第2話

「どいてどいてーっ!」

 よく晴れた昼下がり。ひと仕事終えた者、遊びに向かう公達、生活の必需品や食料を求めて市へと向かう人々で賑わうみやこの小路を、バタバタと走る童子が一人。

 ……いや、童子と言うにはいささか年長であるようだ。歳は十五か十六か。水干をまとい、烏帽子を被っていない事から、元服をした貴族階級、ではない事はわかる。……少年、と言った方がしっくりとくるだろうか。

 少年の手には、鳥の形に折られた紙。風のいたずらか、目の錯覚か。それは時折、ぴくりと動いているように見えた。

 やがて少年は、一つの邸の前で足を止め、心の臓を落ちつけようと大きく息を吸い込んだ。そして、大きく吐くと、真っ直ぐに前を見て門をくぐっていく。

「師匠、ただ今戻りました。師匠ー?」

 少年が声をかけながら邸に上がると、奥の方から「こっちだ。早く来い」と声がする。慌てて少年が奥の部屋へと向かうと、そこには声の主であり少年の師匠でもあるこの邸の主――瓢谷ひさごやの隆善りゅうぜんが腕組みをして庭に面した簀子の上に胡坐をかいていた。

 その横には、少年と同じように水干をまとった活発そうな少女――と言うにはやはりこちらも少々歳かさと思われる女性が同じように胡坐をかいている。そして更にその横には、一匹の少々大きな猫が退屈そうに陽の光を浴び、あくびをしている。この猫、珍妙な事に人間と同じように狩衣をまとっている。更に言うなら、尻尾の先がどうも二股になっているようだ。

「遅かったな、葵。どこをほっつき歩いてたんだ?」

 ぶっきらぼうに問う隆善に、少年――葵は「ちょっと市まで、甘い物を……」と言葉尻を濁らせた。その言葉に、隆善、その横の女性、更にその横の猫までもが、スッと右手を――猫は前足を――差し出した。葵は少しだけ残念そうな顔をすると、懐から干し棗の入った袋を取り出し、少しずつ二人と一匹の手に分けた。……勿論、自分の分はちゃんと確保してある。

 葵も加わって車座になり、一同は干し棗をかじり始めた。

「それで、師匠? 式神を飛ばしてまで俺に早く帰って来いって……一体どんな御用ですか?」

「あぁ。お前に一つ、使いを頼もうと思ってな。あまり遅くなると、何かと不便だろうからな」

 そう言う隆善に、葵は「お使い?」と首を傾げた。

「遅くなると不便って、一体どこまで……」

「変な場所じゃない。……が、結構遠い。……葵。お前、ちょっと惟幸これゆきんとこまで行ってこい」

「惟幸師匠の? え、ちょ……今からですか!?」

 素っ頓狂な声をあげる葵に、隆善はうるさそうに干し棗をかじる。

「だから、遅くなると何かと不便だっつってんだろうが」

「いや、でも……え? 何で俺なんですか? 何か用事があるならさっきみたいに式神を飛ばせば済む話ですし……あ、それに俺よりも、紫苑姉さんが行った方が惟幸師匠達も喜ぶだろうし……」

「あー、うん。それ、ボクもそう言ったんだけどね」

 そう言って、隆善の横にいた女性――紫苑は申し訳なさそうに干し棗をかじった。十七か十八の年頃の女性だというのに、その言動には女性らしさがあまり感じられない。正直、このままでこの姉弟子は大丈夫なんだろうか、と葵は思わずにいられない事がある。

「父様のところにお使いなら、ボクの方が勝手がわかってて良いと思うんだけどね。虎目とらのめが……」

 そう言って紫苑は、横で干し棗を舐めている猫を見た。虎目という名のその猫はフン、と鼻を鳴らして首を持ち上げると、おもむろに口を開いた。そして。

「惟幸のところへ行く途中で、何かが起こるにゃ。何が起こるかまでは見えにゃかったから、教える事はできにゃいが……それは、葵の人生に大きく関わってきそうにゃ感じだったにゃ。だから、葵が行く必要があるんにゃ」

 そう言って、それ以上言う事は無いと言わんばかりにまた干し棗を舐める。奇妙奇天烈なこの猫、当猫曰く未来千里眼なる物を持っており、未来を見通す力を持っているという触れ込みである。

 未来が見えるなど一笑に付すべき話だが、いかんせん、この通り喋る猫である。笑って話を流すには、少々存在が不思議過ぎる。

 しかもこの猫、時々葵は勿論、師匠である隆善すら知らない言葉を用いる事がある。当猫曰く千年後の言葉を使って語られる色取り取りで形豊かな菓子の話を聞いていると、この猫の話を信じてしまう。……いや、信じたい。その通りの未来に来て欲しいし、見てみたいし、出来得る事なら菓子を手に取り味わってみたいと思う。

 そう思うのは葵だけではないらしく、隆善や紫苑も同じように時折未来の話を聞かされているのか、虎目の話には割と素直に耳を傾ける。もっともこの二人の場合、実際に何度か虎目の未来千里眼に助けられた事があるらしい。ならば、葵以上にこの猫の言葉を信じていても不思議は無い。

「そういうわけだ。さっさと準備して、行って来い」

 隆善の声に、葵はハッとして前を見た。隆善が手紙を葵に差し出している。これを届けて来い、という事なのだろう。その横からは紫苑が、何やら木の枝を手渡してくる。

「? 紫苑姉さん、何ですか? これ……」

 首をかしげる葵に、紫苑は少しだけ照れ臭そうに頭を掻いた。

「ゆずりはの枝。父様のとこに行くなら、これも一緒に、父様と母様に届けてくれないかな? ……ほら、ボクも父様も母様も、歌を詠むのは苦手だしさ」

 なるほど。ゆずりはの別名は親子草と言うらしいし。それでなくてもこの植物には縁起物としての側面がある。これから会いに行く人物――惟幸は紫苑の実父だ。離れて暮らす親に「会いたい」「いつまでも元気で」という気持ちを込めた、紫苑なりの贈り物なのだろう。

「ま、未来の花言葉だと、ゆずりはの意味は世代交代、だけどにゃ」

「とっとと引退して、当世一の陰陽師の座を自分に譲れって事か? 恐ろしい娘だな、お前と言う奴は」

「ちっがーう!!」

 紫苑を茶化し始めた虎目と隆善に、紫苑がキレる。物が宙を飛び交い始める前に出発しようと、葵は部屋を抜け出した。自分の部屋で簡単に身支度を整え、荷物をまとめる。そして、さぁ出発しようと邸の外へ足を踏み出しかけた時。

「師匠と虎目の馬鹿ーっ!」

 紫苑の金切り声が聞こえ、次いでドタバタと走り回る音がする。

 何度でも言いたくなる。あの姉弟子は、あのままで本当に大丈夫なんだろうか? ついでに言うと、隆善も外に何人か良い仲の姫はいるらしいが、今のところ独身である。而立をもう五年以上過ぎた男が、あのままでも良いものなのだろうか。そして、そんな師匠と姉弟子に教えを受けている自らの将来を考えて、葵は思わず深い溜息をついた。

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