第二話 自殺考察(序)

 空が高いと、漠然とそう思った。


 雲一つない、まっさらに澄み渡った大空。

 けれどその色は鬱屈とした灰色で、それでいて濃淡というものがまったくない。

 のっぺりとした様はまさしく壁のようで。じっと見つめていると、無人の廃墟にひとりで放り込まれたかのような、物悲しい寂寞感があった。


 ああ――何も、■■■ない。


 呆然とそう思う。こんなにも静かなのに、ひどい喪失感が私の胸を締めていた。

 街を俯瞰するとても高いこの場所に、あらゆる煩音は届かない。―――ああ、確信を持って言える。これこそ私が狂おしいほどにずっと待ち焦がれていた、空の彼方へと続く景色の全容そのものだったのだ。

 無音の渦に吸い込まれるように、私は一歩を踏み出す。すると全身が心地よい浮遊感に包まれた。


 どんどん空が遠くなる。

 みるみる世界が縮んでいく。


 きっと一秒にも満たない短い時間を永遠のように感じながら、私はふと、空を見上げる。その瞬間―――――


 ―――――を背景に、太陽と


 * * *


 暦が星暦せいれきと名を変えてから、二千年近くの時が流れた現代。

 大規模な災害と手遅れなまでに悪化した公害により、世界は既に滅んでいた。


 幾つもの大陸が沈み、塩害によって草木は育たず、太陽は生気を無くしている。けれどそんな絶望的な環境にありながらも、人類は『管理された楽園』を自らの手で造り出すことで、絶滅の危機から逃れていた。

 その楽園の名はヒュペルボレオス。伝説にのみ語られる、北風の彼方に在るという理想郷の名だ。そこでは光に満ちた輝かしい毎日が約束されているという。


 ―――だがその名に反して、ヒュペルボレオスは決して楽園などではなかった。


 確かに、外の苛酷な環境から身を護ることはできるだろう。だがそれで自然がもたらす驚異の全てを防げる訳ではない。

 科学が如何に進歩しようと、人間の身体は脆弱なままだ。そもそも自然が牙を剥くよりも前に、人間が人間を殺してしまうのだから救いようがない。もっとも、人類の数がここまで減ってしまったのは自滅によるところが大きいのだから、それも当然と言えば当然ではあるのだろうが。


 人間は同族という自滅の因子を抱えたまま、今日も引き篭もって生きている。

 けれど此処はあくまで管理された社会だ。一度庇護される立場になれば、それなりに楽に生きていくことが可能だった。


 そして神妙な顔でメモ帳をめくる男――エドガー・ボウもまた、権力による庇護を受けた迷える子羊の一人なのである。

「―――……とまぁ、世間の見解通り、一連の騒動に特にこれといった事件性はなさそうですね。やっぱりこれは、ただの偶然としか言いようがないでしょうよ」

 書き留めた情報を確認しながらそう締め括り、エドガーはメモ帳を閉じた。そして視線を下ろして、応接用のソファに腰掛け紅茶を嗜む少女を見やる。

 背の高いすらりとした美人だった。めりはりのついた女性らしい体付きだが、四肢は細くしなやかで、自然の中で鍛えられた野生の獣を思わせる。

 そしてその顔立ちも実に端整なもので、上品な仕草で紅茶のカップを呷る姿はとても優雅だ。何より彼女の顔を縁取る髪が艶やかな銀色というのがまた出来すぎている。その佇まいは誰がどう見ても、歳を重ね立派に成熟した淑女や貴婦人の類にしか見えなかった。

 そんな大人びた容姿の彼女であるが、実のところまだ十六歳になったばかりの学生である。エドガーよりも二十ほど若い、立派な少女なのであった。


 少女――カルティエは、閉じていた目を開き、隣に立つエドガーを見上げる。髪と同色の睫毛まつげの隙間から、色素の薄いサファイアブルーの瞳が覗いた。


「なるほど……短時間でよくそこまで調べ上げてくれましたね、ご苦労様でした。些事に付き合わせたことに謝罪を。今月の給金には少々色を付けておきます」

 淡々と事務的な内容を口にし、カルティエはカップに残る紅茶を全て呷った。赤みがかった金色の液体が、喉の奥へと流れて行く。

 カルティエは空のカップをソーサーの上に戻し、机上に置かれたポットの横に配置する。青い蔓草の意匠が描かれたティーセットが並んだ。それを眺め、白い少女は詰まらなさそうに唇を尖らせる。

