おまけ:結婚記念日

言祝ぐ花に誓う【1】

 それは、木々の葉が黄金に染まりはじめた秋の半ばのこと。

 結婚式当日の空は、残念なことに、すっきりと晴れ渡りはしなかった。かわりに広がる薄雲が、太陽の光を淡く孕んで、空一面をまばゆい白さで満たしている。

 ケルシュタイード家の片隅に設置されている小聖堂の扉の前。

 ぱたん、と閉じた記名帳を右手に、司祭は厳かに聖堂の扉を押し開いた。

「それでは、ロウリエ・アジ・ハルバシン・ケルシュタイード、ならびに、カザリア・フォル・アナシス・テティイルナ。神に目通り、結婚の誓願を立て、神の祝福を受けなさい」

 司祭の促しに従って、私は聖堂の低い扉を屈んでくぐり抜けた。

 カザリアさん、とひそやかに呼ばれて振り返る。私の夫となる人は、入口の扉にひっかかっていたらしい私のドレスの裾先を、背中を丸めて、ほんのわずか掬いあげ、内へ入るところだった。

 小さな白い聖堂は、清浄な光で満ちている。

 何を描いているでもないステンドグラスが、薄い陽光をかたどって、幾重もの彩光を祭壇に落とし込んでいた。

 迎え入れるは、白皙の女神アナティシス。

 慈悲深き豊穣の神でありながら、戦と審判をつかさどる無情な神としても知られるアナティシスは、その御手に蔦で覆われた長剣を抱き持つ。

 柔らかな白石に彫りこまれた神のかんばせは美しく、漏れ入る光の束の中で、とろりと滑らかな肌が大気に溶け込んでしまいそうだった。

 今は愛情深い眼差しで見守ってくださるアナティシスの御前に立ち、私は出会ったばかりの夫の手に、自身の手を重ねた。

 無言で問いかけてきた薄蒼の双眸に、私は黙したまま顎を引く。

 そうして、私たちは神を見上げ、誓いの言葉を唱和する。


  ***


 季節は、巡り、巡る。

 輝く木々の色合いは、ちょうど美しい盛りを折り返し、葉は今にも枝から離れようとしていた。

 明日には、さっそく幾枚か舞い落ちて、地面を彩りはじめるかもしれない。

 こういう時に、こちらは王都に比べて冷え込みが厳しいことを実感する。

 あちらは、まだ木々の葉が色味を深めていく頃合いだった。冬になったって、雪はそうそう積もらない。

「そっか。ちょうど今日で、ここに来て一年なのね」

 私は窓の景色を眺めながら、テーブルに頬杖をついた。

 早いと言えば早く。長いと言えば長かった一年に思いを馳せる。

 えっ、という小さな驚声が聞こえて、首を巡らせると、お茶の準備をしていたケフィが、目を軽く見開いていた。

「もう、そんなに経ちますか」

「そうね。そうみたい」

 笑い頷き返すと、ケフィは「そうでしたか」と、どこか感心したように呟いた。

「早いものですねぇ。……けれど、もうずいぶんと長くお傍においていただいている気もするのです」

 そう言いながら、ケフィは淹れたてのお茶をテーブルに載せる。その横には、砂糖入れ。アップルパイは、今日のお茶の時間用にとジルがつくってくれたものだった。

 それにしても、とケフィは彼女自身がきれいに整えたテーブル上を感慨深げに眺めた。

「ずいぶんと平和になったものですねぇ」

「本当にねぇ」

 毒が毒がと騒がずに、一人でものんびりお茶の時間を楽しめるようになるなんて、あの頃は考えられなかった。

 掃いて捨てるほどいた刺客もすっかり消え失せ、比較的静かになった屋敷には、小鳥のさえずりさえ聞こえてくる。

「あれ、でも」と、急に訝しげな表情になったケフィに、私はティーカップの取っ手にかけようとした手を止めた。

「何?」

「奥様、今、ここに来て今日でちょうど一年、と仰いましたよね?」

「ええ、そうだけど」

「じゃ、じゃあっ!」

