第22話『星に願いを』

          

 ヴァン=ブランはただ一匹、薄暗い廊下をゆっくりと歩いていた。


──あれ? いつの間に〈猫屋敷〉に戻って来たんだっけかな。


しかし、行けども行けども終わらないその廊下を歩き続けているうち、さすがにヴァンも『これは、どうにも様子がおかしいぞ…… 』と気付く。


 ぼんやりとした頭でそんなことを考えていると今度は急に片方の前足ががくりと落ちるようにバランスを崩した。それはまるで見えない穴に落ちたような、あるいは階段を踏み外した時のような感覚であり、ヴァンはびくりと一歩後退した。そして水面をそうするように肉球の先でちょいちょいと突っついてみる。


「?!」


 目の前には確かに道が続いてるのが見える。だが地面が存在していないのだ。


 いってみるとそこから先の風景はまるでホログラムで映し出された虚像のようだった。


──マイったな……。


 困り果てたヴァンの目に映ったのはその“存在しない道”の向こうにぽつりと座っている一匹の猫の姿だった。


「おーい、どうやったらそっち側へ行けるんだ?」


 ヴァンはその栗色の毛並みを持つ猫に尋ねた。


──あれ、ヘンだな…… あいつ、どっかで会ったよような気がする。


 記憶違いというよりはどちらかというと既視感に近い。いわゆるデジャ=ヴュというやつだ。


 じっと優しい眼差しをこちらに向けているその猫に対しヴァンは直感的に何かを感じとっていた。


『にゃん吉…… 』


── あっ!


 ヴァンのことをそう呼ぶのは世界でたった一匹しか…… いや、一人しかいない。


「わかったぞ! おまえ、婆さんだろ? “出口の婆さん”だろ?!」

 猫は嬉しそうに“にゃあ”と答える。

「なんだ婆さん、猫に生まれ変わったんじゃないか。よかったなぁ」

 ヴァンはあっはっはと笑った。

「こいつは傑作だ。どうだ婆さん。俺は約束を守ってやっただろ? な、ちゃんと婆さんを見つけてやっただろ?」と、そこまで“喋った”ところでヴァンは背中にぞくりと冷たいものを感じた。


──声が……出ない!


 自分では流暢りゅうちょうに喋っているつもりだったがそれがまったくの口パクだということにようやく気付いたのである。


 栗色の猫は悲しそうに“みゅう”と鳴いた。


──そうだ、だんだん思い出してきたぞ。俺はザンパノと闘っていて、それから──


「婆さん、こりゃ夢なのか? それともひょっとして俺は死んじまったのかい?」

 そう言ってるつもりだったが相変わらずヴァンの口はパクパクと動いているだけである。


 栗色の猫は目を細めると何も言わずに空を見上げた。ヴァンもそちらにつられる。すると──


 急に辺り一面が暗くなったかと思うと遠くの空から一筋の流星が姿を現したではないか。


 流星はメロディを奏でながら天空に弧を描いた。どこかで聞いたことのある曲調だなとヴァンは記憶を辿る。


──そうだ、あれは俺がイシャータのために初めて歌った曲じゃあないか。


 続けざまに次々と流れ落ちる星たちはそれぞれに違った旋律をきざむ。


──あれはその次の日に歌った曲だ。そしてあれは雨の日に作った曲で…… 懐かしいなぁ。おっと今度は…… そうそう、あれは確かひどい熱にうなされた時に思い浮かんだ歌だ。


「わかる? にゃん吉。最初に流れた星は “高飛車の星” 。次が “自信過剰の星” 、今、流れたのが “孤独の星” 。あれは “ひとりよがりの星” 」


 ヴァンは説明されるがままにじっと流星を見つめた。星たちはヴァンに語りかけてくるようだった。


(──思い当たらないとは言わせないぞ、ヴァン。俺たちは全部おまえが作り出した星なんだからな)


「あれは “つよがりの星” 、“迷いの星” 、 “戸惑いの星” 、 “わがままの星” 、 “いいわけの星” 、 “飽きの星” 、 “怠慢の星” 、そして、 “むなしさの星” …… 」


 ヴァンは顔を背けそうになるのをこらえた。

──覚えている。


 星がひとつ、またひとつと流れるたび、ヴァンはその歌を作った瞬間に逆行するような感覚に襲われた。


 暴言や愚痴、見栄や自慢、知ったかぶりや格好つけ、そういった類の言葉ならいくらでも簡単に出てくる。そんな異物を“ろ過”し、心の奥底にあるはずの混じりけのない透明な井戸水をなんとかして汲み上げようとしてもがいていたあの時の感覚…… 。それがひとつ、またひとつと鮮明に甦ってくる。


 言葉がうまく表せない。歌が作れないジレンマに陥ったのはこの辺りだ。


──だが。


 今、こうやって遠くから眺めているとその頃の流星の輝きが一番美しく見えるのは何故なのだろう?


