第11話解釈・理解

 描写などとも関係しないわけでもないが。

 私ごとだが、あるところでこのように評された:

   予備知識なしで読んだ場合、解釈のほとんどを読者に委ねているからです。


 こちらにはまだあまり小説は投稿していないが、このように評されたとおり、解釈を読者に委ねるというのは意識的にやっている。

 なぜそうしているのかには個人的な理由がある。もちろん、表現を多くし、解釈も読者が絞り込める方が、普通にはいいのだろうが。

 理由だが、イサク・アジモフの「二百周年を迎えた男」という中編(だろうか)がある。それを長編化した「アンドリュー NDR-114」(原題: The Positronic Man)がある。なお、どうでもいいことだが、wikipediaの「アンドリュー NDR-114」において原題とされている「Bicentennial Man」はアジモフ版の「二百周年を迎えた男」の原題だったはず。長編版は「The Positronic Man」に変更・統一されていたはずだが。おっと。映画版はまた原題が「Bicentennial Man」だったのかもしれない。

 それはそれとして、長編版は実に見事な、とんでもない長編化だ。中編の方を読んで、まぁ一ヶ月とか経ち適度に詳細が頭から抜けたころに長編版を読んでみることを勧める。すると、実に奇妙な感覚を覚えるのではないかと思う:

   同じことしか書いてないのに、なぜ長編になっているのか!?


 いや、同じことしか書いていないのに、出版社はなぜそれを長編として出版したのかというような話ではない。間違いなく長編になっている。分量はどう数えてもはかっても増えている。それにもかかわらず、「同じことしか書いていない」と感じるのだ。

 もちろん追加のエピソードもある。だが、それすらも中編の流れにおいてありうるものであり、あるはずのものだ。そして、そういう追加のエピソードは、片手の指に収まるのではないかと思う。念のために、両手の指としておけば、まぁ大丈夫だろう。

 では、どこで増えているのか。表現が増えている。アジモフは書かなかったが、シルヴァーバーグは書いた。ただそれだけで長編化している。しかも、「同じことしか書いてないのに」と思わせるほどに違和感なしにだ。こんな長編化ができる人がどれほどいるだろう。

 だが、たった一つ。シルヴァーバーグが書いてしまったことによって、アジモフ版からものがある。それは、どちらの版でも最後の1,2ページだ。ここを実感してもらうためには、この二冊を読んでもらわなければならない。ぜひ読んで欲しい。

 アジモフ版では「リトル・ミス」という一言で終わっている。

 対してシルヴァーバーグ版では、「リトル・ミスはアンドリューが何者なのかをかわっていたんだ」というようなことを書いてしまっている。

 二つの版で決定的に違うのは、ここだけだ。そして、たったこれだけが決定的に異なっている。シルヴァーバーグはここを書いてしまった。だが、書いてしまったことで、アジモフ版の「リトル・ミス」というたった一言がもっていた、広さ、深さ、なにかはわからないがそういうものを、「リトル・ミスはわかっていたんだ」というところだけにしてしまっている。それを読むと、「それだけではない」と思う。そうじゃない。リトル・ミスすら知らなかったのかもしれないと。もちろん、その最後の部分はアンドリューの夢ともなんともつかない部分だ。アンドリューの夢かなにかを書いただけなのかもしれない。だとしてもだ、アジモフ版ではアンドリューはそれだけを思ったのだろうか。

 アンドリューNDR114が出版された時、「同じことしか書いてないのに、なぜ長編になっているのか!?」と思い、読み比べた。いい意味でとんでもない長編化だった。だが、その最後だけが違う。

 この二編によって、言うなら、「書かないことこそ、書くことだ」と思った。まぁ、少し弱めに「書かないことが書くことにもなる」でも構わない。あるいは、こうも言えるだろう。「書くことによってこそものがある」。

 これまでに書いた雑感のあちこちに関連する箇所があるが。ちょっとあなたの作を読みなおしてみて欲しい。そして、カクヨムはラノベ系統だと思うので、ラノベとは違うものを読んでみて欲しい。「書かれていないにもかかわらず、書かれている」と思えるものが、たぶんある。あー、念のため推理小説も外しておきましょう。推理小説だと、そういうのはトリックになってるかもしれないので。

 書くことでうまくやれば伝えたいことをうまく書けるかもしれない。しかし、書くことで、伝わるものが制限されてしまうかもしれない。「雑感1」のジャンルの話題で「読者はあなたより賢い」というようなことを書いた。シルヴァーバーグはバカだと言うつもりなどまったくない。言えるはずもない。だが、あなた方は、もちろん私も含めて、バカだ。書かないことによってこそ伝わったかもしれないことがある。バカである私たちには想像もしなかったことが伝わることもある。伝わるというか読み取られるという方が正確だろうが。書いてしまえば、それらは

 書くことが恐ろしいとは思わないだろうか。私は恐ろしい。書くほどに内容が失われるかもしれないからだ。さらに言ってしまえば、「書くほどにバカを露呈する」かもしれないからだ。考証とも関係するだろう。だが、「あーぁ、ここを書かなきゃ、もっと内容が豊かなものとして読めたのに」ということがおこるかもしれないからだ。


 冒頭の引用に戻ろう。先の引用には少し別の言葉もついている。直接それについている面もあるし、そうでない面もある。それはこういうものだ:

   予備知識がないとわかりにくい。


 私が書いている小説において、その「予備知識」は、シリーズについてのものの場合もある。あるシェアード・ワールドに参加しているからだ。だが、それは、その言葉の多くて1/2から1/3、おそらくはもっと少ない割合だろう。

 SFにおいては、ニュートンから現在まで一々論文を再掲するということはしない。まぁ、しようったって、無理な話だ。そこで、詳細は省略する。詳細どころではない、ほぼすべてを省略する。私の場合、そういうのと作品内の設定と合わさって、「予備知識がないとわかりにくい」という評だ。作品内の方は、カクヨムにも置いてある小説を読んでもらうと、どういう感じなのかはつかめると思う。「作品内の設定」と言っても、実は「作品内における作品そのものについての設定」ではない。「みんなこれくらいは知ってるよね、そこをちょっと飛ぶね」くらいのものだ。その、「みんなこれくらいは知ってるよね」を私は簡単に飛ばす。つまり、私もバカだが、「わかんないバカは読まなくていい」という態度と言ってもいいだろう。もっと私の実感に近い言い方をすれば、「これくらいはみんな知ってるよな。書くのは野暮だなぁ」くらいだ。そして、それは現実の現在の科学技術や思想に限らない。歴史上のものもあれば、読んだことがあり、かつおそらくはそれはもうあるものというフィクションにおける概念もある。そして、それも現実の現在のものに限らず、歴史上のものもある。ただ、それだけだ。

 そして描写あたりに書いたことだが、誰がどう感じたとかはあまり書かないし、できれば書きたくない。見えるだろうことを中心に書く、あるいは書きたい。見えることの背後にあるのは、私が関与することではないからだ。キャラクターの問題であるし、読み手の問題だからだ。まぁ、セリフはあるし。また実際に見えるもの聞こえるものだけにするのも難しいが。


 書きたい、伝えたいという気持ちがあるのはわかる。だが、書かないことでこそ、伝えないことでこそ、書くことができる、伝えることができるという方法、あるいは方向もあることは知っておいて損はないと思う。


 蛇足:

 そういうふうに書かない方向でも、設定とかまぁいろいろ何も書かないわけにはいかない。どこまで書くか、どう書くか、そしてどこを書かないかのバランスは、私にはまだまだ難しい。

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