第3-3話 水曜に師匠は笑う

 日本人形のような幅広で長い黒髪。ビー玉のように大きな瞳。


 そいつは、世界に宇宙人や超能力者、異世界人がいると信じてやまない変人ではあったが、話してみればなんてことはない、チョコレートが大好きな普通の女子だった。


 罰ゲームで話しかけたという最低な動機ではあったが、まあ、いざ話してみれば少し変だが、そいつは決して悪い奴ではなかった。


 東中のチョコレートラスクが、うまいんだってよ、と、いつか、俺はそいつに言った。


「そっか。行けたら、食べてみたいね」


 と、そいつは笑った。


 東中は公立中だ。受験もいらないし、行けたらも何もないだろう、と俺は思った。

 いや、もしかしたら私立を受験するのかもしれないな、と見当違いのことを考えたのを覚えている。


 俺は、気づかなかった。そいつが、もうどこにも行けないと、思いつめていたことに。


 新月のような黒い瞳が、三日月のように開かれた口が、俺に向けられた。


「ねえ、谷口くん」


 そいつは、幽霊のような白い手をこちらに差し伸べた。


「わたしを、助けてくれる?」


 泣くように。笑うように。それは、記憶にない言葉。記憶にない表情。


「わたしを殺した世界を壊して、わたしのことを、救ってくれる?」


 その手に触れていいのか、なぜか俺は一瞬、ためらった。


 つかみ損ねた、白くて細くて小さな手。


 そいつの笑顔はまるで平面に潰れるように掻き消え、――俺の足元の地面が消失した。



 ◆  ◆  ◆


 

 そこは部屋。俺の部屋。首を捻ればそこはベッドで、俺は床に直接寝転がっている自分を発見した。着ているものは寝間着がわりのジャージにTシャツ。乱れたタオルケットが半分以上もベッドからずり下がり、俺は無意識のうちに身についた受け身をとったのだろう、手を横について、アホみたいに口を開けているという寸法だ。


 思考能力が再起動するまで、さほど時間はかからなかった。

 一時期、幾度も繰り返し見てきた夢だ。


 半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、大きく肺の底から息を吐き出した。


 拳を緩く握り、腰を落とす。息を長く。深く。深く。


 廻。流。受。払。打。掴。投。極。残心。構。礼。


 一連の型を決め、呼吸をいつものペースへと戻した。


 早鐘を打っていた鼓動が、少しずつ平常運転に近づいていく。


『わたしを殺した世界を壊して、わたしのことを、救ってくれる?』


 今まで、夢の中のあいつは、そんなことを言ってこなかったんだが、これもやっぱりあの夕方の問いかけのせいだろうか。まったく、中臣よ。俺みたいな肉体派に、こんな重たい宿題を投げつけてきやがって。


 目覚まし時計を見れば、いつも起きだすよりも二時間ほど早い時刻だった。

 俺は大きく伸びをすると、忍び足で家を後にした。

 夏ながらこの時間はまだ涼やかな風が吹いている。


 家からほど近い河原で腰かけていると、ほどなくして目当ての人物がやってきた。

 その人は、肩口まで伸ばした長い髪を揺らし、かなりのスピードで走りながらも、息一つ切らしていやがらない。俺を見つけても驚く素振り一つ見せず、ぴたりと止まると、当然のように俺の隣に座り込んだ。


「おっはよー、たーにゃん。そろそろ来るかと思ってたっさー」


 トレードマークの八重歯を見せて、弾むように笑う彼女こそ、俺にとっての武術の師匠、鶴屋さんである。


 ってーか、そろそろって何ですか、鶴屋さん。別にあなたに俺の事情は何一つ話してないはずですが。


「鶴屋家を舐めちゃあいけないっさ、たーにゃん。この街の異常はまるっとこの鶴屋さんの耳には入ってくるにょろよ。外から来た老若男女の人間が東中の周りを嗅ぎつけてることとか、それにたーにゃんが関わってることとか、あとは、たーにゃんのぼろぼろになった服がゴミに捨てられたこととか」


 うげ。


「いやー、めがっさ驚いたさっ。あれだけ服がぼろぼろなのに、着てたはずのたーにゃんがぴんしゃん登校してるって話だしね。ゲームみたいに回復魔法でも使えるとかじゃなければ説明がつかないって、うちの若い衆が頭を捻ってたよっ」


 そう。この人は、いつもそうなのだ。年齢こそ、俺と大して違わないように見えるが、凄まじいほどに勘がいい。しかも、家が地元の名家で、しかも古流の武術を伝えているという、今時一冊600円のライトノベルや二番目に生まれそうな名前のラーメン屋でもこんなに盛らないぞといわんばかりの設定メガ盛り完璧超人なのである。


