8 恋

 今のわたしの目からみれば、あの人はどのように見えるのだろうか。

 当時あの人は大学生でわたしは高校生だから、わたしの目にあの人が普通に大人のように映ったのだろう。今ではわたしも三十を越し、男性経験は一人だけだが、その他に経験も積んでいるので少しは違って見えるかもしれない。あの人が同時に年を取っているなら現在三十七、八歳くらいか。わたしの友人の兄だったが、当時家族とは同居していない。実家のすぐ近くに住んでいたのは通っていた大学に近かったからだろう。

 あの日、どういう経緯または理由で友人の家を訪ねたのか覚えがない。受験で齷齪するにはまだ時間があったから、単に遊びに行ったのだろう。交通手段は電車ではなく自転車だ。その方が早くて時間も三十分程度短かったからだ。電車を乗り継げば一時間以上かかる。カタカナの『ム』の字のような乗継経路だったから。

 考えてみれば当時、わたしには遊び先が何軒もあったな。今では訪ねる家など殆どない。

 それは主に彼女たちが結婚して家庭に入ってしまったからで、働いている場合でも専業主婦でも、また子供がいてもいなくても、わたしには訪ねる理由が見つからない。

 不倫相手と付き合っていて一つだけ不満があったとすれば、一緒に友だちの家に行けなかったことだ。一人でカップルの家は訪ね難い。そう思わない人も大勢いるだろうが、わたしはそう思うタイプの人間だ。

 田舎から届いた林檎を兄の許に届ける、と友人が言う。わたしの母と同じで友人の母もずっと子供を構いたい性格なのだろう。友人がわたしに、付いて来るか、と問うから、わたしが躊躇しつつも、行く、と答える。知り合いの兄という存在に惹かれたのかもしれない。

 高校が共学だったので自分に近い年齢の男は毎日見ている。通学には電車を使っていたから年齢の離れた男も好きなだけ目撃したが所詮他人だ。家庭内の男は父と同居をしている祖父だったが、こちらは身内。近所の家には大学生の男もいたが、かなり太っていたので体型的に好みから外れる。

 もっともこれから会うはずの友人の兄がわたしの期待外れという可能性は十分にある。だが、それは当然のリスク。嫌ならば忘れればいいだけだ。それで暗渠の堤を歩く。上水公園の外には道路が併走しているのでそちらを歩いても同じなのだが、気分が違う。

 林檎が送られてきたのだから季節は晩秋。割と寒かった肌の記憶がある。公園の端に行き当たる前に脇に抜け、最近では余りお目にかからなくなった木造の建造物まで辿り着く。内階段ではなく外階段の造りだから正確には下宿ではなくアパートだ。全体的に古めかしく、おそらく一つ前の年号時代の建築だろう。外階段を上がって二階、四号室の前まで、ようやく来る。玄関ベルを押して、来たよ、と友人。ついで人がいる気配もないままドアノブに手をかけて回すと、回る。つまり鍵がかかっていなかったわけだ。お兄ちゃん、いないの、と三和土(?)から奥の部屋を覗き込むようにして友人が問い、傍らのわたしは、鍵が開いているのだからいないわけはないだろう、と冷ややかに思考。当然のように事実もその通りで、いきなりむっくりと大きな影が目の前に出現。

「もう、お兄ちゃんたら、いるんだったら返事くらいしてよね」

 早速、友人が文句を言うが、

「片付けをしていて聞こえなかったんだよ」

 兄の受け答えは素っ気ない。ついでわたしに気づくと、

「ああ、お友だちの方ですか。いらっしゃい」

 後にわたしの宝物になる極上の笑みを浮かべつつ挨拶する。そのときにはまだわたしは、綺麗な人だな、と思っただけだ。顔全体がつるりとしている。無精髭は生えているが色が薄い。髪の毛は短くて清潔そうだ。目は切れ長で三白眼。口は小さいが顎も小さいのでバランスが崩れない。

「お母さんに言われて林檎を持ってきたよ」

「ああ、ありがとう」

 林檎を入れたビニール袋を妹の手から受け取るために伸ばされた腕の細さ、指の長さ、その動きの繊細さ。残念ながら脚の長さは日本人的だが、こちらも細いので長く見える。黒いジーンズを履き、寒くないのか半袖のTシャツを纏っている。時計はつけていない。

「ふうん、市子の好みなんだ」

 勘の良い友人がすぐさまわたしに指摘する。わたしが返す言葉を捜していると、

「お兄ちゃんの方もタイプよね」

 と言葉を紡ぐ。

「わたしはもう帰るけど、市子はここにいてもいいから」

 そんな言葉でわたしを唆す。でも自分でも吃驚したことに、

「うん、じゃあ、そうする」

 とわたしが応え、

「えっ」

 と友人の目が点になる。ついで、

「えっ」

 と友人の兄の目も点になる。それから間を置かず、

「いやあね、冗談よ。帰りましょ」

 続けてわたしがそう言わなかったなら、その後の事態が変わったのかどうか。

「お邪魔しました」

「またいらっしゃい」

 ついで、わたしと友人の兄が同時に言う。友人の兄がわたしの中で『あの人』になった瞬間だ。

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