アリスの飛び降りた教室

一初ゆずこ

第1話 プロローグ

「もう死にたいかな」

 その言葉を聞いた仁科要平にしなようへいが真っ先に思ったのは、こいつはまた嘘をついているのだろうという、殺伐とした感想のみだった。

 聞いた瞬間は、何を言われたか分からなかった。それほどまでに宮崎侑みやざきゆうのその台詞は、浮世離れしたものに思えたのだ。

 だが脳がこの言葉の意味を理解した時、これほどまでに軽薄な言葉はないように思えてしまった。

 怠い。疲れた。死ぬ。

 学校へ通う仁科にとって、死という言葉は日常だった。誰もが平和な学校生活に倦んで、退屈な授業の合間に悪態を吐いている。その程度の言葉は学校に通っていれば毎日一回は聞くし、自分だってたまに言っているかもしれない。そんな言葉に仁科はもう、特別な意味を感じなかった。

 仁科は黙ったまま、窓にもたれながらこちらを試すように窺っている侑の目を見返した。何を言えばいいか分からなかったし、何か言わなければならないという必要性も感じなかった。

「ふふ、だんまり? 死ぬなって言ってよ」

「死にたいのか死にたくないのか、どっちなんだ」

「どっちでしょう?」

「勝手にしろ」

 ふふ、とまた含み笑いをもらす侑。顔に嘲りを浮かべた同級生の少女は、くるりと仁科に背を向けて、徐に窓の鍵を外した。

 かららら……。窓が、開く。ふわりと包み込むような風が教室の中へ入り込み、仁科の髪と制服を、窓際に立つ侑の髪と制服をそれぞれ揺らしていく。

 夕暮れ時の為か教室はもうだいぶ薄暗く、満ちる空気は薄らと橙に色づいている。窓から見える赤い夕陽は茜色の光彩を室内へ投げかけ、そんな光の射す教室は、さながら褪せた写真のような色彩に染め上げられていた。

 そんな放課後特有の景色の中に、目の前にいる侑はひどく綺麗に溶け込んでいた。今この瞬間彼女ほどに、退廃的とさえ言える雰囲気の光景が似合う存在はいないだろう。そう思えるほどに、仁科から見てもこの情景は何故だか美しく映った。宮崎侑の容姿に惹かれた事はほとんどなかったはずなのに、今、侑を美しいと思う。そんなものは、ただそれだけの感慨に過ぎないのだが。

 きっと、感傷的になり過ぎた。それは相手だけだと思いたかったが、もしかしたら仁科もそうなのかもしれない。

 だとしたら――昨日、侑に会ってしまった事を呪わずにはいられず、仁科はひどく胸がむかつくのを感じた。

「死んだら人って、どうなるのかな。仁科、知ってる?」

 侑は何の脈絡もなく言った。

 仁科は黙っていた。何故こんな問いをするのか不可解だった。侑のこんなきまぐれな態度には、いつまで経っても慣れそうにない。

 扉の前で立ち尽くしたまま、見ようによっては睨んでいるように前方を見つめる仁科を、侑は振り返った。そして笑い、とん、と弾みをつけて飛んだ。

 あ、と思った。侑が窓の桟に手を掛け、次いで足を掛けたのだ。そうやって身軽に侑は窓の桟に両足を掛け、全身を秋の夕暮れの風に晒した。

 桟に立った侑が、そこから立とうとする。バランスを取りながらも危なっかしい動きで、自分の身体を狭い窓枠の内から立たせようとする。

 仁科は、何も言わなかった。ただ、その様を見ていた。止めもしないし、その奇行の理由を問う事もしない。

「前に、聞いた事がある」

 だが結局、仁科は言った。自分でも意識しないうちに口を開いていた。非現実的な空気に酔ったのかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。

「教えて」

 侑は頭をぶつけないように窓枠にしがみ付いて立ち、仁科に向かって笑いかける。仁科は掠れた声で、語り始めた。

「人は死んだら、死んだなんて気づかないで夢みたいに眠ってて、それが理想だって、俺は聞いた」

 満足げに侑が微笑んで、「そうね」と相槌を打つ。

 だが仁科は、そこで唐突にやめた。

 急に、酔いが覚めた。そんな気がした。代わりに胸を占めたのは苛立ちと自己嫌悪、そしてやはり昨日侑に会わなければよかったという苦々しい後悔だった。

 仁科は、蔑みの瞳で侑を見る。

 たとえ一言でも、この少女に付き合ってやった事を馬鹿だと思った。それが、伝わればいいと思う。馬鹿馬鹿しくて仕方なかった。

 何も言わなくなった仁科を、侑は不思議そうに見ている。一体いつまで続くか分からない無言の問いかけに歯向かい続けるよりも、早く家に帰りたかった。だから早く決着をつける為に、仁科は言った。

