第二の真実を告げる者(初出2013.6.15/ビーズログ文庫)

プロローグ



 神霊ルーロッカは雪のちらつく空を見上げ、途方に暮れていた。

「あー、また妙なものに降りて来ちまったなあ……出られねえし」

 ぼやいて体を適当に動かしてみるが、どうにも窮屈だ。神界に引き戻そうにも、それもできない。

 一瞬だけ波長があったこの体につい意識をとられたのがまずかった。

 神界と人間界の境界が不安定なせいで、降りてきたというより落っこちたような状態で人間界に来てしまった。

「しまったなあ。おふくろ……は探してくれねえよな。というかいなくなってのにも、気づいてねえだろうな」

 まるで頼りにならない母のことを考え、ルーロッカはふっと遠い目をする。

 この世界にいる数多の神々を産み落とした、地母神ギリルア。

 人間達は母を崇め奉っているようだが、息子としては理解できない感覚である。

「まあ、兄弟の誰かが気づくだろ」

 ルーロッカはどこか寒さをしのげるところで待とうと、木陰へと移動していく。

 その途中、何かが心の琴線に触れた。

「人間だ。人間が大勢いる……ああ、それもみんな嘘つきだ」

 つぶやいて、ルーロッカは考える。

 今、自分が人間界にいることは誰も知らない。そして近くには嘘をついている人間がたくさんいる。

 これは楽しいことができそうだ。

 ルーロッカは方向を変え、人の気配がひしめく方へと向かう。

 周囲に降り積もる雪と同じ色の、巨大な建物。懸命に走っても、そこにはなかなかたどり着けない。

 しかしルーロッカは止まらない。

 どんどん濃密になっていく人間達の気配に、帰れないことはどうでもよくなってくる。

 そうしてルーロッカがすっかり体の窮屈さも忘れ入り込んだのは、北の大帝国ディシベリア王宮だった。



 ディシベリア帝国王宮内にある暖炉の火が赤々と燃える広間には、二組の軍装の夫婦が向かい合って座り、テーブルの上には本来ならあるはずの夕餉でなく書類がある。

「……本日の報告は以上です。何かご質問は?」

 銀糸の髪の女性、第一皇女フィグネリアが丁重に口を開く。幾分幼なさが残る凛とした面差しの中、大人びた印象を作る彼女の伶俐な薄青の瞳は、向かいの席に座る大岩のような男へと向けられている。

 他の者の軍服は黒だが、ただひとり群青の軍服を纏う彼はディシベリアの皇帝、イーゴルである。

「いろいろと分からんが、何が分からんのか分からん。とにかく、その不正事件は解決しそうなのか?」

 十年上の異母兄が悩むのに、フィグネリアは手元の書面を見ながらうなずく。

 ひと月前、地方の橋の補修費用に疑問点があると報告があり、今日はその進展についてが主な話題だった。

「ええ。先に述べた通り、やっていることは橋や道路の工事費を多めに申請して、余剰分を自分の懐に入れているという、それだけのことです。しかし、その数が多くかつ誰が関わっているか、どうやって費用を誤魔化しているか、がまだ分からない状況でした」

 フィグネリアは政務がまるで苦手なイーゴルに、もう一度かみ砕いて説明する。

 先帝である父が急逝し、兄が帝位について五年。フィグネリアの役目はこうして、兄に政務の内容をできるだけ理解してもらい、対処方法を助言することだった。

「で、二日前に密告があったから誰が関わっているかは分かるのよね」

 イーゴルの隣に座る彼の妻のサンドラが、フィグネリアに確認する。

「今日になって密告の信憑性もでてきました。ですが、密告の内容は関わっているひとりのみについてで、匿名です。密告者本人に話を直接聞ければ、進展は早いとは思いますが……」

「むう。それで、解決の目処がたった、というところか?」

 イーゴルが言って、フィグネリアは大きくうなずく。

「そうです。今後も、慎重に進めて行くつもりですが……少々遅れていまして」

 フィグネリアが弱々しく言うと、サンドラも困った顔をする。

「また今日も喧嘩があったのよねえ」

 ここ四日ほど、王宮内では官吏同士の諍いが増えている。口論ばかりで殴り合いにまで発展はしていないが、政務に支障をきたしていて、王宮内の空気も張り詰めている。

「あれから、三月ですからね。忙しいと思う暇ができてきているからでしょう」

 今より三月前、ディシベリア帝国は内乱寸前の騒動にあった。

 皇帝に次ぐ権威を持つ九公家と相対する反九公家派は、そのふたつの均衡を保っていた先帝の崩御より対立を深めていた。

 先帝に代わりふたつの勢力の均衡を取ろうとしていた、平民出身の母を持つフィグネリアは幾度となく九公家派に命を狙われていたさなか、公家中核のアドロフ公の孫であるイーゴルが銃撃された。

 フィグネリアを帝位につけんとする反九公家派による凶行と思われたが、敵対国であるロートムが画策したこととと分かって内乱は起こらずにすんだ。その事後処理でいまだに王宮内は慌ただしい。

 とはいえ、裏に敵対国がいたというのは表向きのことで実際は大きく違うのだが。

 フィグネリアは隣に座る、銅色の髪と琥珀色の瞳のどこかぼんやりした青年を見る。

 十八であるフィグネリアより年上に見えるが、実際はひとつ年下である彼は、半年前に兄から誕生祝いとして贈られた婿、クロードである。

「軍の方はそういうのないんですか?」

 クロードが現在軍をとりしきっている義兄夫婦に小首を傾げてみせる。

「些細な喧嘩はあるが、軍務に支障をきたしているわけではないな」

「軍の方は鍛錬が仕事の半分だから、喧嘩はそのまま鍛錬の一環ににもちこんじゃうからね」

 それで上手く纏まっているのはふたりがきちんと、軍の統率ができているからだろう。

 筋肉至上主義というディシベリア建国期の風潮が、最も色濃く残る軍では強いということは敬服の対象になる。

 武人としての能力が突出しているイーゴルと、男達に引けを取らない強さのサンドラは、強さと裏表のない人柄で軍では慕われている。

 問題は自分だとフィグネリアは表情を沈ませる。

「政務に支障をきたさないようにはしたいのですが、力不足で申し訳ありません」

 九公家派と反九公家派、そのふたつを取り纏めることは上手くはいっていない。

「それは気にするな。俺が政務をとりしきっているよりずっとできている」

「そうそう。だって、朝議で揉めたらイーゴルは持ち帰って検討する、で後でフィグに手伝ってもらってたけど、今はフィグがその場で全部、解決できてきてるしね」

 三月前の騒動の結果、これまで表には出ずに影でひっそりとイーゴルを支えてきていたフィグネリアは、兄に代わりに朝議に出て政務を統括することになった。

「しかし、表に出た以上はもっと統率をとれねばと思うのです」

「あたしらが全然頼りにならなくて任せちゃってるんだから、そこまで思い詰めなくていいわよ。手伝えることがあるといいんだけど……ないのよねえ」

 考え込むサンドラが夫と顔を見合わせる。

「そこは、俺がなんとか頑張らなきゃなんないとこですよね。まだまだですけど」

 クロードがため息混じりに言って、フィグネリアは彼に視線を向ける。

「政務はお前の手伝いでずいぶん楽になってはいるぞ」

 クロードは婿入り当初は読み書きができる程度だったが、わずか半年で政務を手伝えるまでになっている。

 なによりも子供の頃からずっと、兄達の前では常に完璧で何の問題もないと見せかけ、暗殺されかけていたことすら隠していた自分が、こうして兄達と話せるようになったのは彼のおかげだった。

