#6 ある無名インターネッツ物書きの葛藤

 インターホンのないアパートのドアを叩いたのは、片手に買い物袋をぶら下げる名藤だった。白いビニール袋の中には、買ったばかりの食材がいくつか入っている。彼女が穐山のアパートへ向かう途中、通りかかったスーパーで買い揃えたものだ。

「先輩、いるんですよね」

 何度も扉をノックしても部屋の主は出てこないし、返事もなかったが、通りから見えた彼の部屋には、室内からの薄暗い光が反射して見えていた。だから穐山が居留守を使っていることは知っていた。

 これでは埒が明かないと思った名藤がドアノブを回すと、鍵のかかっていない玄関は容易く開いた。勝手に上がるべきかとしばし悩んだが、意を決して部屋へと入る。

「勝手ながら、お邪魔します」

 ワンルームの部屋に上がり込むなり聞こえてきたのは、カチカチと鳴るキーボードの打鍵音。そして窓から見えた薄明るい光が見える。日は既に傾いていたが、照明は点けられていなかった。

「先輩……?」

 不安げに仕切りを越えて部屋を覗き込むと、背を曲げながらノートPCに向かってキーボードを叩く穐山の姿があった。彼は名藤が部屋に上がったことに気付いておらず、一心不乱に画面を見つめながら打鍵していた。

「先輩っ」

 今度は穐山に聞こえるようにと、声を張って呼びかける。カタカタと鳴っていたキーボードを叩き音がようやく止み、室内にはひと時の静寂が還ってきた。

「…………」

 名藤の方を振り返った穐山は、何も言わなかった。険しい面持ち向けて来客を歓迎するわけでなく、作業を中断されたのを煩わしいとすら考えていた。

「勝手に上がって、すみません」

 初めて、彼女は先輩を怖いと思った。今までそんなことを考えることなどなかった。だが他者を拒む敵意に似た目を向けられた名藤は、その日初めて彼に怯んだ。普段から笑うことが少ないが、激高した姿などは見たこともない。機嫌が悪いならどうして機嫌が悪いかを口に出す。このように無言で苛立ちをむき出しにしているのは、異様とも言える状態なのだ。

「最近、あまりサークルの方に顔出さないから……その、ちょっと心配になったので伺わせてもらったんですけど。お邪魔、でしたか?」

「……いいや」

 一言それだけを返すと、再びノートPCの画面に向きなおし、機械のように均一なリズムでキーボードを打ち始めた。名藤が萎縮していることなど、全く気に留めることもなく、中断していた作業に注力する。

「電気、点けますね」

 返事がないのを予期して名藤は勝手に照明を点けると、台所に買ってきた食材を袋ごと置いた。

「…………」

 流しを見た名藤は絶句した。洗っていないまま置かれている食器や、調理器具、あるいは空になったカップラーメンの容器がそのまま置かれている。量を見るに一日分だけではなく、ここ数日間は洗っていないまま放置されていると察した。

「晩ご飯は食べましたか?」

 やはり穐山からの返事はない。

 それでも名藤は続けた。

「食材買って来たので、よかったら食べませんか。私、作りますから。現役女子大生が作る料理ですよ、こんなの世の男性のほとんどが……たぶん、羨ましがります。待っていてください、すぐに作っちゃいますので」

 勝手に話を進めた彼女は、見向きもしない先輩に無理やり笑って見せた。傍から見ればぎこちないものだったが、彼女に出来る精一杯の作り笑いだった。

 よし、と一度気合いを入れなおした名藤は、まず流しに溜まっている食器から片付けることにする。これでは調理するための場所も道具もない。勝手に触って文句を言われるものでもないだろうと、一つずつ丁寧に洗い始めた――。


 溜まっていた食器を片付けるまでに十五分くらいと、そう時間はかからなかった。洗い終わるなり、今度は買って来た食材を並べ、慣れた手つきで野菜を切っていく。鍋ではうどんを茹でており、蒸気が台所から広がっていた。こうして彼女が調理に勤しんでいる間も、穐山は無関心なままで、自分の作業を進めている。

「えっと、氷、氷……は、切らしてますか。まあ、冷水でも十分でしょう」

 茹でたうどんをザルに入れて湯を切り、冷水でしめる。氷がないのでここで冷やしておかなければならない。それを二人分の皿に分けて、切った野菜やゆで卵、シーチキンなどを盛り付けていく。名藤が作っていたのは冷やしうどんだった。

