2-3 ケンタウロスの谷へ

 当然のことだが、生物には個体差というものがある。


 「ハッ、ハッ、ハッ、ヒッ、ヒューッ、ゼッ、ハッ、ゼェッハァッ…!」


 人間は言うに及ばず、人間から見れば殆ど同じに見える動物達にも個体差は存在しており、体力、性格、感覚機能、全てにおいて同一の個体はおらず、それぞれに個性がある。動物だけでなくより小さな昆虫や植物、もしかすれば微生物や細菌にすら個体差があるのかもしれない。いやきっとあるのだろう。ただ人間が認識できないだけで。


 「ヒィッハァッ、フゥッハァッ、おの、れぇっ、あの、チョビ、ヒゲ、めっ…!」


 それは今、風光明媚なモンゴルの平原に猛烈な地響きを響かせながら私を追い立てている獰猛な白馬達にしても同様であり、最初こそ群れの全て、数百頭が一斉に私を追いかけてきていたのだが、次第に先頭集団の速度についていけなかったり、疲労で脚が止まったり、興味を失い飽きて追うのを止める個体が出始めた。


 「ゼーッハーッ、ゼェーッハァーッ、ええい、お前、らも、いい、加減に…!」


 その結果、私を追う馬群は、私の命と意地を振り絞った全力逃走によって最初の数百頭から数十頭程度にまで絞りこまれていた。いくら最初に相当の距離があったとはいえ、人間と馬でよくここまで粘れたものだと思う。私の日頃の鍛錬の賜であろう。しかし、逆に言えば未だ私を追い続けているこの残りの数十頭は、群れの中でも脚が速くスタミナがあり執念深い、上位10%程度の優秀な個体達だということである。そのエリート馬達の人間を遥かに超越した走行能力の前に、いよいよ私の体力も底をつこうとしていた。限界は近い。

 

 「くそっ、あと、少し、あと少し、だけ、粘れ、ばぁっ…!」


 この窮地において私の思考は、変態チョビ髭野郎に対する罵詈雑言で満たされていた。おのれあのポマードべったり野郎め髪だけでなく髭にまで塗りたくりやがって香水も頭から瓶ごと被ったのかってくらいプンプンさせてしかもなんだそのシークレットシューズはお前は全身にどれだけコンプレックス抱えてるんだ大体何が処女の騎兵団だ処女にだって相手を選ぶ権利があるわ乙女心を無視する奴は処女に蹴られて死んじまえ。

 

 「ひぃっ、ひぃっ、あああ、もう、無理ぃ…まだ、なのぉ…!」


 無数の蹄の音がもうすぐそこまで迫っている。蹄どころか馬の息遣いすら聞こえてきそうだ。今、何頭に追いかけられているのか確認したいが恐ろしくて後ろを振り返れない。もし振り返ってすぐ目の前に白馬の面長な顔があったらそれだけで心が折れてしまいそうだ。 

 体が熱い。筋肉も肺もオーバーヒート寸前で、まるで湯に浸かりすぎてのぼせたようだ。ああ、そうだ温泉だ、温泉いいなあ、これ終わったら日本のひなびた温泉街にでも行って体を休めよう。宿についたらまずひとっ風呂、浴衣に着替えたらあとはあの田舎の温泉街特有のどこか垢抜けない、寂れた景色と風情を肴に軽く一杯やって一眠り、夜になったら近くの盛り場へでも繰り出して、後腐れのなさそうな良い男でも見つけられればそのまま…

 まさしく絶体絶命というこの時に何故こんな益体もないことを考えているのかというと、もう他に考えることもやることもないからだ。考えねばならないこと、やらなければならないことは。何故こんなことになったのか。何故馬達はあんな距離から私に気付いたのか。何故私を追いかけてくるのか。この白馬達はどうやって処女とそれ以外を識別しているのか。あの老婆の言葉の意味。ここまでで得た情報の想起。情報整理。思考。推測。発想。閃き。推論。結論。その答えに賭ける覚悟。対処法立案。装備確認。そこまでは追いかけられ始めて最初の1分で済ませた。それ以降は逃走と平行して対処を実行。あの人に仕込まれた、己の生存率を上げるための手管。「トラブルに巻き込まれたその瞬間から思考を整え対処しろ。焦りも憤りも時間を浪費するだけだ、生き延びたければ最速を尊べ」とっくに私の体に染み付いている。手は尽くした。あとは結果に私が間に合うかだ。全力で走り続けられる時間はあと50秒。