「役に立ってるなら嬉しいです。……ところで、そろそろ夕食にしませんか? おなかすきました」

 クロードが面はゆそうに笑って、他の三人が表情を緩める。

「よしよし。育ち盛りに腹を空かさせてはいかんな」

 辺りに響く声でイーゴルが女官らを呼び、テーブルの上に夕餉を運ばせる。

 前はひとりで食事をすませることが多かったが、この頃は政務の報告の後に一緒にとることが増えた。

「俺、育ち盛りなんですか?」

 子供ではないが、かといって同年代に比べては大人になりきっていない、十七のクロードが苦笑する。

「いろいろと育ち盛りだろう。背も伸びているしな」

 フィグネリアは結婚当初より目線を合わせにくくなった夫に微笑みかける。

 知識、体力、腕力とないものづくしだった彼は日々成長を見せている。

 それを見守る毎日が今、何よりも愛おしく幸せだった。


***


 翌日の夕刻、ディシベリア帝国の大広間では朝議が行われていた。

 広い円卓に七人の大臣が集まり、重要案件がないため空の玉座に最も近い席にはフィグネリアが座っている。

「今日は七件か。また増えたな」

 大臣達の報告を聞いたフィグネリアは重々しく零す。

 王宮内では官吏同士の諍いは増え続けている。いくら九公家派と反九公家派がいがみ合っているとはいえ、この数は異様だ。

「口論の発端も、揉め事を起こした人間も全く関係ないのか。ただ設事、吏事に偏っているな」

 フィグネリアは公共工事を司る設事大臣と人事を司る吏事大臣に目を向ける。

「私に責任があるというのですか。下の者の口論など、逐一気をつけられるものではありませんぞ」

 巨漢の吏事大臣が不愉快そうに眉根を寄せた。彼にフィグネリアが声を返す前に、細身の吏事大臣がため息をつく。

「責任放棄ですか。まったく、九公家の血族の方はご自分の保身しか考えていない」

 多分に嫌味を含む吏事大臣の言葉に、吏事大臣が怒り顔を赤らめる。

「責任を放棄したわけではない! そもそも卑屈になって些細なことでつっかかってくる、そちら側の人間が」

「今日の件は、そちらが!」

 吏事大臣と設事大臣が怒鳴り合いを始めて、またかと一同は辟易する。

 九公家の血を汲む吏事大臣と、反九公家派の設事大臣。元よりそりあわないこのふたりは、立場も相まって議場で口論を始めるのは度々だ。

「双方控えよ!!」

 フィグネリアがよく通る声で窘めると、ふたりは口を噤んだ。彼女の声に気圧されたのが半分、十八の少女に怒鳴りつけられて冷静になったのがもう半分、といった様子だ。

 吏事大臣のは方は不服そうな表情を隠しもしていない。

 自分とてこんな父親ほどの歳の男を叱りつけるのは、不本意だ。そもそもこの国の男共は血の気が多すぎるのだ。

 フィグネリアは心の内で愚痴を吐きつつ、各位にも注意喚起を促す。

 その後、政務の遅れの調整について話し合い朝議も終わる頃だった。

「ところで皇女殿下、以前から気になっていたのですが、御夫君が書記官の真似事などしているのですか?」

 吏事大臣がフィグネリアの隣の席のクロードに目をやって言う。

 大臣達の視線が集まり、一言も発言せずに朝議の記録をとっていたクロードが戸惑いつつも愛想笑いを浮かべる。人懐っこそうな笑顔は、緊張感がまるでなく場違いなものだ。

「真似事ではなく、私の書記官だ。何か、問題があるだろうか」

「……書記官ならば、あちらに置くべきではありませんか」

 吏事大臣が各大臣付きの書記官達がいる長卓を顎で示す。

「それは、不敬というものです」

「クロード殿下は皇族であらせられるのですぞ」

 設事大臣が真っ先に反論し、同じ反九公家派である外交を司る外事大臣もこれに同意した。

「だが、方々もハンライダの公子が皇女殿下の婿になるなど、あまりにも分不相応だと漏らしていたではないか」

 そこへ九公家派である財務を司る蔵事大臣が加わり、設事大臣と外事大臣が口ごもる。

 揉め事の発端になっているクロードはというと、彼らを見ながらおろおろと妻に視線でどうしようと救いを求めている。

「別にあちらへ置いてもかまわんが、ここからでないと見えないものもあるので少々困る」

 夫を一瞥した後、フィグネリアは大臣達の顔をぐるりと見渡し、含みを持った言葉を告げる。

 大臣らは胡乱げな眼差しをクロードに向けて、それ以上は何も言わなかった。

「では、朝議は以上とする。各位、政務の遅れを取り戻すことに尽力するように」

 フィグネリアが席を立ち、朝議は微妙な空気を残して終えた。

 

***


「……なんていうか、あの人達恐いです」

 朝議の後、馬車が二台は通れそうな広い廊下を歩みながら、クロードがしょぼくれていた。

「気にするな。ただの意趣返しだ。私に窘められたことが気にくわなくて、私情絡みで怒らせてこけにしてみたかっただけだろう」

 いちいち腹をたてて感情的になり、こんな小娘に政務の統括など無理だとせせら笑われる気はない。

「大人げないですよね……でも、俺、九公家派の人達どころか、反九公家派の人達にまで不満持たせてるんだな」

 さらに落ち込む夫にフィグネリアはやれやれとため息をつく。

「それは仕方ない。大陸でロートム王国と共に一、二を争うディシベリア帝国唯一の後継者の婿が、大陸随一の弱小国の第六公子など、普通はありえん」

 あげくに敵対国であるロートム寄りの国の公子だ。周囲からすれば胡散臭い以外のなにものでもないだろう。

「うん。ないですね。ないけど改めて言葉にされると刺さります……ああ、こら、お前らちゃんと笛吹くから、あとちょっとだけ我慢しろって」

 朝議の記録を確認していたクロードを取り巻くように風が起こり、彼の手元から書類を攫っていく。

「……表に出ている間は妖精達はどうにかしてもらえたらいいのだがな」

 フィグネリアは周りに人がいないことを確認して、ひらひらと飛んでいく書類を追い駆けるクロードの後をついていく。

 万物には妖精が宿っている。彼らを従え動かすのは、地母神ギリルアを始めとして、彼女が産み落としたとされる数多の神霊達である。

 だがクロードは人間でありながら笛の音で妖精達を惹きつけ、従えることができる妖精王と呼ばれる者だ。

 彼がこの国に婿として呼ばれたのは、この力のためだった。クロードを欲する音楽を司る神霊ラウキルが裏で糸を引いいていたのだ。さすがにそれは彼の力含めて表に出すわけにもいかず、家族以外には隠してある。

「あ、すいません。ありがとうございます」

 クロードが朝議の行われた大広間の前で立ち止まり、誰かに床に落ちた書類を拾ってもらっていた。

 見覚えのある顔にフィグネリアは歩調を早め、クロードの側に寄ろうとすると、彼と話す人物はすぐにその場に跪いた。

「……イサエフ二等官だな。ここに、何の用だ?」

 フィグネリアが傅いている金糸の髪の青年の家名を口にすると、クロードが驚いて目を瞬かせる。

「律事大臣に急ぎの用件で参りました」

 律事は法を司り不正の調査も担当している。青年、ザハール・イサエフは今回の不正調査の指揮をとっている官吏だ。

「不正の件についてか。立て、礼はかまわん」

 フィグネリアが許すと、ザハールが優美な面を上げ、ゆるりと立ち上がった。背丈は緊張しているクロードより頭ひとつぶん近く高い。体躯は細身ではあるが、筋骨隆々たるこの国の平均的な男達に引けをとらない威圧感がある。

 彼の深い藍色の瞳は面倒くさげな意思を隠しもしておらず、先ほどまでの態度は形ばかりだと分かる。

「密告者が判明しそうです。他にいくつかありますが、皇女殿下にお伝えするにはまだ確証もないこともあるので、後ほどまとめてご報告いたします。それと、設事でまた口論が起きた模様です」

「……またか。このままでは不正事件の件が遅れるな」

 今回の不正には設事の官吏が関わっていることは間違いなく、この口論騒動には参らされる。

「私どもは、迅速に対応しますのでご心配なく。では、失礼いたします」

 大広間から律事大臣が出てきてザハールがそちらへ向かった。

「あの人って、九公家のひとつのガルシン公の甥、ですよね。びっくりした」

 強張っていた肩の力を抜いて、クロードが律事大臣と近くの部屋へと入って行くザハールを目で追う。

「ああ。イサエフ侯爵家はガルシン公家の血縁の中で要の存在だ。いずれあの男が当主となる。よく顔を覚えておけ。何か話していたが、問題なかったか」

 皇族の居住区へと戻りながらフィグネリアはクロードに訊ねる。書類が風もなくひらひら舞っている所を見られたのでなければいいが。

「……俺がちょっと手を滑らせたって、思われたみたいです。えっと、それとまた本当に書記官の真似をしてるんだなって言われました」

 気弱な声での返答にフィグネリアは眉根を寄せて息をひとつ吸い込む。

「まったく、誰も彼も馬鹿にして……」

 そして衛兵が厳重に護る扉を抜けて皇族の居住区に入ると、フィグネリアはやっとため込んでいた怒りを吐き出した。

「本当にすいません」

 びくりと肩を跳ね上げたクロードに、さらにフィグネリアは眉間の皺を深くする。

「お前に非はない。謝るな。書記官の勤めをきちんと果たしているのは自分でも分かっているだろう」

 クロードは朝議を記録しながら政務の流れも覚えているし、各大臣の様子も見て議題に対する言葉以外の反応も記録している。

 これだけやっていて真似事と言われる筋合いはない。

「いかん、余計に腹が立ってきた」

 この半年の自分の労力と、クロードの努力を考えると苛立ちは増すばかりだ。

「フィグが分かってくれてるなら俺はそれでいいですよ」

 苦笑するクロードにフィグネリアはむっとした顔をする。

「お前が気にしなくても、私が嫌なんだ。それに、分不相応だの、余計なことばかり言う。客観的に見ればそうかもしれんが、私はまったく不満はないのだからお前は堂々としていれば……なんだ?」

