SS

1



「……朝?」

 クロードはふっと目が覚めて、辺りが明るい事に気づく。だがまだ眠い。ものすごく眠い。

(フィグ、まだ寝てるし……もうちょっと寝てても大丈夫だよなあ)

 遠く離れたベッドの端に妻のフィグネリアの背中が見え、二度寝しかけていたクロードは少し目が覚めた。

 北の大帝国ディシベリアの第一皇女に婿入りしてひと月。新妻の寝顔はまだ一度も見た事がない。常に彼女は自分より遅く寝て、朝も早い。

(今、頑張れば寝顔が見れるかな)

 しかし、下手に動くと起きてしまうだろうし、真ん中を越すと後で怒られる。

(寝返りうってくれるまで待つしかないか……)

 それにしたって距離が遠いし、明るいといっても夜に比べればの話で、もう少し近づかないと薄暗くてよく見えない。クロードはベッドが揺れないように、ゆっくりと体を転がして移動する。あとちょっとで真ん中、だ。

(ここぐらいなら……それにしても眠い)

 うつぶせになり、そろりと肘をついて上体を持ち上げる。

「うわっ」

 しかし眠気で腕に思うように力が入らずに、腕が滑って思わず肘に力を入れてしまった。その弾みでベッドが軋む。

(起きた。これは絶対に起きた)

 案の定、フィグネリアの背中が揺れ動いて、彼女は体を捻りこちらを向いた。

「……おはよう、ございます」

「ああ、珍しく早いな。だが、早すぎる。もう少し寝ていろ」

「え、あ、はい……」

 てっきり怒られると思っていたのでクロードは目を丸くしながら、フィグネリアがもう一度寝入るのを見ていた。

「あれ、寝ぼけてる……?」

 ものすごくわかりにくいが、瞬時に寝てしまったのはたぶん、そういうことだろう。

(ちょっとぐらいは気、許してくれてんのかな)

 結婚したばかりの頃は常にぴりぴりとしていた空気が和らいでいるのは、たぶん気のせいじゃない。

 寝顔は見られなかったが、まあいいやという気分になって、クロードは瞼を閉じた。

 そしてそれから二時間後。

「起きろ、なぜそこで寝ている。そもそもいつの間にそこまで移動した」

「……フィグ、気づいてましたよね」

 叩き起こされたクロードはまだ半分眠ったままで問う。

「…………いや、嘘を吐くな。覚えていない。こら、何をにやけているんだ。それと、寝るな。起きろ」

 やはり、あれは寝ぼけていたらしい。

 そう確信するとフィグネリアの叱咤は可愛いものにしか聞こえず、クロードはまた夢の中へと戻ろうとする。

「寝るな!」

「っ、た! すいません、起きます。今すぐ起きます!!」

 しかし、腕を捻り上げられてクロードは仕方なしに目を覚ましたのだった。



2


 執務室で与えられた課題をこなしていたクロードは、苦手な地理に集中力が切れかけていた。そして、書棚に向かって何か探している妻のフィグネアの後ろ姿に視線を移す。

(軍服以外の姿も見てみたいな……)

 弱小国の第六公子という自分には一生手が届かないはずの、大帝国の皇女の元へと婿入りして半月。

 結婚式以来、ドレスを着た彼女を見たことがなかった。

 軍服自体は悪くない。最初の頃こそ、お揃いなのはいいけれど、ちょっと味気ないと思っていた。

 しかし、だ。

 堅苦しい格好でいながら女性らしい体の線を明瞭にしていて、そこはかとなく淫靡だということに気づいた。あの細いくびれから臀部にかけての線。そして、ドレスでは絶対に見られない脚線美。太腿の辺りが特にいい。

 軍服姿の女の子がこうも色気があるというのは新発見だった。

「……なんだ? 手が止まっているぞ」

 クロードの不審な視線に気づいたフィグネリアが、振り返って半眼で見てくる。

「う、えっと、フィグは普段ドレス、着ないのかなと」

 太腿を見てました、とは口が裂けても言えないので最初に思ったことを聞いてみる。

「武器が持てず、動きづらいので日常的にドレスは着ない。……そういえば、そろそろ新しい式典用のドレスを仕立てなければならないな」

 憂鬱そうな妻に、クロードは首を傾げる。

「ドレス、嫌いなんですか?」

「嫌いなわけではないが、式典用は高価だからな。着ていると一体この布地にいくらかかったか、レースひとつとっても馬鹿にならない額が、とそればかり気になってしまう。国の威信がかかったものだから仕方ないのだが」

