五日目

「おはよう!」

 外はまだ暗いのに、彼女の声はとても明るい。

「ほら、準備準備!」

「うーん」

 ぼくは眠い目をこすりながらベッドから出て、着替えて歯を磨いた。

「お財布は?」

「リュックの中」

「歯ブラシは?」

「旅館にあるよ」

「トランプと花札」

「忘れるもんか」

「よし、完璧ね!」

 昨日あれだけ確認したんだ、忘れ物などあるはずがない。

「じゃあ出発!」

 ぼくたちはバスに乗って空港に向かった。バスの中で寝ようとしたが、揺れがひどくてとてもじゃないけど寝られない。彼女はバスの中でも小声ではしゃいでいた。


(pHが2以下の温泉があるらしいよ! からだ溶けちゃわないかなあ? でも、温泉って言ってるってことは大丈夫なんだろうね。目に入ったら痛そうだけど。そっか、アルカリ性なら溶けるけど酸性なら溶けはしないのか! 溶けなくてもかぶれたり荒れたりしそうだけど……傷とか絶対痛いってば、想像するだけで痛いもの。ああ怖い)


 彼女のおしゃべりにひたすら相槌を打っていたら、空港に着いてしまった。

 預けるほどの荷物は持ってきていない。手荷物検査を受けて、ロビーで少し待ち、それから福岡行きの飛行機に乗り込んだ。一時間半で福岡に着くらしい。速いものだ。

 飛行機の座席は寝心地がよく、ぼくはどうやら熟睡していたらしい。目を覚ますと福岡に着く二十分前で、飛行機から見えていたはずの富士山も見逃してしまった。隣を見ると、彼女もぐっすりと寝ていた。口を開けただらしない寝顔もなんだかかわいくて、ぼくはしばらく見とれていた。富士山なんかよりよほどいいものを見た。

 ぼくは無音カメラのアプリを起動し、こっそり写真を撮る。旅行中は、記念になるように写真をたくさん撮ろうと心に決めているのだ。

「まもなく当機は福岡空港に着陸致します……」とアナウンスが流れたので、ぼくは彼女をそっと起こした。

「着くよ」

「んー」

 彼女は眠そうに伸びをした。


 飛行機は無事着陸し、ぼくたちはタラップを降りて福岡の地に足を踏み入れた。

 ぼくにとっては懐かしいけど、彼女にとっては初めてのはずだ。

 空港から博多駅まで地下鉄を使って移動したら、予定より早く着いてしまった。別府行きの列車が発車するまで一時間ほどあった。

「どうしよっか」

「君って福岡出身だったよね。どこかいいところないの?」

 ぼくは彼女を屋上へと連れていった。博多駅の屋上は庭園のようになっていて、展望台もある。ぼくは展望台を指し示した。

「あそこから福岡の街が一望できるよ」

 わあ、と歓声を上げ、彼女が駆けていく。眼下に広がる街の景色は、はっきり言ってなかなか素敵だ。

「お気に召したかな?」

「もちろん! 素敵な眺めだねえ」

 ぼくも自分の生まれ育った福岡の街を眺めた。福岡タワーに福岡ドーム。今はヤフオクドームという名称らしい。それに、ダイエーホークスはソフトバンクホークスに変わってしまった。

 全ては移り変わってゆく。変わらないものなどない。


 そう思ってみても、やっぱり寂しいものは寂しいのだ。


 時間がきたので、列車に乗り込んだ。これに乗れば別府まで直行だ。特に混んでいるわけでもないので、四人掛けの座席に二人で向き合って座る。

「ねえねえ見てよ、これやってみたかったの」

 彼女は窓を開けた。お茶のペットボトルを窓の枠のところに置いて頬杖をつき、窓の外を眺める。

 列車の窓から見えるのどかな田園風景と重なって、なんだかすごく絵になる光景で、ぼくは思わず見とれてしまった。

「CMのワンシーンみたいだ」

「そうなの! CMでこれを見てからどうしてもやりたくてね、やり残してたことがまた一個できたよ」

 彼女の髪が風になびいて、ふわりとぼくの鼻をくすぐった。しばらくぼんやり見とれていたぼくはシャッターチャンスに気づき、慌てて写真を撮った。

「綺麗に撮れた?」

「うん。ほら」

 ぼくがスマートフォンの画面を見せると、彼女は「我ながらきれいだね」とはしゃいだ。

 窓からの景色を眺めるのにも飽きたぼくたちは、持ってきたトランプで「スピード」の勝負をすることにした。場に出したトランプに続く数字のカードを出していくゲームだ。場に7が出ていれば、マークは関係なく6か8を出すことができる。自分の手札が先になくなったほうが勝ちだ。

 彼女はトランプに関してはからっきしで、ぼくは一回も負けなかった。この「スピード」を教えてくれたのは彼女だったはずなんだけど。

「今日は調子悪いなあ……」

「いつもじゃない?」

「もういい! スピードやめてババ抜きしよう!」

「いいよ、どちらにしろぼくが勝つから」

「いつまでその余裕が保てるか楽しみね」

 彼女は鼻息荒くカードをシャッフルし始めた。


 別府に着いたぼくたちは、さっそく温泉に入ってみることにした。一番最初に目に付いた温泉だ。

「一時間経ったら上がってここに集合ね!」

 湯の入り口で彼女と別れ、ぼくは浴場へと足を踏み入れた。小さな浴場だが、源泉かけ流しの湯は白く濁っていていかにも温泉という感じがする。身体を洗ってから少し熱めのお湯に浸かると、身体が芯から温まっていくような気分だった。

