第1話 ひろわれたぼくら

 ふわふわ、浮かんでいるようだった。ゆらゆら、ゆりかごのように揺らめいて心地がいい。

 こんなに穏やかな目覚めは初めてだ。ぼくはしばらく微睡みを楽しんでいた。

頬になにかが触れた。くすぐったくて目を開ける。茶色の柔らかそうな髪の毛だった。髪の毛……?

「目を覚ましたか」

 見上げると、女の人の顔があった。知らない丸耳の女の人。ぼくは女の人に抱き抱えられていた。

「あ、あうあ……」

 ぼくはびっくりして何か言おうとしたが言葉にならない。女の人はくすりと笑った。

「慌てずともよい。疲れておろう、もうしばし休め」

 その笑顔も、声も、とても柔らかくて安心した。ぼくはもう一度女の人に身を預けた。

 お母さんみたいだ、と思った。お母さん? 思い出そうと思ったが、ぼくのお母さんの顔は思い出せなかった。

「お前の名前はバニアというのだろう」

 女の人は言った。ぼくは自分の名前を覚えていなかった。でも、ぼくは頷いていた。

「それでいい。お前はバニア。それを覚えていれば今はそれでいい」

 女の人は優しく笑った。ぼくは安心したらとても眠たくなった。

「ゆっくり休むといい。いくらでも時間はある……」

 柔らかい声は心地よくて、ぼくの意識はまた遠のいていった。


 怖い夢を見た。たくさんたくさん見た。ぼくは泣いた。叫んだ。怖くて目を覚ますと、いつもあの女の人が微笑んでいた。そしてぼくの名前を呼んでくれた。ぼくは安心してまた眠りにつく……。

 それを何度繰り返しただろうか。

 ぼくは女の人を見上げた。変わらず優しい微笑みを湛えている彼女。この人は誰だろう。ふとそう思ったんだ。

「……あなたは だれ?」

 言葉が出た。意味のある言葉が。ようやく意識がはっきりしてくるのを感じた。女の人もそれに気が付いたのか、嬉しそうにくすりと笑って応えてくれた。

「わしはアネモネという」

「アネモネさん……」

 女の人の名前を口の中で転がす。聞いたことのない名前だった。

「アネモネさんは、ぼくの おかあさん?」

 ぼくの問いに、彼女はアハハと大きく笑った。

「母ではない。残念ながら」

 ぼくはがっかりした。

 不意に自分の足元が目に入った。可愛い黒い靴を履いていた。全身を見る。白黒チェックのスカートと黒いフリルたっぷりのブラウス……町のお金持ちの子が着ているような、憧れのファッションだった。

「ここではイメージがお前の姿になる」

 疑問に答えてくれるようにアネモネが言った。

「お前がなりたいお前の姿になる。もう物質という檻はないのだ」

 言われている意味はよくわからなかったが、この服は昔ぼくが欲しがってた服のような気がした。

 周りに目をやった。ぼくたちは崖の上にいるようだ、広大な世界が一望できた。

 色のない世界だった。キャンバスに墨をこぼしただけのような世界だなと思った。灰色の空、黒い大地に白いものがまだらに堆積している。ところどころ廃墟のような建物が点在しているだけの、なにもない世界だった。