「それはもったいないですよ。そんな豪勢なドレスだったら、めいっぱい楽しまないと。じゃないと、ただの高級な布ですよ」

「……そういう考え方もあるのか。そうか、ドレスはドレスとして見ないともったいない、か。お前の物の見方は悪くないな」

 そう言って、フィグネリアがふわりと微笑む。

(うわあ、可愛い。すごく可愛い!)

 いつもの硬い表情の時は、実年齢よりもっと年上の綺麗なお姉さんな印象のフィグネリアは、笑うと一気に表情が幼くなる。

 今の所それを見られる瞬間は希少だ。

 次に彼女がドレスを着る時はもっとこういう顔が見られたらいいし、させられたらもっといいと思う。

「俺もフィグが楽しめるように努力します」

「……何をどう努力するんだ」

「それは、いろいろと今から考えます」

 怪訝そうな顔をしながらも、これ以上は何も聞いてこずにフィグネリアは本を持って席に戻った。

(とりあえず、いっぱい笑って貰えるようにならないと)

 新しい目標を見つけたクロードは、目の前の課題に真剣に取り組み始めた。

 




3



 ディシベリア帝国、第一皇女のフィグネリアは入浴後に寝室に戻ると、だだっ広いベッドの上を見てため息をついた。

 ひと月半前、誕生日祝いとして贈られてきた夫、クロードは本を開いたままうつぶせで眠っていた。ベッドの中央を越すなという決まりは守っているが、すれすれである。

「まったく……」

 フィグネリアはベッドに上がって夫の寝顔を見下ろす。実に平和そうな顔で彼は寝ていた。あまりにも心地よさそうなので、起こすのを躊躇ってしまう。

 が、本を腕の下に敷き込んでいるのでどうにかしなければならない。

「安い物ではないんだからな」

 つぶやいてフィグネリアはそろりと本だけを引き抜こうとする。しかし、ページが破れそうになって手を止める。

 起こさないように、腕を持ち上げればどうにかなるだろう。

「起こせば簡単だろう」

 フィグネリアは自分自身の思考に突っ込みを入れて、クロードの寝顔を見やる。

「………………仕方ないな」

 フィグネリアは考えた末、慎重にクロードの腕を掴むことにした。手首を軽く掴んで、そっと持ち上げる。

 そして空いている手で本を引き抜く。

 あまりにも簡単なことにフィグネリアがほっとしたのも束の間、クロードが眉根を寄せて小さく唸る声がした、

 驚いたものの、彼は起きたわけではないらしく、眠ったまま自分の体を丸めた。どうやら寒いらしい。

「だから本を読みながら寝るなとあれほど」

 フィグネリアはその場から動かずに、彼の腰の辺りにある上掛けと毛布を肩まで引っ張り上げる。

「待て、なぜそうなる」

 するとクロードはなぜか膝元に寄ってきた。起きているのではないだろうかと確認してみるが、やはり寝ている。

 これでは動けない。

 いや、動けないわけではないが。動きづらいというべきか。

 フィグネリアはそのまま対応に困り果てた。

 結婚したばかりの頃なら、問答無用で叩き起こすことが出来たはずだ。

「ここで負けては」

 自分でもよく分からないものと戦いながら、フィグネリアはクロードと距離を取る。

 離れたはいいが、気づかずそのまま眠りこけているクロードがなんとなく面白くない。

 そして結局、端まで行くこともなく手が届く場所で横になる。

 近くにいる方が安心するのはなぜだろう。

 答はたぶんもう知っている。それでもそれを認めるのはまだ出来ない。

 日ごとに、自分は変わっていく。明日はどんな風になってしまっているのか。

 僅かな期待と、たくさんの不安を胸に抱いてフィグネリアは目を閉じた。

 



