛛の子を散らすように我先へと入口に殺到していく。ある者は駅の方へ逃げ、ある者は非常階段の表示の方へと走っていく。子供の泣き叫ぶ声と、罵倒と悲鳴が入り交じり、休日午後のショッピングセンターは阿鼻叫喚の地獄絵図へと変貌した。


 喧噪の中、一歩も動かない人間はたったの三名。


 フルカス、傘薙よみ、そして静原光里だけだった。


「傘薙殿。逃げてください」


 パニックを目撃して動転していたよみの心は、フルカスの言葉を聞いて立ち直った。

 竦んだ体を必死に動かし、駄々をこねる子供のように否定した。震える手を無理矢理動かし、ボードを見せた。


【逃げるなら、フーちゃんも】


 フルカスは一度ボードを読んでから、前に向き直った。


「私は逃げません」


 噛みしめるように断言する。


「どうか。お早く――。ご友人を守れなかったとなれば、主に顔向け出来ません」


 フルカスは力を絞る。ため込んだ魔力を一気に吐き出すように、爆発させた。

 瞬間、悪魔の少女の体に変化が起きる。楓のように小さかった手足がしなやかに伸びていき、体つきも大人の女性へと成長する。小さいながら、凛々しい表情はそのままに、紅玉の瞳を燃え上がらせた。


 甲冑と、愛剣を顕現させ、フルカスは召喚に応じた時と同じ姿へと戻った。


「もって五分か」


 一人小さく呟く。

 それは今の戦闘体型を維持して、戦える時間だった。


 それでもフルカスは笑った。


 逆境は、時に武人たる自分の心根を素直に高揚させる。

 悪魔の騎士はそう理解していた。


 よみを連れて逃げるという選択肢は、フルカスの思考の中にはあった。が、一抹の不安を拭いされない。静原光里の目的がまだよく見えていないからだ。


 これが三次選考だということはあり得ない。この場に主たる書鬼官がいないし、人の多い場所で、選考を行うほど出版社は愚かではない。選考を度外視した行動。というより、魔導から破門されても、おかしくはないほど、静原の行動は常軌を逸している。死という結末すらあり得る。

 命をかけることをいとわない大望たいもう――。

 そしてフルカスという悪魔の前に現れた意味。


 二者択一しかない。自分の命か、もしくは自分の力を欲するか。


 前者という選択肢も実はあり得ない。自分を打ち倒すのであれば、主が持つ“君主の読物マスターブック”を直接狙った方が百倍手間がかからないからだ。


 ならば、答えは一つ。フルカス自身の価値を狙ったもの。どういう方法かは検討も付かないが、おそらく“君主の読物”を無視し、フルカスをコントロールする術を持っている、と考えるべきだろう。


 フルカスは自分のことを未熟者だと思っていても、人間が自分を過大評価していることは否定しない。書鬼官として希有な能力の持ち主である秋月勇斗と比べても、72の悪魔最弱とはいえ、市場価値が自分の方にある事は理解している。その証拠に、主を狙った陽動などという選択肢は真っ先に外している。


 故にこうなることは予想はしていたし、警戒も怠らなかった。


 が、大衆の面前で襲撃してくることは、さすがに予測出来なかった。

 フルカスがよみを連れて逃げないのは、そうした思考ルーティンの中で出された結論だった。


 騎士が戦闘態勢に入ったと見るや、静原は動いた。

 後ろに下がり、三階の手すりのところまでやってくる。

 驚異的なバランス能力で細い手すりの上に立つと、躊躇わず飛び降りた。


 自滅――。という言葉が、一瞬フルカスによぎったが違う!


 カルキュドリが大きな体躯をくねらせると、飛び降りた書鬼官マスターをキャッチした。大きく突き出たこぶに手をかけると、寡黙な少女は手を振るった。カルキュドリのワニのような顔が突っ込んでくる。


 不味い!

