第3話『無言の抵抗』

 揺れる。

 お尻が揺れる。


 イシャータは今、草むらの中から一匹のトカゲに狙いをつけていた。おっと、これではいけない。狩猟猫ハンターのキャンノは言っていた。

( 猫は獲物を目の前にするとみんな気が焦ってお尻を揺らすの。これじゃ相手に気付かれるもとだし、ダッシュが遅れるわ ──)


 なるほど。言われてみないと案外気付かないものだな。イシャータは深呼吸し、もう一度狙いを定める。


──今だ!


 タイミングを見計らい標的に飛びかかるとイシャータは右の前足で見事トカゲの尻尾を押さえることに成功した。…… が、左の爪を出すのを忘れていたためワン・ツーが遅れた。その隙にトカゲは自ら尻尾を切り捨てて逃げていく。


 テーテレレーテレレーレレーレレー♪


── GAME OVER ── だ。


 イシャータは右足の下でクネクネと踊る尻尾を見つめ、溜め息をついた。


──こんなんじゃあ佐藤は喜ばないな。


“佐藤”とは先日イシャータが拾ってきた子猫のことだ。なんのことはない。“佐藤”という表札の下に捨てられていたから佐藤と呼んでいるだけのことだ。


──私はつくづくバカだな。自分の面倒すらみられないっていうのに。


 喪失を背負い、空腹の坂を越えると今度はそこに孤独が広がっていた。漠然とではあるが、孤独とは 〈長い長い鎖に繋がれながらも大草原を走り回る権利を持っていること──〉 そんなイメージが昔からイシャータにはあった。


 はたしてこの鎖はいったいどこまで伸びているのだろうと疑問に思った時、その先にたまたま自分と同じように捨てられた子猫がいた、というだけの話だ。


 あの子を助けたかったというより、どちらかといえば私が誰かに必要とされたかっただけではないだろうか? そんなことを考えながら、イシャータはまたあの“観察”を行った屋根に一匹のぼった。


 今日も街は動いている。


 キャンノは狩りをし、ミューラーはおべっかを使う。ただ一匹、ペイザンヌとかいう焼きたてのソーセージのような毛並みをしたあの猫──今日は空き缶をなにやら真剣に見つめている。時折こちらをチラチラ見ているようにも思えるが、あの猫だけはいったい何を考えているのかイシャータにはさっぱり見当がつかなかった。一度接触してみる必要があるのかもしれない。だが、それによって何か得になるのかといえばそうでもないような気もする。


 まさか私に気があるというわけでもあるまい。イシャータは苦笑した。そういえば飼い猫だった頃、イシャータは何度もノラに言い寄られたことがあった。ノラの分際で飼い猫を口説こうとするなんてどれだけ厚かましいのか。当時のイシャータにとっては屈辱でしかない記憶だ。ただ、一匹を除いては──


 月の光に反射して銀色に輝く毛並。シルバーマッカレルタビーと呼ばれる種に分類されるあの野良猫。


 天涯孤独で生まれた時から“鳥”に育てられ、“鳥の名前を持つ”なんて大法螺おおぼらを吹いていたあの猫。


── の名は ………… 。


 イシャータはほんの一時いっとき、甘美でほろ苦い思い出に浸っていた。だが、何を思い出したのか急に顔色を曇らせたかと思うとおもむろに頭を振り、キッと正面を見据えた。


──いや、やっぱりノラなんか信用できるもんか!


 一方、ペイザンヌといえば缶を突っついているうちにその切り口で肉球を切ってしまったらしい。いったい何をやってんだか。やはりコンタクトの必要はなさそうだ……。


 視線をずらすとギノスが例の“穴堀り作業”をしている。その姿を見て、イシャータは先日交わしたロキとのやりとりを思い出して憂鬱になった。ロキはギノスの手下であり、である。


( あなただってどうしても食糧に困ることあるでしょ? その時にはまた必ず食糧を提供するから── )


 あんな情報を得るためにまったくの口からでまかせを言ってしまった自分自身をイシャータは呪った。そして、それと同時に何かしら妙な違和感を感じている自分自身にも気付く。


 何かがひらめきそうなのにあと一歩が出てこない。それはアイデアの種火のようなモヤモヤしたであるのだが、はたしてそれがいったい何なのか自分でもよくわからない。それは出かかっているくしゃみが出てこない時のあの心境にも似ていた。


 思えばギノスがああして食べきれない食糧を地面に隠しているのは何度も見たことがある。しかし不思議なことにそれを掘り返しているギノスの姿をイシャータは一度も見たことがないのだ。


──これは何故なんだろう?