4



 ディシベリア帝国第一皇女、フィグネリアは不意に後ろから抱きすくめられて顔を上げる。

 頭上には誕生祝いとして贈られた婿のクロードの銅色の髪が見えた。

「なんだ?」

「寒いんです」

「暖炉の前に行けばいいだろう」

「…………可愛くてあったかい奥さんがいるならこうするのがいいじゃないですか」

 何がいいのかはよく分からないが、悪い気はしない。

「しかし、このまま暖をとられても困る」

「じゃあ、ソファーに行きましょう」

「それは暖炉の前だろう」

「…………そうじゃなくてですね、新婚なのに、新婚なのに」

 なにやら悲しげなクロードのつぶやきに、フィグネリアは訝しげな顔をする。

「結局何がしたいんだ、お前は」

「無意味にいちゃいちゃしたいです。ここまで来るのにあんなことや、こんなことやいろいろあってようやく、ふたりでのんびり出来る時間が出来たんですから」

「いや、あまりのんびりしている余裕はないぞ。あれと、それと、山程事後処理がある。後五分で休憩は終了だ」

「論点はそこじゃなくて、いちゃいちゃが重要なんですよ。っていうか、後五分なんですか?」

 柱時計を見上げてクロードが嫌そうに言う。

「五分だ。今日中にあれは終わらせるぞ」

「うう、頑張ります。頑張るから、休憩終わるまでこの体勢でいいですか?」

 フィグネリアは少し考えてみる。

「……まあ、いいだろう」

 言いながらフィグネリアは手に持っていた書類を眺めながら、クロードの好きなようにさせてやることにした。

「あ、こら。返せ」

 しかし書類はクロードに取られてしまう。

「休憩中です。なんか俺ひとりで馬鹿みたいじゃないですか。フィグはいちゃいちゃしたくないんですか?」

「したくないわけではないからな。だが、今はそれより数字が。あの予算をこっちに回すとして、穴埋めをどこでするべきか。出来れば無駄金は遣いたくはない」

「それも大事なのはよく分かってるんですけど、最近、一緒にいてもひとりで考え込んでて寂しいです」

 クロードが本当に落ち込んだ風に言うので、フィグネリアはここ数日の自分を振り返ってみる。

 確かいろいろいろと考え込むことが多い。出来るだけ、クロードにも相談するようにしているが、やることが多すぎてついそうなってしまう。

「すまない。そうだな」

 フィグネリアは書類を取り戻すことはやめてクロードの温度にだけ集中することにした。

「……休憩、五分延長するか」

 一端、頭をからっぽにして寄り添ってしまえば心地よくて、ついそんなことを言ってしまった。

 そして結局、休憩は侍女がお茶を片付けに来る十分後まで伸びてしまったのだった。


<PBR>



あたらしい毎日



 北の大国、ディシベリア帝国。その第一皇女、フィグネリアの執務室にこの頃増えたものがある。

 それは婿だ。

 自分の執務机に座るフィグネリアは、正面の席で熱心に算術と向き合っている夫、クロードを見る。

 誕生祝いに兄より贈られてきたこの夫は、敵対国寄りである弱小国の第六公子という不審すぎる素性である。

 しかし彼があまりにも何も出来ないので、タダ飯喰らいにするわけにもいかずいろいろ教えているのだ。

(聞くなら早くしてくれ……)

 完全に行き詰まっている様子のクロードに、フィグネリアはそわそわしていた。

 ちょうど手が空いているので、質問があるのなら今がいいのだが。

 クロードの眉間の皺が深くなる。フィグネリアはまだ粘る気かと見守る。

(自力で解けたか)