 何をどこまで話したものか迷っていると、鶴屋さんはばんばん、と無造作に俺の背中を叩いた。


「ま、隠し事は男の子の成長の印さっ。でも、お母さんに心配かけちゃあよくないぞ? 元気が一番めがっさ大事! それさえ守ってれば、大抵のことは若気のいたりで何とかなるにょろよっ!」


 この人は、シンプルだ。俺みたいにアホなのではなく、色々なことを知って、考えて、噛み砕いて、その上で、本当に大事なところを押さえている単純さなのだ。芯が通って、太いイメージ。


 だから、俺が一番ぶれていた時期に、救われた。

 そして、今またぶれようとしているときに、その声が聴きたかったのだ。


 あと、目的はもう一つ。

 俺は立ち上がると、鶴屋さんの前で構えを取った。

 鶴屋さんから、攻めの型を教わるために。


「どういうつもりかな? たーにゃん」


 自棄になりかけていた小学生の頃、俺が鶴屋さんから教わったのは、守りの型ばかりだった。

 もちろんそれが、《神人》から俺を守ってくれたのは事実だ。

 けれど、今は、それだけでは足りない。中臣にどんな答えを出すにしても。これからどんどんパワーがインフレしていくであろう《神人》に立ち向かうためにも。


「なにやらめがっさ焦ってるねえ。若さゆえの煮詰まりってやつかなっ」


 鶴屋さんはのんびりと言いながら、その語尾が切れぬ間に体を一閃させた。


 緩みから急の脈絡ない体捌き――座った態勢からの流れるような回し蹴りを跳ねて避け、そこから垂直に軌道を変えて跳ね上がった爪先を左腕で流して距離を取る。


「よーくできましたっ。なんだろ。前より攻撃を怖がらなくなったかな? 昔みたいに自棄になったんじゃなくて、どれくらいの怪我なら致命傷じゃないか見切れるようになった感じだね。まー見ないうちに実戦派になったってことさっ。武道家としては羨ましいけど、健全な中学生としては心配ばっかりにょろよ」


 間髪入れずの縮地から貫手を廻腕でいなし、


「でも、やっぱりたーにゃんは、武術に向かないっさ」


 掴もうとする手を払われ、


「相手にやったら感情移入するからねっ」


 逆に袖を取られて態勢を崩される。


「そういう子に、鶴屋の娘が伝えるのは立ち続ける術、守りの型だけって相場が決まってるにょろよっ!」


 世界がぐるりと回転した。浮遊感。そしてふわり、と、背中からゆっくりと地面に倒される。


「たーにゃんが立ち続けていれば、たーにゃんを大切に思う人に、昔のたーにゃんと同じ思いをさせることだけはないでしょ。それはめがっさ大事なことにょろよ?」


 満面の笑顔が、俺を見下ろしていた。

 勝負あり。まったくもって完敗なのであった。『防護』のありなし関係なしに、《神人》よりも百倍勝ち筋が見えてこない人がこの人だと思うね。しかも物理的にたけでなく心理的にもきっちり優しくトドメを刺してくるあたり、まったく鶴屋さんには敵わない。


「あとはそうさねー、困ったときはお姉さんに甘えてみるのもいいかもしれないにょろよ? この平凡な女子中学生、鶴屋さんに、できることはあったりするかな?」


 そうだ。なまじ変な能力だかを手に入れたせいで勘違いしがちだったが、世の中には俺みたいな一中学生じゃ解決できないことに満ちている。俺は鶴屋さんみたいに溢れるほどの才能ギフトを授かったわけじゃない。やっぱりヒーローでも何でもなく、世界の脇役の一人でしかないのだ。


 もちろん、俺だからできることもあるにはあるのだろう。

 だが、たぶん、ヒーローではない俺は、全てを救えたりはしない。


 だから、選ばないと。何を自分でして、何を誰かに任せるか。そうでないと、また取りこぼすんだろう。


 俺は体を起こしながら、鶴屋さんの名前を呼んだ。


「なんだい?」


 涼宮ハルヒを、守ってあげてください。それとなく。本人に気付かれないように。

 あと、栗毛の天使みたいな北高の女と、長身のいかにも凡人っぽい北高男も見かけたら、ついでに。


「あいよっ」


 理由も聞かず、鶴屋さんは頷いた。


「答えは出たかい?」


 まさか。


 夢の中のあいつの問い。中臣の夕暮れの誘い。目の前の問題に、答えは出ない。

 それでも、俺は結局俺のまま立ち続けて、悩まなければいけないのだ。鶴屋さんと会ってよくわかった。


 そもそも、何か劇的な力や知恵を外から授かって事態が解決することなんて、人生に一度あれば十分なのだ。


 一度は鶴屋さんから。もう一度は、涼宮から。


 もう二度、そんな奇跡の恩恵にあずかった以上、あとは地道に考えて答えを出さないとな。

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