映画「世にも怪奇な物語」の世界――第三話「悪魔の首飾り」

 前二話もそれぞれ力作、秀作だが、圧巻は、やはりこの最終話のフェデリコ・フェリーニ監督「悪魔の首飾り」だろう。


 中世や近世を舞台にした前二話に対し、この話は現代のローマを舞台にしており、その空港にイギリス人の俳優トビー・ダミットが飛行機で降り立つ場面から始まっている。


 麻薬とアルコールに溺れ、蒼白な面相をしたトビーの視野においては、日暮れ時で琥珀色に染まった構内で発着の待ち合いをする人々はまるで琥珀に閉じ込められた昆虫か酒瓶のラベルのように歪んでかつ薄っぺらく見え、モニターに映るスタッフは幽霊じみた不気味な顔つきをしている。


 彼は、また、ローマに来る以前から、金髪に白いワンピースを纏い、同じく白い鞠(まり)を持った少女が自分の行く先に待ち構えて微笑んでいる幻想にも取り付かれている。


 彼の独白。

――彼女は私に遊んでもらえると確信している様なのだ。


 幻想の中の少女はあどけない顔立ちで無邪気に微笑んではいるものの、生白い顔に唇だけが奇妙に赤く浮き上がり、子供らしからぬ赤いマニキュアを施した手で鞠を抱え、金髪の前髪の下から瞬き一つせずに上目遣いでこちらを眺める表情にはゾッとするような不気味さが漂う。


 空港のエレベーターにこの少女が佇む姿を目にした彼は「私を一人にしてくれよ」と呟くが、周囲の記者たちには不可解な独り言としか映らない。


 その後、空港から出演映画のプロデューサーと合流して車で市内を移動するが、麻薬中毒患者であるトビーの目には関係者たちがいずれも不気味な魑魅魍魎に見え、車窓のローマの街並みも、それ自体がセピア色に染め上げられた巨大な映画のセットのように作り物じみて映るのだった。


 路地で立ち働く生身の人間がマネキンに見えたり、逆にショーウィンドウのマネキンが生身の人間に見えたりする映像上の演出からも、病み切ったトビーにとっては現実と虚構の境目が曖昧であり、むしろ彼の精神世界においては互いを浸食し合う関係にあると観客には察せられる。


 こうして地元のテレビ局に到着し、文字通り番組制作のためのセットの中に身を置いた彼はインタビューに不敵な笑いを浮かべて臨む。


 賤しい仕事をしたことはあるかというぶしつけな問いに対し、相手というかマスコミそのものを挑発するかのように応える。

――あるよ。インタビュアーはしたことはないが。

 カトリックの総本山たるローマに招かれていながら、彼の側からは見えない現地の視聴者を逆撫でするかのように語る。

――私は無神論者だ。

 しかし、続けて悪魔の存在は信じると述べる彼。

――私の悪魔は可愛い少女なんだ。

 彼の中で幻影の少女は、自分を破滅に追い込む悪魔と明確に認識されているのである。


 その後、トビーは現地での演劇関係者の授賞式に招待され、そのパーティ会場に移る。


 受賞者として司会者に名前を呼ばれた招待客はステージの上に次々上がり、判で押した様に月並みなスピーチを述べるが、トビーはその様子を尻目に不機嫌に酒を飲み続ける。


 時たま、他の客が彼に声をかけるものの、まだ思春期の娘を引き合わせる女性に向かって、「お嬢さんは処女ですか?」と揶揄する等、わざと反感を買おうとするかのような投げやりな態度で応じる。