 フルカスは一旦後退。呆然とするよみを抱えると、丸いフロアを逆時計回りに走り出す。


 構わずカルキュドリはつっこんだ。ずんと重い音とともに、ショッピングセンター全体が揺れる。

 すでにかなりの人数の人間が逃げたと思われるが、まだ逃げ遅れた客は多い。かといって、よみを抱えていては剣を交えることも不可能。まして相手は飛んでいるのだ。


 カルキュドリは一度身を引くと、広いエントランスで滞空した。複眼を動かし、常に敵の様子を確認する。


 まずは逃げることが先決か――。武人としては不本意だが、致し方ない。


 フルカスは駅の方へと続くフロアを見つけて、転進した。

 幸い人はいない。かつん、と甲冑を響かせ、騎士は疾走する。天井は高いが、売り場の左右の幅は狭い。カルキュドリの体躯では入ってこられない。


 何枚ものガラスが割れる音がした。

 フルカスは振り向く。大きな頭をフロアに突っ込ませると、カルキュドリはライオンような足を使って無理矢理入ってきた。


「な――――」


 百戦錬磨の悪魔も、これは驚いた。


 身をかがめ、羽根をたたみ、左右にひしめく店を蹴散らし、蛇行しながら向かってくる。


 速力を上げる。だが、カルキュドリのスピードも馬鹿には出来ない。徐々に追いついてきた。


 その時、突如フルカスにお姫様だっこされていたよみが、指を差した。

 指の先を見た瞬間、フルカスの胸中が絶望に染まる。

 店先で子供が泣いているのが見えた。


 ――どうする?


 フルカスは迷った。

 助けたところで、カルキュドリの餌食になるだけだ。ならいっそ――このままよみを抱えたまま逃げきった方が、二人とも助かる確率が高い。よみは主のご学友。守られねばならない命だ。


 優先すべきは――――。


 と考えた瞬間、ブレーキをかけた。


 急転して、子供の方へと駆け出す。カルキュドリとの間に入った。


 しかし、フルカスが出来た事と言えば、それだけだった。


 振り向くと、そこには大きな顎門があった。

 よみと子供を胸に抱き寄せると、少女は目をつむり、謝罪した。


 ――主よ! 申し訳ありません!


 無情にもその叫びは声にすらならなかった。

 何故なら、次の瞬間、別の声にかき消されたからだ。


「だめぇぇっぇぇぇえぇぇぇぇぇっぇぇっぇぇっぇぇぇぇえぇえぇぇ!」


 その声はまるで衝撃波のようにフロアに伝染した。

 単なる女性の甲高い悲鳴――と、いえた。


 が、その声は突撃してくるカルキュドリの動きを止めたどころか、怯ませた。大きく開けられた口は閉じられ、狼狽えるように身をよじらせ後退する。すると、悪魔の竜に載っていた静原が、体皮の上で糸が切れたかのように倒れた。


 さらに奇跡は起きる。カルキュドリが黄金色の星体光を放ちながら、消えてしまったのだ。

 突如、発せられた声に、フルカスも多少ダメージを受けていた。


 頭を鈍器で殴られたように痛く、目の前がチカチカする。身体的なダメージはないものの、全力疾走は難しい。ぼやけた視界の中で視線を落とした。


 二人とも気絶していた。


 よみの様子を改めた。特に外傷もなく、脈拍にも異常は見られない。やはり気絶しているだけだ。

 フルカスはよみを背中に背負い、子供を前で抱えて立ち上がる。


 振り返ると、フロアには静原光里が倒れていた。


 迷ったものの、捨て置くことにした。今は、一刻もこの場を離れ、よみと子供を安全な場所に運ばなければならない。奇襲に失敗したとなれば、早々追ってはこないだろう。


 騎士は駅の方へと歩き出した。

 その胸中を支配したのは、静原光里のことではなく、あの声を発したよみの事だった。



          ※      ※      ※




 静原光里しずはらひかりが目を覚ましたのは、フルカスが退いて三分後の事だった。


 スカートのポケットの中に入っている携帯電話がけたたましい音を立て、何度もコールを鳴らす。自分の悪魔がめちゃくちゃにしたフロアは静寂の中にあり、着信音は外まで漏れ聞こえているのではないかと思うほど、よく響いた。