 ぼくはようやく、いま置かれている奇妙な状況に気が付いた。

「ここは、どこ? あなたは、だれ?」

 アネモネはぼくを膝から下ろすと、スカートを払いながら立ち上がった。

「順番に説明する。行こう」

 そしてぼくの手を引いて歩き出した。

 ぼくはぱちくりとした。アネモネの背には灰色の翼が生えていたんだ。


「ここは地界という。世界から拒絶されたものが住まう世界だ」

「ちかい?」

 アネモネはこくりと頷いた。

「地上で人を恨み、歪んでしまったものたちが流れ着く場所だ」

「歪んだ……」

 近くでさわさわと流れる灰色の小川を眺める。奇妙な形をした魚がプカプカと漂っていた。

「本来、生物は皆、肉体の死とともに大いなる流れに回収され、世界とひとつになる。そこで再び新しい肉体を与えられるのを待つのだ」

 アネモネは空を見上げた。キラキラとした一筋の光の川が流れているのに気が付いた。

「あれが、大いなる流れ?」

「ああ。命の大河だ。……歪みに侵されてしまった一部の命は、川から打ち上げられ『岸』で目覚める。そして永遠に世界をさまよい続けるのだ」

 しばらく二人で川を眺めた。あそこにみんながいる。ぼくはやっぱり置いてけぼりの仲間はずれなんだ。なんだか寂しい気分になった。

「岸に流れ着くものにも二種類いる」

 アネモネは再び歩き出して言う。

「徳の象徴、白い翼を持つものと、罪の象徴、黒い翼を持つものだ」

 ぼくの背中にも何か生えているのだろうか。気になって、小川に歩み寄った。大きな黒い翼がそこにはあった。

「翼が大きいほど、背負っているものが大きい」

「罪……ぼくはとても悪いことをしたの?」

 アネモネはゆっくり首を横に振った。

「生きている限り、罪というのは皆に平等に存在する。罪は自らが負おうと思わねば背負わぬものだ。ただお前は、それだけ大きな罪を背負おうとしている、それだけのことだ」

 アネモネの柔らかい微笑みで、ずしりと重く感じた背中が、少し軽くなった気がした。

 アネモネはとても大きな灰色の翼を背負っていた。灰色の翼は何を象徴しているのだろうか。

「岸には、二種の魂が流れ着く」

 アネモネは、小川を眺めていたぼくの手を引いて歩き出した。

「岸の先の世界には、美しい白い翼の世界がある。きっと、地上のものは天国と思うだろう世界だ」

 天国。ぼくはあたりを見回した。灰色の荒野。ここはさながら地獄のようだと思った。

「白い翼は黒い翼を嫌う。白い翼の王国に入れてはくれない。ここは地上にも天界にも追われた黒い翼が最後にたどり着く世界だ」

 ぼくは罪を犯したから、地獄に堕ちたのか。しょんぼりしたぼくの手を、アネモネがぎゅっと握った。

「わしは、罪を感じているものほど救われるべきだと思っている」

 アネモネは、前を見据えながら強い口調で言った。

「救われたいか、色のある世界を見たいか、バニア」

 急に問われてどきりとする。でも、ぼくははっきり、うん、と答えた。

「ならば、わしに付いて来い」

 アネモネは立ち止まり、眼下に広がる世界を見た。

「わしはこの世界を緑あふれる楽園にしよう」

 アネモネの横顔は決意に満ちていて、瞳はきらきら輝いていた。

 ぼくは幸福を感じていた。この人はぼくを仲間にしてくれる。一緒に色鮮やかな世界を見たいと思った。一緒に歩きたいと思った。

 ぼくは返事のかわりにぎゅっと彼女の手を握り返す。

 ぼくを見てくすりと笑ってくれる彼女はとても頼もしく見えた。ぼくはもうちょっと甘えてみたいと思った。

「ねえ、アネモネさん…… 姉上って呼んでもいいかなぁ?」

 アネモネはきょとんと目を丸くしたが、すぐにアハハと豪快に笑った。

「母にはなれんが、姉ならよい。今日からお前はわしの妹だ」

 ずっと夢見てきた、暖かい家族、優しい兄弟……。ぼくは、いままで生きてきたなかで最高に幸せだった。


「今日は満月夜みつきよか」

 姉上は空を見上げてひとりごちた。満月? 見回すがぼくには見つけられない。すると、姉上は一方を指し示した。

「そこに満月が映っているだろう」

 本当だ。川のある一点にまるく輝いている部分があった。

「命の大河に地上の満月が映るときがある」

 そういえば、この世界の空には太陽も月も見当たらない。あれは地上の月なんだ。

「そこは淀みと呼ばれる場所だ。通常命の大河に飛び込むと流れにあがらえず流されてしまう。しかし淀みならば流されずに抜けることができるのだ」

「地上に戻れるの?」

 姉上はこくりと頷いた。

「淀みはうつろう。地上で夜が明けるころには消えてしまう。あの場所にあるのはあと数時間といったところだろう」

 ぼくはごくりとのどをならした。地上に戻れる。興味がないわけではない。だけどぼくは戻りたいとは思わなかった。複雑な思いを巡らせているぼくを見て、姉上は突然低い声で言った。