 そんな彼に黒い毛皮を纏った一人の美女が近づいてくる。

「ずっとあなたに寄り添ってあげるわ。私はあなたがずっと待ち望んでいた女よ」

 無言で彼女を見詰める彼。


 そして、トビーの名前が呼ばれ、彼はステージに上がる。


 シェイクスピアの「マクベス」から引用した台詞を述べる彼。

――消えよ、消えよ、短い蝋燭よ。人生は歩く影。自分の役が済めば、舞台から消え去る哀れな役者だ。阿呆のわめきちらす物語だ。さっぱりわけがわからぬ。


 この台詞自体も彼の運命をなぞる様な内容だが、それすら中断し、アルコールに溺れて仕事も覚束なくなった悲惨な自分の共通を暴露する彼。

――さっき、美しい女が来て、ずっと寄り添ってくれると言った。私がずっと待ち望んでいた女だと言うんだ。でも、私は誰も待ってなんかいなかった。


 自嘲的な笑いを浮かべ、遠くに座す美女を指差すトビー。

 しかし、遠景に映る黒い毛皮の美女は、まるで他人事のように腰掛けたまま、もはや彼に視線を向けてもいないようである。


 そして、彼がこのパーティに出席した本当の目的であるフェラーリが姿を現す。

 吸い寄せられるように豪華な車体に近付き、乗り込むトビー。


 冒頭ではタクシーで誘導されたローマの街を、あてどもなく、まるで暴走そのものが目的であるかの様にひたすら疾走する彼。


 マネキンとも生身の人間ともつかぬ人影を跳ね飛ばし、信号も標識もルールは一切無視して爆走していく。


 突如、通行止めのガードが視界に迫ってくるが、スピードが速すぎて止まれず、ガードを突き破ってようやく車が止まる。


 トビーが車を降りると、爆音を聞いて窓から顔を出した道端の家の男が、橋が落ちて道路は寸断されていると告げる。


 夜の闇に仄かに浮かび上がる、中間部が崩落し、二つに分断されたハイウェイの橋。


 トビーは、分断された道路の向こう側に、白い鞠を持った少女の姿を発見する。


 彼は憑かれたように、ハイウェイの谷間を飛び越えようと再び猛スピードでフェラーリを疾走させて、闇の中へ消え去る。


 夜が白々と明ける頃、通行止めの為に張られた白いワイヤーの真ん中に赤い血の跡が付いている。


 ワイヤーに切断され、道路に転がっているトビーの首。

 ふと、白い鞠が弾みながら路地を転がって消え去る。

 再び姿を現した白服の少女は、まるで新しい鞠の代わりにでもする様に、トビーの首に近付いていく。


 以上が本編の粗筋である。


 前二話の主人公たちが貴族などいずれも生活には貧しない固定的な上流層の人間であるのに対し、この話の主人公トビーは「俳優」というフリーランスの立場であり、しかも落ち目という社会的経済的な苦境に立たされている。


 原作小説では単に貧乏な青年である男主人公を「イギリス人の職業俳優」としたのは、演者であるテレンス・スタンプ本人と重ね合わせて作品自体を内幕物に仕立てるための改変と思われる。


 しかし、黒いジャケットを羽織り青白いメイクを施した主役のテレンス・スタンプの風貌は、明らかにエドガー・アラン・ポーその人の肖像に似せており、また、麻薬とアルコールに耽溺している境遇も晩年の彼を思わせる。


 また、全二話と異なり、冒頭の方に主人公自身のモノローグが入っている演出も、主人公がストーリーテラーを兼ねていると観客に印象付けるものだ。


 なお、第一話ではヒロインの境遇や心境の変化について、男声のナレーションが入るが、これは劇中の人物とは別個の正に「神の視点」による語りである。


 第二話では、そもそも主人公のウィリアム・ウィルソンが司祭に懺悔の代わりにこれまでの人生を直接語るという設定になっているので、モノローグではなく、飽くまで劇中のリアルな空間における発話であり、物語の外にいる観客に向けた語りではない。


 第三話だけが、主人公が作家的に自己の内面を掘り下げる言葉を観客に向けて発している。


 話を主人公の境遇に戻すと、原作者のポーは職業作家の先駆者的な存在であるが、作家も俳優も大衆の人気に依拠した、いわば浮草稼業である点では共通している。


 劇中のトビー・ダミットは、十九世紀前半において前衛的な立場にあった職業作家から、二十世紀後半において時代の最先端を象徴する職業俳優に転生した、エドガー・アラン・ポー本人とも見られよう。


 招待された授賞式に出席するものの、なかなか自分の名前が呼ばれず、他の関係者が次々ステージに上がってスピーチする姿を尻目に鬱屈するトビー。この描写も、生前は不遇を強いられ、文壇に強い不満を抱いていたポーと重なる。


 ただ、劇中のトビーはかつてシェイクスピア劇の名優として名声を得ていたものの現在は俳優業に行き詰まり、フェラーリの報酬と引き換えにウエスタン映画に出演するためにはるばるイギリスからローマを訪れている。