 ひどい頭痛のような症状に襲われながら、まだ感覚が麻痺している体をゆっくりと動かす。ポケットの中からそっと電話を取り出し、折り畳み式の携帯を解放した。


「はい」


 自分でもひどいな、と思うほど声が上擦っていた。


『ちょっとぉー。光里ちゃん、なんで襲撃やめちゃったのぉー。あり得ないですけどぉ』


 少し勘のいい人間なら、静原の声が普通ではないとわかる。しかし電話向こうの少女は全く気を遣う様子なく、話しかけてきた。


「こ、声が聞こえて……。気を失った。あ……悪魔との接続も…………」

『ええ? ちょっとなにそれぇ。信じらんな~い』


 電話向こうの相手の声を、聞くたびに鈍痛が襲う。少女の声が高いのもあるが、おそらくそれだけではないだろう。


「本当だ。…………き、奇襲は、し…………失敗――――した」

『あ、そ――。じゃあ、とりあえず、再スタートと行こうかぁ』


 静原の目がかっと見開かれた。


「待て……。奇襲に失敗した。……これ以上、一般人に悪魔を見られるのは――――」

『そんなの私に関係あるの?』


 ぞっとするような冷酷な声音だった。


『やらないって言うなら、光里ちゃんの大事な人を

「貴様――!」


 激昂すると、反対に逆なでするような悪魔めいた笑声が返ってきた。


『キャハハハハハハハ……。嘘だよ、嘘……。私たち、ズッ友でしょぉ。一緒のガラケー持ってるよしみじゃない。ズッ友の嘘も見抜けないなんて、光里ちゃん抜けてるぅ。あ、オヤジギャグ入っちゃった』


 また下品な笑いが、受話器から聞こえて来た。

 静原は出かかった罵倒を、必死に奥歯を噛んで堪え忍ぶ。その瞳には涙が浮かんでいた。


『さあ。早く行っちゃってよ。まだその辺にいるでしょ。光里ちゃん、強いんだから。早く行かないと、お姫様は永遠に眠ったままだよ。――あは、くっさ! 私、くっさ!』


 三たび笑い声が聞こえ、そのまま電話は切られた。

 通話を切った静原は、強く強く携帯を握りしめ、拳を振るわせた。すると、まるで動かなかったはずの体は、すんなりと彼女を立たせる。

 大きく腕を振り上げた。その手にはガラケーが収められている。


 腕を上げたままの状態で、しばらく固まった。全身をわななかせ、息を荒げる。胸中で渦を巻いた感情を、携帯電話に向かって吐き出そうとした。


「はあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあはあ」


 徐々に息は荒くなっていく。その度にボルテージが上がっていくような感覚があった。


 が――しかし――――。


 腕を収めた。

 携帯に貼られた小さなプリクラの写真。静原はそれを見ながら、二粒の涙を流す。

 写真の中の二人は、永遠に笑っていた。



          ※      ※      ※



 傘薙よみが目を開けると、そこには目が覚めるような美少女の顔があった。

 枝垂れに積もった雪のような白い髪。そっと手をかざしたくなるような暖かみのある瞳が、よみをのぞき込んでいた。


「気付かれましたが、傘薙殿」


 少女はよみの額にかかった前髪を一本一本より分けて、そっと額に手を置いた。


 冷たい手だったが、非常に気持ちがいい。


 よみは側にあったホワイトボートへと手を伸ばした。少女はよみの動きを先読みして取り上げると、ベンチに横たわる少女に渡した。


 まだ指先に力が入らず【私は?】というたった三文字を書くだけで、一分ほど要した。


「ここは駅前のベンチです」


 首だけ動かして周囲を見渡す。大勢の白衣を着た人がせわしなく動いている。救急車のサイレンや、たくさんの人の声――大声、泣き叫ぶ声、ざわざわする声――様々な声が混じり合い、ノイズにしか聞こえない。