 不満を露に、彼女は荒い動作で足を組んだ。ソファの肘掛に頬杖を突き、しかめっ面で黙考する。

 一応納得はしたものの、調査の結果が腑に落ちないのだろう。カルティエは神経質そうな面持ちであごを撫でている。その反応はエドガーにとってある意味で予想通りといえるものであった。

 彼自身も頭の片隅ではカルティエと同じ考えを持っているからこそ、別の解答を用意できなかったことが喉につっかえた小骨のように気にかかるのだ。


 ―――ヒュペルボレオスでは、およそ一週間前から奇妙な事件が続いていた。


 高所からの飛び降りによる集団自殺。

 憩いの場であった賑やかな大広場に居合わせた者達が、突如として付近の高層ビルなどから揃って転落死を遂げた怪事件。それを皮切りにして、今日に至るまで自殺者は増加の一途を辿っていた。

(大規模な集団自殺を契機にして頻発し始めた、個人による複数の小規模な自殺騒動。彼等自殺者達の行動や思想に関連性は、共通する交友関係は。遺書の有無すらまちまちで、その内容も多岐に渡っている……)

 テレビなどの情報媒体で発表された公的な情報と、エドガーが独自に調べ上げた情報。その二つを照らし合わせた上で、カルティエは此度の事件のあらましを思い返していた。

 それは理由なしには考えられない、明らかに異常な事態。けれど不審な点は一切ない。

 彼等は誰かに強要された訳でもなく、自らの意志で己自身の命を絶ったのだ。故に彼等の身辺に黒幕的な何者かの意図を感じさせるような証拠は一切無く、代わりに浮かび上がるのは自殺者達の逼迫ひっぱくした現実ばかりだった。

 死にたくもなる。死ぬ以外に逃げ道はなかった。私ならとても生きていられない――自殺者の友人や同僚達は口々にそう語っていたと、エドガーは言った。その証言に嘘はないだろうとカルティエは判断している。

 人は理由もなく自らの命を絶つことはない。彼等には相応の苦痛があり、人生を捨てるに足るだけの絶望を味わった。だから自殺した。そうとしか考えられない。

 そして自殺によって人々が受ける衝撃は甚大だ。親族や恋人など、多数の人間の精神に多大な影響を及ぼすことがままある。愛する者を失ったことで生じる傷は深く、彼等は死者の影を追い、あるいは追われ――やがて、自殺は連鎖するのだ。

 それが巷で起こる自殺騒動の真相に違いないだろう。何も不審な点はない。だがどうしても、カルティエはこの結論に納得できなかった。

(特に接点の無かった数百人もの人間が、何の合図もなしに同時に自殺を決行するなんて、。必ず何者かの意図が介在している筈……)

 自殺騒動の始まりであった集団自殺。

 偶然の一言では到底片付けられない異常を強く意識して、カルティエは更に深く思考の海へと埋没する。

 あーでもない、こーでもない、と唸るカルティエ。その姿を尻目に、エドガーは無言できびすを返して、部屋の西側にある窓の方へと向かった。

 閉じた窓を開け、生気の感じられない灰色の空を仰ぐ。彼は懐から煙草の箱を取り出すと、一本だけ抜き取り、咥えてから火を点けた。

 紫煙を肺に取り込み、深く息を吐き出す。すると途端に脱力し、エドガーは窓のさんにだらしなくへばり付いた。

(だあぁぁああああッ! やっぱりダメだ、やってられん! いい歳したおっさんが、子供相手に畏まって敬語なんか使うもんじゃねぇなぁ……)

 口端から紫煙を垂れ流しにしたまま、エドガーはがくりと項垂れた。

 元はといえば自分の不甲斐なさが招いた結果であるとはいえ、やはり二回りも年下の小娘に顎で使われるのは物凄く疲れてしまう。たとえその小娘が命の恩人であろうとも、だ。

 現在、エドガーはカルティエが運営する興信所の所長を務めている。

 以前から何度も職と顔を転々と変えてきた彼だったが、当時は小説作家を兼業した新聞記者の仕事に就いていた。

 しかしいわゆる売れない作家だった彼は、当時住んでいた借家の家賃や生活費、それから本を自費出版する際に負った債務が原因で債権者に問い詰められることとなったのである。