 鬱憤をまくし立てていたフィグネリアは急に抱き寄せられて訝しげにする。

「いや、すごく可愛いと思ってつい」

 人が怒っているのに、呑気なことを。

 そう思いながらも抱きしめられていると怒りは和らいで、そのかわり苛立ちによく似た寂しさが胸の中で主張を始める。

「……お前はもう少し怒ればいいんだ。吏事大臣ほど血の気が多くなれとは言わんが、なんでも受け流しすぎる」

 表に出てたくさんの人間の声が耳に直接届くようになってから、成長したと思ったクロードがここへ来たばかりの頃の卑屈さをまだ抱えていることに気づいたのは最近だ。

 誰よりも側にいてその努力を認めている自分の言葉が、彼に自信を持たすまでに至ってないと考えると寂しい。

「ううん、自分のこといろいろ言われて腹が立つっていう感覚、よく覚えてないんですよね。ここ来るまでは落ち込むっていうこともほとんどなかったし。馬鹿にされるのは慣れちゃってますからね。それ考えるとちょっとは進歩してる気はします」

「慣れるな、そんなもの」

「じゃあ、馬鹿にされないように頑張りますよ……はい、はい。吹くから邪魔するな。この頃なんか落ち着きないなあ」

 二人の間に風が滑り込んできて、クロードが胸ポケットから三つに分解された銀の横笛を取り出し、ぼやきながら慣れた仕草で組み立てる。

 妖精王といえどクロードの言うことを妖精達はあまりきかない。

「もう少し、何か分かればいいのだがな」

 自力でせめて妖精王について調べてもその存在自体は隠されていて記録はなく、神の楽士というもうひとつの呼び名でも、有益な記録は見つかっていない。

「何か分かるのは神殿かもしれないですけど……」

 クロードが気が進まない顔でつぶやく。

 神殿には神霊を身に降ろす大神子がいる、神と人を繋ぐ場だ。しかし大神子に降りてきたラウキルに前大神官長は惑わされ、内乱を引き起こそうとした。

「神霊様も神官様も安易に頼れんな」

 しかしフィグネリアのそんな悩みも虚しく、大神殿から明朝に来てほしいと連絡が入ってきた。

 必ずクロードも同行するようにとの念押しつきは、嫌な予感しかしなかった。


***


 赤煉瓦で築き上げられた帝都の街並みは、すっかり雪に埋もれて真っ白になっている。家周りの除雪にあたる兵士達の軍服が白いのはもちろんのこと、彼らが吐く息、汗まで湯気となって白い。

 そしてその中で一際目立つのは、七つの尖塔を持つ王冠に似た形をした大神殿である。

 もはや凶器とも言えるほど凍てついた空気に、言葉すら出ないでいるクロードを連れてフィグネリアは大神殿へと赴いた。

「……やっとついた。寒いけど痛くない」

 中へ入るとクロードが噛み合わない歯でようやく口を開いた。温暖な国で育った彼にとって、ディシベリアの冬は厳しすぎるらしい。

 朝も早く少々きついかもしれないがもう慣れただろうと、高をくくって馬で来てしまったが、思った以上に堪えているのを見ると無茶だったらしい。

「帰りは馬車にするか?」

「馬で、大丈夫です。大丈夫になります」

「苦手なものを克服するその気構えはいいが、風邪をひいたら元も子もないからな。どうしても無理なら馬車を呼ぶ」

「そうします……」

 クロードが説得された所で神官が現れて、右手側の通路から奥へ行くように促される。

「なんだか初めてここに来た時のこと、思い出しますね」

 早朝でまだ人のいない神殿内を歩きながら、クロードが複雑そうに言う。

「そうだな……あれからまだ四月と言うべきか、もうと言うべきか」

 フィグネリアは誰もいない前方に、漆黒の長髪の男の幻影を見る。

 神霊ラウキルに唆され、内に巣くっていた妄執を実現せんとした前大神官長ロジオン。クロードを伴って来た時は、彼が父である先帝を毒殺したことなど夢にも思っていなかった。

 あの男はまだこの大神殿のどこかにいる。地下牢があるらしいので、もしかしたら、自分の足の下かもしれない。

 産まれて十八年、無心に信じていた清らかなこの場が、ひどく濁ったものに思えてくる。

「新しい大神官長様ですね。えっと、ルスラン大神官長様」

 湾曲していて見通しの悪い回廊の奥に人影が見える頃、クロードが身を固くする。最初から本能的にロジオンに怯えていた彼の様子に、フィグネリアは少し緊張する。

 新たな大神官長であるルスランとは一度しか直接会っていない。神殿内に潜んでいたロートムの密偵の処分や、神官の受け入れ方についての見直しについて、仔細に報告してもらった書簡を見る限りは、まっとうそうではあるが見せかけでないといい。

「急にお呼び立てして申し訳ありません」

 大神官長のための塔の大広間の入り口に立つ、齢六十のルスランが深みのある穏やかな声で言う。皺の刻まれた表情は柔和だが、瞳には厳格さも持ち合せている。

 クロードが彼を見てほっとした顔を見せて、フィグネリアも肩の力を抜いて彼の前で膝をつく。

「いいえ、急ぎの用件とはなんでしょうか」

 ルスランはフィグネリアの問いかけに、一拍置いてから話し始める。

「神霊アトゥス様がおふたりに会いたいと仰せになりました」

「アトゥス様って、祭事の時に最初に降りてきた西風の女神様ですよね」

 クロードがすっかり気の緩めて胸をなで下ろした。

 フィグネリアとしては、冗談とはいえ夫を連れ去ろうとした女神で少々複雑だが、話がまともに通じそうな神霊ではある。

「我々としては、祭事以外で神霊方と俗世の方を会わせるのは極力避けたかったのですが、どうしてもと言ってお聞きにならないので」

 疲れた顔でルスランがため息をついた。

「では、私達は上へ行けばよろしいのでしょうか」

 フィグネリアは塔の最上階へ続く螺旋階段の入り口に目をやる。

「ええ。しかしその前に少しお話ししたいことがございますので、あちらにおかけ下さい」

 ルスランに促されて、ふたりは螺旋階段の反対側にあるソファーへと座る。

「神霊方は悪意というものは持ち合わせてはおられません。ただ、ひたすらに自分の欲求を満たすことを考えておいでなのです。人間に恵みを与えるときも、災厄をもたらすときも、悪意はもちろん、善意もなきものとよく心得ておいて下さい」

「……先のロジオン大神官長とはずいぶんお考えが違うのですね」

 フィグネリアは、神霊こそが正しく清きものと信じていたロジオンを思い出す。

「あの子もそれをよく知っているはずでした。赤子の頃よりここで育ち、先々代の大神官長の元で学びなぜあんなことをと、今でも信じられずにいます」

 憔悴した顔でルスランがうつむく。

「それを見抜けず、ロジオンを大神官長として認めてしまった私もまた、大神官長としては相応しくはありません。ですがいつまでも神霊方のお相手をする者がいないないというわけもなりませんので、致し方ありません……」

 ルスランがさらに声を沈ませた時、螺旋階段から神子が下りてくる。

「あの、アトゥス様がまだかと仰せになっています」

 困り果てた顔でそう言う神子に、ルスランが嘆息した。

「すぐに行くと、お伝えしなさい……皇女殿下、神霊様と相対する時はどうか、敬う心だけでなく、人との手には負えぬ力を恐れる心をお忘れなきようお願いします。そうでなければすぐに呑まれてしまいます。特に、貴女様は俗世に多大なる影響を及ぼすお立場。どうかお気をつけ下さい」