 ケフィは胸を押さえ、よろよろとテーブルに手をついた。向かい合うケフィの眼差しは真剣で、と言うよりも、完全に目が据わっている。

「もしかしなくても、今日は、お二人の結婚記念日じゃないですか! 以前、式を終えてその日のうちに王都からこちらへいらっしゃった、って仰っていましたよね?」

 私たち、お二人のために何のお祝いの準備もしていませんよ? とケフィはわめきたてる。

「準備も何も、わざわざ屋敷のみんなにお祝いしてもらうような日でもないし」

「世間一般的には、お祝いしてもいい日だと思います!」

「一応、ロウリィには今朝『これからも宜しくお願いします』って伝えておいたわよ?」

「そういう問題じゃないんですよ、奥様!」

「ううん。だけど、結婚した日と言っても、あまり思い入れはないのよね。だって、顔合わせみたいなものだったし」

「顔合わせ、ですか?」

「ええ、顔合わせ。ロウリィに会ったのは、式当日がはじめてだったから」

 正直、式の直前まで姿を現さなかったロウリィに不満を抱いた生家の侍女が、ひたすら駄々をこねていたことのほうが印象深い。

『私の大切なお嬢様を貰い受ける幸運を手にしながら、前もって本人が挨拶に来ないとはどういうことだ! あげたくない。お嬢様を渡してなるものですか!』と、ありがたくも、はた迷惑な叫びと嘆きを延々聞かされ続けたのだから、そちらの印象ばかりが深くなろうというものである。

 式が初めての顔合わせになるのは、そう珍しいことではない。

 むしろ、そうなることのほうが、圧倒的に多く、後は形式的に式が進むだけである。

 司祭の立ち合いのもと、夫婦となる両者が記名帳に各々の名前を書き連ね、聖堂に入り、神の前で婚姻の誓願を立てる。晴れて神の承認がおりると、他家に入る者が記名帳に書いた元の姓は薄紙が貼られて覆われる。

 そうして、新しい姓を薄紙の上から書き改めることで婚姻は成立する。

 つまり、ケルシュタイード家に入った私は、旧姓である‟テティイルナ”を覆い隠した薄紙の上に、新姓である‟ケルシュタイード”と書き記した。

 この記名帳は、そのまま婚姻契約書として聖堂会に納められるから、私たちのものも王都に保管されているはずだ。

 まるで形式通りであった上、私は当日中にエンピティロへ向けて発つことが決まっていた。当然、式が終われば、急いで着替えをすませ、準備をしなければならず、慌ただしいばかりで、余韻に浸る暇すらなかったのだ。

 確かにあれは私の人生において、重大な節目ではあったはずなのだけど。

 このエンピティロについた夜、ロウリィの口からもたらされた認めたくない現実の前では、ささいな出来事に過ぎなかった。

 結局、結婚式自体は、儀式以上の意味を持たず。

 だからこそ、祝うべき記念日なのだと言われると、どうしても現実味を持てないことに戸惑ってしまう。

「そんなものよ。もともと、私たちは好きあって結婚したわけでもないのだし」

 ケフィは、きゅっと眉をさげる。

 妙な顔になってしまったケフィに少しだけ申し訳なく思う。

「だから、私たちには、これくらいがちょうどいいの」と、微笑み返した。



「ロウリィは、結婚式の時のことって覚えてる?」

 つい、そんなことを尋ねたくなったのは、やっぱりケフィとの会話が影響していたのだろう。

 執務室にいるロウリィの様子を見に来た私は、机の前に並べられた長椅子の一つを陣取って、本日二度目のお茶の時間を満喫していた。ちなみにこちらは薬茶である。

「結婚式、ですか」

 問い返してきたロウリィも、たぶん私と同じように、形式的な儀式の印象以外は存在しないのだろう。

「そうですねぇ……カザリアさんが当然のように馬車に乗りこんできたから、ひじょうに焦った覚えはあります。あとは、馬車の車輪が外されたせいで、行くのに苦労したな、と」