「この世界にはルールがある。安らかに暮らすためのルールだ。これまでの罪は問わないが、これから罪を犯したらそれなりの罰を受けてもらう」

 姉上が少し怖い顔をしていたのでぼくは身をすくませた。

「ルールは単純だ。ひとつしかない。わしの許可なく地上に行ってはならない。もちろん、天界にもだ」

 姉上は怖い顔でしばらくぼくを見ていたが、ぱっと表情を笑顔に戻す。

「それさえ守ればよい」

 ぼくはほっとした。それならぼくにも守れそうな気がした。

「せっかく拾った命だ。大切にしろ」

 姉上は柔らかな微笑みと共に頭を撫でてくれた。ぼくは頷いた。姉上はぼくを大切に思ってくれている、その思いに応えたいと強く感じた。

「お前は黒い翼にしては素直でいい子だのう」

 姉上は感心したように呟くと、くるりと背を向ける。腰に手を当てて満月を見上げた。

「わしはこれから仕事があるのだが……共に来るか?」

 うん、行きたい、と言った。姉上と一緒に居たいから当然の答えだった。

「少し危険だが、大丈夫か」

 ぼくはこくりと頷いた。ひとりぼっちの不安より怖いものなんてない。

「ならば、行こう」

 姉上はぼくの手を掴むと、空に身を投じた。灰色の翼が大きく開きふわりと上昇した。

 悲鳴をあげながらしがみつくぼくに、姉上はアハハと大きく笑う。

「お前も飛べるのだぞ。羽を広げてみろ」

 ぼくは背中に全神経を集中させた。ふわり、ふわりと重力に抵抗している感覚が訪れた。

「飛べてる! ぼく飛べてる!」

 よたよたと頼りないが、ぼくは自分の体重を支えられて歓喜した。

「すぐに上手く飛べるようになる」

 姉上はくすりと笑うと、ぼくの手を引いて急上昇した。視線の先には、あの淀みがあった。ぼくは行き先を理解した。

「地上に行くの?!」

「ああ、目を閉じて、口も閉じていろ。絶対に手を離すなよ」

 どんどん加速する姉上から振り落とされないようしがみついた。ぎゅっと目と口を閉じる。

「一気に抜けるぞ!」

 姉上の威勢良い宣言を合図に、ぼくらは光の川に飛び込んだ。

 目の前がまばゆい。目を閉じていてもわかった。暖かかったり冷たかったり、不思議な感覚だった。ふわぁと一瞬意識をなくしそうになったが、強く握られた手で我に返る。危ない、きっと眠ると危ないと思った。

 急に世界が暗くなった。肌寒い感覚に襲われる。ぼくはゆっくりと目を開いた。

 眼下には真っ暗な森、遠目にぽつぽつと灯る明かり、空を仰ぐとまんまるの月が見えた。

 懐かしい。ぼくが見慣れた世界だった。

「こんなところに出たか」

 姉上は情報を得ようとまわりをきょろきょろしていた。

「帰り道を覚えておかんとな。見ろ」

 姉上に指差された先を見る。木々の間からほんのり発光する泉のようなものが見えた。

「あれに月光が当たっている間に戻らねばならん。急ぐぞ」

 再び姉上はぼくの手を引いて高速飛行を始めた。

「ここはどの辺りなの?」

 そう聞いたものの、地上のことは、記憶がぼんやりしてよく覚えていない。

 たしか、管理島と呼ばれる、王さまとか偉い人が住む大きな島の周りに、5つの大きな島があって……その5つの島はそれぞれ、ファーストシティ、セカンドシティ、サードシティ、フォースシティ、フィフスシティとか呼ばれていた気がする。

「フィフスシティのはずれかのう」

「これからどこへ行くの?」

「フォースシティの市境の村だ」

「そこになにがあるの?」

「行けばわかる」

 ぼくは飛行中、いろんな疑問をぶつけてみた。風の音にかき消されないよう、怒鳴るような大声で。

「帰り道がなくなったらどうなるの?」

「次の満月まで地上をさまようことになる」

「満月の映ってない川に飛び込んだらどうなるの」

「おそらく、岸まで流される」

「岸まで流されたらどうなるの」

「……白い翼に見つかって処分される」

 ひやりとした。処分って、殺されるってことだよね。まだ見ぬ白い翼の恐ろしい姿を想像して身震いした。

 わからないことだらけだ。ぼくはどきどきした。何でも的確に答えてくれる姉上を尊敬した。ぼくは本当にラッキーだ、姉上に拾ってもらえて。こんなわけのわからない世界にひとりでほうりだされたら、とっくにぼくのちっぽけな魂は消滅していただろう。