 深く頭を垂れたルスランに見送られてふたりは上階へ向かった。


***


「ようやっと来たか。待ちくたびれたぞ」

 最上階にたどりつくと、艶のある女の声が響いた。

 薄暗い部屋の奥、普段が紗が降りて隔てられている場所には、白い髪のと赤い瞳の、十歳程度の少女がいた。神霊を唯一下ろせる、大神子だ。

 容姿こそは幼いが、毛皮の敷布の上に座り、傍らの肘掛けにしな垂れかかっている姿からは色香が漂っている。

「お待たせして申し訳ありません」

 フィグネリアが膝をついて謝罪すると、大神子に降りてきているアトゥスが小さな手をひらひらと振る。

「相も変わらず、硬い娘よのう。ほれ、ふたりとももっとこちらまで来やれ。こう薄暗くては、クロードの可愛らしい顔がよく見えぬではないか」

 声にからかいを含んでいるのは分かっているが、フィグネリアは念のため警戒しながら前に進んで、改めて跪く。

「……私の一歩、後ろにいろ」

 クロードにそっと小声で告げた言葉は聞こえてしまったたらしく、アトゥスが細い肩を揺らし笑い声をあげる。

「そう心配するでない。妾はラウキルと違って人のものはとらぬ。しかし、睦まじくやっておっておるようで何よりじゃ。クロード、よい妻をもろうたのう」

「はい。おかげさまで幸せいっぱいです!」

「そうか、そうか。それは実によきことじゃ」

 クロードが力強く即答して、アトゥスが微笑んだ。

(もう少し真剣味を帯びてくれないだろうか)

 ふたりの様子を見ていると、ひとりで真面目に対応しているのが虚しくなってくる。

「それでアトゥス様、ご用件とはいったい」

 それでも態度を崩さずに問うと、アトゥスがほう、と幼い外見には似合わない物憂げなため息をもらす。

「それがのう、ルーロッカ兄様の居所が分からんのじゃ」

 その名前を聞いてフィグネリアはクロードと顔を見合わせた。

「第二の真実を司る、男神様ですよね」

 この頃神霊達についても学んでいるクロードがフィグネリアに確認する。

「ああ。第二の真実は悪意と失意を生む真実。ルーロッカ様は特に他人に対する悪意ある本心を暴いて、騒動が起きるのを眺めるのを楽しむ方だ」

 言いながら心当たりがおおいにあるフィグネリアは、表情を渋くする。

「アトゥス様、今、王宮でいっぱい喧嘩が起こっちゃってるんですけど……もしかして近くに降りてきてるってことないですよね」

 往生際悪くクロードが可能性を否定するが、アトゥスは非情にも躊躇いなくうなずいた。

 本来ならば神霊は大神子だけにしか降りては来られないが、現在クロードの存在によって神界と人間界の境界がひずんでいてそうとも限らなくなっているらしい。

 ただの口論にしては数が多く変に偏っているとは思ったが、まさか神霊絡みとは面倒なことになった。

「そなたの近くにいる所までは掴めたのだが、どうにも合わない器にでも入っておるのか、神界からは接触できぬ。それに妖精達がそなたの周りでは騒がしゅうて、兄様が妖精を動かしているのにも、わかりにくて苦労したわ」

 大粒の紅玉の瞳に見つめられて、クロードがそっと目をそらす。

「すいません、あいつらあんまり言うこと聞いてくれなくて……」

「そこを何とかしてもらわねばのう。ルーロッカ兄様を見つけて連れてきてもらわねばならんのじゃから」

「見つけて連れてくるって……俺にそんなこと出来るとは思わないんですけど」

 クロードがまごまごとしている横で、フィグネリアは冷静に頭の中のひっかかりを整理する。

「いくつか、質問してもよろしいでしょうか」

「よい。そなたも、面倒な娘よのう。いちいち断りを入れる必要はないのじゃぞ」

 アトゥスの柔らかい笑顔と甘い声の裏には傲慢さが覗いている。

 フィグネリアはルスランの忠告を思い起こして、話している内にいつの間にか緩んでいた気を引き締める。

「神霊方の器となる条件を教えていただけますか。合わない、と仰りましたが、一度は入れたのなら瞬間的にでも条件に適った、ということなのでしょうか。それが分かれば早くお探しできるかと」

「条件、のう……。ううむ、波長が合うのじゃ。誰かが後ろにいる気がして、振り返ると目が合う、という感覚かのう。じゃが、それだけで降りることはない。普段は気配を感じても間に何枚も紗があって目が合う、ということがないのじゃ」

 そこで一度区切って、アトゥスがクロードに視線を向ける。

「今は妖精王によってその紗が一枚程度しかない状態じゃ。その紗は脆く、意識を集中すれば取り除ける」

「その波長が合う器の身体的特徴、性別、年齢、そういった目安となる条件は?」

「ない」

 簡潔過ぎる返答にフィグネリアは目眩を覚える。

 ということは、王宮内にいる人間ならば誰でも器になり得るのだ。そして国内の誰かにある日突然神霊が降りてくる、ということも十二分に可能性がある。

「そんな顔をするない。人間という器には、あらゆる感情や意思で並々と満たされておる。そう簡単には入り込めぬわ。この器のように感情や意思に対して器が大きい者、或いは何かの理由によって器の中が減っている者にしか降りられん」

 つまるところ、波長が合う条件はないが、実際に入るとなると制限があるらしい。そこから絞れるかというと無理だ。

「外から見ただけじゃまったく、分かりませんね」

 クロードが残念そうにつぶやいた。

「では、見つけるにはどうすればよろしいのでしょうか」

「それは妖精らの動きをたどるしかあるまい。ルーロッカ兄様の気配が全く掴めん。器が合ってないせいか、神界との繋がりが切れてしまっていてのう、母様でも見つけられんのじゃ」

 地母神ですら見つけられないとなると、また厄介な話である。

「あの、合わない器ってなんですか? 入る瞬間までは合ってるんですよね」

 フィグネリアが疑問に思ったことを、先にクロードが訊ねる。

「器の中が減っている者の方、じゃな。それがまた満ちてくると器の方の意識とせめぎ合いになる。意識の一部が人間と混じってしまって、神界との繋がりが途切れている、のだと思うのじゃが……」

 ふと、アトゥスの言葉が曖昧になって、フィグネリアとクロードは怪訝な顔で彼女を見る。

「我らが人間の方に取り込まれることはありえんのじゃ。普通に入っていても、いくらか器の中身は傷つく。そうならぬために、母様が出来るだけ大きな器を選び、さらに交わらないために器の中に仕切りを作る。母様にも分からぬほど、というのはおかしいのう」

 そう言った後にアトゥスが頬杖をついて考え込んでしまう。薄暗い部屋の中での長い沈黙は不安しか育っていかない。

「……見つけてみれば分かるじゃろう。そういうことで頼んだぞ、クロード」

 そして彼女は考えるのを諦めて全部投げてきた。

「ちょっと、待って下さい。せめてもうちょっと手がかりとか! そうだ。妖精が使えるだいたいの範囲」

 それよりと話題を変えようとするアトゥスを、クロードが慌てて呼び止める。

「そう広くないはずじゃ。器に入っているときは妾とて、この街一帯の妖精らしか動かせぬ。今はこの器がまだ馴染まぬのでこの神殿内とその周辺といったところか。合わぬ器なら尚更じゃ」