 ここまでなら割りとよくある話だが、問題なのはその債権者だ。彼等の元締めは巷で悪名轟く暴力団的犯罪組織――通称『トライアド』に属する金融機関で、何らかの非合法な手段で借金の返済を迫られるのは目に見えていた。

 とはいえ当時のエドガーは――少なくとも書類上は――三十そこそこの中年男性である。喫煙や飲酒をたしなまないか、あるいは娘か妻でもいれば多少は話が違っただろうが、生憎と健康体でもなく、その上天涯孤独であった彼には商業的需要は特になく。トライアドの構成員も、彼の処遇をどうするか持て余していたらしい。

 黒服の男達があーでもない、こーでもない、と悩んでいる殺伐とした停滞の中、「もう殺したんでいいんじゃないか」とひどく投げやりな結論が出かけた頃。エドガーの前に白馬に乗った王子様の如く颯爽さっそうと現れたのが、カルティエだった。

『売れない作家エドガー・ボウの一番のファン』を自称した彼女はいとも簡単に強面の黒服達を鎮静化してしまい、あれよあれよという内にエドガーを自身の運営する興信所の所長――という名の雑用係に任命し、強制的に労働させることで債権の回収を黒服達に代わって執行するという、トライアドとエドガーの双方に納得の余地がない提案を真顔でうそぶいたのである。

 あのトライアドの構成員がそんなふざけた話を聞き入れる筈がない――そう思ったエドガーだったが、しかし黒服達は文句の一つも漏らすことなく彼女の提案を承諾。斯くしてエドガーは翌日の朝刊の紙面を飾らずに済んだのだった。


 ―――あんたは一体何者なんだ?


 強面の黒服達が去った後、エドガーはカルティエにそう尋ねた。すると彼女は鈴の音のようなよく通る綺麗な声で、こう言った。


 ―――私の名はカルティエ・K・ガウトーロン。

 ―――『三合会トライアド』の龍頭ビッグボスホァン九頭龍ガウトーロンの娘です。


 まさかの黒服達の親玉の娘である。


 当時は助けられた筈なのに何故か上げて落とされたような、そんな気持ちに陥ってしまったのをエドガーはよく覚えていた。

 それからは文字通り、エドガーの人生は変わった。

 何よりもまず住所が変わった。一階は雑貨屋、二階は興信所という奇妙な店構えの事務所に住み込みで働くこととなり、現在に至るまでこの場で寝食を続けている。

 懸念していた強制労働に関しても特にこれといった問題はなく、今回の自殺騒動のような、カルティエが興味を持った事件が発生した場合は彼女から依頼を受けるという形で徹底的に調べ上げて報告し、そういった事件がない場合は、一階にある雑貨屋で店番をするという、比較的緩い内容の業務ばかりだった。その上、創作活動に関してはむしろ推奨されており、本の出版を援助すると約束すらされている。

 当然その分賃金は異様に少ないのだが、業務執行時に発生した費用等は自腹ではなく経費で落とせるということもあり、事務所に引き篭もっている限りは生活に支障はない。煙草や酒を止めれば貯金もはかどるだろう。止める気はまったくないのであるが。

 とはいえ、それでも疲れるものは疲れる。

 どれだけ好待遇であろうと、結局のところエドガーに自由はない。彼の現状は断頭台に掛けられた死刑囚と同義だ。そしてギロチンの刃が落ちるかどうかは、少女の気分次第ときている。ストレスを感じない方がおかしい状況というものだった。

(……そんなことする娘じゃないってのは、頭では分かってるつもりなんだがなぁ。やっぱり蛙の子は蛙、って考えが染み付いてるのかね、俺は)

 深く息を吸い込み、吐き出す。灰色の煙が空中を漂い、やがて薄れて消えた。

 新聞記者であったエドガーは、カルティエの父親がどういう人間なのかその人物像を熟知している。

 極悪非道という概念が血肉を持って動いているかのような、典型的な人非人だ。そしてその血を継ぐカルティエの本性もまた人でなしなのではないかと、人々は邪推している。それなりに付き合いの長いエドガーでさえ、彼女が何かの拍子に非人道的な性癖を開花させるんじゃないかと気が気でなかった。