 明かりがぽつぽつ灯る小さな集落の上で姉上は停止した。

「降りるぞ」

 一言言うと、急降下を始める。ずっと高速で振り回されて、ぼくはくたくたになっていた。着地すると同時に手を離されて、ぼくはべちゃりと地に伏せた。

「大丈夫か」

「……ちょっと酔ったみたい」

「すまん、急ぎなものでな」

 姉上は苦笑いした。姉上について行くにはまず上手く飛べるようにならなきゃな、と思った。

「着いたの?」

 いつまでも地面と仲良くしてるわけにもいかない。ぼくはむくりと起き上がって問うた。

 姉上はこくりと頷くと、近くにある小屋を指し示した。

「用事があるのはその家だ」

 家、と言うより物置みたいだ。ずいぶんボロボロだなぁと思った。姉上は開いていないドアからするりと中に侵入した。ぼくはぎょっとした。体を半分だけ出して、姉上はぼくを手招きした。

「どうやってるの?」

 姉上は首を傾げる。ぼくが、ドアから突き出した彼女の体を指差すと、ああ、と納得したように言った。

「普通に進めばよい。いま我々には器がない。物質世界のものは我々には影響しない」

 ぼくは恐る恐る手を突き出した。ドアの手応えがない。本当だ。ぼくが理解したのを確認して、姉上はするりと小屋に滑り込む。ぼくもえいやっと飛び込んだ。

 荒い息づかいが聞こえた。すぐ近くに人がいてびっくりした。ぼくはあわてて姉上に駆け寄る。

「できるだけ人には触れるな」

 難しいことを言う。小屋はとても狭くて、足の踏み場がほとんどない。毛布のようなものが敷き詰められていて、そこに八人の猫耳族がいた。よく見ると、みんな子供だった。みんな同じ薄汚れた銀髪で、みんな痩せ細っていた。荒い息をしているのはそのうちの半数だった。全身に赤い発疹が出ており、苦しそうに横たわっていた。

「流行病だな」

 姉上は眉間にシワを寄せて光景を見ていた。子供たちがこちらに気づく様子はない。ぼくは観察を続ける。一番大きい少女が、粥のようなものを病気の子に与えていた。次に大きい少年が、瓜二つの少年の頭のタオルを換えてやっていた。小さな二人の子供は、内職だろうか、何かを一生懸命作っていた。

「だめ、ぜんぜん食べん……」

 少女が悲痛な声を上げる。

「みー坊、あんたも食べんさい」

 タオルを換えていた少年に話しかける。少年は頷くと、わきにあった小さなお椀を手に取った。粥を口に含んだが、飲むのが辛いんだろうか、ぎゅっと目を閉じて苦しそうに喉を動かすと、それ以上口にしようとしなかった。少女はまた違う子供に粥を運んでいた。

 ぼくは見ていられなかった。姉上はここになんの用事で訪れたんだろう。ぼくは姉上に視線を向けた。

「あの少女は、色素欠乏だろう」

 突然姉上はそう呟いた。ぼくはもう一度少女を見た。銀髪から、赤い瞳が覗いている。

「他の子は紫の目をしているだろう? あの少女はアルビノなのだ」

「アルビノ?」

 姉上は頷く。

「全くあり得なくはないが、世界では少し珍しい形質を備えて生まれてくるものがいる。

彼らを異端という。……彼女は異端なのだ」

 異端。ぼくはふと思い出した。家族からのけ者にされるぼく。丸い耳のぼく。ぼくも異端だったのだろうか。

「異端は、異形化しやすいのだ」

 いぎょう、とぼくは問う。

「異形とは、魂が歪み異常に変質することだ。異形化すると、大いなる流れから切り離される。程度が軽ければ、翼が生えるくらいで済むが……異形化が進めばただの化け物となりやがては自壊する」

