第36話 自然主義と100万字とIFと

 "自然主義" と "100万字" と "IF" が直接くっつくわけではありませんが。日本においては、もしかしたら案外くっつきやすいのかなと思い。まぁ、自然主義とか見ると、実際には30万字とかだったりもしますが。

 "自然主義"、とくに日本文芸における自然主義については「SFってなんなんだろう?」の「第18話番外編 夏目漱石とジュール・ヴェルヌ」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054880328899/episodes/1177354054880733873)とかを見てください。そっちに書いてあるように、日本文芸における自然主義は、「」を重視します。

 ところで、男性作家と女性作家で作品の傾向に違いがある、あるいは男性読者と女性読者では作品に期待するところに違いがあるという話があります。どこまで本当なのかはしりませんが。私個人としては、「第1話雑感1」でこう書いています:

   同じところをぐるぐる回ってるようなイライラがありません? ありませんか。


なので遠慮無く書いてもいいかなと思いますが。女性作家にせよ女性読者にせよ、女性はを求めるのかもしれないなと思います。それに対して男性作家にせよ男性読者にせよ、男性はを求めるのかもしれません。

 さて、ここで疑問が湧きます。日本文芸における自然主義の至高の地位を占めるのは、「」です。もちろん、日本文芸における自然主義においては男性作者も女性作者も男性読者も女性読者もいます。にもかかわらず、あるいはもしかしたらだからこそ、「」こそが至上のものとなっているのかもしれませんが。言い換えれば心理描写が重要という話です。

 海外の小説、それもいろいろな小説だとどうなんでしょう。ハードボイルドなんかは意地を張るとともに、心情を書かないという特徴もあるかと思いますが。

 さて、この心理描写ですが、コレに対しての私の考えは「第3話形容と説明、描写は悪手」や「第15話捨てろ!」や「第25話思弁・思索」なんかに書いているとおり、それはと考えていると言っていいと思います。言うなら、何が見えているか、何が聞こえているか、どんな匂いがするか、どんな手触りかなどなどもと考えています。たとえば:

 「絹の服を着た」


と、あったとしましょう。そうしたら、その一文だけで、手触り、肌触り、軽さ、馴染み、心地よさとか、そういうのは全部伝わるわけです。「絹の服を着た」という一文に、「肌触り」とかを書いても、それは「絹の服を着た。絹の服を着た」と、同じ文を二度繰り返すのと同じでしかないでしょう。

 ちょっとズレましたが、話を心理描写に戻します。ただ、心理描写というだけでなく、五感なんかを書いて、それに対しての心情なんかを書くこともあるでしょう。ですが、それ、ちょっと考えてみてください。「絹の服」の場合と同じじゃなでしょうか? ですが、心理描写を詳細に詳細に詳細に詳細に書くことがよしとされているように思います。その理由は、「文字だけなんだから、ちゃんと書かないと想像できない / 伝わらない」というようなものかと思います。


 このあたりで、"100万字" というあたりと関係してきます。というのも、詳細に詳細に詳細に書くなら、そりゃぁ文字数は増えるでしょうということです。そして、それが常にではないとしても、わかりやすさと呼ばれるものであることも知ってはいます。でも、それ、意味があるのかなぁ。

 「それによって書かれる微妙なところが大事なんだ」という声もあるでしょう。大事かもしれません。もし、そのひだこそが作品において重要ならですが。このあたりは、「第20話リアリティ (文章技法)」で書いたこととも関係するかな。


 さて、さらにこのあたりで、"IF" とも関係してきます。ジャンルがどういうものであったとしても、作られた世界や作られた状況を、どう書くかというあたりです。「第23話わかりやすさ(冒頭)」とももちろん関係しますが。冒頭に限らず、どこであったとしても詳細に詳細に詳細に詳細に書くことはできるわけです。それがどれだけ無駄であっても。あるいは心理描写のために、どれほどの情景描写が必要であったりするかもしれません。


 というわけで、このあたりでおわかりかと思いますが、問題は"100万字" というあたりです。ここはカクヨムですし、ほかに書いているとしても長編賞だったりすると、まぁ"100万字" はないにしても、"20万字" とかは必要になるでしょう。

 「第35話 たとえば20万字を超える小説は」では、「になっていませんか?」と書きました。あるいは、「これこれに話」という場合もあるでしょう。マジモンの長編賞に出す原稿で、そうなっているものはないだろうと思いますが。ですが、そういう場合でも、どうやってその文字数になっているのかをもう一度考えてみるのもいいのではないかと思います。情景描写や心理描写ということになりますが。

 「馬から落馬」なんてのは重言と言われたり、この場合だと二重表現になったりするわけですが。そういうのは「」と言われます。国語の先生とか、偉い小説家とか、偉い編集さんとかに。

 その割に、情景描写や心理描写がいくつも重なるのは、むしろさえされるように思います。それっておかしくありませんか?

 このあたりでまた自然主義に戻るわけですが、とかとか、中にはなんてのがあるわけです。「普通にある共感覚」はすこし説明が必要かも。「部屋の明かりがつくと、なんとなくホッとする。暗いままだとちょっと落ち着かない」とか、そういうものです。

 想像がつくのあたりだと、「寝転んだ床が振動していた」と書いていたら、もしかしたら後頭部にゴツゴツ当たるかもしれないし、もしかしたら低い音が聞こえるかもしれない。なら、「寝転んだ床が振動していた」と書いた時点で、その後の二つは各必要がない。書いたら、それはと同じはずです。


 えーと、どうまとめようと思ってたんだっけ…… すみません、肝心なところを忘れました。


 まぁ、いいや。ともかく、自然主義や、情景描写重視や、心理描写重視には、があるというようなことを書きたかった気がします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る