第40話 キャラクターをどう作るか、話をどう作るのか
先の「キャタクター(天才とは)」と、「キャラクター」では、おおまかにまとめてしまえば「キャラクターは作るものではない」という話を書いたつもりだ。
というわけで、小説用の「キャラクター制作手法、あるいはシート」とかをちょろっと見てみた。以前にもちょろっと見たことがあるからだが、やはり外面から入るものが目につく。外見、口癖、長所、短所などなど。そしてなんとか気づくのが履歴や生い立ちだ。まぁ、メモとして使うぶんにはいいだろう。
「キャラクターを作るというのはそういうことだろう」という声も聞こえてくる。だが、それは逆だ。「構成(キャラクター)」を戻って読んでみて欲しい。キャラクターは話を進めるために必要な道具だ。話においてどのような役割や機能を果たすのか、そこから出発しなければならない。そのキャラクターがある役割を果たすのはなぜか。どのようにその役割を果たすのか。言うなら、そのキャラクターの機能と内面から、決まっていく。その機能を果たし、そのための内面を持つには、どういう生い立ちや経歴によるのだろう。外見は? 人種は? 国籍は? などなど。機能、そしてその内面があって、その外側が決まる。
仮にとしてだが、そういうシートなどからキャラクターを決めるということはどういうことだろう。キャラクターが果たす役割は存在しない。それが存在しないということは、そのキャラクターを使って書くことの中心と言えそうなものが存在しない。
キャラクターの機能から出発する創作を、テーマ主導、あるいはメッセージ主導と呼んでみよう。キャラクターの外面から出発する創作は、キャラクター主導と言えるだろう。もっとも、キャラクター主導だからといって、テーマやメッセージがないということにはならない。そこを世界設定が担う場合もあるからだ。だが、筋やプロットがそれを担うことはまずないだろう。筋やプロットにおいてそれを担うキャラクターがそもそも存在しないのだから。また、世界設定が担う場合があるとは言っても、それはあまりはっきりしたものにはならない。「よく出来た世界」におよそとどまるだろう。そのあたりをまとめて考えると、キャラクター主導というよりも、ガジェット主導と言うほうが適切かもしれない。
キャラクターの話にとどめようと思っていたが、どうも話が広がったようだ。
つまり、話を作る際に、根本的に内側から作るのか(テーマ・メッセージ主導)、それとも外側から作るのか(ガジェット主導)ということになる。
純粋にどちらかだけということもないだろうし、使い分ける必要もあるだろうから、両者に優劣はひとまずつけない。というより、その優劣をつけることがこの稿の目的ではないというだけだが。いや、おそらく使い分けられるのがいいのだろうとは思う。
ネット上にある「創作論」の類の記事などちらちらと見ると、どうもガジェット主導に偏っているようだ。対して、おもに映画や演劇だが、書籍での「創作論」はどうもテーマ・メッセージ主導に偏っているようだ。
ここで、これまで考えてきたこととはまったく異なる制約がある。映画や演劇は、だいたいのとこ二時間で終わらなければならない。もっと長いものも実際ある。だが、だいたい1.5時間から2時間くらいというところだろう。こちらの価値観は、いかに凝縮するか、あるいはいかにまとめるかだろう。
対してラノベは好きなだけ書いて、エタってかまわない。あるいは好きなだけ書いて、打ち切りだ。こちらの価値観はどれだけながく書くかだろう。
どれだけ長く書くかという場合、おそらくテーマ・メッセージ主導はそれに向かない。テーマ・メッセージ主導では、前提を示し、問題を提示し、思索を示す。そしてその全体でテーマ・メッセージを表現する。それで終わる。あるいは、終わってかまわない。
対して長く書くという前提の場合、さっさと終わる可能性があるテーマ・メッセージ主導はそれに向かない。ガジェット主導のほうがやりやすい。そのガジェットにまつわる話という形で、どれだけ長く書こうともひとまずのまとまりにはできるからだ。さらには、ガジェットにまつわることであればネタにできる。長く書くために必要なネタに困ることはない。「ない」というと語弊があるかもしれないが、まぁだいたい好きなだけ書くのには困らない程度には見つけられるだろう。そして、そのガジェットによって、かろうじてではあってもひとまとまりの作品という形はつけられる。
ついでなので触れておこうとおもう。日本文芸における自然主義はテーマ・メッセージ主導なのだろうか、ガジェット主導なのだろうか。作者や作品により、その割合は異なる。だが、おおむねガジェット主導だ。意外と思わるかたもいるかもしれない。テーマやメッセージはあるかもしれない。だが、それは「私」というガジェットにまつわるものだ。テーマやメッセージがあって、「個人である私」が存在する、あるいは作られるわけではない。社会問題をテーマにしているようなものもあるにはある。だが、それは「私の中での問題」にだいたいは矮小化される。
話を戻そう。ガジェット主導による話の作りかたはもういいのではないだろうか。テーマ・メッセージ主導の作りかたをもっと意識していいのではないだろうか。
え? SFは世界を作ってから書く? 残念、違います。書きたいことがあって、それに合わせて外側へ外側へと作っていきます。かなり強いテーマ・メッセージ主導です。ここのところが、カクヨムや他の投稿サイトのSF作品には「誤解してるんじゃないかなぁ」と思えるものが多い理由なのかもしれません。
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