 サウナに水風呂、露天風呂などを存分に楽しんでから、ぼくは浴場を出た。

 待ち合わせの場所に行くと、彼女が仁王立ちしてコーヒー牛乳を飲み干しているところだった。ぼくは素早く彼女を撮影した。

「あっ」

 彼女は恥ずかしそうな顔をして「消して消して消して」と連呼したけど、ぼくは意地でも消さなかった。

「風呂あがりにはコーヒー牛乳でしょ! 何もおかしくないじゃん!」

「いや、おかしいとは言ってないよ。あまりにもかわいかったから、つい」

「もう、こんな写真が残ってたら死んでも死にきれないよ」

「そのまま死なずにいてくれたら嬉しいんだけど」


 温泉街をぶらぶらしてお土産を買ったり温泉饅頭を食べたりしていると、あっという間に夜になった。

 予約していた宿に向かう。嚶鳴荘は大きな二階建ての建物で、スタッフの対応もすごく丁寧だった。受付で名前を言うと、すぐに部屋に通され、晩ごはんが出てきた。ずらりと並ぶ豪勢な秋の味覚においしいおいしいと舌鼓を打つ彼女を見て、ぼくは嬉しくなった。奮発した甲斐があったってものだ。

 食べ終わってほっと一息ついていると、彼女が立ち上がって宣言した。

「お風呂入ろう!」

「えっ、また?」

「また? じゃないよ。二人で旅行してるんだからお風呂も二人で入るの」

「でも」

「でもじゃない! これもやり残したことなんだから」

 そう言われると逆らえない。彼女は着替えと備え付けの浴衣をバッグに入れて、ぼくを引きずって歩き出した。一階に降り、受付のスタッフの人に「すみませーん」と声をかける。

「家族風呂は空いてますか?」

 スタッフの人はにこやかに「空いておりますよ」と答える。

「お二人様でご利用になられますか?」

「はい!」

 こくりと頷くぼくの横で、彼女は元気良く返事をする。

 ぼくたちはお金を払い、小さな浴場に通された。更衣室の先には小さな洗い場と小さな浴槽がぼんやりと見える。

「入りましょ入りましょ」

 彼女が服を脱ぎ始めたので、ぼくは慌てて後ろを向いて自分も脱ぎ始めた。

 浴場は清潔で、文句のつけようもなかった。ただ一つ、湯船がハート形だったことを除いては。この歳になってハート型は恥ずかしい。とはいえ彼女はとても嬉しそうだったので、ぼくも一緒に嬉しくなった。

 身体を洗おうとすると、彼女がぼくの身体をしげしげと見てくる。

「貧弱ねえ」

「え、君の胸が?」

 ぼくは飛んでくるシャンプーの容器を華麗にかわすと身体を洗った。

 洗いながら、筋肉つけなきゃなあ……とこっそり心に誓った。


 爽やかな香りの石鹸をお湯で洗い流し、一足先に湯船に浸かる。

「ああ、いい気持ち。君もおいでよ」

 彼女も石鹸の泡を洗い流し、湯船に入ってきた。

「おじゃましまーす……ぽかぽかするねえ」

 丸みを帯びた身体のラインと温泉に温められて火照った彼女のうなじが余りに官能的で、ぼくは弾かれたように目を逸らした。浴場で欲情なんて駄洒落もいいとこだ。

 お湯は半透明の白で、浸かってしまえば顔以外は見えない。隣に座り、二人でゆっくり浸かっていろいろな話をした。


 大学で出会ったときの話。同じサークルでの思い出。そして、彼女から告白してきたこと。ぼくも密かに気になっていたこと。大学を卒業して、一緒に住み始めたこと。ぼくが会社に内定をもらったこと、彼女がアルバイト先で昇進したこと。二人でいろいろな所に遊びに行ったこと。


「……いろいろあったねえ」

「楽しかったな」

「うん、楽しかった」


 ぼくたちは浴場を出て浴衣に着替え、部屋に戻った。部屋にはすでに布団が敷かれていて、一つの布団に枕が二つ置いてある。

「あれ?」

 急に目の前の景色が反転した。彼女に押し倒されたと気づいたのは、目の前に天井が見えてからだった。

「ここまで来たら、やることは一つでしょう」

「……君、痛いからあんまり好きじゃないって言ってなかったっけ?」

「それはその、ほら、好きなんて言うのが恥ずかしいからに決まってるじゃん! 言わせないでよ。痴女じゃないんだから、最低限の恥じらいは持ち合わせてるよ」

「彼氏の隙をついて押し倒す彼女に恥じらいが何だって?」

「うるさい」と彼女はぼくの帯をしゅるりと解いてしまい、ぼくは抵抗を諦めた。抵抗は諦めたが、主導権は渡さない。くるりと起き上がって逆に彼女を押し倒し、耳元で囁いた。

「優しくしてね」

 彼女は、呆れたように叫んだ。

「それ、私のセリフだから!」

 彼女の身体は温泉で温められていて、全然冷たくなかった。火照った顔も身体も色っぽくて、ぼくは自分が興奮するのを感じながら彼女の上に覆い被さっていった。


 普段より積極的な彼女にぼくも燃え上がってしまい、終わったときにはへとへとに疲れてしまっていた。

 抱き合ったまま寝ようとして、ぼくが「浴場で欲情」とぼそっと言うと、彼女はゆうに三分間は笑い転げていた。どうやらツボに入ったようだ。

「やり残したこと、たくさんできた?」

「できたできた。今とっても幸せよ」

「ぼくだってそうさ」

 幸せな気分のまま、ぼくたちは眠りについた。

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