 この矛盾の答えを求め、イシャータはしばし考え込んだ。もちろん自分が『観察』をしていない深夜のうちにこっそり掘り起こして食べているのかもしれないが、それにしては何かがしっくりこない。


 なぜならこれはギノスだけでなく他の野良猫たちにも当てはまる奇妙な共通点だったからだ。


 ぼんやりそんなことを考えているうちにイシャータの視線は〈猫屋敷〉に辿り着いて、止まった。


 飼い猫だった時から噂だけは聞いて知っている。なんでもそこには一人暮らしのお婆さんが住んでいて、迷い猫や負傷した猫の面倒をみてくれるというのようなところだと聞く。うまくいけば佐藤の分だけでも食糧を分けてもらえるかもしれない。イシャータはそう考え、ひょいと屋根を降りた。


 ひとまずギノス一派のことや、あのへんちくりんな猫、ペイザンヌのことは後回しだ。



 ▼▲▼▲▼▲



〈猫屋敷〉は今にも崩れ落ちそうなあばら家だった。入口にも関わらず〈出口でぐち〉と書かれた表札を見てイシャータは首を傾げたが、こっそり中に入ってみると外観とは裏腹に意外と広い庭があった。


 イシャータをまず迎え入れたのは数えきれないほどの目、目、目だった。これにはイシャータもたじろいだ。さすがに猫屋敷というだけあって老若男女の猫がひしめきあっている。


「うぁ…… あの、私は…… 」


 挨拶しようとしているイシャータから皆の興味を奪ったのは、この屋敷の主である出口のお婆さんが運んできた大量のエサだった。


 あまりに猫の数が多いのでお婆さんは数ヶ所に分けてエサ場をつくっているようで、巨大な皿に柄杓ひしゃくを使って丁寧に料理を取り分けていた。それはまるで猫たちのためにわざわざ調理されたかのごとく美味しそうな湯気をたてている。


 イシャータはゴクリと唾を飲み込んだ。


 出口のお婆さんはそこでようやく見なれないシャム猫の存在に気付いたらしくイシャータをジロリと睨んだ。


 とても歓迎されているとは思えないその表情を見て、イシャータはミューラーの演技指導のほどを少し試してみることにした。


 トコトコと可愛らしく近寄るとお婆さんの目を見つめる。


 きゅーんと鼻を鳴らし、モジモジする。

 んで、ついでにうるうるしたりする。


 ここでイシャータは少しお婆さんの様子をうかがった。さほど変化はない。むしろ機嫌を損ねたかのようにもみえる。イシャータはめげずにお婆さんの足にすりすりして台詞せりふを言った。


『わ、私はお婆さんが大好きで~す。とってもお腹がペコペコなの…… くすん』

「………… 」


 長い沈黙の後、お婆さんはえっこらせとしゃがみ込んだ。そしてイシャータの顔を確かめるようにジッと見つめると、ニッとしわくちゃな顔で笑った。



 ▼▲▼▲▼▲



 柄杓ひしゃくを片手に追いかけてくる出口のお婆さんの攻撃を交わしながらイシャータは門扉もんぴを飛び出していった。


──話が違う!


 イシャータはミューラーの顔を思い浮かべ毒づいた。


──ここでも受け入れてもらえないのか。あんなにたくさん猫がいるのにどうして私だけダメなんだろ?


 とぼとぼとねぐらに帰りついたイシャータを待ち受けていたのはさらなる追い討ちだった。“佐藤”が昨日食べたものをすべて戻してぐったり横たわっていたのだ。


「佐藤!」


 病気ではないようだが目に見えて体力が落ちているのがわかる。みゅうみゅうとか細く鳴いている声だけがかろうじてその小さな生命の存在を感じさせた。やはり生の魚や骨では子猫には重すぎたのだろうか。


──柔らかいフレークや粉ミルクが必要なんだ……ああ、どうすればいいんだろ?