 この描写からは、史実のポーが生きた文芸業界より俗悪な物質主義に毒されやすい現代芸能界への作り手からの自虐的な批判も感じられる。


 トビーが麻薬とアルコールに溺れる退廃的な日々を送っているのも、理由は明確に説明されていないが、あるいはそうした低俗な業界への失望感や、生活のために格式の高いシェイクスピア劇から転落して商業主義的な作品に出ざるを得ない自分への絶望感が根底にあるかもしれないのである。


 空港で出迎えた新作映画の制作関係者たちが魔物然とした不気味な風貌を与えられているのは、表面的には主人公の麻薬中毒に起因する幻覚症状であるが、彼及び作り手から見た業界の本質でもあろう。


 本来は望まない仕事の報酬として現金の代わりに自動車が提示されているものの、これもまた「現代」を象徴するアイテムである。


 ちなみにブランドとしてのフェラーリに着目すると、舞台となったイタリアの高級ブランド車であることは言うまでもないが、車種としては本来レーシングカーをメインに製造していたのを市販車向けにモデルチェンジした経緯があり、高級車としてセレブリティに愛用される一方、暴走事故を起こしやすい特性も秘めている。


 話は少しずれるが、劇中での原題は”Never Bet the Devil Your Head”で、直訳すると、「悪魔に首を賭けるな」といった意味であり、「首飾り」というのは邦題で独自に付け加えられた言葉だ。


 原題の通りだと「悪魔」は賭け事の相手でどこか男性的な印象になるが、「首飾り」だと着飾った女性が連想される。


 事実、原作小説に出てくる悪魔は中年の紳士の姿を借りているが、劇中に主人公に一貫して取り付く幻影は前述の通り、白い服に鞠を抱えた幼い少女である。


 加えて、空港のモニターに映る不気味な女性スタッフの顔や道路の渋滞を機に近寄ってくる占いの老婆、テレビ局の女性インタビュアー、パーティの席でたむろしている着飾った女性たち、その中から近付いてくる黒服の美女等、劇中の要所要所で女性の姿を借りた不吉なイメージが現れる。


 トビーを死に誘い込む白い服の少女はあどけない風貌の反面、前述したようにルージュを引いたように赤く浮き出た唇や真紅のマニキュアを施した爪といった、明らかに女性のセクシュアリティを連想させる扮装も与えられている。


 また、金髪に白い服を着たあどけない少女というと一般には天使を連想するが、同時に鞠を持った幼い子供は歩行者が不意に車の前に飛び出してくる交通事故のイメージのステレオタイプも髣髴させる。


 日本人的な感覚からすると、この少女は人を死へと誘う純粋な悪魔的存在というより、むしろ彼女本人が仲間(遊び相手)を求める死霊・怨霊的な存在にも見える。


 ここで思い出されるのは、ポーの私生活だ。


 よく知られているように、ポーにはヴァージニアという妻がいたが、ポーの従妹でもある彼女は結婚時二十七歳の彼に対してわずか十三歳の幼な妻であり、また二十四歳の若さで夫に先立った薄命の女性でもあった。


 死後数時間後に描かれたヴァージニアの肖像画はのけぞり気味の横顔で描かれており、劇中で主人公を横目で見上げる少女のポーズに通じるものがある。


 決定的に異なる点としては、肖像画のヴァージニアは黒髪であるのに対し、劇中の少女はソフトフォーカスの映像に同化してしまうような金髪である。


 ただし、それは肖像画では重たい黒髪のポーに対して、劇中のテレンス・スタンプが金髪であるのと同じ視覚設定上の変換であり、ポーとヴァージニアが従兄妹として血縁の上で繋がっていたように、劇中のトビーと少女も本来は同種なのではないかと思わせる点は変わらない。


 ポーの代表作の一つに「リジーア」という短編がある。


 孤独な男主人公が黒髪の理想的な美女である愛妻リジーアに先立たれ、その後、金髪碧眼の美少女を後妻として娶るものの、彼女を心からは愛せない内にまた病気で亡くす。

 しかし、この後妻の遺体は黒髪黒目のリジーアとして蘇生し、男主人公は「もう見間違えはしない、君こそが僕の最愛の人だ」と叫ぶ筋書きになっている。


 短編小説中のリジーアがヴァージニアの投影であることは疑いようがなく、また、劇中でパーティのシーンでトビーに近づいてくる黒い毛皮の美女は、黒を基調にした扮装や「私があなたの待ち望んでいた女よ」という台詞からしてこのリジーアを連想させる。