 そうなると多少は絞れそうな気もするが、それでも容易くは見つからないだろう。

「見つけるまではよいのですが、大人しくここまでご同行願えるかどうか……。お力添えはしていただけないのでしょうか」

 見つけたからといってそう簡単についてきてもらえるとは思えない。妖精を使って暴れられた困る。

「できぬから頼んでおるのじゃ。クロードがさっさと妖精の支配権を取ってしまえばよいじゃろう。ただし、ラウキルの時のようにあまり無理に内に取り込みすぎるでないぞ」

「内に取り込むって、なんですか?」

 クロードが目を瞬かせて、フィグネリアも同じ顔をする。

「何も知らぬのか」

 アトゥスが不意に真摯な声を響かせて、クロードがびくりとする。

「う、あ、はい。自分の力についてはまったく」

「血族の誰かが教えているはずじゃが」

「……唯一俺の力を知っていた母は七歳の時に亡くなってしまって、ほとんど何も」

 クロードが寂しげに言うと、他には分かる血族はいないのかとアトゥスが問う。それに彼は首を横に振った。

「そこまで血が絶えておったか。どうりで不安定なわけじゃ。しかし、もりがおらずにこれならまだましか……」

 不穏な事をつぶやき、アトゥスが瞳を細める。

「我々は妖精らにただ命じるだけじゃ。しかしそなたは違う。笛の音でもって妖精らを引き寄せて従属させ、自らの内側に取り込んでしまう。そして内側と外側の妖精を繋いで使役するみたいじゃのう。何をどうやって制御しているかは我々には分からぬが」

「自らの内側……?」

 クロードがきょとんと鸚鵡返しして自分の体を見下ろす。

「詳しいことは我々にも分からん。ただそなたの感情に大いに引きずられるということは、よく覚えておくのじゃぞ。……それにしても、母様は何も忠告せなんだか?」

 アトゥスが首を傾げるのに夫婦は考えて見る。

 思い返せばさらっとした調子で同じことを言われた覚えがある。あまりの軽さに重要なことであるなどと全く思わなかった。

「なんか、俺が心穏やかであればとかは言ってましたよね」

「ああ。仰っていたな。そうすればあそこまでの騒動は起きないと……」

 夫婦の会話にアトゥスが渋面を作る。

「母様は何でもいい加減じゃからのう。まさかここまで何もしらぬとは思うてなかったのやもしれんが。ルーロッカ兄様のこととて最初は、遊び疲れたら帰ってくるんじゃないかしら、などと申しておったし」

 その様子はまざまざと声と表情まで想像できて、フィグネリアは信仰心とはなんだろうと真剣に悩みそうになる。

「ギリルア様、なんで気が変わったんですか?」

「自分で見つけられない上に、そなたの近くにいて事態のまずさ気づいたからじゃろう。それでもまだ面倒だの、もうちょっと様子見てからでもなどと往生際悪くしておったのう。結局、自分で説明するのは面倒くさい、この器は動かしづらくて嫌だと仰って妾が来たわけじゃ」

 フィグネリアはそのあたりのことは、悩むより聞かなかったことにすると決めた。

「でも、アトゥス様でよかったです。ギリルア様だと、たぶんもっと見つけにくくなってたと思います。ね、フィグ」

「……そうだな」

 ギリルアだと本当に訳の分からないまま、ルーロッカを探す羽目になっていたに違いない。

「なんじゃ、可愛らしいことを言うてくれるのう。ほんにそなたらは愛い」

 上機嫌になったアトゥスは立ち上がり、フィグネリアとクロードの側まで来る。そして彼女はクロードの顎を指で持ち上げ、蠱惑的に微笑む。

 その朱唇と細められた瞳には同性であっても心奪われそうな程に妖しく、美しい。

「アトゥス様!」

 かといってそれが夫に向けられているとなると、見蕩れるているわけにもいかず、フィグネリアは腰を浮かした。

「だから人のものはとらぬよ。……そなたに妖精達はすでに従っている。こうしておるとそなたの内に多くの妖精の力を感じる。外の妖精らもやたらまとわりついておるし、本当に加減というものを知らぬのだな。困ったものよのう」

 アトゥスがクロードから指を放して笑顔を消す。

「笛を吹かねば、取り込んだ妖精の力が安定を失い神界にまで影響を及ぼす。しかし吹くとまた新たに妖精を取り込んでしまう。笛の音が聞けると思うたのに、これでは下手に吹かせられぬではないか」

 悩んでいる点はそこか。

 思わず口にしかけた言葉をフィグネリアはかろうじて喉元で止める。

「それを母が知っていたとして、なんで俺に笛を吹かせていたんですか?」

「そうだな。笛を吹かねば、妖精を取り込むことはないはずだな」

 そんな危うい力をなぜクロードの一族は引き継ぎ続けたのだろうか。

「それはできん。初代の妖精王の魂が血族の中で引き継がれておる。産まれたときにはすでに内に妖精がいる。じゃから、妖精王の魂を引き継いだ金の瞳の子は新しく取り込みすぎぬように気をつけながら、引き継いだ妖精を安定させなければならぬ」

 クロードがそれを聞いて、何かに気づいた顔をした。

「魂の本質が抱える力……。ラウキル様が言ってたのって、このことだったのか。あ、母上にも妖精に構い過ぎちゃ駄目って言われてた。けど亡くなってからは、ずっと笛吹いてたり、妖精と話してたり……」

 クロードが過去を振り返り徐々に顔色をなくしていく。

「ど、どうしましょう」

 そして、彼はアトゥスに情けない声で救いを求めた。

「それを妾に聞かれても困るのう。妖精の扱い方も、安定のさせ方も血族だけしか知らぬのじゃ。まあ、守役が新たに見つかっただけでもましと思うがよい」

 アトゥスの目線が自分に向いてフィグネリアは戸惑う。

「守役、ですか」

「そう難しい事ではない。先にも言うた通り、妖精王の感情に妖精達は引きずられる。特に怒りや悲しみは妖精を暴走させやすい。それを宥めて穏やかな状態を保つには、どうしても守役がいる。最初は母親や兄弟、血族が務めやがては伴侶が引き継ぐ役目じゃ。仲睦まじゅうしておれば問題ないじゃろう」

 分かりやすいようで、ずいぶん大雑把である。

「そこは大丈夫ですよね。俺はフィグが一緒にいるだけで毎日幸せですし」

「……そうか」

 クロードがにこにこと言うのにフィグネリアは無感情に答える。

「あれ、駄目ですか?」

「いや、こういうことは深く考えることでもないのかと思ってな。言われずとも、お前がひとりで何か抱え込むことをさせるつもりもない」

「それは、俺も同じですけど、むしろフィグの方がいっぱい抱え込みがちだから気をつけて下さいね。フィグが辛いと俺も嫌ですから」

「う……そこは、気をつける」

 確かに、感情の起伏が分かりやすいクロードと違って、自分は隠してしまいがちだ。

「ほんに仲睦まじいのう。よいことじゃ」

 夫婦のやりとりにアトゥスが感心した様子で首を縦に振った。

「さて、用も済んで帰らねばならんが……ちょっとだけ、笛を聞かせてもらえぬかのう。多少は安定のために必要じゃからな」

 それから彼女はこれまでの表情と打って変わって、体に見合った子供っぽい顔で笛をねだってくる。

「俺はいいんですけど、本当に大丈夫なんですか?」

「一曲だけじゃ。それぐらいなら問題なかろう。こんな面倒な役目を引き受けたのはなんのためだと思うておるのじゃ」

 行方知れずの兄を探しに来たのではないのだろうか。

 フィグネリアはそう思い、大丈夫と無責任に言いながらクロードに笛を吹けとせっつくアトゥスを見る。

 ひたすらに自分の欲求を満たすことだけを考える。

 ルスランの言う通り、それだけのことなのかもしれない。しかしその対象がクロードに向かうことは、やはり不穏だ。

 フィグネリアの不安を他所に、クロードが胸ポケットから銀の横笛を取り出し口をつける。

 室内に陽に輝く細氷のようにきらきらとした音色が響き渡り、それが溶けて消えてしまうと、アトゥスはどこか名残惜しげにしながらも、神界へと帰って行った。


***


 神殿を出る頃には陽も昇りきって心なしか暖かくなっていたが、ゆっくりふたりで話したいこともあって、車輪はなくそりになっている冬用の馬車を呼んだ。

 中には膝掛けや温石もあるので暖がとれていい。しかしそれでもまだ寒いので、クロードはフィグネリアと肩を寄せ合う。

「とにかくやらなきゃいけないことはルーロッカ様ですね。王宮の口論騒動を早く治めるために頑張ります」

 自分にできることがあるというのはいいものだ。やりきれる自信はあまりないが。

「かといって、万事解決というわけにもいかんだろうな。ルーロッカ様が明かすのは真実だ。しばらくは、険悪な状態が続くのだろうな」

 王宮内での口論は主に反九公家派と九公家派。それぞれが内に抱える不平や不満に、ルーロッカが惹きつけられているのだ。

 よく考えてみれば、口論は起こらなくても根本はそのままだ。

「ルーロッカ様って俺の国だと嘘を吐く悪魔なんですよね。人の声を真似して嘘の悪口を言って、それを聞いた人間と声を真似られた人間が喧嘩をするのを愉しむんです」

世界はひとりの神の掌の上に乗せられているものとなっている。そして妖精達は災厄をもたらすものとされ、この国で神霊と呼ぶものは妖精達を諫め払う使徒と、妖精達を操り人に害をなす悪魔のふたつに分けられる。