 焦りと混乱のまま走り出し、気が付くとイシャータはある一軒の家の前にた立ちはだかっていた。“侵入しやすいバカな人間の家”。そう、それは泥棒猫ロキの情報だった。


──神様…… 許してください、私じゃないんです。佐藤のためなんです。


 イシャータは“使う予定がなかった貯金”を今、早くも下ろそうとしていた。



 ▼▲▼▲▼▲



『聞いておいてよかった』と『聞くんじゃなかった』が交錯する。

 悔しいことに泥棒猫ロキの情報は正しかった。その一軒家の一階にある子供部屋の窓はまるでイシャータを手招きするかのごとく無用心にも開放されていたのだ。


 イシャータはそこから家の中に忍び込むと、顎を上げてツンとヒゲを立てた。人間の気配は感じられない。そろりそろりと辺りに細心の注意を払いながらなんとか台所まで辿り着いたが、その間にイシャータはあることを確信することができた。


 砂のトイレに“爪とぎ”。間違いない、この家では猫を飼っているのだ。ならばある。子猫が食べても差し支えないような栄養たっぷりのエサが、必ず。


 イシャータはキッチンの中央に置かれたテーブルにそっと飛び乗った。そこから辺りを見回すと冷蔵庫の上に懐かしいラベルの缶詰めを発見した。“猫まっしぐら!”だ。あれなら美味しく、消化にもいい。


 イシャータはテーブルから冷蔵庫の上に跳び移り、缶詰めを口にくわえようと格闘を始めた。が、つるつるしてうまくいかない。ついには口が滑って缶詰めを床に落下させてしまった。


──しまった!


 缶詰めは鈍い音を立てて床に落ちるとコロコロと転がっていき、やがてぶつかって止まった。一匹の猫の足に。


 後ろに折れ曲がった特徴のある耳、アメリカンカールのロングヘアーの“飼い猫”。イシャータは背中に冷水を垂らされた時のように全身の毛がぶわりと逆立つのを感じた。


「ナナ……」


 まさか、ここがナナの家だとは夢にも思っていなかった。ナナの方も驚きを隠せないようである。


「イシャータさん……?」


 恥ずかしかった。顔から火が出るほど恥ずかしかった。


 おそらくこの場にもっとも不必要なものがあるとすればそれは“説明”と“言い訳”だろうな、とイシャータは思った。


 だからこそイシャータが冷蔵庫から飛び降りてすれ違いざまにナナに小さく告げたのはたった一言だけだったのだろう。

「ごめんね……」と。


 それと同時に素早く転がった缶詰めをくわえると、イシャータは逃げ去るように入ってきた窓に飛び乗った。


「イシャータさん!」


 イシャータはビクッとしたが今度はもう缶詰めを落とすことはなかった。そしてもう一度だけナナを振り返った。


「イシャータさん、また…… 遊びましょうね」


 そう言うナナの目はどこか泳いでいるようで決してイシャータの目をまっすぐ見つめて来ようとはしていなかった。つまり…… ナナは本気でそう言っているわけではないのだ。


 ていのいい社交辞令。はぐらかし。それでもそのことについてイシャータが悲しいと思っているかといえばそれは否だった。なぜなら、もしも自分とナナが逆の立場だったとしたらきっと“私”だってナナと同じ挙動を示すはずだということをイシャータは痛いほど身に染みて理解していたからだ。


 もしもその時、イシャータの口が缶詰めでふさがっていなかったならおそらく彼女はこう答えていたに違いない。


『ごめんね、ナナ。私、もうあなたとは遊べないの…… 』と。


 イシャータは再び外の世界の方にキッと振り返り、そのまま窓の下へとジャンプした。


 もし、“ノラ”である自分と一緒にいる姿を誰かに見られたら、きっと他の飼い猫たちはナナのことを白い目で見るだろう。下手をすればもう仲間に入れてもらえないかもしれない。


 イシャータはどうして今、自分がさほど悲しくないのかがその時少しだけわかったような気がした。こうやって一度捨て猫になってしまえばあっさり断ちきられてしまう友情。それが今まで一緒にいた仲間たちの正体であり、実は本当に悲しむべきはそちらの現実の方だからではないか?


