<イベント・ラッシュ・デイズⅤ>~ザ・ドッグ・オブ・ネメシス~






 組織や個人の利益のために倫理や情といった人として大切にしなければいけないものを踏みにじる人間は、よく犬に例えられる。


 国家の犬。

 軍の犬。

 警察の犬。

 政党の犬。

 組織の犬。

 利権の犬。

 誰某の犬。


 統率がとれた集団行動をとる人間の例えなのだが、その言葉の持つもう一つの意味合いに盲目的で自分の価値観を持たない家畜同然の人間というものがある。


 ありとあらゆる権威に従う人間をそう呼ぶのは、権威主義というものが、動物的本能を利用した非人道的な理念だという事実を象徴しているからだ。


 権威主義者の大義名分は、個人よりもっと大きなものの為に働くことこそが尊いというものだ。


 だが、それは本当に大きなもの為などではなく、限られた‘下種脳’の為に働いているというのが実のところだ。


 個人の利益より社会の利益を優先しなければいけないというのは、間違いではない。


 そして、それは社会の利益より人類全体の利益を優先しなければならないということでもある。


 人類全体の利益とは、人が社会をつくるために共通してつくりあげてきたもの、倫理であり情愛であり、人として大切にしなければならないもののすべてだ。


 それは、‘下種脳’達によって個人的で小さなものの見かたでしかないという誤った価値観で語られがちだ。


 しかし、理想そちらのほうこそが、全ての根源であり、最も大きなものの見かただ。


 あるいは、全ての人々の身近にあって、人と人を繋ぐその理想おもいを、まるで遠くにあって届かぬものと思わせ。


 あたかも幻想のように扱い、理想それを求める者は、現実を見ない愚か者だという誤魔化しの嘘を、‘ 下種脳 ’達は吹聴する。


 しかし、理想そちらのほうこそが、現実に人を繋ぐ絆であり、利権や金銭こそが幻想だ。

 

 利権や金銭という暴力原理システムなど、自然淘汰という人が否定してきた不幸ものを模したゲームのデータのようなものだ。


 しかし、その幻想こそが大事なものだと信じるのが‘ 下種脳 ’だ。


 そして、幻想を幻想として暴く事に苛立ち、悦楽に溺れていたいと甘えたがる者が‘下種脳’に従う。


 幻想を幻想と気づかせないように、‘ 下種脳 ’どもが、ありとあらゆる認識ものを利用するからだ。


 暴力原理げんそうを否定する者を、貶め、蔑み、痛めつけ、傷つけて。


それでも屈しなければ、終には‘ 非人脳 ’が、反逆者として殺し尽そうとする。


 悪しき幻想に依存する哀れな‘ 下種脳 ’は、幻想を壊そうとする理想は、自分たちから全てを奪うと信じてしまう。


 自分達が成してきた‘ 非道な生き方 ’を暴かれれば破滅だと信じ。


 他者を蔑まなければ蔑まれると感じ。


 奪わなければ奪われると信じ。


 ‘ 下種脳 ’達が創りあげてきた幻想を信仰する狂信者としてしか生きられないからだ。

 

 そうして、‘ 下種脳 ’は、理想に反する悪しき幻想を守る事こそが人間が繁栄するという狂信を広め続ける。




 だが、もっとマシな共存のための仕組みは幾らでも存在する。


 競争ぼうりょく原理という‘ 下種脳 ’のシステムなど、代替の効く歪められた無駄に醜悪なシステムにすぎない。

 