 ふっと、クロードのペンが動き始める。困った顔をしている所を見ると、自信はないらしい。

 またペンが止まって、思案する顔になった。それから表情が平素になり、他の問題に取りかかったらしかった。

 そして全て終え、また微妙な表情で紙を見ている。

「……終わったのなら持ってこい」

 声をかけると、クロードは顔を上げて渋々といった体で答案を持ってきた。

「今日のはちょっと難しかったです」

 クロードがフィグネリアの確認するのを覗き込んで言った。

「これぐらいは解けそうだと思ったからな。出来が悪ければ、次は易しくする」

 あっているものに丸をつけながら、フィグネリアはクロードの表情を窺う。

 とある問題でクロードが緊張した顔を見せて、フィグネリアは苦笑したくなった。

 とことんわかりやすい男である。

 丸をつけるとクロードの表情が綻ぶ。それを確認して、最後の解答にも丸をつける。

「……上出来だ」

 嬉しそうなクロードに、フィグネリアは淡く微笑んで返す。そして次の課題を出そうとして手を止める。

「フィグ?」

 次は何をするのだろうと目を輝かせていたクロードが、戸惑い不安そうにする。

「私の仕事も一区切りついたところだ。そろそろ休憩にするか」

「はい! ちょっとおなかすいてたんですよね」

 クロードはすぐに元気になって声が弾ませた。やれやれと思いつつ、フィグネリアは隣の応接室に移動する。

 結婚する前は、休憩といっても執務机から離れず、紅茶を片手に書類を睨んでいた。

 しかしクロードがそれを嫌がったので、ソファーがある応接室を利用することになった。

(というか、私は監視をしていたのではないのだろうか)

 応接室のソファーに腰を下ろしたフィグネリアは、もう何度目かの自分への疑問を投げかける。

 最初は監視が最大の目的だったはずが、いつの間にかそれが抜けかけてきているのはよろしくない。

「算術って出来ないと悔しいけど、出来ると楽しいですね」

 隣に座ったクロードが上機嫌に話しかけてくるのに、フィグネリアは複雑な顔をする。

(原因はこれだな)