 そして今現在、その激しい憤りに対するレジスタンスがあるとすれば、それはナナに対して身を引いてあげることくらいしか思い付かない。


 間違ってる。


 走りながらイシャータは今まで自分がノラたちにしてきた仕打ちや言動を思い起こしていた。今、憎むべきはナナだとか飼い猫だとかそんなことでは決してない。


 過去の自分だ。


 イシャータはようやく立ち止まった。昼から夕へと変貌をとげようとしている空に二本の飛行機雲がゆっくりと垂直にのびていく。


──あの二本の細長い雲はいつかどこかで交わり合うことがあるのだろうか?


 その様を眺めながらイシャータはいつしかそんなことを考えている自分に気付いていた。



 ▼▲▼▲▼▲



 ともあれ、目的は達成した。


──これで佐藤に精のつくものを食べさせてあげられる。


 そんなことを思いながら帰りついたイシャータだったが、ねぐらの近くまで来ると何かの気配を肌で感じ、再び警戒体制に入った。それは佐藤のものでも、当然自分のものでもない。


 そっと中を覗き込む。そしてその“気配”の正体を目の当たりにしてイシャータは少なからず驚いた。


「なにやってんの!」


 叫んだ拍子にくわえていた缶詰めが落ちて転がる。今回それを止めた野太い足。それはギノスのものだった。


 ギノスは別段驚いた様子も見せず低い声でうなった。


「おまえこそ何やってんだ。このチビスケにいったい何食わせやがった?」


 ギノスの足元では佐藤が一心不乱に缶詰めを食べている。“猫まっしぐら!”とラベルにプリントされた缶詰めを。


「弱っちいうめき声が聞こえたんで入ってみりゃチビがまいってるじゃねえか。仕方ねぇからロキや三下サンシタどもにガキ用の食い物を調達させたってわけだが……」


 その時のイシャータといえばまるで鳩が豆鉄砲を、いやむしろ、猫が水鉄砲を浴びせかけられたような顔をしていたに違いない。


 ギノスは足元に転がってきた缶詰めに一瞥をくれ、続けた。


「おっと、もちろん、“いた”缶詰めをだがな。……で?」


 いつぞや首輪を踏みつけられた時のようにギノスはまたしても冷ややかな目でイシャータの“戦利品”を同じ目にあわせた。


「おまえさん、缶詰めこれをどうやって開けるつもりだったんだ?」

「あ── 」


 イシャータは自分のバカさ加減に少し呆れた。


「あんたこそ、なんで…… 」

「こいつがいっちょまえのノラになった時のためさ。のちの子分の面倒をみるのもボス猫の勤めってな」


 そう言うとギノスはダミ声で高笑いを始めた。


「誰があんたなんかの……!」


 そうは言ってみたもののさすがのイシャータも今日のところは素直に負けを認めざるを得なかった。


 言葉尻に詰まったイシャータはたった今必死に盗んできた缶詰めをチラリと見つめると、自分でもプッと吹き出してしまった。


 なんだか意味も解らずだんだん可笑しくなってきたのだ。


 そして、『そう言えばこのギノスがこんな風に笑っている姿を見るのも初めてかもしれないな』とも思った。


 イシャータがクスクスと声に出して笑い始めるとギノスはギノスでなんだか調子が狂ったような不思議な顔をする。


 ひょっとしたらギノスも自分と同じことを考えているのかなと思うとイシャータはますます笑いが込み上げる。


 佐藤は何事かとちょっと顔を上げ、イシャータとギノスの顔を交互に見たが、しばらくするとまた缶詰めに顔を突っ込んだ。


 イシャータは笑った。


 久しぶりに大声で笑った。


 そして、笑いながら、


──この子がもしも、いつか誰かに飼われるようなことになったとしたら、その時はやっぱり私たちの『仲間』ではなくなってしまうのかな。


 と、少しだけ考えた。

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