「もうやめだ。こんな事、やめにしよう」

「どうしてそんな事するの?」

「付き合ってられるか」

 ぴしゃりと言い放った。

「さっきのは、お前が俺に言った事だろ。なんでそれを、俺に言わせようとする?」

 いつもそうだ。こんな、人を試すような目で笑い、仁科へ執拗に付き纏う。いつも、いつも。

 こんな事、いつまでも続くわけがない。こんな捩れた関係、仁科はとても維持できない。生理的な嫌悪感で、胸が爛れそうだった。

「……私。死んだら仁科の事、忘れちゃうのかな」

 侑が、ぽつりと呟く。

 その声音が少し、ほんの少しだったが先程より沈んだものに聞こえた。だが仁科に後悔はない。自分は言って当然の事を言ったまでだ。仁科は侑を見据え、おざなりに言った。

「忘れたら? いっそ。こんな愛想ない奴なんて、嫌いだろ」

 ざ……と風が一際大きく吹き、侑の傍らでカーテンが風を孕んで膨らみ、捲り上がって風が抜け、窓に向かってふわりと萎む。

 仁科のそんな言葉にも、侑は肩を竦めて笑っただけだった。

 だが、仁科ははっとした。

「……仁科は、最後までそうなんだね」

 笑った。笑っただけだ。だがその笑顔に仁科は氷を背に流し込まれたかのように、はっとした。

 侑は笑っていたが、その笑顔はいつもの人を小馬鹿にしているようなものでもなければ、相手を見下しているような侮蔑の表情でもなかった。こちらの反応を楽しんでいるような顔でもなければ、人を試しているような顔でもなかった。

 ずきんと胸の奥が、急に痛んだ。

「仁科は、最後まで変わらなかった」

 教室を照らす明かりが、暗い色調に変わっていく。夕日が沈もうとしていた。空を背にした侑が今、どんな顔でそれを言っているのか。逆光で不明瞭にしか見えないはずなのに、それでも微かに見えた侑の顔が、くっきりと鮮やかに、仁科の眼窩へ焼き付けられた。

 こんなにも淋しそうに笑う侑を、仁科は今まで見た事がなかった。

 その場に縫い止められたかのように、仁科の足は動かなかった。

 自分が、致命的な間違いを犯した気がした。

 今になって初めて、それに気づいた。

「私、もう死にたいかな」

「宮崎……?」

 侑は顔を上げて――――笑った。


「ばいばい、仁科」


 ――その光景は、幻想的と言っていいほど、宮崎侑に似合っていた。

 黄昏色に染まった教室で、陽光の残滓を受けて金色にさえ見えた髪が靡く。風がカーテンを、大きく巻き上げた。

 小柄でも大柄でもない、女子中学生としては一般的な体格。その身体が、ゆっくりと傾ぐ。揺れた髪の隙間に見えた瞳は、こうなった事を喜んでいるのか、憎んでいるのか、奇妙な色に光っていた。仁科一人に向いているのか、それともこのちっぽけな社会の中に犇く無数の人間に向いているのか。恍惚としているようで、獰猛なようにも見え、全てに倦み疲れたかのようにも見える、それは不思議な瞳の色だった。それとも単に、何も考えていないだけなのか。

 まるで、見せ付けるように。焼き付けろと言わんばかりに。忘れるなと呪うように。その様子はスローモーションのように仁科には見えていて、動くとか、叫ぶとか、そんな事は考える事もできなかった。

 例えるなら、駄菓子を袋から一つ取り出すような。そんな、気軽さだった。

 ただ見ているだけしかできない仁科を置き去りに、侑は何もない空間に身を預けた。

 侑は、やはり笑っていた。

 穏やかに目を細めて、綺麗な顔で笑っていた。

 それが一瞬見えて、次の瞬間に嘘のように見えなくなる。

 声も出なかった。

 仁科は瞬きもできずに、それを見ていた。

 薄暗い教室で、一人きりになった教室で、開け放された窓から吹き込む風を感じながら、仁科は教室の入り口に佇み続けた。

 風がひどく、冷たかった。

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