 しかし、理想なしでは、人間は共食いをしあう毛のない猿の一種にすぎないのだ。


 だから、どんな社会も国家も組織も、理想なしでは存在し得ない。


 マスコミが騙り、子供達が感じる社会の矛盾とは、そういった暴力原理げんそうによる征服統治こそが絶対に必要だという狂信が創り出すシステムの不具合バグだ。


 それバグは、社会制度という‘ システムの運用法 ’を弄るのでは正せない。


 幻想を捨て、共存原理のシステムを新たに造るしかない。


 けれど、自分達の利しか考えない‘下種脳’は、権力という不公正を維持するために、誤魔化しの理屈で、人を服従させようとする。


 幻想を壊す事は、世界を社会を私達の生活を壊す事だと考えさせ、従順に幻想を守るのだと、人間を犬のように躾けようとする。


 だから人間であり真に大きな視野を持つのなら犬のように生きてはならない。


 本当の犬達は人間であろうが毛のない猿であろうが主人であるならば慕い、そうでない者には牙を剥く。


 犬は善悪を考えない。

 犬はただ主人の為だけに生き死んでいく。





 オレは目の前に転がった犬の死体を見ながら、この犬がなぜ死ななければいけなかったのかを考えていた。


 全長で180センチはありそうな大きな犬だった。


 頭はシェパードのような立耳細顔だが、首から下の毛並みは長く四肢の先や首の下の毛は特に長く渦巻いていてどこか狛犬を思わせる。


 犬は全身に傷を負い、白い毛並みを赤黒くなった血に塗れさせ、だらんと舌をたらして事切れてている。


 傷は大きなものあれば小さなものもあるが、全てが新しく死ぬ少し前にできたもののようだった。


 致命傷になったのは喉のあたりに突き刺さった金属の破片だろうか、まだ生々しい血が流れている。


 だが、それだけ傷だらけだというのに、犬の表情に苦悶の影はなく、不思議と満足そうに見える。


 その体からはなぜか死臭ではなくどこか甘い強烈な香水の臭いが漂っていた。


 全身にこびりついた血の臭いを欠片も感じさせぬのだから相当なものだ。


「じゃあ、魔物除けを壊したのはこの犬だというのかね?」


 協会長の質問に、見張りをしていた男がうなずく。


「すいません、いきなり爆裂弾をくわえて飛び込んでいったんでさあ」


 見張りがそう言って見たのは、直径1メートル近くありそうな白い半透明の球だ。


 その球は上三分の一が砕け、あたりに破片を転がしている。


「ライカンではなさそうじゃな」


 犬を見ながら言う協会長の言葉に見張りもうなずく。


 ライカンスロープ。


 リアルティメィトオンライン日本では、人型から獣型に変身する能力を持った者をいい、一神教文化圏の獣人種にあたる友好種だ。


 もっとも獣人種は変身せず獣頭人身で、欧米で獣型に変身する能力をもつのはワーウルフやワーフォックスなどの人型の魔物ということになっている。


 やはり、ここはリアルティメィトオンライン日本が基準につくられているらしい。


 リアルティメィトオンラインは基本設定は同じだが、現実と同じように各国で違う文化圏の社会を形成している。


‘水晶のアルケミスト’や‘流浪の精霊騎士’がいるのは日本だから矛盾はないようだ。


「誰の仕業ですかね?」


 見張りがいぶかしげに、犬から協会長へと視線を移す。


「こんなことして特になるやつあ、いないはずなんすが」


「魔物よせの香塗れの犬が魔物除けを壊すか。しかも近くまで魔物を引き寄せたんじゃろう、この傷は」


 オレ達に聞かせるように言って協会長は、見張りからオレの方へと視線を移す。


「盗賊は14人ということでしたが、その中にティマーはおりませんでしたかな?」


 ティマー──ビーストティマーのことだろう。


 ゲームに関連する用語の類は、ティーレル語ではなくリアルティメィトオンラインのシステムメニュー内に存在するものがそのまま使われる。


 というのは判っていたが、さっきのライカンといい略語として使われるものも多いらしい。


 言語に対するASVRの縛りはかなりのものがある。


 その最たるものが、ASVRを利用した翻訳機能だろう。


 リアルティメィトオンラインの翻訳機能をASVRで実現するために使われたシステムだ。


 これは言語を正確に翻訳するために略語や訛りといったものを自動的に排除するものだ。


 それを考えれば、協会長や見張りの男はこのゲームを影で操る人間ではなく、ティーレル語を第一言語として育った人格を植えつけられたミスリアと同じような被害者のNPCということになる。