 …40秒。

 もう何故自分が走れているのかもわからない。一体私の体は何を燃やして走っているのか。体力であるはずがない。私の中に残っているのは執念だけだ。こんな所で死んでたまるか。

 

 …20秒。

 ついに脚に限界が来たのか、グリップを失い前のめりに転びそうになる。ここで止まれば全て終わりだ、敢えて全力で身を投げ出し前転することで飛距離を稼ぐ。


 …10

 かろうじて受け身を取る。


 9

 両手を前につく

 8 

 もう立てない

 7

 後ろを



 「ブルルルルッ!ヒヒィーーーーン!!」


 …間に合った。猶予時間あと5秒という所で白馬達が私を追うのをやめ、お互いの体をぶつけあい、もみくちゃの団子になり始めた。


 「ハッ、ハッ、はぁぁ…危なかったぁ…効いてよかったわこれ…」


 手に握りこんだ小型スプレーを見る。市販品ではないのでラベルは貼られていない。このスプレーの中身は「牝馬のフェロモン抽出液」。

 サラブレッドの生産牧場では種牡馬に牝馬のフェロモンを嗅がせることで発情を促す。このスプレーは古い歴史を持つある牧場にのみ伝わるとされる幻のフェロモン液で、どんなくたびれた種馬も即座に発情させるらしい。馬絡みの依頼なので一応持ってきておいたのだけど、役立ってよかった。ジェフリー、まさか貴方にこんな形で助けられるなんてね…

 より勢いを増しながら、もみ合いのしかかり合う馬群を見て、自分の推測が当たっていたことに安堵する。何故この馬達は、あんな距離から私を見つけて追いかけてきたのか。見つけただけなら分かる。野生動物の視力は人間を遥かに超える。しかし、この馬達は「見境なく人を襲うが処女の前では大人しくなる白馬」だ。何故あの距離から私が処女ではないと判別できたのか。まさか見た目で判断した訳でもないだろう。ならば答えは一つ。「匂い」だ。私が隠れていたあの丘は風上だった。丘から湖に向かって吹き付ける風に紛れた私の匂いを嗅ぎ取って、この馬たちは襲ってきたのだ。「匂いに気をつけろ」とは自分の匂いのことだったのだ。あの老婆め、そうならそうときっちり教えてくれればいいものを。逃走を始めて数十秒でそれに気付いた私は、進路を常に風上に向かって取り、風下へフェロモンスプレーを流し続けた。そうすれば、先頭の馬から順に牝馬のフェロモン香水塗れになっていくという寸法だ。

 通常、種牡馬にフェロモンを嗅がせる際は、牝馬の皮から作った革製品などを用いるらしい。その程度で発情するのだから、フェロモンそのものを噴霧されれば効果はてきめんだ。

 …しかし、一つだけ疑問が残る。「迂闊に近づき過ぎた非処女を敵と認識して襲う」というのなら分かる。しかし、あれほど離れた場所にいた私をわざわざ追いかけてくるとはどういうことなのだ?これではまるで…


 「バルルルルルルッッ!!バォォォォォーーー!!!」


 「なっ!?」


  少し距離をおいて息を整えながら考えをまとめていた私に、一頭だけが馬群から飛び出してきてそのまま襲いかかってきた。この馬群の中でも最も体格の良い個体、おそらくこの白馬達のリーダーだ。獲物への執念深さも最大ということか、フェロモンの誘惑を振り切ってくるとは。

 体は少し休めたとはいえ完調には程遠い。いやそもそも万全の体制であったとしても、人間である私が脚で馬に勝つのは不可能だ。先程は先行距離を活かしてどうにか出来たがこの近さではそれも無理。逃げることは出来ない。

 だが、こいつは。それならやれる。

 

 突進してくる白馬と私の中間の位置に右脚を投げ、全力で踏み込んで跳躍。

 飛んでようやく私の頭と同じ高さに来た馬首目掛けて、飛び回し蹴りを叩き込む。タイヤを木刀で引っ叩いたような音が鳴り響く。


 「ブルルルルッ…!」


 馬の首が傾ぐ。これだけでは倒せない。馬の首は人間と比べて遥かに太く強靭だ。だから本命は次の一手。打ち込んだ右脚をそのまま引っ掛け、残った左脚で馬首を挟み込む。瞬間的に両脚で馬首にぶら下がるような体勢になる。

 そしてそのまま体をひねる。全力で捻る。ここまでの苦労恨み辛み怒り全てを込めるかのように捻り切り、捻りと腹筋背筋の力で体を強引に折り曲げ重心を強引に落とし、両脚を馬首もろとも地面に叩き伏せるーーー!