 自分たちを取り囲むように人だかりができていて、その視線は周りで治療を受けている人や建物に向けられている。


「あなたはショッピングセンターであく――化け物の襲撃を受けた時に気を失ったんです。覚えておられないか?」


 よみは首を振ったが、心当たりはある。

 おそらく声を出したのだ。

 よみはまたペンを取った。


【ありがとう】

「礼を言うのは、こちらの方です。ありがとうございました」


 よみは努めて笑顔を浮かべながら、首を振った。

 そうしてホワイトボードに書き込む。徐々に力が戻ってきていた。長文ながら一分以内に書くことが出来た。


【お礼を言うなら、私の方だよ。あの時、無理とわかってたのに、フーちゃんはあの子を助けてくれた。ありがとう】

「いえ、当然のことしたまでです。……あの子は先ほど保護者の方に連れられていきました。傘薙殿によろしく、と」


 すると、失言をしたわけでもないのに、よみは途端にぷすっと頬を膨らませた。


 ボードに向かって、書き殴る。


【一つだけ、フーちゃんに言いたい事があるの】


 一度ボードを真っ新にした後、再び書き始めた。


【その傘薙殿っていうのは禁止!】


 でかでかと書かれていた。


「え。いや、その……。あ、あなたはある――あ、いえ。秋月殿のご友人で」

【ダメ! 絶対!】


 いや、その、と言いながら、フルカスはおろおろするばかりだ。ちなみにその体型は、小さな少女に戻っていて、傍目から見ると異常なまでに可愛かった。


「じゃ、じゃあ、どう呼べば……」

【よみって呼んで】

「そんな! 呼び捨てなんて滅相も――」

【ゆーちゃんにフーちゃんが私の名前をちゃんと呼んでくれないんですって、告げ口するね】

「いや、それは困ります」

【じゃあ、よみって言って】

「ですから、ご学友を……」

【よみ】


 またまた大きくホワイトボードに文字を描いた。

 さっきまで威風堂々としていたフルカスは、顔を真っ赤にしながら、肩を縮ませた。


 そして諦めたように息を吐いた。


「よ、よよ、よ、よみ――――殿」

【だめ! もう一度】


 ホワイトボードをひっくり返し、またあの大きな【よみ】という文字を見せた。

 じっと丸い目で見つめると、フルカスの顔はさらに赤くなり、ゆであがった蛸のように上気した。


「よみ――――」


 満足そうな顔を浮かべ、むふーと鼻から息を吐きだし、フルカスに抱きついた。


 よみよりも少し年下の少女の体躯は、ちゃんとすでに女性らしさを備えていた。髪の毛はさらさらで、以前体験学習で赴いた時にさわった馬のたてがみのようにふわふわしている。ずっとこうして触っていたかったが、よみはフルカスから体を離した。


