第38話 キャラクター

 というわけで、「キャラクター(天才とは)」に書いたような事柄が、自然主義への落とし穴となる。つまり:

   


という落とし穴だ。

 この落とし穴は、簡単に二つに分かれる。つまり:

   + ならば、自分のこと以外、書けることなどあるはずもなく

   + ならばこそ、自分のことこそが尊い


というのが一つだ。そして、もう一つは:

   + ならばこそ、誰をも書かない


というのが二つめだ。日本文芸界では一つめが一般に文学といわれるもので、二つめが大衆文学といわれるものだ。

 だが、この二つの間には、簡単に見て取れる大きな隙間がある。それはただの隙間ではなく、埋めることが可能な隙間だ。そして、それはという作業が必要だとしても、現に生めることが可能なことが示されている隙間だ。なお、ここでいう編集とは、一般的に思われているだろう編集とはすこし異なる。簡単に言えば、松岡正剛氏が言うだ。日記文学に、それは存在する。二人の日記をするというものだ。二人の著者は自分のことだけを書いておけばいい。「自分のこと以外、書けるはずもない」という前提から、「ならば、すればいい」とするだけで、二人、あるいはもっと多くの「」に変わる。

 さて、ここにおいてはを行なう者が、第三、あるいはそれ以降の著者となりうる。だが、それが問題ともなる。実際には問題でもなんでもないのだが。そのようなにおいては、編集を行なう者のことが書かれる(編集される)。では、その編集において現れる、編集を行なう者のこととはどういうものだろう。

 一つには、「編集を行なう者のことなど現れようがない」という考えがある。なぜなら、日記そのものがオリジナルであり、それ以上の変化はあってはならないというようなものだ。ならば、オリジナルの複数の日記を読んだ者がいたとしよう。その者は、その段階ですでにを行なっている。ならば、オリジナルの複数の日記を読むということそのものが否定されなければならないのだろうか。それは馬鹿げた話である。どうやって、そのようなこと自体を禁止しようというのだろう。

 一つには、「編集を行なう者による、編集など認められない」という考えがある。そう、「」である。そこには、「編集を行なった者にとっての、」が現れている。「」と言うのであれば、それを「」と言うのはおかしい。


 さて、これはそのまま共著という方向にも考えることができるだろう。それが文学であれ、大衆文学であれだ。


 冒頭の二つの間にある隙間は埋められることを書いた。だが、ここまでは複数人が関与しての話だ。そして、問題は最初に戻る。つまり:

   


という疑問だ。一人の著者による限り、冒頭の二つの間にある隙間は埋めることができないのだろうか。ここで簡単な問題を設定することができる。つまり:

   


という問題だ。これは馬鹿げた疑問だろうか。つまり:

   あなたは、今、これを読んでる


のであるから、内容を理解しようとしまいと、賛成しようとしまいと、。そして、受けた影響は、である。「私自身のこと」なしに、その「あなた自身のこと」はありえただろうか(もちろん、ありえる。この論はすでに存在しているからだ。それを知っているなら、私自身のことによる影響などないようなものだろう)。そして、私が、このような私自身のことを書いたということは、あなたにされている。私自身のことを、あなたは知っている。すこしの訓練を行なえば、このような私自身のことをあなた自身のことと、あなた自身のことを区別できる。

 ここで、もう一度簡単な問題に戻ることができる。つまり:

   


だ。一つの答えは、「」である。あなたは、もちろん私も、他人からのだ。そして一つの答えは、「」である。あなたは、もちろん私も、他人からのだ。幻想としての自分自身などというものは存在しない。だが、転写の集まりとしての自分自身は存在する。

 そして、もう一つの答えがある。「あなた自身は、人間が進化の過程を引きずっている、ただの」というものだ。ここにおいては、自分自身などというものはただのだ。あなた自身もそれがあると信じているだ。そんなものは実際には存在しない。だとするなら、とはいったいなんなのか。ある状況において、あなたは何かを感じた、あるいは何かを考えた。だが、それはだ。感じたと思う妄想であり、考えたと思う妄想だ。人間の脳が空白の石版であるという神話は、すでに崩されている。日々、進化の過程を引きずっているにすぎないと確認されている。あなたは、なにかを「怖いと思った」のではない。「ある反応によって、それを怖いと思ったという妄想が生じた」だけだ。あるいは何かに共感したとしよう。それに共感する回路が脳に生得的に存在するだけだ。あるいは、共感するような回路を脳に構成するための生得的な機能、ないし情報によって、それに共感する回路が脳に構成されただけだ。


 では、キャラクターとは何なのだろう。それは、プロップのファンクションが示すように、それを受け入れやすくしている脳の回路によるものだ。そして、なにかの要素によって掬い取られた、でもある。それはであったとしても、ではない。

 そして、冒頭の二つの隙間にこそ自分自身がいる。自分のことを書くというのは、それが一人のキャラクターであろうと、複数のキャラクターであろうと、その隙間にしか存在しない。

 面倒な話になったかもしれない。だが単純なことだ。掬い取りかたさえ知っていればいい。冒頭の二つはどちらも、掬い取りかたを知らないという単純なことに起因する、でしかない。

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