 あまりにもこの夫が脳天気すぎるのだ。命じたことをこなせ、とは確かに結婚してすぐに言った。ただここまで素直に、生き生きとこなされるとこっちは気が抜ける。

「あれ、俺、なんか変なこと言いましたか?」

 そして、すぐに反応を返してやらないと、寂しそうにして情けない顔をする所もそうだ。人の戦意をことごとくそぎ落としてしまう。

「全てがおかしい。お前は一体何しにこの国に来たんだ」

「……フィグのお婿さんになりにきました」

「それは建前だろう。自分の立場を考えてもう少し緊張感というものを持て。そうやってすぐにはしゃぐな」

「落ち着きなくてすいません……。でも、見る物全部新鮮で嬉しくなっちゃうんですよね。俺、楽しいことはめいっぱい楽しむ主義なんです」

 後半に力を込めて真顔でクロードは言った。

「本当に気楽だな」

 呆れているはずなのに、不思議と自分の声に棘はなかった。

「それに、ですね」

 少し言葉を硬くしてクロードが何か言いかけた時、侍女がお茶と菓子を運んできた。

「なんだ?」

「…………いえ、大したことじゃないです。お茶にしましょう」

 クロードが不自然に目を逸らして、胡桃と蜂蜜を練り込んだ焼き菓子を手に取った。

 フィグネリアはそれを横目に見ながら紅茶に口をつける。

 何か悪いことを言おうとしている風ではなかったので、特に詰問はしないが少し気になる。

「お菓子も、お茶も美味しいですね」

 甘い物は好きらしいクロードが頬を緩める。

「食事が合うのはいいが、安易になんでも口に入れないよう気をつけておけ」

「さすがに、そこまで食い意地張ってないですよ。そういえば、最近おなかすきますね。頭使ったり、体使ったりしてるからでしょうか。まだ成長期だし」

「背は伸びそうだな」

 自分よりは背丈があるものの、ディシベリアでは低い部類になるクロードの横顔を見てフィグネリアはつぶやく。

「もっと高い方がいいですか?」

 ふとクロードが手を止めて、小首を傾げる。

「いや、そこにさして重要性は感じない」

 これぐらいが表情を見るのにちょうどいい。

 その言葉を口にする前にフィグネリアは止めてしまう。

「義兄上ぐらいがいいとかじゃなくて、よかったです。けど、義姉上ぐらいはなれるかな」

「それぐらいにはなるかもしれんな」

 あとほんのちょっとで、義姉には追いつきそうだ。もしかすると知らないうちに初めて出会った時より、背は伸びているのかもしれない。

 少なくとも、中身は変わりつつある。

 昨日のクロードと、今日のクロードは違う。

「身長も中身も頑張って成長します」

 不意にフィグネリアの内心を読み取ったようにクロードがそう言った。

 こういうところも最初の頃とは違うかもしれない。

 もっと後ろ向きだったのが、今はほとんど前しか見ていない状態だ。

 だから、毎日小さな発見がある。

 結婚するまで代わり映えのなかった日常は、毎日が何かしらあたらしい。

「……ところで、さっきは何を言おうとしたんだ?」

 焼き菓子をひとつつまんだ後に、フィグネリアはまだ気にかかっていたことを訊ねてみる。

「だから、大したことじゃないですよ」

「いや、それにしてはいつもより神妙だったぞ」

「あ、なんかちょっと夫婦っぽいですよね。ちょっとした変化に気づいてくれるっていうのは」

 話を逸らしつつ、半ば本気で嬉しそうにクロードが言う。

「いや、単にお前が分かりやすすぎるだけだ。顔と態度に出すぎだ」

「う。そうですね、俺の方はフィグが何考えてるか分からないことが多いです」

「なんだ、その多少は分かっているつもりの返答は」

 自分は他人に簡単に内心を読ませたりはしない。

「ずっと一緒にいると、ほんのちょっとぐらいは分かることありますよ」

「例えば、今、私が何を考えているか分かるか?」

 問うてみると、クロードが固まった。そして沈黙が長々と続く。

「………………今、呆れられてるのはなんとなく」

 しょぼくれた声に、さすがにフィグネリアも笑いをこらえられなかった。

「それは、誰でも分かるだろう」

「そうですよね」

 苦笑しつつもクロードはどこか嬉しそうだった。そしてあの、と続ける。

「毎日、こうやってフィグといろんなあたらしいことするの、楽しいです。さっきはそういうことが言いたかったんです」

 にこにこと機嫌のいい笑顔に、フィグネリアは言葉に詰まった。

「やはり、緊張感がなさすぎるな」

 わざと素っ気ない態度で言った後に、フィグネリアは残った紅茶を飲みほす。

 その時、ふと時計を見て思ったよりずっと時間が経っていることに気がついた。

「いかん、もう休憩は終わりだ。これから馬術の訓練を始めるぞ」

 フィグネリアが立ち上がるとクロードが表情を強張らせた。

 馬はまだまだ苦手らしい。

「……普段からその程度の緊張を保っておけ」

 声音だけはいつものとおり感情を露わにしていないが、フィグネリアの表情はやわらかいものだった。

 そしてまた監視のことなど忘れて、今日はいつもより少し遠くまで行く練習をさせてみようかと考える。

 変わっていくのはクロードばかりではないと、彼女はまだ気づいていなかった。

 

 


<PBR>


『眠れない夜に』


 クロードはいよいよ明日に迫ったアドロフ公との対面に、緊張し通しでベッドに上がっても眠気がまったくやってこなかった。

「眠っておかないと、明日に響くぞ」

 隣でフィグネリアが硬い声で言う。

「フィグだって、まだ寝てないじゃないですか。一番大変なのに……」

「そうだな。だが眠ろうとすると余計に目が冴えるな」

「羊でも数えますか?」

「なぜ羊を数える?」

 フィグネリアが不思議そうにするのにクロードはきょとんとする。

「眠れないと羊を数えると眠れるっていうんですよ。試したことはないですけど」

「お前の国ではそう言う慣習があるのか。この国ではそうだな蜂蜜を食べる、か?」

「甘いものって気分が落ち着きますからね。羊を数えるのは退屈だからかな」

「どっちにしろ、緊張をほぐすということだな。……なんだ?」

 クロードはフィグネリアを自分の胸に抱き寄せてみる。

「心臓の音って落ち着くらしいですよ」

「なるほど。ああ、確かにな……。だが私しか落ち着けないぞ」

「俺はフィグをこうしてると落ち着けるので大丈夫ですよ」

 それに自分の場合、彼女の胸に顔を埋めて平常心でいられるはずがない。

「…………心音が早くなった気がするが」

「あ、いや。平気です。ほら、もう寝ましょう」

 クロードは慌てて邪な考えを追いやって、フィグネリアの頭を撫でる。やがては穏やかな寝息が聞こえて来る。

 こうして身を任せてきて無防備に眠っているのを見ると、自然と心が安らいでくる。それと同時に、本当に自分はフィグネリアのことが好きなんだと思う。

(明日、どんなにアドロフ公や御嫡男が恐い人でも、フィグをちゃんと護らないと)