 この国に伝わる神話と似たところもあるが、人間側にも問題があるということはことごとく排除されている。

「お前は国政にまつわることは全く学んでいないのに、それだけはよく知っているな」

「そういう本しか身近になかったですからね。母が読み聞かせてくれてた本には、必ず使徒様か悪魔が出てくるんです」

「母君が妖精王のことを知っていたのなら、何か意味があったのかもしれんな」

 思い返せばふた部屋丸々その類の本で埋め尽くされていたのは、異様だったのかもしれない。小さな王宮の中の、さらに小さな塔が世界の全てだった自分には、普通の景色だったので何とも言えない。

「神霊様に聞くより母と何を話したか思い出した方が、俺の力の手がかりはありそうですね」

 とはいえ七歳の時に亡くなっているので、記憶はばらばらになったページ数の書かれていない本のように散乱していて、順番はもちろん何が抜けているかも分からない。

 クロードは何気なく自分の掌に見つめる。

「……自分の中に妖精の力がって言われてもなあ」

 改めて自分の体を見下ろしたり、意識を内側に向けたりしても全く分からない。これまでに妖精の気配を内側に感じたこともない。

「そうだ、祭事の時にはあったかも」

 三月前の冬籠もりの祭事で、フィグネリアが刺客に襲われて櫓から落ちそうになって無我夢中で手を伸べて、一緒に落ちてしまったが妖精に助けられた。

 あの時、妖精達が一体化してしまいそうなほど近くに感じた。

 あれが内と外が繋がった瞬間だったのかもしれない。

「でも、あそこまで切羽詰まらないと強い力は発揮しないってことは、暴走するときもよっぽどですよね。俺、この性格でよかったって始めて思いましたよ」

「その力に関してはいいのだろうが、お前自身にとってはあまりよくない気がするのだがな」

 肩にフィグネリアがもたれかかってきて、クロードは彼女の寂しげな表情に眉尻を下げた。

「怒らないことも、悲しまないこともいいことだって母上が教えてくれました。そうすればずっと楽しい気持ちも、幸せな気持ちも続いていくから。俺は、フィグが笑ってくれれば、それだけでいんですよ。だから、そんな顔しないで下さい」

 フィグネリアの手を握って微笑みかけると、彼女は視線だけ上げる。

「子供の頃のお前にとって楽しいことと、幸せなことはなんだったんだ?」

「楽しいことは笛を吹いて妖精と遊ぶことで、幸せなことは母上がたくさん愛してくれてたことかな」

「……母君は亡くなってからもずっとお前を護っていたんだな」

「そうですね。顔とか声とかは曖昧になってても、母上からもらった幸せな気持ちはずっと残ってましたから。あ、もうすぐ、家につきますよ」

 うっすら曇った硝子窓の向こうが赤と白の斑から、茶色と緑と白の斑に変わって王宮へ続く林道に入ったと分かる。

「ああ、家、だな」

 フィグネリアがやっと微笑んで、体がくっついている所だけでなく胸の奥までぽかぽかとしてくる。

 思い返せば、この国に婿に来てから母のことはほとんど思い出さない。

 勉強することだとか楽しいことが増えたし、毎日新しい幸せもあって過去に幸福を探す必要がないからかもしれない。

 こんな毎日が続くならば、妖精王としての力も自分自身のことも、フィグネリアが気を揉むようなことはなさそうだと思えた。


***


 ディシベリア王宮の中央宮は巨大だ。

 二十一の縦長で屋根が半球状になった、白亜の建物が等間隔に並び、それぞれは廊下で繋がれている。その中央の建物は左右のものより倍高く、奥行きも他よりある。この建物の手前三分の二は浅黄色の絨毯が敷かれた通路だ。

 そして一番奥、王宮の右端から左端までの横長で、唯一繋がっている中央の建物と同じ高さがある建物が皇家の居住区になる。

 まだ夜が明けてすぐの頃、全ての建物と繋がる中央の建物の通路をひとりの少年が歩いていた。 

 癖のある鳶色の髪の彼はニカ・エリシン。猫のような釣り目は大きめで、十七という年齢よりも面立ちを幼く見せている。

 ニカは等間隔に並ぶ左右への廊下へ繋がるアーチ型の出入り口のうち、自分の持ち場に続く左手側、十五番目のアーチをくぐる。

「……フィグネリア皇女殿下、お綺麗だったな」

 まだ陽もほとんど差さしこまず、寒い廊下で白い息を吐いてひとりつぶやく。

 辻馬車も出ていない夜明け頃に、帝都の官舎から歩いてここまで来たのだが、途中に神殿へ続く大通りを行くフィグネリア第一皇女とその婿を遠目に見かけた。

 王宮で最下位の第五等官である自分が、長らく王宮の奥のさらに奥にある小宮に籠もりきりの彼女の姿を見られるのは希で、遠目とはいえ少し気分が弾んだ。

「しかしなぜ、皇女殿下はあの御夫君を選んだろうな」

 フィグネリアの隣で今にも凍え死にしそうなほど、寒そうにしていたクロードを思い出して、ニカは眉根を寄せる。

 自分と同い年だという彼は容姿こそは、皇女の隣に並んで見劣りしないものの、あの威厳も緊張感もない雰囲気は似つかわしくない。あげくに、エリシン家の領地より一回り大きい程度の国土しかない弱小国出身だ。

「俺のような者には分からない、深いお考えがあるのだろう」

 ニカはそうに違いないと考えながら、足取りを重くする。

 あたりは静かだ。暖炉に火をくべ部屋を暖める火付け係をする、新入りの五等官すら出仕してきていない。

 こんな早朝にニカがいるのは、上官に呼び出されたからだった。

 ”あれ”がばれてしまったのかもしれない。

 何度目かの思考にすっと内から冷える感覚がして足がすくむ。

「いや、早すぎる」

 そしてまた同じ言葉で自分に大丈夫だと言い聞かせて、ニカは部屋に入る。

 設事第三政務室はしんと静まりかえっていている。上官の姿はどこにも見えなかった。

「いない……」

 ニカが部屋を見渡していた時、部屋の奥で何か物音ががした。

「ジトワ二等官……?」

 上官の名を呼んで音の方へと向かっていたニカは、テーブルの足下に転がっているものに言葉を失う。

 大きめのインク壷に血がべっとりとついていた。

「ジトワ二等官!!」

 そしてテーブルの裏では壮年の筋肉質な男が後頭部から血を流して倒れていた。ニカは駆け寄って上官である彼の肩を軽く揺する。

 まだ彼の体は温かく、呼びかけると小さく呻く声が聞こえた。まだ生きている。

 しかしこのまま放置していたら彼は確実に死ぬのだろうか。

 一瞬よぎった考えを追い払うためにニカは頭を横に振る。

「すぐに人を呼んできます」

 聞こえているかよくは分からないが、声をかけてからニカは急いで部屋を出る。そしてはっとして足を止める。

 上官を襲った者はまだ近くにいるのかもしれない。

 薄暗い廊下は静かで、柱時計の針が動く音が響く。人の気配はどこにもない。

「急がないと……」

 かといってじっとしているわけもいかず、ニカは恐怖心を押さえつけて駈け出した。



 フィグネリアとクロードが帰り着いた頃、早朝から官吏が殺されかけたと王宮内は騒動になっていた。緊急の朝議を終えたふたりは、執務室がある小宮ではなく寝室の方で話し合うことにした。

