11 魚

「散歩でもしようか」

 わたしを見つめながら佳哉さんが言う。

「はい」

 わたしが答え、それでわたしたち二人が佳哉さんの部屋を出る。アパートの外の冷たい空気を肌に感じながら、わたしは子犬のように佳哉さんにじゃれつきたいと思う。でも出来ない。けれども逡巡するわたしを思いやったのか、佳哉さんが腕を『く』の字に折り曲げ、わたしの方についと出す。だから、これ幸いとわたしが佳哉さんと腕を組む。わたしに手を握らせるのはハードルが高いと考えたのだろうか。それで徐々にわたしを自分に慣れさせる準備として、まず腕を組ませたのだろうか。

「寒くない」

「いいえ、平気です」

 だが、わたしにそう声をかける佳哉さんは半袖のTシャツに薄い紫色のブルゾンを羽織るばかり。

「佳哉さんの方こそ、寒いんじゃありませんか」

「いや、心が常夏だから」

 一体どういう意味なのだろう。だが、その言葉の意味を探り当てる前に上水公園に着いてしまう。園内に入り、堤ではなく暗渠の上をゆうるりと歩く。気温は低いが、晴れているので人が多い。もっとも人といっても大人よりも子供が多い。都会では貴重な遊び場だからか。常識的には禁止のはずだが自転車に乗って走り回る子供たちの複数の群れ。その向こう側に設置された遊具の近くにはベビーカーがあり、お母さんがいる。わたしたち二人のいる位置からは見えないが、ベビーカーの中には赤ん坊がいるのだろう。

 でもそれ以上、わたしは子供や他の人たちを気にかけない。代わりに向こうもわたしたちに関心を示さない。みなそれぞれ、思うところがあるのだろう。わたしのそれは、もちろん佳哉さんだ。想いを託すように顔を上にして佳哉さんを見る。すると佳哉さんもわたしを見返してくれる。極上の笑みに続けて何かを言うが、わたしにはまったく聞き取れない。それで溺れた気分になる。水に溺れた魚の気分だ。すると魚がやって来る。今まで公園内にいた子供や人もみな部分魚に代わっている。顔が魚だったり、鰭が魚だったりという意味での『部分』だ。

 ついで、わたしは不意に悟ってしまう。

 最初の魚は佳哉さんが呼んだのだ。

 論理を介在させずに知ってしまう。

「おれさ、実は魚なんだ」

 佳哉さんがそう言うので見上げると確かに顔が魚に変わっている。けれども不思議なことに、その魚の顔は間違いなく佳哉さんだ。それで訳がわからず、わたしが呆然としていると、

「市子さんも、こっちの顔の方が良いのなら、すぐに変われるよ」

 そう言う佳哉さんの声はごぼごぼとした泡のようで、でも美しい。

「それは市子さんの美意識が変化したからなんだ」

 わたしに訊かれてもいないのに佳哉さんがそう答える。

「そうなの」

「そうさ。鏡に映してみよう」

「手鏡でも持っているの」

「いや、そこにある」

 見れば目の前に姿見がある。角度を九十度回転させた半径一メートル強の丸い池だ。

「あら、わたしったら」

 そこに映るわたしも逆人魚だ。そのことを知り、妙に愉しくなるわたし。人間を突き抜けたその先がすっかり原初に戻っている。それを可笑く感じたからだ。

「佳哉さん、これは未来の姿なの」

「いや、未来でも過去でもないよ」

「じゃあ、何時で何処なの。やはり夢」

「おれにとって市子さんが面白いのは好んでこんな風景を見るところかな」

「それじゃあ、もしかして佳哉さんには違う風景が見えているとか」

「もちろんそれは可能だけど、でもそれじゃ面白くない」

「でも、この世界を作り出したのは、わたしじゃないよ」

「いやいや、この世界を作り出したのは市子さんだよ。たとえ、おれの部屋の本棚にマグリッドの画集があったにしても」

 もちろんそれ以前に、わたしはマグリッドの逆人魚の絵を見て知っている。だが、それはこの世界/この風景の理由にならない。

「理由は要らないよ。市子さんが理系だから気になるのはわかるけど」

「わたしが理系なのが関係するの」

「そうだよ、因果はすべての科学の始まりという程度にはね」

「でも、どうして魚、どうして逆人魚」

「逆じゃない人魚の方がいいなら、それを思えばいい」

「ううん、こっちの方がステキ」

「そうだろう。おれもそう思う」

 けれどもそんな会話をわたしが佳哉さんとするはずがない。その後、何もないはずの空間から、まるで透明な膜を介するように魚とその誘導体及び人間との合成体が現れ、雲や陰の形も魚になる。不意に現れた幾何学模様も魚になる。いや、魚のようなモノといった方が正確だろうか。

「市子さん、大丈夫」

 気づくとわたしの顔の上に心配そうな佳哉さんの顔がある。とても近い。息を強く感じるほどに。

 わたしが身を横たえているのは状況から推測して佳哉さんのベッドの中で、だから、まさか、と邪推をするが、残念ながら裸ではない。

「良かった、目を覚まして」

 安心したように佳哉さんが言う。

「あと十分経っても起きないようなら佳織に連絡を入れてたよ」

 わたしには前後の繋がりが良くわからなかったが、とにかく気を失ったのが最初だろう。もちろんその理由はわからないが、恋に逆上せた以外にないだろう。

 鏡に映った佳哉さんの姿に目が眩み、その人自身の手により、その人のベッドに横たえられたのだ。気を失ったわたしの顔を覗き込み、佳哉さんがふとキスをしたくなってくれたなら嬉しいが、残念ながらありそうもない。

「だからそれがダメなんだよ。市子さん、もっと自分に自信を持って」

 そう続いた佳哉さんの言葉をわたしは妄想と思いたくないから思わない。

 そうなのだ、あの日、わたしは少しだけ変わったはず。

 悔しいことにすぐにまた元に戻ってしまうが、違う自分を垣間見たのだ。

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