 自分にできることなんてほんのちょっとのことかもしれないけれど、それでも全力を尽くそうと決意は一層固くなる。

 妻の温度をしっかりと心に刻みつけて、クロードも緩やかに平穏な眠りの中へと沈んでいったのだった。

 


<PBR>




『皇女殿下の秘密の練習』



 フィグネリアは毎日見慣れた、しかし一度も袖を通したことのない侍女のお仕着せを身に纏っていた。

「普通の侍女に見えるだろう」

 フィグネリアはどうだと、事の発端である夫のクロードに自分の格好を見せてみる。

「可愛いです。すっごく可愛いんですけど、やっぱりお姫様が侍女の格好してみた、ですね」

 締まりのない顔で実に幸せそうなクロードが答える。

 彼は官吏の集まりで、恋人とふたりで城下へ遊びに行った話を聞いてやってみたくなったらしい。しかしフィグネリアはいかにも皇族らしくて目立ちすぎるので、庶民に溶け込めるように練習することになったのだ。

 そして身近な侍女の格好をして皇族らしさを抑えてみることにしたのだが。

「どこがいけないんだ?」

 フィグネリアは姿見に移る自分を見ながら首を傾げる。

「えっとですね。俺と並んで見ると分かると思うんですけど、ぴしっとしすぎてるんです。ほら、軍装の俺よりフィグの方が高貴なかんじがします」

 クロードが隣に並んで、フィグネリアは鏡越しに自分と夫を比べる。確かに自分の侍女姿は妙に浮いているのだが。

「…………クロード、お前はもう少ししゃんとしろ」

 全体的に緊張感がなく、ぜいぜい育ちのいい商家のお坊ちゃんといったところの夫に思わず苦言を漏らしてしまう。

「庶民らしく、だから今回はこれでいいんです。肩の力を抜いて、人目を気にしない。楽にするんです」

 両肩に手を置かれて、フィグネリアは言われた通りにしてみる。なるほど少しは違和感が薄らいだ。

「後は、視線。真っ直ぐよりももうちょっと伏し目がちにしてみるとか。……あ、そうです。気弱な雰囲気がそこはかとなくですけど、でてきてます。フィグっぽくないかんじ」

「お前に指導されるというのは不思議なものだな」

 普段とは立場が逆転してどうにもこそばゆい。

「俺がフィグに教えるなんてこれぐらいですからね。ううんっと、後は控えめな言葉づかい、かな。試しに旦那様って呼んでみてくれたりしませんか」

 いつになく真剣な眼差しにフィグネリアはやや警戒する。

「クロード、目的が変わってきていないか?」

「街にお忍びで出掛けるんですよね。大丈夫です。それも忘れてないですから」

「それもということは、目的が増えたのか」

 冷たい視線を向けると、夫は小さくなる。

「だって、もっといろんなフィグが見たいんです。俺だけしか知らないようなフィグが……」

 クロードが言い募るのに、フィグネリアはやれやれと身を寄せる。

「私がこんな格好をしているのは誰のためだと思っているんだ」

 こんな提案、夫の言うこと以外では乗るはずがないのに。

 上目でクロードをねめつけると、彼は頬を染めて目を丸くしてそれから満面の笑みになる。

「じゃあ、旦那様って……」

「言わん。それより街に出る練習だ」

 フィグネリアはさっくり却下して、元の目的に戻る。

 残念そうな夫を横目で見やって、胸の内でこっそりと『旦那様』とつぶやいてみるが、はじらいが勝ってとても口に出せそうにない。

 だけれどいつかはと、フィグネリアは夫の喜ぶ顔を思い描きながら、内緒で練習することに決めたのだった。



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