第7話 あぽかりぷす

「あぽかりぷすじゃ・・・」


御年92歳、この町一番の高齢である野口フサは、公民館の二階の一室で、壁を背に座り、そうつぶやく。あぽかりぷすとは、今から169年前、天照てんしょう元年の夏に起きたとされている災厄の名前である。未だにはっきりとした原因は判明していないのだが、その年を境に、人類は死後、再び蘇るようになったのだ。


それは、災厄の辛い記憶を歴史が払拭しようとするかのような時代の流れだった。災厄後、留人による脅威を克服したこの国に生まれた新世代が社会の中心となり、急速な復興を遂げようとする時代に、フサはその若き日々を過ごした。人の死と、その転化。それを人生の一部として認めるという考え方が生まれつつあった新しい時代。災厄を知らず、その後の長き混迷の時代も知らない復興第一世代のフサは、生まれた時から、人が死ぬと留人るじんになるというのが当たり前の世界で育ち、留人の恐ろしさをあまり知らなかった。


そんな災厄を知らない世代のフサがまだ幼い頃、母を困らせるような真似をするたびに、フサの祖母が、孫を懲らしめようと、自身の経験したあぽかりぷすの話を聞かせるのだった。それは、幼いフサが耳を塞ぎたくなるような話の数々で、野を歩く数百体の留人達の恐ろしい姿や、辺りに立ち込める異様な臭気が、幼いフサの頭の中に焼きついて離れなかった。


「ほんだから、良い子にしてねぇとフサんとこ留人が来て、くっちまうべ!」


と言って、震えるフサを見ながら祖母が笑うのだが、フサにとっては笑い事ではない。いつしかフサは、留人が人一倍怖くなってしまった。


やがて世にあるべき秩序が戻り、長きに渡る平和な時代が訪れた事により、フサの恐怖は薄れつつあったのだが、まさかこの歳になって、この町にあの恐ろしいあぽかりぷすがやってくるとは。フサは迫り来る留人の恐怖と不安に、その年老いた小さな背中を震わせた。


___



木帰町公民館へは、木梨の放送を聞いた避難者が続々と集まっていた。


中には、半信半疑のままここへ来た者も多かったが、実際にこの目でおびただしい数の留人を見たという者の話を聞いて、ことの重大さと、自分達の置かれた状況を徐々に理解していった。困惑が、次第に怯えと不安に変わり、室内には次々と沈うつな表情が増えていく。


木梨の尽力のおかげもあって、最初の放送からわずか1時間足らずで大半の住人達がこの高台の公民館にまで辿り着けた。しかし、災厄後の世界でも比較的平和な時代に生まれた彼らには、ここから先、どう行動すればいいのかが分からない。今すぐ町の外へ逃げ出そうと言う者や、山の中へ入っていくべきだと主張する者、はたまた、もう何もかも終わりだと泣き出す者までいて、次第に収拾がつかない事態になっていた。


大通りから離れたこの公民館からは、まだ彼等の姿は確認できない。しかし、それも時間の問題だろうと思われた。何故なら、避難を促す木梨の声がつい先ほど、スピーカーから聞こえなくなってしまったからだ。目標を失った彼等は、人の匂いの強く残る場所を探し、散っていくだろう。自身の避難を後回しにして、自分たちを助けてようとしてくれた木梨の身を案じ、涙する者も多かった。


こんな時に、頼りになるはずの町会長や、唯一死者の扱いに長けた送り人がここにいないことも、人々の不安に拍車をかける要因となった。もう既に二人は亡くなっているかもしれない、そんな想像がまた不安を増長させ、館内が一種のパニックのような状況に陥りかけたその時、公民館のドアを強く叩く音がした。


それまで騒がしかった館内が一瞬で静まりかえる。皆の耳が、その音に集中した。自分達がただ怯えている内に、どこか現実感のなかった留人の襲来が、今現実のものとしてそこまでやって来たのだ。彼らの不安は極限に達しようとしていたが、直近の生命の危機が、反射的な静寂をそこに生み出した。


「おい、こりゃ人間じゃないんけ?」


静まり返った館内で、一人がそうぽつりと漏らした。言われてみると、公民館の玄関、その大きなスチール製のドアは、3回ずつ規則正しくノックされているように聞こえる。たまたま一番近かった山口のじいさんが、恐る恐るドアに近づき、四角形の小さな窓を覗くと、そこには恰幅の良い老人が、若者をおぶって立っていた。その後ろには、逃げ遅れたと思われていた面々も見える。


「恐山さんじゃ!はよ、はよ入れたらんと!」


皆が心から待ち望んでいた人物がやってきたことを理解し、山口が慌てて鍵を外すと、孫を背負った恐山の後から、満身創痍の年寄り達が、肩で息をしながらなだれ込んできた。背後に迫る死の気配から、ここまで必死に逃げてきたのだろう。皆一様に顔面蒼白で、目を白黒させている。


「えがったぁ・・・恐山さんが駄目やったら、もうどうしようかと思っとったんやわ」


さっきまでの重苦しい気配はどこ吹く風、やっと救われたと安堵の表情で山口が言う。


「すまん、二階から入れれば良かったんだが、見てのとおり手がふさがっててな」


公民館には二階にも玄関口があり、1階からハシゴを使ってそこまで登る事ができる。これは、複雑な運動が出来ない留人の特性を利用した仕組みであり、公共施設への設置が都より義務づけられているものだった。


「お孫さんはどうしたんじゃ、まさか噛まれたんか!?」


恐山の背で静かになっているケイを見て、もしやと山口は一歩後ずさった。


「生きてるよ」


ケイが少し顔を上げてそう言った。意気消沈し、泣き疲れたケイは、恐山の背中で小さくなっていた。それでもまだ不安そうな山口に、孫は噛まれてもいないし、ただ腰を打っただけだと恐山が補足する。ケイは、おぼつかない足取りではあるが、恐山の背から降りると、そのままうつむきがちに、皆が集まる大部屋の方へ向かった。どうやら相当木梨の件がこたえているようだ。しかし恐山は、いつまでも孫の心配ばかりをしている訳にはいかなかった。


今この町で、恐山にしか出来ないことをせねばならない。それは当然、逃げ遅れた住民を助け出すことだ。すぐ山口に館内の避難者の数の点呼を取るよう頼み、ここに来ていない人間を洗い出させる。結果分かったのは、公民館に避難できたのは、町の人口54名の内、近隣に住む者を中心とした38名であること。そして、ここから恐山自身を除いて15名の住人、主に猟を生業とする山側の家々の住人が、まだ避難を終えていないということだった。


15名がまだ来ていないとの報告を受け、恐山は苦い表情で、14名だと訂正した。恐山はつい先ほど木梨商店を見てきたと伝える。当然、住人達も音に群がる奴らの特性と、木梨の生存が絶望的であることは知っているはずではあった。しかし皆が、窮地を救った町の英雄の死から目を背けたがっているのが分かった。


恐山が、これから向かうべき山側の家を地図で確認している時にその音は町にこだました。


ドン!


遠くの方で、猟銃の発砲音がする。


ドン!ドン!


少し間をおいて、一つや二つと発砲音がそれに続く。山に反響するように響く乾いたその音は、今まさに恐山が向かおうとしている山側の家の方から聞こえた。どうやら彼らは、各自で留人との交戦を始めてしまったようである。その音を聞いた恐山は、孫を頼むとだけ皆に伝え、一息つく間もないまま公民館を後にする。その後姿を見送る避難者達の目は、母を見送る幼子のような、不安に満ちたものだった。

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