#07 「私が魂のシンガー、メンヴィス・ソルトボーンでございます!」

「さあ今日はいよいよ待ちに待った課外授業です。」フードを被ったデリンジ先生は灰の降る校庭でにこりと笑った。「午前はしばらく山道を皆で歩きます。先頭は私、最後尾にナーディア先生が引率しています。お腹が痛いとか、何かもしも困った事があったら僕らにお声かけ下さい。」デリンジ先生はニコリと笑う。「街にレストランがあります。レストランの店主はアリュヌフの民です!とても美味しい料理を作ってくださるので、皆様楽しみにしてください。」

 皆が歓声を上げる。

「それと。」ナーディア先生が口を開くと皆は静かになる。「この学院はセリウミャの香りで充満してますね。しかし、ここを出るとそれがなくなる。そうなると悪魔の誘惑はより強くなります。なので、このセリウリャの香水を一人一瓶持ってください。もしも悪魔の誘惑に負けそうになった時に嗅ぎながら神を仰ぐとよいでしょう。外は危険。悪魔の誘惑をもし受けたら、私があなたがたに入っている悪魔をすぐに追い払いますからね。」

 僕とネイスンは皆と山道を歩く。すぐにランチャが僕の傍にやってくる。

「おはよう、サリアくん。」

「あ、おはよう、ランチャ。」

「外って怖いのかなあ。わたし不安。」ランチャは心にも思ってなさそうな事を言う。

「そんなこと無いと思うよ。同じ人間の住む所だし。」

「そうだよ。」ネイスンが割って入る。「きっと大丈夫!」

「ねえサリアくん。」ランチャはネイスンを無視する。「サリアくんって将来アリ ュヌフの神の為に何をしたいの?」

「聖歌隊だよ。」僕は答える。

「聖歌隊!」ランチャは驚く。「それはまた難しいわ。」

「どうやって入るのか僕全然知らないんだよね。どこにも書いてない。」

「そりゃ当たり前よ。聖歌隊は厳しく人数が定められていて、アリュヌフの神が自ら選ぶのよ。」

「えええ、どうやって選ばれるんだ。」

「私は知らない。」

「サリア、願えば」ネイスンは言った。ちょっと声が低い。「きっとチャンスはくるよ。」 僕はネイスンに振り返って、「そうだね・・・。」と言いつつニコリと笑って「ありがとう。」と気持ちを示した。

「ランチャは」ネイスンは話しかける。「将来何をしたいの?」

「わたし?」ランチャはネイスンに妙に愛想よく振舞う。「悟者になってここの先生になりたい。」

「悟者もどうやってなるんだい?」僕は気になった。何となればナーディア先生と同等になれるからだ。

「聖歌隊と同じ、アリュヌフの神の認可がいるの。」ランチャは嬉しそうに答えた。

「その前に試験があってすっごく勉強が必要。だからがんばんなきゃ。」

「そうか・・・」聖歌隊になる以上に厳しそうだな、と思ってしまった。

「悟者になれば、アリュヌフの神と相談しながら色々できるしね。」ランチャは言っ

た。「たとえば結婚相手とか自由に決められるだろうし。」 ネイスンがランチャに対して疑惑の念を向けている。ああ、まさかとは思うが、いや、双方、薄々感じていたというか、このよくわからないランチャとネイスンの僕をめぐる対立関係に対してどうすればいいのか分からない。

(申し訳ないけど、僕が今気になっているのは君達ではないんだ・・・。)

 そう思った時クルスの悪戯っぽい顔が脳裏に浮かんできて、それが心地よいと思った時に(ああまずいまずいまずい)と心の中で焦っていた。本当はそんな筈じゃなかったのに、恋するはずじゃなかったのに、ふとした思考の偶然の組み合わせで、こんな事になってしまった。頭の中で悪い化学反応がおきているんだ。今も学院生活をしているクルスの事が気になってしょうがない。こんなことアリュヌフの神が望まれるかどうか・・・・いや悟者になればもしかしたらクルスと・・・・いや何を考えている、ナーディア先生からもらったこの香水を嗅げばクルスの事を忘れられるだろうか・・・・でもそんな事を二人の目の前でしたら理由を訊かれてしまう。それは避けたい・・・・そう葛藤している事を、 この二人は知らない。

「ところでネイスンは将来何したいの?」僕は気持ちを紛らわすために二人にされた 質問をネイスンに投げかける。

 ネイスンは「うーん・・・」と俯きながら歩き、しばらく沈黙してようやく口を開いた。「僕は特にしたい事が無いんだ。でも色んな人に助けられて生きてるから、その恩返しができたらいいなあ。」

「あら、そうなの。」ランチャの口調に少し冷たいものを感じた。

「いいと思うよ。」僕はネイスンに笑いかけた。ネイスンも心から嬉しそうに笑っ ていた。

「あなたたち本当に仲がいいのね。」ランチャはそう言ってさっさと先に歩いてし まった。


 山を下り、レストランに入り、灰も降らないのでフードを脱いだ僕はすっかり疲れて椅子の背もたれによりかかってくたびれていた。机にはクロッシュが沢山並んでいる。

「皆さんー、クロッシュを取るのはお祈りが終わってからですよー。」デリンジ先 生が呼びかけた。「そして今日の料理を作ってくださったのは、こちらのシェフ、ランバー・トールスキンさんでーす!」