 

 轟音とともに、馬頭が地面に打ち込まれた。

 ーー九地縄流打極術くちなわりゅうだきょくじゅつ逆巻噛さかまきがみ


 …自分でつけた技名ではないとはいえ、大仰すぎてちょっと恥ずかしいのよね。

センスが二昔前というか。さて、それはともかく咄嗟に身を守るためとはいえやり過ぎたかもしれない。死んでいなければいいのだけど。地面に体を横たえた馬の首に跨がり、鼻に手を当て呼吸を確かめる。…うん、生きてる。まあ死んでてもそれはそれだが、生きているなら使い道もある。


 「おい、起きろ」


 鼻面に二、三平手打ちをかまし、目を覚まさせる。目が開いたのを確認すると同時に、顎に当たる部分を両手で掴み、跨った太腿で馬の首を締め上げながら目を合わせる。

 

 「さあ、その目に焼き付けろ。これからお前の主になる人間の顔を…!」


 ギリギリと音が鳴りそうなほどに力を込めながら全力で威圧する。言葉が通じるわけはないがまあこういうのは勢いだ。最初こそ馬も抵抗していたが、休めることなく締め上げ続けるとやがて大人しくなった。動物愛護団体にでも見られたら口汚く罵られそうな乱暴な方法だが、現場には現場の流儀と事情があるということで。

 馬の体から完全に力が抜けたのを確認してから手を離し、首から降りる。威圧をやめても白馬はこれ以上暴れることもなく、大人しく地面に座り込んでいる。主従の契りを強引に結んだ印として首筋を優しく撫でてやる。


 「よーしよしよし、いい子だ…ん?」


 気が付くと団子になっていたはずの残りの馬達も動きを止めてこちらを見ている。リーダーを制圧したからか、他の馬も私を主と認めたようだ。…馬がそういう生態なのかどうかは知らないが、結果としてなってるんだからまあこいつらはそういう馬なのだと思うことにする。 

 さて、ただの下見のつもりだったのだが期せずして依頼達成だな。と言ってもこれだけの数を連れていく準備なんてしてきてないし…取り敢えず依頼主に連絡をとって運搬の手筈を整えてもらうか。とにかく一旦こいつらを引き連れて集落まで行こう。 

 気付けば横にリーダー馬が立ち上がっていて、こちらに鼻面をすり寄せてきた。折角だからこいつに乗って帰るか。しかしあぶみくらもないからこのまま乗るのは難しい。もう一度座らせようと、側面に回り背中に手をやろうとして、ふとある一点に目が止まった。


 「これは…なるほど、つまりそういうことか」


 全てが腑に落ちた。そういえばユニコーン伝説にはそういう一節があったな。




 深夜2時、イギリス・バーミンガムのとあるスタジアム。

 Mr,ベンジャミンが篤志の一環としてほぼ100%の出資をして建てたものであり、端的に言って氏の私物と言っても差し支えのない施設。そこに私は契約を果たす

べく、馬達を引き連れてやってきていた。


 「まさかこんなにも速く依頼を達成してくれるとは思っていなかったよ、レディ。正直君のことを侮っていた」


 「私としても予想外だったのですが、色々都合良く事が運びましたので。それではこちらが御依頼の、『乙女しか背に乗せぬ白馬』です」


 「おお、何という…!想像以上の美貌と逞しさだ。これなら我が理想の乙女達にふさわしかろう…!」


 「ありがとうございます。苦労した甲斐がありましたわ。それでは確かにお引き渡し致しました。残りの報酬も期日までによろしくお願いします」


 「ああ、勿論だとも。指定期限より遥かに早く届けてくれたのだ。多少色もつけておこう。しかし、実際どうやって君が捕獲したのかね?」


 「そのことについて、一つお話しておきたい事があります。ミスターはユニコーンに処女以外が近づくとどうなるかをご存知ですか?」


 「うん?勿論知っているとも。ユニコーンについて片っ端から調べたからね。

確か、『その角で腹を突き破られる』のだったかな?」 


 「ええ、その通り。一般に優美で清らかなイメージを持たれるユニコーン伝説の、恐ろしい側面。しかし、不思議に思われませんか?」


 「…もったいぶるな。一体なにをだね?」


 「『乙女以外に心を許さない』まではまだ分かります。しかし、何故乙女以外を

突き殺そうとするのでしょう?そこまでする必要がユニコーンにあるのでしょうか?」


 「ふむ…いや別に必要がどうとかではないだろう。ただの伝説の尾ひれというやつさ。この手の神話や言い伝えには残酷な要素がつきものだからね。一種のサービスのようなものじゃないのかね?」


