三日目

 次の日の朝。今日を入れて、あと五日だ。ぼくは彼女におそるおそる聞いてみた。

「今日は何をする予定なんだい?」

「君のお料理の練習」

「それって、やり残したこと?」

 もちろん、と彼女は首を大きく縦に振った。

「君が自炊できるようにならなきゃ、心配で心配で、死んでも死にきれないわ」

「死んでるじゃん」

「そういうことじゃなくて!」

 彼女はぼくをじろりと睨んだ。

「私と一緒に住み始める前、君は絶対に料理なんかしなかったよね。いつもコンビニ弁当ばっかり食べてたの、ちゃんと覚えてるんだよ」

 その通りだ。ぼくの不器用さと面倒臭がりな性格があいまって、自炊など家庭科の授業以来したことがなかったのだ。


 台所に立って、とりあえずポトフを作ることになった。ポトフは野菜やベーコンを煮詰めるだけでいいからぼくにもできるはず、と彼女に言われたのだ。

 まな板の前に立ち、人参の皮をむく。皮むき器でしゅっしゅっとこすれば簡単にできたため、ぼくは得意げに言った。

「なんだ、料理って簡単じゃないか」

 彼女は鼻で笑った。

「完成してから言いなさい」

 これならできそうだ。ぼくは皮をむいた人参を包丁で切ろうとした。しかし、あっちへごろり、こっちへごろりとなかなか人参が安定しない。

「ねえ、人参が切れないんだけど」

 彼女はぼくの手元を見て、限りなく深いため息をついた。

「左手はどこで何をしているの?」

 ぼくはポケットに突っ込んでいた左手を慌てて抜き出した。

「……君、家庭科の授業真面目に聞いてた?」

「ぼくはいつだって真面目さ」

「茶化さないの」

「全然聞いていませんでした」

「でしょうね」

 彼女は肩を落とした。

「包丁を使うときに食材を押さえない人なんて初めて。こんな常識のない人と付き合っていただなんて」

 ぼくはふふんと笑った。

「今頃になって気付いたのかい?」

「黙りなさい」

 彼女はぼくの背後から手を回して、ぼくの手を動かした。右手で包丁を持ち、左手で人参を押さえる。

「タマゴの手、タマゴの手」

 歌うように言いつつ彼女が手を動かすと、とんとんとん、と小気味良いリズムが響き、人参が綺麗に切れていく。

「こうやって切るの。ほら、やってみて」


 ぼくは試行錯誤しながら野菜を全て切り終わり、鍋に水を張って固形コンソメと野菜とベーコンを放り込んだ。ガスコンロのつまみをひねり、火をつける。

「あとは待つだけよ」

 ぼくはやれやれ、と言った。

「こんなに面倒なら、ぼくはやっぱりコンビニ弁当のほうがいいな」

「またそんなこと言って! 身体に悪いものばっかり食べてると早死にするよ」

「でも、身体にいいもの食べていても、結局死ぬときは死ぬんじゃないか。さっさと死んでまた君に会えるなら、むしろ好都合だ。ぼくは喜んでコンビニ弁当を食べ続けるさ」

「もう、何を言ってるの!」

 彼女は怒ったように言った。

「君の心配してわざわざ言ってあげてるのに。まあ、今の言葉、ちょっと嬉しかったけど……」

 彼女は「でも」と続けた。

「そんなことしてほしくない。せっかくまだ生きてるんだから、君の人生をきっちり生き抜いてからこっちに来てほしい。君が死ぬときはちゃんと迎えに来てあげるからさ」

 ぼくは驚いた。死んだときに迎えにくるのは死神とか天使とか、そんな存在だと思っていた。生前の恋人が死んだら迎えに行くなんて、そんなことができるのか。

 でも、なんだか彼女ならやりかねない気がした。だめだと言われても迎えに来る、彼女はそんな人だ。

「わかった。約束だよ、きっと迎えにきてね」

「もちろん!」

 彼女はぼくをぎゅっと抱きしめた。ぼくが抱きしめ返そうとしたら、彼女はなぜか「だめ」と言ってぼくから離れてしまった。

「ベーコン触った手で私に触らないで。手を洗ってからやり直し」

 ぼくは冷水で手をざっと洗って、改めて彼女を抱きしめようとした。しかし彼女はまたぼくから逃げてしまう。

「肉の脂が冷水で落ちるわけないでしょ! 自分の手を触ってみてよ」

 確かに、洗ったはずなのにとてもべたべたしている。

「お湯で洗うか石鹸を使うかしないととれないよ。ほら早く! いつまで待たせるの?」

 ぼくはお湯と石鹸を両方使って念入りに手を洗い、彼女に手を差し出した。

「合格!」

 ぼくに抱きついてきた彼女を、ぼくは今度こそぎゅっと抱きしめ返した。

「面倒でも、ちゃんと毎日自炊するんだよ。空から見てるからね」

 ぼくは頷いた。

「ねえ、いい匂いがするよ。鍋の中を見てみなよ」

 鍋の中ではポトフがおいしそうに煮えていた。彼女が何回か作ってくれたポトフよりも不揃いに切られた野菜は、それでもきれいに色づいていた。

「ほら、やればできるでしょ?」

「君がいないとできなかったよ」

「またそんな嬉しいこと言って! でも、次にこれを作るとき、私はもういないからね。自分一人で作るんだよ」

 ぼくはしっかりと頷いた。

「やってみせるさ」

 彼女はにっこり笑った。

「その意気よ! じゃ、食べよう」


 ぼくが初めて作ったポトフは、火が通っていない野菜がところどころに見受けられたことを除けば、素晴らしい出来だった。

「君が作った料理だから期待してなかったのに、これ、おいしいねえ!」

「失礼だね。……これで、やり残したことのうち二つめが終わったのかな?」

「何言ってるの?」

 彼女はさも当然であるかのように言った。

「まだお昼よ? 今日は一日中、料理の練習です。次は親子丼だよ、さあ早く食べて準備して」

 ぼくはげんなりした。

「それに――」

 彼女は嬉しそうに言った。

「君に料理を教えることと、君が作った手料理を食べること。実は、やり残したことのうち二つめと三つめ同時進行なの」

「手際がいいね」

 ぼくはとりあえず褒めておいた。


 その日は結局深夜までひたすら料理をした。

 作ったものはそのたびに食べたから、明日の朝は胃もたれがとんでもないことになっているに違いない。

 どうせなら自分のじゃなくて彼女の手料理を胃もたれするぐらい食べたかった。なんて思ってたけど、楽しそうな彼女を見ていると、料理も悪くないな、って思えた。

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