 ベッドを小さくしたかわりに広くしたテーブルに添えられているソファーに腰を下ろし、ふたりは重たいため息をつく。

「負傷したのが設事のジトワ二等官であることがまずいな」

 フィグネリアは頬杖をつき、神妙な顔をする。

「不正事件の足がかり、ですよね。たいした怪我じゃなくてよかったですけど」

「ああ。しかしこれでようやく調査が進むかと思ったのだが、厳しいな」

「そうですね。大臣達が言ってたみたいに、他の不正に関わっている人たちが、尻尾出しにくくなりそうだし。誰がやったか分かればいいんですけど……」

「襲われた本人が分からないと言っているのではな……。あんな早朝に王宮になぜいたかも言わない。見つけたエリシン五等官が密告者である可能性が高いとなると、怪しいな」

 ニカ・エリシンは今朝の騒動の報告と同時に、密告者として当たりがつけられていることも報告されていた。

 早朝に王宮にいた理由はふたりとも、お互いがお互いに呼び出されたと言っているらしく埒があかない。だが、時期が時期なので不正絡みで悶着があったと見られている。

「机の影に鼠か何かがいるのに気づいて、屈んで捕まえようとしていたら殴られたって言っても難しいですよね。エリシン五等官は俺ぐらいの体格で、殴られたジトワ二等官は背丈もあって体格もいい人だから、インク瓶なんて確実性のないもの使わないでしょうし」

「部屋の奥にいて人を待っていたのに、気づかなかったというのもおかしいな」

 フィグネリアは腕を組んで考え込む。

「他の不正に関わ っている者たちが逃げ切るまでに急がねばな。……外交関係の事案が三つと、来月の予算組の確認、今月の予算の調整案の確認。三月に一度の市場調査のまとめ。各地の街道の雪崩被害の件……他にも小さな確認作業が多いな」

「フィグ、忙しいですよね」

「ああ。ルーロッカ様に関してはお前と仕事を分担して、合間にと考えていたが、今この状況で不正事件の調査が滞るのはまずい。もたもたしていると逃げられる」

「ええっと、そうなると俺ひとりで探さないとってことですか……?」

 クロードが心細そうな顔で小首を傾げる。

「そうしてもらわねばならない。探すだけ探して、見つけたらその場で捕まえずに私に報告するんだぞ」

 首を縦には振っているものの、クロードの表情は頼りなく、フィグネリアは不安になる。

 神霊はもちろんのことだが、それを捜索しに行く場所が問題だ。

 あたりをつけているのは口論が頻発している、中央宮の政務を執り行う場。あそこにひとり放り込むのは、いささか乱暴な気もする。

「……だ、大丈夫です! 俺ひとりでもなんとか見つけます。ひとりって言っても王宮の中だから、自分の家ですよ!」

 夫婦揃って心許ない顔をしていると、先にクロードが気を持ち直した。

 その自宅内でつい三月前に拉致されたことは忘れているらしい。

「無茶は絶対にしない。いいな」

「大丈夫です! 揉めるより逃げるを選びますから」

「……まあ、今はそれでもかまわんが」

 胸を張って言うことではないが、状況によっては正しい判断になる。

 そうして、ふたりはそれぞれ自分の仕事に取りかかることにした。

 寝室を出ると、クロードが足を止めてフィグネリアの手を引く。彼女はなんだろうかと彼を見上げた。

 そのままクロードが額を合わせて来て、視界が彼だけになる。

「大丈夫なんですけど、もう一押し欲しいかな」

 これはずるいだろうとフィグネリアは思う。

 透明な蜜の色と甘さを宿す瞳はどこまでも純粋でいて、真面目にやれという言葉が出ない。

「……頼りにしているからな」

 そしてフィグネリアはそう囁いて、夫に口づけた。


***


 クロードは大きく息を吸って大広間から出る。

 結婚して半年になるが、ここから先に足を踏み入れるのは初めてだった。普段は居住区とさらに奥の小宮。表まで来るとしても、大広間までだ。

「あったかくて綺麗だなあ……」

 遙か遠くに見える半球の天井の両脇に等間隔に並ぶ硝子窓を見上げ、クロードはほうと感心する。

 今日はよく晴れているのでたっぷりと陽が差し込んでいて、大理石の壁や柱もほんのり光を纏い、敷かれた浅黄の絨毯も色鮮やかだ。それに他の廊下より暖かくていい。

「ここから先が、政務室が集まってるところか……国の勢力争いがここに凝縮されてるんだっけ」

 左右にアーチ状の出入り口が見えてきて、クロードはフィグネリアから習ったことを反芻する。

 一定以上の領地を持つ貴族は跡取りを出仕させる義務がある。皇帝への忠誠心を強める意義が半分、人質を取るという意義がもう半分といったところだ。もっとも建国より長い時が経った今、人質としての意義は薄れて出仕義務を課されるのは、有力者として認められたという意味合いが強くなっている。

「九公家同士の派閥争いもすごいっていうし、どんな雰囲気なのかな」

 クロードは考えながら知らず内に緊張して肩を強張らせる。

 皇帝に次ぐ権威を持つ九公家には出仕義務がない。ただし彼らがまるで関わりがないわけではなく、各有力貴族を取り込んで自らの領地にいながらも深く国政に絡んでいる。

 大陸のどこにでもある、盤の上で駒を動かす遊びとよく似たものだ。

 九公それぞれが王宮という盤の上に駒を載せ、自らに有益になるようにそれらを動かしている。

 そこに加え、反九公家派やら中立派やらも絡んでいるのだ。

「恐いなあ……」

 戦場に武器も防具もなしにひとりで飛び込んで行く気分になって、クロードは怖じ気づく。

「た、頼りにされてるんだから頑張らないとな」

 しかし、フィグネリアに一押ししてもらったことを思い出して、気合いを入れる。

 これで上手くやれば、ひとりで行動するときに、フィグネリアに心配そうな顔をさせないですむ。

「ああ、しまった今何番目だっけ!?」

 つらつらと考えていると、騒動が多発している設事と吏事の政務室のある場所近くに繋がるアーチが分からなくなり、クロードは周囲を見渡す。

 皆、政務中なのか人通りはない。

「建物の構造的にとりあえず向こうに行ったら大丈夫か」

 全ての政務室は廊下で繋がっているのだ。歩いていればたどり着けるだろう。

「妖精達もちょっと違和感あるしな……」

 クロードは意識を目に見える部分以外へと持っていく。

 いつも周囲にまとわりいる風の妖精達との間に、半透明の膜が張られているような隔たりがある。

「口論起こしてくれた方が手っ取り早いけど」

 アーチをくぐり、真っ直ぐ歩いていると十字路に出る。一つの建物の真ん中にも通路が一本合って、その両脇に部屋があるのだ。

 地図を書くと綺麗な升目になっていてどこも景色は一緒で、どこから来てどっちに曲がったか忘れると途端に迷ってしまう構造だ。

 ここまで来ると廊下に書類を抱えた人が見える。この国は相続に性別は関係ないので、女性の姿も少ないながらもちらほらいる。

「視線が痛いのは気のせい……でもないか。懐かしいって言っていいのか、これ」

 故国の王宮で自分に向けられる視線はいつもこんなだった。

 母が亡くなってすぐの頃、公子が受ける講義の時間に半年年上の双子の異母兄によく追い出された。

 とぼとぼと王宮の隅に帰っていると、行き交う侍女や従者達は冷ややかな目をして自分を見ていた。聞こえよがしに、侍女の子が他の公子を真似て学んだところで無意味だと笑う者もいた。

 結局、有力貴族が母である兄達を咎める人間もおらず、三月もせずに自分は講義を受けるのを諦めた。

「やめたって、誰も文句言わなかったな。父上も母上が亡くなってから、俺の存在はほとんど忘れてただろうし」

 父は式典で顔をあわせるぐらいだったが、その時も自分はおろか兄達にすらほとんど目もくれていなかった。息子達に関しては一番上が跡継ぎで残りは予備ぐらいの認識だったに違いない。

「お前らがいたから、ひとりでもあんまり辛くはなかったなあ。けど最初の頃はそれなりに腹が立ってたっけ。なあ」

 妖精に話しかけていたクロードは、はっとする。周りの視線が別の意味で痛い。

(ひとりで喋るのどうにかしないとな)

 子供の頃からの癖で、未だに思考が全部口に出ていることがよくある。

「あ、待て。そっちなのか?」

 しかし、設事と吏事がある建物に入ると妖精達が不自然に揺れ始めて、クロードはつい声を上げてしまう。

 揺らぎはもっと奥へと続いている。

(なんだろうな―、この感覚。ちょっと気持ち悪い。ラウキル様に会った時に似てるのか?)