 「私もそう思っておりました。この子達を捕えるまでは。しかしそうではなかった。そしてミスター。そちらのほうが彼等の本来の生態だったのです」


 「…何を言っている?本来の生態とはどういうことだね。『ユニコーンの角』はただの伝説だ。角の生えた馬なんて居はしないし、実際にこの馬達にも生えていない

じゃないか」


 「いいえ、生えておりますわ。それはそれは立派な一本角が。ただ、というだけで。まあ馬のそれは有名ですものね。特にこの子達のは本当に立派で」


 「…まさか」


ミスターが馬のある一点に目をやりながら顔を青ざめさせる。


 「そう。この馬達は『乙女にのみ心を許す』のではなく、『乙女に性的な意味で

興味が無い』のです」

 

 あの時、馬たちは処女ではない私を見つけて襲ってきたのではない。むしろ大好物のヤリ…ごほん。大人の女の色香を嗅ぎつけ、交尾を迫ってきていたのだ。それがユニコーンの角の正体。

 この馬達を引き連れて「お馬番」の集落に帰った時、私を出迎えたあの老婆は開口一番言い放った。「おんやまあ、良く無事に帰ってきたねえ」…何もかも承知の上であの老婆は私を案内しやがったのだ。とことんまで食えぬ婆め。しかもあの口ぶりからすると、恐らくあの集落へ馬を求めて立ち寄ったのは私が初めてではない。むしろ、それすらも「お馬番」の仕事の一環なのかもしれない。馬群のストレス解消のために。


 「ですので、この子達の取扱にはくれぐれも注意を。迂闊に乙女以外の者をこの馬に近づけますと、恐ろしいことになるかもしれませんわ」


 「あ、ああ、わかった。私とて最初からそのつもりだとも。乙女の馬に乙女以外の者が触っていい筈がない。ご苦労だったねレディ」


 「ええ、それでは失礼致します。ミスターもどうかお気をつけなさいますよう」


 「ああ、分かっているとも。…さあ麗しき白馬達よ!今日から私がお前たちの主だ。皆集まってよく顔を見せてくれ!…ん?なんだ随分人に懐くのだな。レディの

調教が行き届いているのかな?微に入り細に入り見事なものだ。はっはっは、そんなにじゃれつくな」


 ミスターの声を背後に、私はスタジアムを去る。今日の「私の時間」はこれで終わりだ。今回の依頼は予定外にスムーズに終わったな。予想だにせぬ危機があったとはいえ、それは日常茶飯事。多少の誤算で参っていてはこの業界でやっていけない。…そうだ、誤算といえばもう一つあった。

 あの時私は、襲いかかってきたの群れに咄嗟の事とはいえ「雌馬のフェロモン原液」という劇薬一歩手前のものをぶちまけてしまった。その結果、あの馬達はことになったのだが…その事が後を引いて悪影響を及ぼしていないといいのだが。


 「おいおい、じゃれつきが過ぎるぞ、お前達の大きな体でのしかかられては困ってしま…ちょっといい加減にしないか。重いぞ、どくんだ。…おい、なんだそれは。まさか、そんな、待て、まてまてまて、私は、私は違うぞ、よく見ろ、私は男だろう!やめろ、服を歯で破るな!わか、わかった!落ち着け、お前達は処女に興味が無いんだろう!私もそっちは初めてなんだ!後ろは処女なんだ!だ、だから、が、ぐが、あぁぁぁぁぁぁーーっ!!」