 星は流れるたびに色の種類を増すが、派手だった光は次第に落ち着き始め、少しずつ孤高な透明感に溢れた光へと変わってゆく。


「ほら見て、にゃん吉。だんだん星たちの光が変化していくのがわかる? “疑問の星” に、 “罪悪感の星” 、 “沈黙の星” に “努力の星” 、 “思いやりの星” 、 “自己犠牲の星” 、 “調和の星” に “感謝の星” ──」


 ヴァンの胸に熱いものが込み上げてくる。


──そうか、あの頃の俺の中にはこんな星たちが流れていたんだな。


 気が付くとヴァンがイシャータに捧げた歌は99本の流星群となり、やがてそれぞれが音を奏でる美しい糸に姿を変えていった。


──結局イシャータのやつに最後の一曲を歌ってやれなかったな。


 そんな考えがわかるのか栗色の猫は首を横に振った。


「歌えっていうのかい? だって俺はもう声が出ないんだぜ、おとぎ話の中の小鳥の “ヴァンブラン” と同じさ」


 今のヴァンにできるのはせいぜい心の中で曲を思い描くことくらいだ。

 それでいいと栗色の猫はうながす。まるで物語の中の魔法使いの言葉のように。


(さあ、歌うがいい、小さなヴァンブラン。おまえの持っている最高の声で! ──)


 ヴァンは目を閉じるとイシャータのことだけを思いながら頭の中で、そして胸の中で歌う。


 99本の糸たちはその、決して “耳では聞くことができない” ヴァンの歌を合図に踊り始めた。


 お互いが絡み合い、紡ぎ合い、やがてそれらは七色の光を放つ一枚のスクリーンとなった。そしてそのスクリーンに映し出された映像を見てヴァンは「あっ!!」と驚いた。


 それは他ならぬイシャータとヴァン自身の映像だったからだ。

 神社の拝殿の下でイシャータは横たわったヴァンを風から守るようにして、負傷した喉を舐め続けている。


 スクリーンの中のヴァン=ブランはなんとかそれに応えようと時々体をピクリピクリと震わせている様だった。


──俺は、まだ死んじゃいないんだ。


 そばには、佐藤もいる。クローズもいる。


「佐藤、よかった。無事だったんたなぁ」


 やがて嵐と共に夜は去り、朝が来る。そして昼となり、暗雲が立ち込め激しい夕立ちを経て、また夜がやってきてもイシャータはヴァンのそばを離れようとはしなかった。イシャータはただひたすらヴァンの喉を舐め続けている。


『ヴァン……… ヴァン……』


 時折、そんなイシャータの息づかいが耳もとで響くのをヴァンは感じた。

 目を閉じれば首の辺りが妙に温かく、そしてくすぐったい。


 ともすれば波にのまれ沖の方へ流されてしまいそうになる自分を何かが必死でそうさせまいと包み込んでいる。そんな気分だった。


『にゃん吉、あそこに戻りたいかえ?──』


 そう栗色の猫は確かめるように言った。


 猫は九つの魂を持っている。

 だから死んだってどうせまたすぐに生まれ変わるのだ。しかし ──

 ヴァンはいつの間にか自分が子猫の姿になっているのに気付いた。弱く、小さく、ぶるぶると震える子猫の姿に。


──何度、生まれ変わったって、意味がないんだ。イシャータ、あいつがそこにいなきゃ、いてくれなきゃ意味がないんだ。俺は戻りたい。来世でも、他のどんな世界でもなく、イシャータのいる “あの世界” に。俺は戻りたい! 戻りたい!


 ヴァンは泣いた。

 恥ずかしくなどなかった。

 なぜならヴァンは今、子猫なのだから。

 子猫だから泣いたっていいのだ。そう、自分に言い聞かせた。


「にゃん吉、大丈夫よ。あなたにはまだやらなければならないことが残ってるの」

「やらなければならないこと?」

「あなたの許しがなければ救われない猫がいるの。わかるでしょ?」


 流星たちのスクリーンは今度は一匹の黒猫を映し出す。


「…… フライ?! 」

 ヴァンは少なからず驚いた。

「本当はいけないことなんだけど、あなたには特別に見せてあげる。見ておくべきことだと思うから見せてあげる」


 フライは雨の中をさ迷っていた。

 体中がどろどろで汚れきっていた。

 時々、立ち止まっては空を見上げて苦悶の叫びをあげている。


「フライ……」

 ヴァンはフライのその姿を見て胸が締め付けられそうになった。

「婆さん…… 俺は間違っていたのかな? 俺はフライの気持ちをわかってやれなかったのかな?」

「にゃん吉、フライはね、もう十分に罰を受けたわ。ここに映ってるのはフライの未来の姿なの。彼はあれから何年も苦痛と後悔を背負って生きていくことになるの……」


 さらにスクリーンはフライが大勢の猫にいじめられたり、人間に蹴飛ばされたりする姿を無情にも映し出す。


 まるでサイレント映画の弁士のように栗色の猫は解説をくわえた。

「彼は自分のやること全てに自信を無くし、いざ正しいことをしようとする時でさえ“自分にその資格などない”と思うようになってしまうの」

 ヴァンは何とも言えない感情でフライの未来を覗き込んでいた。

「わかる? フライだって歌い続けてるのよ。そしてそれはまたいつしか星に変わるの。“後悔の星 ” 、“ 不信の星 ” 、“ 懺悔の星 ” …… 。でもね、ついに彼にも目覚める時がくる」