「よしっ」

 部屋の中央に置かれている小さなテーブルに、二人分の冷やしうどんが並んだ。スーパーで食材を買っている時に、名藤は冷やし中華と冷やしうどんのどちらにするかと考えたが、何となくうどんを食べたいという彼女の一存でうどんになった。

「先輩、出来上がりました。お口に合うか判りませんが、食べてみてください」

 穐山の返事はない。無心で作業を続けている。これには名藤もさすがに堪えた。どうすべきかしばし考えて、一つ思い浮かぶ。

「食べないと、作業スピードも効率も落ちますよ」

「……」

 聞き捨てならないとようやく観念した穐山は、隈だらけになった顔を名藤に向けた。豹変した彼の顔をここに来て初めて見た名藤は、別人ではないかと目を疑った。目の焦点は定まっておらず、顔はやつれきって精神的な疲労と摩耗も感じさせる。

 どうしてこのような状態で作業をやっていたのかも、彼女は不思議に思うくらいだった。


 食事をしている間、会話は一つもなく、食器の音と麺をすする音だけがしばらく続いていた。食事中の穐山が、誰かの手作り料理とはここまで身に沁みる一品だろうかと感慨深く思ったのは、ここしばらくまともな食事をしていなかったからだろう。市販の弁当や食堂の定食にもない温かみが、冷えているはずのうどんの中に詰まっている。

 彼の目の前でうどんを食べていた後輩は気付かないフリをしていたが、穐山の箸を持つ手は小刻みに震え、何度も鼻をすすっていた。だが特別名藤の作った料理が美味しかったからではない。

 自らをほだしていた戒めが晴れたことで、過敏になっていた自意識が剥がれ落ちていったからだ。

 穐山は食べ終わるまでにしばらく時間を要したものの、食べ残すことはなく、器にはつゆだけが残る。完食して静かに箸を置くと、気張っていた肩をゆっくりと下ろした。

「誰かと一緒に食べたのは、久しぶりな気がする」

 顔を綻ばせたの見た名藤は、心なしか彼の顔色が良くなった気がした。

「ごちそうさま、名藤」

「お粗末様です」

 ペコリと一礼された穐山は途端に照れ臭くなって、煎茶を啜って誤魔化した。

「ちょっとでも元気が出たなら良かったです。食べないと活力は出ませんから」

「……そうだな。それに、美味かった」

 拒絶を訴える威圧が解けたのを感じると、名藤はようやくいつもの穐山が帰って来たように思えた。共に食事をすることは、調和や和解を生み出す手助けになる。部室を出た後、どこかで聞き覚えのある同じ釜の飯を食った云々に似た話を思い出した彼女は、実践してよかったと安堵した。

 これも、彼女が「先輩に何か良くないことが起きている」というのを予感出来たからの行動だった。

「あの、訊いていいですか。先輩」

 唐突に切り出されると、穐山は彼女が何を訊こうとしているのか予測した。大方、自分が最近サークルに出席しなかったことだろうと、ついでにいい加減顔を出すようにと。切り出され得る質問や説得に備えて、どう答えるかを先回りして考える。

「今は、どんな小説を書いているんですか」

 予期していなかった質問に穐山は面食らう。執筆している小説のことを聞かれるなど、思ってもいなかった。

「今書いてるのは……ネットで人気ジャンルのやつだ。異世界転生系、っていう」

「でもそれ、先輩が嫌ってたジャンルですよね……?」

 以前から穐山が異世界転生系に対する批判を公然としていたため、名藤はしっかりと記憶していた。ましてやその手の小説を書いているという穐山の発言は、非常に意外な答えだったのだ。

「……覚えてたんだな。ああ、俺が最も嫌っていて、苦手なヤツだよ。馬鹿の一つ覚えみたいに、どいつもこいつもありがたがって書いてる、似たり寄ったりの、嫌悪しているアレだ」

 くだらないものだと、吐き捨てるように言う。

「だったら、どうして嫌悪しているものを書いていたんですか。聞くところによれば、講義も頻繁に欠席していたそうですし。もしかしてその小説を書くために休んでいたんですか」