 それにしても、処女厨とヤリチン馬か。割れ鍋に綴じ蓋というかなんというか、まあ案外上手く噛み合うかもしれないな。…何か遠くから中年男性のあられもない

悲鳴が響いてきた気がするが、聞こえなかったことにしておこう。



 数日後。 

 愛媛県・道後温泉。

 私は仕事の疲れを癒やす為に温泉地に来ていた。もう少しで死ぬ所だったのだ。

このくらいの贅沢は許されるだろう。古式ゆかしい温泉宿に高めの部屋を取り、

窓から覗く侘び寂び溢れる絶景を肴に私は一人呑んでいた。…ここに来たのは勿論

骨休めが目的だが、少し物思いにふけりたかったのだ。あの時使いきってもう空に

なってしまったスプレーを見ながら、ジェフリーの事を思い出す。

数多の名馬を手がけた伝説の厩務員である彼との間に残された、最後の記憶。


 「何故なの。…貴方まで私を置いていくの。どうして付いて行くことすら許してくれないの。もう私のことを愛してはくれないの?」


 「違う。そんなことはない。今でも君のことを愛している。それは決して変わることはない。でも、だからこそなんだ」


 「だからこそってどういうこと。愛してくれているのなら、ただ側に居てくれるだけでいいのに」


 「分かっている。俺だって本当はいつまでも君に側に居て欲しい。でも駄目なんだ。こんな半端な気持ちのままで、君に寄り添うことは出来ない」


 「…決心は変わらないの?」


 「ああ。…俺は一生の殆どを馬と共に過ごしてきた。馬こそが俺の人生だった。

そんな中で初めて君に出会った。生まれて初めて、馬以外の存在を愛しく思えた。

君のためなら命だって惜しくないと、そう思えた。でも俺は気付いてしまったんだ。馬への気持ちを捨てきれていないと。君を愛するのと同じくらい未だ馬も愛してしまっていると。俺は自分の愛に、人生に決着を付けなければいけない。…必ず、馬への想いを断ち切って、君のもとに帰ってくる。それまで待っていてくれるかい?」


 「ジェフリー…」


 引き止めたかった。

 馬と同列でも構わないから、愛しているなら側に居て欲しかった。

 あの時の私は、一人に耐えられそうになかったから。

 でも、引き止められなかった。

 特注の馬皮レザージャケットとレザーパンツに身を包み、インナーのシャツには

大きく「UMA」というプリント、靴も最高級のアニリンカーフ、馬皮の手袋に馬革の財布、サックの代わりにコードバンのランドセルを背負い、とどめに馬の頭の被り物を被って、人と馬の狭間でどっちかと言えば若干馬寄りになっている貴方を何と

言って引き止めればいいのか、私には分からなかったから。

 「行かないで」と言えば良かったのか。「ヒヒーン!」と鳴けば良かったのか。

この人にまだ人語は通じるだろうか。人参を目の前にぶら下げれば釣れるかしら。

そんな思いで胸が一杯になってしまって、その格好のまま北アメリカの大地へ馬蹄音を響かせながら駆け出していく貴方を、ただ見送るだけしか出来なかった。

 靴底に蹄鉄まで仕込んでいたのね。


 きっと彼は帰ってこない。だからこのスプレーももうこれっきり。

最後の贈り物としてこんなもん渡された日にはどうしていいのか分からなくて本気で悩んだけれど、人生何が起きるかわからないものだ。「人生万事塞翁馬」というやつだろう。馬だけに。

 テーブルに置いてあるタブレットから着信音。この音は仕事用のアカウントだ。

こんな時に仕事を考えたくなかったけれど、まあする事もないしとメールを開いて

みればあのMr.ベンジャミンだ。生きていたのか。顛末が顛末だけに、残りの報酬は殆ど諦めていたのだけど。一応メールの内容に目を通しておく。


 「ご機嫌いかがかなレディ。私はすこぶる快調だ。迅速に依頼をこなしてくれただけでなく、私の愚かな迷妄を晴らし新たな人生の扉を開いてくれた君にはどれだけ感謝をしてもし足りない。残りの報酬は既に振り込んでおいたので確認してくれたまえ。さて、今日は再び君に仕事を依頼したい。今度は馬ではなく、人材を紹介して欲しいのだ。生まれ変わった私に相応しい真の騎士団を編成すべく、屈強な漢の中の漢たちを50人ほど用意して欲しい。馬の扱いに心得があるとより助かる。求める条件としては身長180cm以上、ベンチプレス140kg、髭面、角刈り、面長ーー」


 反射的にメールを消去しそうになったが、すんでのところで思いとどまる。こんなのでも依頼は依頼だ。全くの無視というのも後に響く。しかしそうはいっても、こんな偏った人材をそんなに大量に用意できる当てもない。適当に数人紹介して茶を濁しておくか…いや、居るじゃないか一人、ぴったりの男が。しかし連絡がつくだろうか。あれからもう何年にもなるし、まだ同じ場所に居るとも限らない。だがまあ、折角のめぐり合わせだし、久しぶりに会いに行ってみてもいいだろう。見つからなくても、それはそれで諦めが付くし区切りになるというものだ。

 北アメリカの広大な草原へ思いを馳せながら、私はもうひとっ風呂浴びるべく部屋を後にした。


 


  



 

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