3 現

「なんだ、思ったより元気そうじゃないか」

 最初に面会にやって来たのは同僚だ。

「全治一月近いと聞かされて、さぞ惨い状態でいると想像したのに、まあ良かったな」

「お生憎さま」

 わたしはそう応じようとするが、口が思うように動かない。それでフニャフニャとした発音を返す。

 するとそんなわたしの様子を見た同僚が、

「ああ、無理しなくていいから」

 と心配する。

「こっちが勝手に喋るから、黙って聞いていればいいよ」

 と続ける。

 ああ、それならば、返事がしたくなるような言葉をかけるな、とわたしは強く心に思うが口にしない。

「ありがとう」

 フニャフニャ語で返しただけだ。

「いいから、いいから、黙って、黙って。元々市子さん、口数の多い方じゃないし」

 それはアンタと話しても愉しくないからだよ、とわたしは言わない。黙って小さく首肯くだけだ。

 わたしはとても気が弱い。それと反比例してプライドだけは肥大している。主としてそのことが原因でわたしは他人との会話が苦手だが、社会人になってから他人にそれを説明したことはない。わざわざ説明しなくても、わかるヤツにはわかるだろうというスタンスだ。

「松原さん、突き飛ばされたんだってね。怖いねえ。世の中には酷いことするヤツがいるねえ」

 わたし自身にはっきりした記憶はないが、現場検証の結果ではそうなるようだ。背中に衝撃を感じたことだけを憶えている。今では暗渠だが、昔は上水が流れていて、その堤だった部分と合わせて長い公園になっている地域が事件現場。通常の道より三メートルほど高くなった公園の堤の部分を歩いていたわたしが後ろから何者かに突き飛ばされ、土が盛られた暗渠上の叢の中に転がり落ちる。背骨とか顎とか身体の重要部分は無事だったが、脚と腕を骨折する。擦傷/切傷も無数にある。堤の下部が地震や災害で崩れ落ちないようにコンクリート補強されていて、そこに強か頭を打つけたので転倒落下直後には大きな瘤があったそうだ。今ではない。……と言うより、気づいたときには引っ込んでいる。

 人口も多い住宅街だが、あの夜は雨が降ったり止んだりしていたせいか人通りが少なく、更に街灯の陰になる部分にわたしが転がり落ちる――実は引きずり込まれた――ので発見が遅れたそうだ。それでも曜日が変わる前には見つけられ、連絡されて救助される。

 助命通報してくれた人が誰かはわからない。おそらく面倒だったのだろうが、消防署に電話をし、わたしの位置情報を与えてすぐ現場から去る。その通話は今時珍しい電話ボックスからだったと特定されている。だが、その一点を持って通報者が携帯電話を所有していないかと問われれば、わからないとしか答えようがない。もしかしたら年寄りなのかもしれないが、最近では子供同様、GPS付き携帯電話を家族が持たせる場合が多いと聞いている。だから老人ではとすれば頑固な携帯電話嫌いかもしれず、またわたしのように友だちがいないので不必要と思っている人間か、あるいは単なる貧乏人か、はたまた唸るような金持ちか。

 どちらにしてもその通報者がいなければ、今頃わたしは天国か地獄に召されていたはずで、そう考えるとありがたい。けれどもわたしがその考えを口にすると、そのとき会話をしていた壮年の医師は、

「いや、翌日通勤者が発見してもおそらく助かりましたよ」

 と笑いながら規定事実のように語る。

 しかし事件後一時間せずに止まった出血が。もし止まらなければ失血死必至ではないのか。

「不思議なことに助かる人は必ず助かるものなんです。だから、その点では安心してメスを握れましたよ」

 と更に笑顔で付け足す医師だが、確かにその時点で命に別状がないことは確定していただろう。だからその後の手術でわたしが死んだら、それは外科医の腕が悪いせいだ。もちろん現実にはそのような事態は発生せず、よって医師も気楽に手術ができたのだろう。

 その結果として、

「傷跡は殆ど残りませんよ。だから気にしないことです」

 と壮年医師の脳天気発言が続く。

 もっともそれはその医師なりのわたしに対する気遣いだろうが。

「だけどさ、乱暴されなくて本当に良かったね。女性の夜道の一人歩きは怖いからね」

 とにこやかに笑みつつサラリとした口調で同僚は言うが、実はわたしは襲われている。血を流しつつ呻くわたしの姿を目の当たりにして急に怖くなったか、レイプ未遂犯が逃げ出しただけだ。挿入されたかどうかまでは救急隊員にも医者にもわからないらしい。だが傷害且つレイプ未遂犯の精液がわたしの皮膚や服に付いたり、辺りに飛散した事実はないことが確認されている。よって入れてすぐ抜いたのか、それとも最初から勃ちさえしなかったのか、それ以外ということだろう。

 救急隊員に発見されたとき、わたしはショーツを履いていなかったという。一メートルくらい先の地面に落ちていたらしい。更に言えば、一旦は捲くられたはずのスカートが元に戻されていたところから推測すると犯人は臆病者で出来心だったのかもしれない。もちろんそれで犯人を赦せるわけではないが。

「そうね」

 とわたしはフニャフニャ語で応える。顎の骨は大丈夫だったが、歯を二本折ったのでフニャフニャ語は暫く続くだろう。

 熱を測りに看護婦が四人部屋のわたしのいるベッドの前まで来たのをきっかけに、

「じゃあ、今日は帰るから」

 と言い、同僚が椅子から立ち上がる。

「皆には元気そうだったと伝えておくから」

「フニャニャフニャ」

 とわたしが応える。

 それから心で、ちゃんとナースステーションに寄ってわたしの現在情報を入手してから帰るんだよマヌケ、と思うが疲れて寝た振りをする。ついで、わたしが住まうアパートの近くでもないあの公園にわたしが何故いたかを問わないのは馬鹿なのか、それとも同僚なりの気遣いなのかと無駄に悩む。

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