「――――エドガー、私の話を聞いているのですか?」

「うお!? っとと、な、何か御用でしょうか……?」


 呼び声に面食らい、勢い余ってエドガーは口端から煙草を落とした。それを慌てて取り直し、肩越しにカルティエへ顔を向ける。

 そんなエドガーの様子にカルティエはどこか不貞腐れたように唇を尖らせ半眼でめるが、彼の奇行には特に言及することなく話を再開した。

「……以前話した下宿生が今日到着するのですが、憶えていますか?」

「あー……ああ! そういえば、外部の子供が二人引っ越してくるんだっけか。確か一人はカルティエちゃんと同い年で、学校アカデミーの高等部に編入する予定……でしたよね?」

 記憶を探るも曖昧あいまいな情報しか出てこず、エドガーは頼りなく語尾を上げた。

 思えば先日、物置代わりに使っていた部屋を片付けるよう指示されたことは確かだ。作業完了後に黒服の男達がベッドやタンスをせっせと運び込んで来るという、ひどく忘れがたい光景を目撃してしまったのだから間違いない。

 しかし当時は丁度、自殺騒動の件を調べていた真っ最中で死ぬほど疲れていたから、下宿生襲来の話は適当に聞き流していたような気もする。

 もしかしたら間違っているかもしれない、と心中で恐々とするエドガー。けれどカルティエは彼の微妙な態度に気を悪くした様子もなく、概ね正解ですね、と淡々と肯定した。

 ……ちなみに。

 件の二人のヒュペルボレオス入りが正式に決定したのは、今から一週間前。奇しくも自殺騒動があった日とほぼ同じタイミングである。

 

 災害と公害によって世界は滅び、この大地にまともな生き物は存在しない。

 しかし極稀なことではあるが、ヒュペルボレオスの外部で人間の生息が確認される場合がある。

 彼等は古くから其処で生き続ける原住民ネイティブと、何らかの理由でヒュペルボレオスを捨て野に下った者とに大別される。そういった者達の子孫が今世にて発見されされた場合、国家の運営する福祉施設に預けられるのが通例だ。

 施設に入れば教育を受け、言語や社会常識など、ヒュペルボレオスで生きていく上で必要な最低限の知識を与えられる。

 そして社会に出ても問題ないレベルにまで達すれば、施設を出て何処かの家に下宿生として暮らし、そこを生活の拠点として学校――『オルガン・アカデミー』と呼ばれるヒュペルボレオス最大にして唯一の教育機関に通うこととなる。よってその扱いは、旧暦時代でいうところの官費留学生とほぼ同義だ。

 とはいえ、何事にも例外はある。オルガン・アカデミーはその名の通り、ヒュペルボレオスにおける国家の運営を司る公務機関――『カチナ・オルガン』に卒業生を就職させることを目的とし、即戦力となるような人材の育成を第一としているのだ。

 そして官費留学生に例えた通り、彼等の学費や生活費は税金によってまかなわれている。施設で幾ら教えても最低限の常識すら身に付く傾向が皆目見られない者、あるいは国家公務員としての責任を果たす能力がない者など、いわゆる『無能な人間』は早々に切り捨てられ、一般的な職業に就くことになるというのは当然のことだろう。

 ―――当人の能力を基準として、それに相応しい役職を割り当てる完全に管理された社会。それぞれが己に課された役割を正しくこなすことで保たれる理想郷ユートピア。それこそがヒュペルボレオスが楽園として成立し得る所以ゆえんだった。

 だが、その体制も完璧なものではない。だからこそトライアドのような組織が跋扈ばっこし、今回のように自殺者が続出するという痛ましい悲劇が頻発してしまうのだ。

「下宿生の名前はアラン・ウィックとシャーロット・ウィック――兄妹のようです。辺境で発見された遊牧民族の出で、家族構成は兄妹二人きり。先程貴方が言ったのは兄の方でしょう。私はアカデミーの高等部に進級、彼は編入という形になるようだ。ですが妹の方はアカデミーには入学しないようですね。恐らく、平時は貴方の助手として働いて貰うことになるでしょう。……くれぐれも、指導の方は頼みましたよ?」