 またペンを握り、ボードに文字を描く。


【フーちゃん。一つ聞くね】

「なんなりと」

【フーちゃんは悪魔なんだね】


 いきなり突きつけられた文字を見て、フルカスは押し黙った。

 沈黙を貫こうとした悪魔だったが、目の前の少女のの真剣な瞳を見て、観念した。


「見られていたのでは仕方ありません。……おっしゃる通りです。私は悪魔……。人間に忌避されるべき存在です。本来であれば、あなたの側にいるようなものではありません」


 よみは力強く首を振った。


【そう言うことを言いたいんじゃないの。私はフーちゃんが悪魔だって前から知ってたの。ゆーちゃんに召喚されたことも】

「そんな事まで――! まさかよみ……。あなたは――」


 よみの顔に影が差す。俯くと、静かにペンを走らせていく。


【ある人から聞いたの】

【私には】



【闇語り(ブラックテラー)の才能があるって】



 フルカスは言葉を失った。

 いや、カルキュドリの一件で予想はしていた。だが、主のすぐ側にいる人間。なんら関係ないと思われていた友人が、闇語りと聞いて、驚かずにはいられなかった。


「《主は》それを知っているのですか?」


 よみは顔を横に振った。そしてボードに【でも】と続ける。


【ゆーちゃんにはまだ言わないでほしい。多分、傷つくと思うから】

「何故?」

【ゆーちゃんにラノベ作家になるっていう夢があるように、私にも夢があるの】


 ボードを返し、よみは裏面に書いた。


【私の夢は声優になること。そしてゆーちゃんの作品がアニメ化したら、私がヒロインを演じる。それが私の夢】


 けど、とよみは続ける。


【無理なんだ。この特殊な声は――。ハルピュイア病って、フーちゃん知ってる?】

「詳しくは知りませんが、呪創スカーの一種ですね」


 よみは頷く。


【私が診てもらっている魔術師の先生も同じ事を言ってた。遺伝子レベルで内包された呪創だから、取り除くのは難しいって。だから、声優になれないんだ、私】


 でも、と逆接を続けた。


【ゆーちゃんはこのことを知らない。だから、私が声優を今でも目指しているって思ってる。もし私が声優になれないって知ったら、多分ゆーちゃんは傷つく】

「よみ」


 フルカスはいきなり声を大にして呼び捨てた。


「主はそんな器の小さい人ではありません」


 出会って日も浅い悪魔は断言した。


「それよりも、あなたがそんな嘘をついていた事に心を痛める方です。ずっと嘘をつき続けて苦しんでいたあなたを気遣う方です。……私の言っている事は、的外れでしょうか?」


 改めて問われ、よみは頭を振った。


 目頭が熱い。視界がぼやけるのがわかる。

 幼い頃から、ずっと秋月勇斗を見てきた。幼馴染みの心理は手に取るようにわかる。だから、病気が治らないことを伏せて、今日まで側にいた。


 でも、わかっていなかった。わかっていたと思っていたのに。

 それがフルカスという悪魔に言い当てられ、よみは率直に言って悔しかった。

 何よりもそれに気付かなかった己自身の姿に、悔しさを滲ませた。


「落ち着いたら、主に話していただけませんか。最初は怒られるかもしれませんけど、きっとあの方は受け入れてくれるでしょう。何故なら――――」

【ゆーちゃんは、優しいから】


 ボードを見せる。

 フルカスは微笑を浮かべ「ですね」と同意した。


【フーちゃんは凄いね。私よりずっとゆーちゃんのことをわかっている。私、ずっとゆーちゃんを見てきたのに】

「ずっと側にいたからこそ、見えない事もありますよ」


 フルカスは朱が差し始めた空を見ながら、呟いた。どこか真に迫った言葉だった。

 よみもぼんやりと空を眺める。鱗雲が西から東へと流れていく。ありふれた夕時の光景。だが側にいる悪魔の目には、どこか違う風景が映っているように見えた。

「ああ。そう言えば――」と言った時には、フルカスは元の凛々しい顔に戻っていた。

「よみに一つ私からお願いが」


 よみは大きく瞳をしばたたかせた。


「その私の呼び名ですが」と言いかけて瞬間、フルカスの表情はみるみる変わっていった。


 十代の少女から、騎士の顔に戻ると、すっくとベンチから立ち上がる。


「よみ殿はここで待っていてください。絶対にこの場から動かないように」


 振り返って、忠告する。

 よみは慌ててペンを走らせた。


【急にどうしたの?】

「申し訳ありません。お答えする事はできません。おそらくここに来られると思いますので、一緒に避難してください」


 避難、と聞いてよみは顔を強ばらせた。

 フルカスの表情に冗談という文字はない。

 逆に彼女自身も、信じたくはないという表情をしていて、それが余計によみには不安だった。


【私に何か出来ることはない?】

「お気遣いだけ受け取っておきます。では――」


 フルカスは群衆を押しのけ、飛び出していった。

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