 トビーが彼女を拒絶して、金髪の幼い少女に誘い込まれるように死に向かっていく展開に、ポーのオリジナル作品「リジーア」へのアンチテーゼというか、対抗心が感じられなくもない。


 しかし、この黒い毛皮の美女にしても、金髪の少女同様、トビーにしか見えない幻影と察せられる(業界人たちが馴れ合うパーティ会場に突如として姿を現したこの美女は、トビー以外の人間とコミュニケーションを取る描写が全くない)。


 それまでテレビ局で見掛けた料理番組の女性出演者に「結婚してくれ」と戯れに呼び掛け、また、パーティ会場で引き合わされた少女について「お嬢さんは処女ですか?」と冗談交じりに尋ねる等、女性との現実的な関わりに少なからぬ興味をトビーが示していたにも関わらず、いざこの理想的な美女が救済を申し出ると拒絶する展開に、根深い彼の心の闇が見える。


 酒と薬物に溺れたトビーの目線で描かれる授賞パーティの模様はいかにも奇怪だが、これもポーの有名な「赤死病の仮面」の舞踏会を彷彿させる。


 本来は疫病から隔離された選民たちの享楽であるはずの舞踏会は、それ自体が死を連想させるような不気味な雰囲気で行われており、最後は招待客の装いで紛れ込んだ死病が蔓延して本物の地獄図に転じる。


 授賞パーティで一人浮いていたトビーはその後現実的な死を迎えるが、他の招待客たちにとっても浮き沈みの激しい芸能界においてはトビーの転落や破滅は正に「明日は我が身」であり、奇妙な風貌を持たされた他の招待客たちは、実は既に死んでいてトビーを仲間に誘い込む悪霊でなければ、トビーの遠からぬ追随者にも見える。


「ずっとあなたに寄り添ってあげるわ」と自分から言っておきながら、苦境を率直に打ち明ける頃には視線を合わせようともしない黒い毛皮の美女は、セレブリティを賛美した傍から忘れ去る大衆を美しく具現化した存在でもあると同時に、儚い名声そのものの化身でもあろうか。


 そして、本編の肝とも言えるフェラーリでの疾走シーンは、明らかにポーの作品世界というか時代的な制約からの逸脱を示している。


 この展開には、主役を演じているテレンス・スタンプの出世作となった映画「コレクター」が一つのヒントとなっていると推察される。


「コレクター」でスタンプ演じる男主人公は冒頭で女子美大生を自家用車で追跡して彼女を誘拐し、また、ラストでは美人看護師を新たに自家用車で付け狙う。


「コレクター」の主人公は自分が生きていくために伴侶となる生身の美女を慎重に追跡していくが、「悪魔の首飾り」の主人公は幻影の美少女が誘う死に向かってフェラーリを暴走させる。


 劇中のトビー・ダミットを「貧民層出身のイギリス人俳優」とスタンプ本人と敢えてだぶらせる設定にしている点もさることながら、物語のカタストロフィもスタンプのイメージを壮大にセルフ・パロディした観がある。


 物語の舞台を現代都市のローマに改変したのは、同地がイタリア人監督フェリーニの活動の根拠地であった事情もむろん大きく影響しているだろうが、カトリックの本拠地であるローマにポーを投影した主人公を異邦人として迷い込ませることで、ポーの異端性をより鮮やかに浮かび上がらせることを意図したと考えられる。


 ラストで切り落とされた男主人公の首に近づいていく悪魔の少女の姿からは、オスカー・ワイルドの「サロメ」も連想されるが、これは劇中で引用されるシェイクスピアと並ぶイギリス文学者へのオマージュだろうか。


 ちなみに、十九世紀の前半に生きて死んだポーに対して、オスカー・ワイルドは同世紀のちょうど後半を生きて没しており、正にポーと入れ替わりに現れた耽美派の大家である。


 映画「世にも怪奇な物語」の最後を締め括るこの作品は、ポーの作品イメージを複合的に取り入れるばかりでなく、ポー以降の時代の雑多な要素を織り込むことで、文学と拮抗し得る映像表現の可能性を追求した、さながら華麗なタペストリーを思わせる一編である。

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