「はあ、了解ッス」

「随分と頼りない返事ですね。まあ、いいでしょう。……それにしても間が悪い。折角明日はお祭りがあるというのに。こうも自殺騒動が続くと、イベントの開催そのものが流れてしまいかねません。できれば彼等兄妹にも歓迎の意味を含めて、明日のお祭りを楽しんで頂きたかったのですが……」

 神妙な面持ちで顔を伏せ、カルティエは心底残念そうに呟いた。同時にエドガーは、一方でなるほど、と一人納得する。

 頻発する自殺騒動の引き金となった集団自殺。それにきな臭いものを感じたカルティエはエドガーに調査をさせた。

 この自殺騒動が偶発的なものではなく、何かが原因で必然的に引き起こされたものだと直感した彼女は、その原因を取り除けば自殺の連鎖は収束すると考えたのだろう。

 だが彼女の予想に反して、自殺を誘導するようなものは全く発見されず、新たな情報も特にない。エドガーの調査に不備があった可能性は否定できないが、それでも彼女は今回の自殺騒動は偶然起こったものだとひとまず納得していた。その上での先程の台詞セリフだ。

 どうやら彼女は、自殺騒動の煽りで祭りの開催が中止になることをどうにかして防ぎたかったらしい。その為にエドガーに原因を探らせた。もしその『原因』が自分でどうにか排除できるものなら、自分の力で解決してやろうと考えていたが故だ。結局、当ては外れてしまったが。

(いじらしいが……なんか動機がズレてる気がするなぁ、ソレ)

 暢気のんきにそんなことを考えるエドガーだが、その実、正直に言えばそもそも彼としては誰が何処でどういう風に死のうと興味などない。

 以前は飯の種でもあったから多少はまともに考えたりもしただろうが、現状では上司からの命令さえなければ、他人の死に進んで関る機会など二度となかったに違いないのだから。

 とはいえ、家族や恋人、あるいは友人が死ねばさしものエドガーもそうは言っていられないだろう。だが生憎と、自殺者の中にエドガーと縁のある人間はいない。

 他人の死はあくまで他人の死、文字通り他人事だ。心を痛める必要はないし、その筋合いもない。けれどその考えは非道なものだ。エドガーのように無関心で一貫するよりは、動機はどうであれ前向きに自殺騒動と向き合っていたカルティエの方が、まだ人として正しい反応だと言えるだろう。


 悪を倒して自殺を絶えさせ、未来の友人と共に祭りを楽しむ。

 それはきっと、これ以上ないくらいに正しいことに違いない。


「……まあ、このことで悩んでいても仕方がない、か。なるようにしかならないでしょうし。まずは目先のことから手を付けるとしますかね」

 言うが早いか、カルティエは勢いよく立ち上がった。そして衣服のポケットから愛用の懐中時計を取り出して開き、時刻を確認する。十一時を回ったばかりだ。

「はい? 目先のこと?」

「まずは昼食の用意と、それから夕食の下拵えを少々。ウィック兄妹は観光してからこちらへ向かうと予め連絡がありましたからね。昼食はいつも通り、私と貴方の二人分だけです。ですが夕食は彼等二人の歓迎会だ、普段より豪勢にいきますよ」

 尋ねるエドガーに華やかに微笑みを返し、カルティエは指を組んで実に楽しそうに振舞う。年相応の可愛らしい、とても良い笑顔だった。

「へぇ、そいつは楽しみだ。カルティエちゃん大先生の力作に期待してますよ」

「ふふっ、是非楽しみにしていなさい。貴方以外に料理を振舞う機会なんて、今までありませんでしたからね。今日は腕によりをかけて沢山作りますよ!」

 エドガーにおだてられて気を良くし、カルティエは気合を入れて高らかに宣言した。そして意気揚々と、事務所に隣接する台所へ足を向ける。エドガーはその後ろ姿をなんとも言えない生温かい表情で見送った。

 普段、エドガーの食事を用意しているのはカルティエだ。彼女は一度も実家に戻らないまま、事務所でエドガーと寝食を共にしている。

 生活能力が欠如しているエドガーからすればありがたい話ではあるのだが、世間様からは『マフィアのボスの娘に飼われている残念な中年男性』などという、最低の一言に尽きるあんまりな評価を下されてしまっているため、そこまでおいしい状況ではない。―――この世の中、そう甘いことばかりではないのだ。

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