 目の前の男が項垂れながら「ああ、そうだ」と力なく肯定すると、名藤は首を傾げた。

「書きたくないのに……ずっと書いていたんですか」

 話の雲行きが怪しくなると共に名藤も訝しむ。

「そうだな。今日も講義をサボって、帰ってからずっと……。先週くらいから毎日こんな調子でな。書かなきゃいけない気がしたんだ。何かを書いていないと、自分が許せなくて」

「許せないって、そこまで思わなくても」

 いいや、と言いながら穐山は首を横に振って、片手で作った拳を反対の手で握り締めた。

「今のままじゃダメなんだ。もっと多く執筆して、もっと多くの人に読んでもらわないといけない。俺がどんな作品を書く人間か、知ってもらわないといけないんだ。考えるより先に行動に移して、形にしていく。ともかくきっかけを作らないといけない。

 気の進まないジャンルでも関係ない。読者はを求めていない、求めているのはなんだ。だから、反吐が出そうになりながら書いてた。こんなものは書きたいものじゃない、頭に浮かんでくる理想の作品はこんなものじゃない――でも、そうでもしないと、自分を押し殺さないと……俺はあいつに、白滝に追いつけないんだ」

 彼を無理やり動かしていた感情は、白滝への対抗心だけではない。穐山、そして檜枝マサムネという男を徹底的に否定すること。抱えていた信条を投げ捨て、自己嫌悪を上書きすることで、絶えず執筆し続けるための薪とした。

 しかし、これまで決して捻じ曲げてこなかった信条をある日を境に反故にするというのは、穐山にとっては耐え難い苦痛だった。特に彼がここ数日間執筆していたのは、嫌悪していたジャンルの小説である。以前に一度書いたきり放置していたものだったが、筆は思うように進まなかった。

 それでも、彼女しらたきに一歩でも近付くにはやむを得ない手段だと自分に言い聞かせて、ひたすらに文字を打ち続けた。完成して投稿してはレビューを確認し、期待に背いた結果であれば更に捻った文章を書こうと磨きをかける。

 次第に四六時中作品の構想をするようになり、他の物事が頭に入って来なくなった。こうなれば私生活が乱れていくのに、然して時間は掛からない。こうして約一週間後、名藤が対面したときには廃人寸前にまで追い込まれていた。

 自分を殺すということが、穐山にとっては代え難い苦痛と屈辱だったのだ。

「他人に読んでもらうためにはどうしたらいいか。考えた末に思い至ったのは、生き恥を晒してでも、今までの俺を全否定することだけだったんだ。でも――」

 穐山が行ったのは間に合わせの信念でしかない。梁も柱もない城など、自壊するだけだ。

「結果は大して変わらない。どんなに必死になって書き続けたところで、読者もレビューも増えないんだ。考えて、考えて、繰り返し考えて、いずれも結果を出せなかった。それもそうだ、取ってつけたような気構えで臨んだところで、醜さだけが作品に残る。

 どれだけ俺が、自分を、読者を騙そうとしたって、隠しきれない感情が文章の中から出てしまう。出来上がるのは駄作、望まれない結果だ。正しいと思ってやったことは、一つも誰の特にもならなかった」

 皿に残ったつゆが照明に反射するのを見つめながら、穐山はこの一週間の中で得た答えを絞り出す。

「俺は、白滝に追いつけない。あいつと同じ場所にはいけない。思い知らされたんだ。もう無理だと思った。白滝は、時津蒼は初めから高すぎる目標だった。絶対に届かない場所にいる。……そう判っていても、手を伸ばすことを諦められなかったんだ。今までずっとあいつの背中を見て走り続けていたから、足を止めるなんて我慢出来なかった。…………だから、俺は」

「ずっと、小説を書き続けていたんですね」

 答えはない。肯定ゆえの沈黙。

 名藤は立ち上がると部屋の窓を開けて、街灯や民家の光が並ぶ景色を眺めながら、夜風を全身に浴びた。汗ばんでいた体に心地よい風が乾かしてくれる。

「穐山先輩は、白滝先輩じゃないです」

 まばらな町の光が並ぶ夜景を見つめたまま、彼女は続ける。

「先輩は白滝先輩になりたいんですか? 本当の自分を偽って、他人の真似をして、表面だけを取り繕って。白滝先輩の代わりになる人になりたいんですか」

 断じて違うと、穐山は大声で答えたかったが、喉元で使えて言えなかった。ここ数日の行いを思い返せば、きっぱりと否定出来ないのだ。

 やっていたのは白滝――時津蒼の真似事でしかない。

 追いかけているだけのつもりだった。一歩でも前へ、彼女のいる場所へと辿り着くためにやっていた。しかしそれは模倣でしかない。彼女が登りつめていく過程の中でやって来たことのトレース。