「みなさんこんにちは!」そういってランバーがコック帽を外してお辞儀すると薄い髪の毛がよく見えて子供達が吹き出す。「今日、皆さんの口に合う料理を考えました、ランバー・トールスキンです。今日も素敵なインスピレーション感謝します! アリュヌフの神よ!」

「ありがとうトールスキンさん。さあ、では皆さん、食事の前に先生と一緒に日

ごとのお祈りを唱えましょう。」

 デリンジ先生がそういうと皆が人差し指と中指を交差させて天に掲げ、子供にしては低い声で教典の定める祈りの言葉を唱える。


世界の根底にあるアリュヌフの神よ

私の世界を守ってくださり

感謝します

セリウミャの力で

悪魔の誘惑からお守りください

わたしたちは一つになって

アリュヌフの神をお慕いします。

デルス・ビブス・アルクマタナ

グルズルム・バンドルリヒャルデ

ランズ・バーグ


 そしてクロッシュを取り出すとオムレツと野菜炒めとライスが目の前に現れた。「ウワー!これおいしそう!」ネイスンはそう叫んでオムレツを切る。僕もオムレ

ツを味わってみる。普通であった。しかし皆は「美味しい!」「これもアリュヌフの神の力なのかな!」「すごい!やっぱすごい!」と盛り上がっている。もう一度食べる。うん、確かに美味しいかな。と何となく納得しながら食べる。

「みなさん、食べ終わったら駅の構内で歌うのですが」デリンジ先生はそう言いながら苦笑した。 「駅員はアリュヌフの民ではない。だから、僕達が真実を教える事を嫌がるんだ。仕方ないから歌った後は何も言わずに合唱団のパンフレットを配る形で僕らの教えを伝え広めようと思う。悪魔に惑わされている人たちは僕達の信じている事を理解していないから、説得しようとしちゃだめだよ。パンフレットを配るだけで良い。いいね?」

 皆が「はーい」といっせいに言う。

「馬鹿ねデリンジ、そんなんじゃ伝わらないわ。」ナーディア先生がそう言って今度は彼女が皆に呼びかける。「いい、あんたらはまだガキでバカで悪魔に誘惑されやすいんだから余計な事は絶対言わない事。言ったら私が悪魔を追い払わなくてはいけなくなるからね。わかった?」

「・・・はい。」小さい返事。

「やる気ないの?」

「はい!」大きな返事。

「それでいい。」ナーディアは頷きながら言った。


 駅の構内で、僕たちはパンフレットの入ったカゴを持って並ぶ。デリンジ先生は駅員に「アリュヌフ合唱団代表のヴィースト・デリンジです。」と許可証のようなものを見せながら言った。僕は始めて俗世の人たちが歩くのを見る。俗世の人々が僕らを見ている。「緊張するね。」ネイスンが話しかけた。「ああ。」僕も答える。「ちゃんと歌えるかな。」「僕さ、声変わりが始まってて」とネイスンが言った。「あまりうまく声が出せないから、サリアよろしくね。」「わかった。」声変わりか。自分にはまだ来ていないな、どんな声になるのだろう、とサリアは思った。「お待たせしました!」デリンジ先生が呼びかけ た。「繰り返し歌う事になるのできついでしょうし、休憩を交えて何度か歌いましょう。歌う前にナーディア先生から受け取った香水を嗅ぎましょう。」そしてデリンジ先生は指揮棒を取り出す。僕達は瓶のキャップを外して香りを嗅ぐ。この上ない幸せな気持ちが背後から忍び寄るような不思議な気持ちになった僕達は口を開いて歌いだす。


アリュヌフの神よ ありがとう

勝利を私に 下さって

僕たち(私たち) 皆 あなたのもの

魂預けて 高めよう


・・・しかしまだ誰も集まる気配はしない。デリンジ先生は続いて執り成しのうたを指揮し始めた。


嗚呼 アリュヌフの神よ

神を知らぬ人の 代わりに

僕たち(私たち)祈りましょう

悟りと救いを

嗚呼 アリュヌフの神よ

御力をお示しください

僕たち(私たち)あなたの手足となり

世界を清めます


 するとしばらくして一人だけ拍手する音が聞こえた。背が低く僕らぐらいの身長のおじいさんだ。「いやあ、お若いのが、実に、美しい声で、嬉しくて、素晴らしく て、そのお」おじいさんは僕に近寄りながらもごもご言ってきた。僕はにこりと笑いながら「パンフレットがありますよ。」と言ってカゴのパンフレットを取り出した。「おおお・・・」おじいさんは僕から渡されたパンフレットを大事そうに持っていた。