 翼が生える……ということは、ぼくたちも異形の一種なのだろうか。ぼくはぼんやり考えた。

「わしは、異端を見つけたらこうやって見ておる」

 姉上はぽつりと言った。

「異形化を続ける魂も、発見が早ければ救えるのだ」

 忙しく動き回るアルビノの少女を辛そうな表情で見る。

「白い翼になるならばよい、岸まで流されれば救われよう。ただそれ以上歪むようなら……助けてやらねばならん」

 悲痛な少女の姿は、ときどき黒くゆらいでみえた。これが歪みか、と思った。彼女が異形化するのは時間の問題に思えた。

「歪まないよう、今、助けることはできないの」

 ぼくは懇願するように言った。姉上にはきっと造作もないことだろうと思った。でも姉上はゆっくり首を横に振った。

「物質世界に干渉することは許されない。わしが手を貸せるのは、流れに切り捨てられてからだ」

「そんな……」

 ぼくの胸はぎゅうと締め付けられた。

「このままじゃいけん」

 ずっと弟妹に、粥を与え続けていた少女が、ついに椀を置いた。

「熱が下がらんと死んじゃう……」

 勢いよく立ち上がり、宣言した。

「薬もらいに行ってくる」

「姉さん、無理しないで」

 少年が泣きそうな顔で姉に取り縋った。

「僕が行く」

 少女はちらりと弟を見た。しっかりボタンを閉めて隠しているが、彼の首元にも赤い発疹が登ってきているのに気づいていた。

「あんたは下の子をみてて。すぐ戻るから」

 少女は弟を座らせると、ぼろな上着を羽織って家を駆け出した。

「追うぞ」

 姉上の声を合図に、ぼくらも家を飛び出した。

少女は明かりの灯る方に全力で駆けていた。途中でつまづいて転んだ。受け身がうまくとれずにひどく擦りむいた。彼女は溢れる涙も血も拭わずにまた走り出した。

 一軒の立派な家にたどり着くと、乱暴にドアをノックした。玄関灯が灯り、中から中年男が出てきた。男は汚らしい少女を見て、とても嫌そうな顔をした。

「お嬢ちゃん、また来たの」

「薬をください! 熱が下がらんの……赤いぶつぶつもどんどん広がってる……お金なら払います、絶対払います」

「だからね……前も言ったと思うけど」

 懇願する彼女に辟易したように、男はため息混じりで言った。

「その流行病は薬が不足しててね、あげられないんだよ。欲しい人は他にもいっぱいいるんだ」

「うそ!」

 少女は叫んだ。

「村の人みんな治った!」

「だからそれは、みんなちゃんとお金を払ってくれてね」

「払うっていってるじゃん!」

 すがりつく少女を邪険に払いのけ、男は顔をおそろしく歪めた。

「まえ熱病の子を診てやったが、結局払わなかったじゃないか! うちも家庭があるんだ、いつまでも慈善活動はできない!」

 怒鳴り声を聞いた近所の人たちが、なんだなんだと集まり始めた。男は恥ずかしそうに顔を伏せ、原因となった少女を恨めしそうに見やった。

「そんな血を流して……村の人に病気が移ったらどうするんだ。帰ってくれ」

 そう吐き捨てて男は扉を閉めようとした。しかし、閉まらなかった。どんなに力を込めても閉まらなかった。

 男の言葉を聞いた村人たちがざわめいていた。流行病にかかってるんですって、近づいたらいけんよ、はやくどっかいかないかなぁ……そんな声が聞こえた。ぼくははらわたが煮えくり返る思いにじっと耐えていた。

 男はまだ扉と格闘していた。どうして閉まらない? 目の前には痩せた少女しかいないのに。

 少女は、俯いてドアノブを持っていた。ただ軽く持っているだけだった。しかし男には閉められないようだった。

 少女の髪が、墨を頭にこぼしたように真っ黒に染まっていった。そして、背中に大きな黒い翼が生えた。異変に気付いた男は、ひぃ、と声を上げる。扉がこなごなに吹き飛んだ。

「早いな」

 静観していた姉上が低い声で言った。砂煙が晴れたときには少女の姿は黒ずくめの巨人に変わっていた。

 あたりには悲鳴が響き渡った。村人たちは我先にと逃げていく。巨人は目の前でへたり込む男にむけて太い腕を振りかぶった。吹っ飛ばされる……と思ったが、男の体は奇妙に変形し腕にへばりついていた。