「異世界転生系を書いていたのだって、白滝先輩が書いていたからですよね。それに、今回書籍化が決まったのだって同じジャンルでしたし。だから穐山先輩も同じジャンルを書いて、読者を増やそうとしたんじゃないんですか」

「……やめてくれ、名藤」

「否定は、しないんですね」

「俺は……このままじゃいけないんだ……。追いつかなくちゃいけないんだ……。アイツは俺の宿敵だから……」

「関係ありません。白滝先輩に追いつけば先輩は自分を取り戻すんですか、そうじゃないと自分が自分でいられなくなるんですか……! 先輩は今までどんな気持ちで小説を書いていたんですか……!? 白滝先輩に勝つためだけに、誰かを追い抜いて高い場所から見下ろすために書いていたんですか……!」

 名藤の言葉に怒気がこもる。部屋に吹き込んだ風が、彼女の短い髪を揺らす。

「ああ、そうだ……俺はあいつを追い越すために……」

 苦し紛れの言い訳じみた言葉。適当な嘘、自分で自分を騙し、あまりに脆い偽りの人格を作り出す虚勢。

 彼は今一度、自分に問うた。

 俺という存在は何であるのか、何のために書き続けるのか。

 答えは判っている。

 自分が白滝に追いついたとして、かつてまま自我を保っていられるだろうか。求められるのは白滝の代替としてであり、本来の檜枝マサムネは必要とされていない。そこにいるのは檜枝マサムネではなく、時津蒼の贋作だ。

 加えて、他者を蹴落とすために小説を執筆し続けたわけではない。始まりは自分の心の奥底から湧き上がる物語、情景、感情の交錯を描くためだった。ただ一心に、裡から隆起するイメージを白紙の中へぶつけるために、幾度とキーボードを叩き続けてきた。

 白滝への対抗心がなかったと言えば嘘になるが、あくまで副産物に過ぎない。最初にキーボードを叩いたあの瞬間は、確かに心に思い浮かぶ純粋な光景を描こうとした自分がいた。

「先輩――本当は答えが出ているんですよね」

 図星だった。考えていることは全て見透かされるのだと、穐山は内心諦めた。こいつに嘘はつけない。誤魔化したところで、判っていながら知らないフリをされるだけだ。

「では、今先輩が出している答えが本心であるか、証明してください」

「……証明?」

「部室で、待っていますから。白滝先輩への対抗心で書き続けるなら、いつまでもこの部屋で書き続けていてください。ずっと、白滝先輩の場所へ届くまで。部室には顔を出さなくて結構です。先輩の仕事は私が代わりますから」

 ですが、と一度区切って、名藤は続ける。

「どのようなことを考えているかまでは存じませんが、自分に正直でいたいと思う心がまだ残っているのなら、もう一度部室に来てください」

 冷たく言い放っていたが、彼女の声には優しさもあった。

 あの時の――始まりの瞬間の自分に立ち返られるなら。俺はもう一度、あの扉を開けることが出来るだろうか。畳の目を見つめながら穐山は無言のまま考えて、名藤の問いかけには答えない。

 呆然自失に似た様子で俯いたままの穐山に、憂うような視線を向けたまま、名藤は最後にこう言い残した。

「私は待ってます。先輩のこと」


「ホントに寄ってたんだ、アッキーのところ」

 穐山のアパートの下、羽虫の集る街灯の下に立っていたのは白滝だった。階段を下りていた名藤は眉を顰めて、愉快そうに見つめてくる先輩を睨む。

「今さら何の用ですか、先輩」

「様子を見に来た、じゃダメ?」

 悪気がないのか、挑発しているつもりなのか、どちらにも取れる態度が受け手の判断を困らせる。

「お互い意地の張り合いなんてして。真っ先にここに来るのは先輩であるべきだと思っていました」

「どうして?」

 感情のこもっていない問いが、両者の間に張り詰める空気を一層冷たくした。名藤は穏便に済ませるつもりだったが、本気とも冗談ともわからない彼女の一言に、堪忍袋の緒が切れかける。