 デリンジ先生がやってきた。「合唱に興味をもたれましたか?」

「いぃやぁ、すごく感動したのじゃ。わしの孫もこれぐらい歌えればなあ。」

「わたしたちアリュヌフ学院は歌声をとても大事にします。」デリンジ先生は自分の持ってるパンフレットをめくりながら言う。「ほら、ここにも書かれているとおり、歌を通して人生の深奥を学べる場、とね。」

「わしもそう思うんじゃ。」おじいさんは沈んだ声で言った。「孫に歌を習わせようとするのだが、嫌がってな。」

「大丈夫です。」デリンジ先生はニコリと笑う。「ここで習えばみんな幸せになれます。みなさん楽しそうでしょう?楽しく歌う事で、人生の深奥も学べる。」

 僕達は幸せに満たされていて笑顔である。

「どうです?パンフレットに連絡先がかかれているので興味がもたれたら是非。」

「ありがとう・・・」おじいさんはにこやかに言った。「ぜひ娘と相談してみるよ。」

「ありがとうございますー。おじいさんも祝福あれ。」デリンジは手を振った。


 そして休憩が短く入り、再び僕らは起立して香水を嗅ぐ。この香水を嗅ぐ事で家に帰ったかのような安堵感と、何もかもできそうな優越感が得られるのだ。そして再び歌い始める。「♪アリュヌフの神よ ありがとう 勝利を私に 下さって」

 4度目に歌った時の事であった。「でたでたでたよーついにでたか」ギターを背負った若い男が僕達を面白そうに眺めて言う。「これがあのアリュヌフの宗教だよな。」 僕らはとりあえず歌い続ける。「・・・♪僕たち(私たち) 皆 あなたのもの 魂預けて 高めよう・・・」「可哀想になあ。」男は僕らをジロジロと見ながら言う。「存在もしねえ神様のために、クスリ嗅がされて盲目的に従うガキどもが。」そして歌うネイスンを小突く。「おい、実験の後始末みたいな事されて嬉しいか?え?」

「ちょっとそこの人。」男の後ろでナーディア先生が立っていた。デリンジはその光景を一瞥して苦笑いしながら次の曲の指揮をする。「♪嗚呼 アリュヌフの神よ 神を知らぬ人の代わりに・・・」男は振り返る。「なんだババア。俺は正直に言ったまでだ。文句あるのか?」するとナーディア先生は憤った。「正直?あなたの言葉のどこに真実があるのですか?間違った事に正直ということですよね?つまり、あなたは悪魔に惑わされています!」男は「ひゃっひゃっひゃっひゃ」と笑いだす。「俺が悪魔ならここは悪魔に支配された世の中だ。お前達は神に愛されながら仲良く山で乳繰りあってろ!」ナーディア先生が男をビンタする。しかし男は全く怯まずに笑い出す。「お前達って、ほんと、ちょっとすごいの 知ってるからって傲慢になっててよぉ実に滑稽。ホンモノを知らねえくせによ。だから、俺が見せてやる。ホンモノの音楽ってやつを、賛美ってやつを、真実というやつをな!」

 そして駅の構内の真ん中に行きギターを取り出して叫ぶ。

「皆さん、こんにちは!私が魂のシンガー、メンヴィス・ソルトボーンでございます!皆様に愛とは何か、真実とは何か、それがいかにここにあって語られない偉大なものであるか、この指とギターとこの声で皆様と分かち合いたいと思うぜ!そりゃ!」

 そして素早くギターをかき鳴らす。僕はその入りに鋭く切り込むような衝撃を覚えた。その響きで合唱は歌うのをやめていた。


俺達には 愛がある それ以外は何もいらない

前を向いて 歩いていこう 全ては夢だから

現実こそが美しい夢 予想の出来ない楽しみと

苦しみを乗り越えて 強くなっていくのさ

俺達には 愛がある それ以外は何もいらない

前を向いて 歩いていこう 全ては夢だから


 そして歌っている途中から俗世の人々が手拍子で合わせていた。僕もネイスンもあと何人か足で拍子を打っている事に気づいた。デリンジ先生は「悪魔です!悪魔の業です!」と言いながら僕達の前に立ちはだかった。駅員が止めに行った頃には男・メ ンフィスはギターをしまって颯爽とその場を去っていってしまっていた。あっという間に終わってしまい、人々は今のはなんだったのだろうと呆然としている。「帰りましょう!ここは思ったより悪魔が強すぎた!」デリンジ先生はそういって生徒達を連れて行く。ナーディア先生はフンと鼻を鳴らした。僕はさっきからメンヴィスの歌った旋律が頭から離れなかった。(・・・♪俺達には 愛がある それ以外は何もいらない 前を向いて 歩いて いこう 全ては夢だから・・・)愛以外は何もいらない・・・クルス・・・君以外には・・・ああ、だめだ、メンヴィスの歌でクルスを意識するなんて、やっぱり悪魔の誘惑なんだ、いけない、いけない・・・僕は誰も知らない自分の心の中で一人悶々としていた。何もかもがクルスの仕込んだ罠に見えて仕方なかった。


 そんなわけでデリンジ先生の試みた課外授業は結果的に失敗に終わり、メンヴィス以外の誰もが、そんなに愉快ではないひとときを送ったのである。

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