「何それ」

「あれ? 前に話しませんでしたっけ?」

 ロウリィは、ほけらと首を傾げる。

 近頃、やたらと領主らしく忙しそうにしている彼は、散らばる書類をめくりながら「どうもチュエイルさんに細工されていたようですね」と、ぽやぽやとのたまった。

「いやぁ。あれは困りましたね。本格的に壊れてしまったのが、何にもない道のど真ん中でしたし」

「聞いてないわよ、そんなこと」

「まぁ、なんとかなりましたし、今ではいい思い出ですよね?」

「それのどこが、いい思い出なのか、まったくわからないし、同意したくないのだけれど」

 呆れて私が肩を落とすと、返って来たのは、なんとも穏やかな表情で――なんとなく誤魔化された気がする私は、口をつぐんで手にした薬茶を飲んだ。この独特の味にも、ずいぶんと慣れたものである。

 はあああああ、と何とも楽しくなさそうな溜息を吐いたのは、他でもないルカウトだ。背筋のぴんと伸びた半身を、ルカウトは器用に折り曲げて、積み重なる分厚い本の上に突っ伏した。

「結婚式? そんなものはどうだっていいのですよ、奥様。なぁーに、一人で優雅にお茶なんか飲んじゃってるんですかねーえ? 何しに来たんですか、あなた。邪魔しに来たんですか、私たちの。そんなにお暇なら、私の仕事の一つや二つに六つや七つ、手伝ってくれたってばちはあたりませんよぉ? 大体。七十年も昔にすたれた祭を復活させる? ホント何言っちゃってるんでしょうねぇ、うちのロウリエは。いくら文献を調べたって、たかが知れているじゃあ、ないですか。なのに、この本の山ときたら! 頭が痛くなってしまいますよ! こんなのロウリエ、一人でやればいいのに。なーんだって、このっ、私がっ、よりにもよって机仕事をしなくちゃならないんですかねーえ!」

 息継ぐ間もなく恨み事を吐きながら、ルカウトはぴらりと本のページをつまらなそうに摘みあげる。

 対するロウリィはというと、重なる本の隙間から引き抜いた紙に、何かを書きつけながら「まぁ、それならそれで別にいいんですけど」と、のたまった。

「そうなると、ここじゃルカはお役ごめんですかね」

 本家に戻っていただくことになりますが、というロウリィの言葉に、ルカウトは思い切り口をひん曲げた。

「まぁーったく、長い付き合いだって言うのに、薄情な奴ですねぇー! しますよ、しますっ! 机仕事でも、机磨きでも『何でもあれ!』ってもんですよ」

「はい、助かります」とほんやりと答えたロウリィに、ルカウトは「ちっ!」と言葉にして舌打ちをした。

 私は黙って薬茶を飲みながら、のんびりと本の記述を書きだしているロウリィと、猛烈な勢いでページをめくりはじめたルカウトを眺めやる。「ルカ」とたしなめるロウリィに、ルカウトは再び「ちっ!」と声を出した。本当に二人が揃うと、いつ見ても無駄に仲がよい。

「まぁ、いいですよ」

 ルカウトは、気だるそうに紙にペン先を押しつけながら、くるりくるりと円を描いた。

「ケフィたちが、やたらと盛りあがっていましたしねーえ? どちらにせよ、もうそろそろ頃合いでしょう」

「頃合い?」

 私とロウリィは顔を見合わせ、首を捻る。

 まぁ、見てなさいよ、とでも言いたげに、ルカウトが珍しくも口角をあげたのと、音を立てて執務室の扉が開いたのは、恐らく同じ瞬間だった。

「あ! いらっしゃった! よしっ、では計画通り、侍女組は全員でまず奥様を確保! 領主様のことは、ルカウトさんにお任せしました。頃合いを見て、バノとスタンに迎えに行かせますから、絶対に逃がさないでくださいね」

 そう指示を出したケフィを筆頭に、扉の前に集まった使用人たちの異様な雰囲気に圧倒される。

「りょうかーい」と一人、さして驚きもせず、何とも軽い声で応じたルカウトは、早速仕事道具をてきぱきと片付けはじめた。

 にやり、と笑ったルカウトと目があう。

 声にならない悲鳴をあげた時には、もう遅かった。

「カ、カザリアさん……!」

 背の高いルカウトに担ぎ上げられた私は、次の瞬間、侍女組の中心に落とされていた。

「奥様、かくほーっ!」

 ケフィの号令と共に、五人に取り押さえられた私は、そのまま執務室から連れ去られたのだ。

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