「全部知っているのに、相手が後輩だからってしらばっくれるのはどうかと思います」

「なっちゃんが何を言ってるのかはわからないけど。わたしはただアッキーの具合が悪いかなと思って、様子を見に来ただけ」

「だったら教えてあげます、先輩の具合は良くないです。精神的な面で。でも、もう白滝先輩が干渉するタイミングじゃありません。あとの判断は、穐山先輩次第ですから」

「詳しいんだ、アッキーのこと」

 空気が軋む。露骨な挑発だと判っていても無視出来なかった。

「……なんですか」

「野暮だから部屋で何してたかまで聞かないけどさ、アッキーのことよく理解してるんだなって」

「言いたいことがあるならはっきり言ってください。わざわざ遠回しに言う必要もありません。それにどんな想像をしているのかは知りませんけど、別に穐山先輩とやましいことなんて一つもしてないですから。妙な勘違いはやめてください」

 余裕に満ちた表情を浮かべる白滝へ、名藤は小さな肉食動物のように言葉の節々で牙を見せた。向けられた当人も知ってか知らずか、「そっか」と短く答えた。

「穐山先輩は自分と戦っています。どうするべきか、どうあるべきか。自問自答の壁に挟まれて、苦しんで、もがきながらながら答えを出そうとしています――だから。もしあの人の邪魔をするのなら、ここを通すわけにはいきません」

 敵対を表す相貌に、もはや上下関係などない。対峙する両者は一人のひととなっていた。

 しかしここまで名藤を煽っている白滝もまた、本心でやっているのかと訊かれれば否で、むしろ弱さを隠すために悪人ぶったフリをしている。意地の張り合いと言った後輩の指摘は当たっていた。

 本質的に、は似ている。

 傷つきやすく脆いくせに、ただ信じるもののために専心し続けている。結果が違っただけで、彼らはよく似ているのだ。だから二人は弱い人格を隠すために、薄く硬い仮面つける。

 そして似ているからこそ、互いの乾かぬ傷跡を見つけることが出来ない。

「行かないよ、わたしは。顔を合わせる理由もないし、権利もない。自覚がないわけじゃないから。なっちゃんが言ってるように、これはアッキーが切り開かなくちゃいけない問題で、が口出しすることじゃない」

「……なら、いいです。わかっているようですから」

「なっちゃんには嘘をつけないね、なんでもお見通しだもん」

「どうでしょうか、なんとなく察しているだけです。二人の間で何かがあった、それでおかしくなったって」

「おかしい、かぁ……。でもね、私だって思うことはあるんだよ。なっちゃんが私をワルモノに仕立て上げたいなら別にいい、でもね。傷つかない人なんていない。だってさ、少しくらい期待したっていいじゃん。一歩先くらい進んだっていいじゃん。……いつまでも同じ場所なんて嫌だよ。だから景色や関係を塗り替えたかった」

「何のことを言ってるんですか」

 名藤の反応はあくまで冷静だったが、彼女は白滝の言葉の意味をほとんど理解出来ていなかった。彼らの間で起きたことや、大学に入る以前からの二人の経緯もあまり知らない名藤にとっては、当然の反応だ。

「わからないならわからないでいいよ。わかろうとしなくてもいい。知らなくたっていいことだし、こんなことは知られたくもないからさ。ただ、遠い国に住んでいる誰かが、どうしようもない願いを叶えようとして、自分の身を滅ぼしちゃったって話。念頭に置くのはこれくらいでいいよ」

 階段の下で佇む名藤に背を向けて、顔を背けたままで提案する。

「今日ここで会ったことは忘れておかない? お互い、今後のやり取りで損するだけだしさ」

 しばらく時間を空けて、名藤は小さく「わかりました」と呟いた。

「私としても、先輩といがみ合いたくはありませんから。これっきりにしましょう。でも――」

 その場から去ろうとしていた白滝の歩みが静止する。

「穐山先輩との間に起きたことまで有耶無耶にしないでください。責任の一端には先輩が関係しているはずですから」

「…………そーだね」

 感情の分別の付きにくい横顔を見せると、止めていた足が再び歩き始める。

 白滝が去るまで場の空気は緩和せず、背中が小さくなっていくのを見届けた名藤は、穐山の部屋の窓を外から眺めた。電気は点いたままだが、彼が今何をしているのかは見えない。

 たった数メートル、一枚の壁と扉を隔てただけの距離がここまで遠く、重いなど、これまで一度も思ったことはなかった。

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