 もし彼らが黒幕やその手下なら翻訳機能を使っているだろうからだ。


 だが、そういった略語や訛りに対応した翻訳システムが開発された可能性もあるし。


 可能性としては少ないがティーレル語をやつらがわざわざ覚えたということもなくはないだろう。


「ティマーですか、どうかな?」


 オレは、少し考えるふりをしながら行っていた男達の分析を切り上げ、横に立つ女達へ振り向いた。


 女達は、その半数がオレや男達のいる方向ではなく犬の亡骸を見ていた。


 こちらを見ているのはシセリスだけだ。

 ミスリアは壊れた魔物よけを調べている。


「……かわいそう」


「うん……なんでこんなことできるんだろう」


 犬を見ている少女達のつぶやきが聞こえた。


 他の人間には聞こえていないだろう小さな声だ。

 どうもこの体は性能が良すぎる。


「おそらく、弓を持っていた男の一人がそうだったのではないかと」


 シセリスは、少し記憶を辿るように考えていたが、考えがまとまったのかオレと男達に説明した。


「腰に鞭を巻きつけていましたし、‘威圧の瞳’らしきものをつけていましたから」


 威圧の瞳とはアイテムの一種で額につけることで、見るものを威圧する効果があるというものだ。


 威圧はゲーム上のスキルとして存在し、オレが役人に殺気をとばしたように交渉で使ったり精神力の弱い相手に戦闘時ペナルティを与える。


 リアルティメィトオンラインでは職業専用アイテムという物はないので、それだけで確定するわけではない。


 だが、威圧というスキルは調教効果もあげるため、ビーストティマーが好んで使う装備品だった。


「そんじゃあ、あの犬は主人の仇討ちをしにきたってことで?」


「盗賊の生き残りに命令されたのかもしれないよ」


 見張りの問いに誰かが答える前に、ユミカの憤りを含んだアルトが響いた。


「そうかもしれんのう」


 そう答えたのは難しげな顔をした協会長だ。


「じゃが、そうすると──」


「それはないわよ。ティマーは他のティマーとは組まないものよ」


 たぶんろくでもない台詞を吐こうとしたタヌキオヤジを遮って、ミスリアが言う。


「それに、ティマーの調教を受けた獣は他の人間の命令に従わないわ。


 まして命がけどころか死ねという命令はティマーの直接命令でも難しい」


「そんな……!」


 平和な国で育った故か、それとも少女期特有の潔癖さ故か、愚直な犬の死に憤りを覚えていたユミカの表情が、怒りから苦衷を含んだ困惑へと変わる。


「だから、わたし達に責任はありませんよ、協会長さん」


 ミスリアはといえば、そんな感傷とは関係なく艶やかな笑みを浮かべて言う。


「あの犬が自分の意志で主の仇を討ちに来たと考えるより、わたし達とは関係なくこの村が狙われたと考えるほうが自然でしょう?」


 ユミカの感傷を理由にオレ達の責任感を煽ろうとした協会長の機先を制したミスリアは、ちらりとシセリスにアイコンタクトを送る。


「まあ、何れにしろ確証のある話ではないのですから原因より対策を考えるべきでしょうね」


 シセリスはそう言って完全に話を打ち消す。


「えっ、どーいうこと?」


「……化かしあい?」


 そんな小競り合いの横では、小声で聞くユミカに、疑問形ではあるもののミスリアが聞いたら怒りそうな台詞で、シュリが答えていた。


 まあ、この交渉を表す言葉としては、言い得て妙ではあったが──。


 ルヴァナー協会という組織は、完全な民営であるギルドと違い自警団としての性質を持つ。


 これは所属する自治体から公金を得る代わりに自治体を護る義務を負うということだ。

 

 自治体が金を集めて保険制度を作っているのと同じことだが、大きすぎる出費があったときに保証の金を出し渋るのも、また同じなのだろう。


 対して女達も、この事件があの犬自身が望んだことで、おそらくはあの見張りが言ったように、主の復讐を果たそうとして命を投げ出したのだと気づいている。


 シセリスの言うように確証はないが、二つの事件が独立して同時期に起こる可能性というのはそう多くないからだ。


 女達との出会いも含めたこの一連のイベント全てに、ASVRを操る黒幕の関与を感じているオレと違って、彼女達がそう感じるのは自然だろう。


 そして、トラブルを金を使わずに解決したい協会と、命を賭ける代金を値切られたくない女達。


 という構図は、命に価値をつけられないと言って命を買い叩こうとする‘下種脳’が歪めた価値観が広まった国で生まれた少女達には解りづらいものらしい。


 まともな人間なら誰だって犬死はしたくないものだ。


 だから‘下種脳’は、金で買うことが許されない命に、あえて価値をつけて金儲けの材料にする。


 そして、更に‘下種脳’はその想いを歪めて、命をなるべく安い金で買おうとする。


 これは、遥か昔から行われてきた‘下種脳’とそれに抗う者の構図だった。


 そして‘下種脳’の下で働く有能な犬達が、始末に困るのもまた昔からだ。


 やつら‘下種脳’の価値観では、人間は道具にすぎないために能力のみを重視し、無能な善人よりも有能な悪人をを集めたがる。

 

 あたりまえの話だが、自らを無能と知る善人のほうが自らを有能と知る悪人よりは社会のためになる存在だ。


 なぜなら‘下種脳’の価値観での有能さとは、騙し合い奪い合うゼロサムゲームを争そう上での有能さだからだ。


 争いという目的に限定して能力を絶対値でしか見ないなら、社会にとってマイナス方向に大きい能力の方が、プラス方向に小さい能力より社会的に優れていると考えるようになる。


 だから、手段を選ばず戦う有能な馬鹿と手段を選び正しい行いをしようとする有能な賢者。


 その二つでは‘下種脳’の価値観で見れば前者を有能とする為、やつらの下には有能な愚者ばかりが集まることになる。


 そう、この犬のようにだ。


 自らの乗る船の上で爆弾を使って敵を殲滅して自らを有能と嘯く人間が蔓延ればその先に待つのは全てを巻き込んでの破滅しかない。


 ならば、これからオレがやることは決まっている。


 あの有能で愚かな犬の死に哀しむことでも、憤ることでもなく、あの犬の死を本当の犬死にしてやることだけだった。




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