「なに、あれ?!」

 ぼくは悲鳴をあげた。姉上は叫ぶ。

「癒着だ! 魂が揺らいでいるときに別の魂にふれるとくっついてしまうのだ。さらに歪むぞ」

 男が癒着した部分はすぐに黒く染まり、巨大な目玉に変わった。黒い塊は肩まで裂けた口を開き咆哮をあげた。

「姉上えええ! どうするの?!」

 ぼくは泣きそうになりながら叫んだ。巨人の声はびりびりとぼくを震わせた。悲しみ、痛み、絶望、ぼくのなかにあるものと同じ感情がぼくのなかで共鳴した。ぼくはたまらなくなって耳をふさいでしゃがみこんだ。耳をふさいでも声は遮れなかった。

 泣き叫ぶ黒い塊に、姉上はふわりと降り立った。あぶない、と思ってぼくは身構えたが、黒い塊は気付いていないようだった。ただ嘆きの咆哮をあげ続けていた。

 姉上は、塊の肩にちょこんと座ると、頭を撫でた。そして優しい微笑みを湛えながら言った。

「いままでよく頑張ったな。もう休んでいいのだぞ、コークス」

 突如、静寂が訪れた。塊が泣きやんだのだ。

 次の瞬間、巨人は収縮して、元の少女のサイズに戻っていた。倒れ込む彼女を受け止めて、抱きしめる。少女は黒いままだった。大きな一つ目で姉上を見上げると、わっと泣き出した。

 今度は少女の声で泣きじゃくった。姉上はずっと少女の頭を撫でていた。少女はひとしきり泣くと、静かになった。村に再び静寂が訪れた。

 黒い少女を抱きかかえて、姉上は戻ってきた。

「終わった。帰るぞ、バニア」

 呆然とするぼくを後目に姉上はふわりと浮き上がる。ぼくはあわてて続いた。

 行きよりゆっくり飛行する彼女に付いて、ぼくは声を上げる。

「帰るって、地界に?」

「ほかにどこがあるというのだ」

 さも当然のように語る姉上に、ぼくは驚いた。

「この子の兄弟はどうするの。お姉さんがいなくなったらみんな……」

 死んじゃう。最後の言葉は詰まって出なかった。姉上は抑揚のない声であっさりと言い放つ。

「それが自然の流れなのだ。我々にはこれ以上干渉できぬのだ。してはならんのだ」

「そんな……」

 涙がぶわっと出てきた。兄弟は愛し合い助け合っていた。なのに幸せにはなれなかった。

「どうして……」

 ぼくは泣いた。眠る少女を思って泣いた。きっと彼女はぼくのように、家族を忘れてしまうだろう。辛い記憶は仕舞ってしまうだろう。そうしないと生きられないから。

「出口が塞がる。急ごう」

 姉上は泣きじゃくるぼくの手をとって言った。ぼくは頷いた。

 姉上の手は相変わらず暖かかった。


 悪夢を見ているのだろうか。黒い少女の形をした影はうなされつづけていた。たまにノイズが入ったように影は揺らいだ。そのたびに姉上は頭を撫でながら優しく名前を呼んであげるのだった。