 スクリーンはフライが他の猫と闘っている姿を映し出す。

「これはフライが長い放浪の果てに辿り着いたある街で横暴なボス猫と闘っている姿よ。他の猫たちのためにね」


 フライは必死で闘っている。死に物狂いで爪を立て、牙を剥いている。もはや半ば自殺のごとく自分のことなどどうなったっていいといった感じで立ち向かってゆく。


──リーダーになりたいわけじゃない。ボスの座なんてどうだっていい!


 俺は…… 俺は………!!


「彼はね、死ぬ前に、もうひとつだけでいい、たったひとつだけでもいいから正しいことをしたいって思ってるの。見て、にゃん吉。彼が今、必死になって闘っている相手は過去の自分の姿よ」


 ヴァンは真顔で応援した。

「がんばれ! フライ。勝つんだ! がんばれ!!」

 栗色の猫はヴァンのその姿を見て口元を緩めた。

「彼は勝つわ。そしてボスになるの。真のボス猫にね」


(黒猫。君ね、一国一城の主になれるよ。そう遠くない未来、自分自身の縄張りレンジを持てるんだ。嘘じゃない。僕にはその姿が見えるんだ。何を言ってるんだって思うかもしれないけど、僕はね、未来が見えるんだ ── )


 そう──


 シースルーが見たフライの未来、それはまさにこの時のことだったのである。


 スクリーンが次に映し出したのはフライが子猫を激しく叱りつける姿だった。

「この子猫はね、友達に嘘をついたの。フライは本気で怒ってるわ」


 そして次の場面ではその子猫を屋根の上で優しくさとすフライの姿が映し出される。

「どうして俺が怒ったかわかるか? 嘘をついたり自分を信じてくれたりしている者を裏切るようなやつが将来どうなるかわかるか? ん? そんなヤツはいずれ自分自身さえ信じられなくなってだな──」


 フライは話の合間合間に大きな声で笑っていた。“あっはっは”と笑っていた。その姿はまるでヴァン自身のようであった。


 フライは他の猫を思いやった。弱い者を助けたが、弱さを売りにする者は打った。


 強くなれるよう助長したが、おごる者には喝を入れた。


 そして何よりそれらの言葉は自分に対しての戒めにした。


 そんなフライにもやがて死期が訪れる。


 まさかこんな一生になるとはフライ自身でさえも想像していなかったことだ。

 フライにはもう思い残すことなどなかった。ただひとつだけあるとすれば──


 黒猫フライは最後にこう呟いて息を引き取った。


『ヴァン…… 俺を許してくれるか? クローズ……』



 ▼▲▼▲▼▲



「さあ ──」

 栗色の猫は言った。

「もうそろそろ戻らなくちゃね」

「戻るったって……どうすりゃいいんだ?」

「そのスクリーンの端っこに“ほつれ”があるでしょ? それを引っ張ればいいだけよ」

「そんなことしたらバラバラになっちゃうぜ?」


 栗色の猫はくちゃっと笑った。


「作り上げたものは一度バラバラにしてしまうことも時には大切なのよ。自分の意思で。そうやってもう一度作り上げていくことでまた新しいものを発見することだってできるわ。そのままにしておくと余計な“贅肉”がついちゃうかもしれないでしょ」


 ヴァンは恐る恐るその“ほつれ”を口にくわえた。


「大丈夫よ、にゃん吉。あなたなら何度だって作り上げていけるわ。怖がらないで。さあ!」

「ところで俺の未来は見せてくれないのかい? 婆さん」

「“あなたの未来”は“あなたが望むように”すればいいだけでしょ」

「まあ、そりゃそうだ」

 あっはっはと笑うヴァンの姿はいつの間にか子猫からもとの姿へと戻っていた。

「ありがとう。また会えて嬉しかったよ、婆さん!」


 ヴァンがぐっと糸を引っ張るとスクリーンは白色の光を放ち、再び99本の糸となって拡散した。

 その光の中で最後に聞こえたもの、それは栗色の猫の、出口のお婆さんの、こんな言葉だった。


「あなたがやらなければならないこと……わかってるわよね……」


 ヴァンは満面の笑みで答える。


「大丈夫、その時がきたら俺はきっとフライを許せるさ! いや、“許す”なんてそんなもんじゃない。“誇り”だって思ってる!! だって…… なんてったって…… あいつは俺の『友達』なんだぜ!! なあ……………… フライ!」

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