 ぼくにも同じことをしてくれていたのだろうなと思った。ぼくは黙ってふたりのそばに座っていた。


 どれくらいの間、そうしていただろうか。ぼくは自分がちっとも眠くならないのに気が付いた。おなかもすかないや、と思った。

 ぼくはだんだん自分がおかしくなってしまったことを実感し始めた。永遠にぼくはこの何もない世界でただぼんやり生きていくのだろうか。不安になった。

 気が遠くなるほど長い時間が流れた気がした。黒い影はどんどん肌の色を取り戻しているようだった。揺らぐ頻度が減り、やがて少女の姿に固定された。

 少女は一筋涙を流すと、ゆっくり目を開いた。黄色い瞳だった。

「目を覚ましたか、コークス」

 姉上は微笑んだ。

「……お母ちゃん」

 第一声はそれだった。姉上は苦笑して言った。

「母ではない。わしの名はアネモネだ」

「お母ちゃんじゃないの」

 コークスは満面に落胆の色を浮かべた。ぼくとおんなじだ、と思って愉快になった。

 それから、周りに興味を持ち始めた彼女に姉上はぼくの時と同様の説明をした。コークスはあまりわかってないような相槌を打ちつつ聞いていた。

 やがてふたりは立ち上がった。ぼくもそれに倣う。

「少し地界を案内しよう。バニアにも案内はまだだったのう」

 姉上はコークスの手を引いて歩き出した。ぼくは空いている姉上の右手をしっかり確保した。こうやって三人並んで歩いてると、仲の良い三姉妹みたいだなと思い、ほくそ笑んだ。

 たどり着いたのは廃墟だった。そびえ立つ高い外壁は円形に並び、内側は階段状となって丸い広場を囲っていた。競技場みたいだな、と思った。

「ここは議事堂と呼んでいる場所だ」

 広場の真ん中に歩みながら姉上が言った。

「地界の住人たちは群れるのを嫌うのだが……ここはみなが集まってくる場所だ」

 いまは誰もおらんがな、と姉上は苦笑して呟いた。

「みんな? 仲間は、たくさんいるの?」

 姉上はこくりと頷く。

「扱いの難しいやつばかりだがな」

 ぼくは嬉しくなった。なにもない世界じゃないんだ、この世界には仲間がいる。みんなぼくのように辛い思いをしてきたんだ、きっとぼくを仲間はずれにはしないだろう。

 目を輝かせるぼくを見て、姉上は複雑そうに笑う。

「まあ、そんな期待はするな……だが、できれば仲良くしてやってくれ」

 姉上はそれだけ言うと、ばさっと翼を広げた。

「これからわしは仕事がある……ふたりは、ここで待っていてくれるか」

 ぼくとコークスが、不満の声を上げたので、姉上は困った顔をした。

「どうしても行かねばならんのだ。すぐ戻るから……コークスを頼んだぞ、バニア」

 ぼくは驚いた。姉上がぼくを頼りにしてくれてる。それが嬉しくて、不安な気持ちはどこかに行ってしまった。ぼくはうん、と元気よく応えた。

 姉上はにこりと微笑むと、空に飛び立っていった。残されたぼくらは、議事堂の階段に座った。

 コークスを改めて見つめた。薄汚れた銀髪はいまはもうなく、頭から突き出た長い猫耳に至るまで、真っ黒に染まっている。赤かった瞳は黄色に変色し、長い前髪に隠れて片方しか見えない。ぼくからの視線に、コークスは怪訝な顔をした。

「あ、挨拶が遅れちゃったね。ぼくはバニアって言うんだ。よろしく、コークス」

 コークスは固い表情を崩さず、軽く会釈しただけだった。ぼくは困惑した。警戒されている。でも、ぼくは笑顔で続けた。

「ぼくもついこないだ姉上に助けられたんだ。きみとおんなじだよ」

 ぼくの言葉に、コークスは興味を示したらしく、ちらちらとぼくを見始めた。ぼくは彼女の言葉を待ってみた。

「……あねうえ? さっきの人はあんたのお姉ちゃん?」

 コークスからおずおずと向けられる視線は羨望が込められているように感じた。ぼくはにっこり笑って応えた。

「うん、そうだよ! そしてきみはぼくらの妹だ。お姉ちゃんって呼んでくれてもいいよ!」

 ぼくはコークスよりも背は小さいけど。ぼくのほうがお姉ちゃんなんだ。ぼくは自分を納得させるように頷いた。

「お姉ちゃん……?」

 コークスは、顔を赤らめてうつむく。変なこと言って困らせちゃったかな、と今更思った。

 しかし、コークスは恥ずかしそうに笑って言った。

「うち、ずっと一番上だったから……お姉ちゃん、なんて新鮮だな」

 ぼくもずっと一番下だったから、妹ができるなんて初めてだった。ぼくらははじめて、ちゃんと向かい合ってくすくす笑い合った。

 こうして、ぼくらは三姉妹となったんだ。

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