 妖精達だけに意識を集中して歩いて行くと、ひとつの部屋の扉の前にいる、鳶色の髪の少年にたどりついた。

「小さい……」

 クロードは思わずそうつぶやいて、少年が怪訝そうに瞳をこちらに向けてくる。

 小さいとは言ってしまったものの、身長は自分とほとんど同じぐらいだろう。しかし、この国の男はみんな自分より頭ひとつ分以上は大きいので、そう言ってしまった。

「クロード、殿下?」

 呼ばれて、クロードは何を話しかけたらいいのか戸惑った。

「……ここ、どこだ?」

「律事第五政務室です」

「名前、聞いていいか?」

「設事第五等官、ニカ・エリシンです」

 一応会話が成立してほっとしたのも束の間、少年の名前にクロードは硬直する。

 そういえば、負傷したジトワ二等官を発見した彼は自分と同じぐらいの体格だった。

(いきなり大当たり? ルーロッカ様入ってる? というか、今、ルーロッカ様?)

 ぐるぐるひとりで混乱するクロードは、ニカの周囲の妖精達の動きに注視する。

 妖精達は確かにこの周囲で落ち着かない様子でいるが、ニカの中にいるかと言われれば微妙だ。

「あの、もう行ってもかまわないでしょうか」

 ニカの方もどことなく迷惑そうに聞いてくる。

「あ、聞きたいことがあるんだ。えっと、ニカって呼んでいいか?」

「構いませんが、ジトワ二等官のことなら律事の方に話したとおり、自分は何もしりません」

「いや、そっちじゃなくて、最近、自分の体が変だなとか、誰もいないのに誰かいる気がするとかないか?」

「…………ありません」

 ニカの声がどんどん無感情になっている。

(ああ、絶対、なんなんだこいつって思われてる。どうするんだ、俺)

 クロードがこれ以上会話を繋げなくなり困り果て、ニカもまたこの訳のわからない皇女の婿の対処が分からず無言で困惑する。

 そして背格好のよく似た少年達はお互い見つめ合ったまま、完全に固まってしまった。

 筆舌に尽くしがたい空気に周囲にいる官吏達が固唾を飲む中、ふたりの側の扉が不意に開いた。

「……君達、そこで何をしているんだ」

 出てきたのは昨日書類を拾ってもらったザハールだった。

(まずい人出てきちゃったな。一旦出直した方がいいかなあ……)

 クロードはニカとザハールを交互に見つつ立ち往生する。

「君は皇女殿下のご命令でここにいるのか?」

 どうやってこの場から立ち去ろうかと考えていたクロードは、急に声をかけられてびくりとする。

「あ、はい、まあそんな所です」

「困るな。こちらになんの相談もなしに動かれると仕事に支障が出る」

 きつい口調のザハールに、クロードは縮こまって反射的にすいませんと謝ってしまっていた。

「皇女殿下はなぜ、エリシン五等官と接触しろと命じられた?」

「え、いや、えっと、ここで会ったのは偶然です。口論騒動が増えてる吏事と設事のあたりを視察してきて欲しいって言われたんですけど、迷ってしまってニカに道を聞いたんです」

 嘘と真実を織り交ぜて答えると、ザハールが疑わしげに見てくる。

「……エリシン五等官、彼を送ってあげてくれ」

 ザハールから話を切り上げてくれて、クロードはよかったと胸の内でつぶやく。

 とはいえ、ニカとふたりで取り残されてしまってもそれはそれで気まずい。

「なぜ、お咎めにならなかったのですか?」

「え? 何が?」

 ザハールが立ち去ってからニカが訊ねるのに、クロードは目を瞬かせる。

「イサエフ二等官のクロード殿下に対する態度です。あんな口の利き方をされて不快ではないのですか?」

「あ、そういえば、すごく偉そうだったな。でも、俺年下だし、あっちは財力と兵力ある侯爵家の嫡男だし、ううん、偉そうにされても気にならないなあ」

 どこをどう見ても自分が上に立てる要素がない。

「あなたは、フィグネリア皇女殿下の夫なのですよ。つまりは皇家の人間なんです。侯爵家嫡男とはいえど、許されないことです」

 なんだか毛を逆立てて威嚇する猫に似ている。

 真剣に憤るニカの姿に、クロードはぼんやりとそんなことを考えていた。

「……でも、そういうの苦手だからなあ」

 実のところ殿下という呼び名も落ち着かないし、同い年の彼に敬われるのもむず痒いものがある。

「苦手、と仰いますが、あなたは元は公子でしょう。その頃同じようにふるまえばいいのです」

「ふるまうって言っても、朝と夕方に女官が来る以外ひとりだったし、それ以外の人間に会うことなんてほとんどなかったからなあ」

 朝になったら女官が朝食と昼食、果実などがテーブルに置かれ、夕方になったら夕食を置いて、湯浴みの支度をして空になった皿を下げに来る。そしてまた朝には夕方の分が下げられ、の繰り返しである。

 女官も手が空いてる人間が来るらしく、顔ぶれは定まらなかった。朝は寝ている間に支度がされているので、実際人間に会うのは一日一度だ。

「……申し訳ありません」

 ニカが何か思い詰めた顔で謝罪してくる。

「別に、俺気にしてないからいいいって」

 女癖の悪い父が双子の兄ふたりの生母である側妃の侍女を勤めていた母に、気まぐれで手をつけて産まれたのが自分だ。男児を産んだことで母は側妃のひとりとして認められた。

 女児を産んで母子共々捨てられた者も多くいる中で、自分の扱いはかなりましな方だ。

「それより、ニカ、さっきの質問なんだけど、そうだな。身の周りで喧嘩が多いってことはないのか?」

 自分の子供の頃のことに悩みはほとんどないクロードは、さっさとルーロッカの方へ話を移す。

「設事と吏事の方では多発しています」

 先ほどよりはやや柔らかい口調でニカが答えた。

「そうだよな……広い範囲じゃなくてもっと狭い範囲? すぐ隣にいる人が喧嘩し始めたりとか、そういうの」

 ニカの茶色い瞳が一瞬、震える。

「ありません。なぜ俺に聞くんですか?」

 動揺しているのか、口調も少しばかり砕けてしまっている。

(分かりやすいな。今はルーロッカ様じゃないのは、間違いないか)

 しかし妖精達の気配は彼の周りに濃く渦巻いている。だが、何かが違う気もする。

「クロード殿下?」

「いや、だって、設事だしな。また何か気がつくことがあったら教えてくれると助かるんだけど……」

「はい。あの、俺、もう戻らないと。あちらに真っ直ぐに行けば中央に出られるので、失礼します」

 ニカはちゃんと頭を下げて戻って行くが、やはり怪しい。

 クロードはその後ろ姿を見送ってひとまずフィグネリアに報告しに、戻ることにした。

「動いた……」

 建物をひとつ移動した頃に、皮膚の表面を引っ張られるのに似た感覚がする。

 風の妖精達がどこか一点に強い力で引き寄せられている。

「駄目だ。静かにこっちに」

 声を潜めて彼らを呼んでみるが、引きつけているものの力が強いらしく、磁石に引き寄せられる砂鉄のようにずるずると引っ張られていく。

「さすがにここで笛、吹くわけにもいかないし……」

 変に目立つし、まだ妖精を取り込むということがよく分かっていないので、さすがにそれは躊躇われた。

 クロードは迷いながらも、妖精達を追っていくことにした。


***


 あの人は、何なのだろう。

 ニカはついさっき別れたクロードのことを考える。

 遠目で見たときと変わらない、ぼんやりとして頼りない雰囲気の皇女の婿。たまに挙動不審になるのも、変だ。

 だが確実に何かを知っている。

 ニカは立ち止まって、政務室の扉に伸ばす手を迷わせる。中に入るのには気が重い。

 それでも戻って上官に報告をしなければならないので、鉄の扉でも開けるかのごとくゆっくりと扉を押す。

「あいつ、帰ってきたぞ。ジトワ二等官やったのあいつじゃないのか?」

「ニカには無理だろ。ジトワ家がなくなったら家、潰れるぞ」

「どっちにしろ、あいつにそんなことできないだろ」

「ああ、そういや。皇女殿下の婿がうここらうろついてたぞ。成り上がり者って、どいつも見た目から小さいんだな」

 そして、一気に耳に雪崩れ込んでくる声に逃げ出したくなる。

 どこかか聞こえてくるわけではない。いきなり耳の中で声が響くのだ。ここ数日幻聴なのかよく分からない声が、ずっと聞こえている。

(どんどん酷くなってる……)

 部屋の中で聞こえてくる声は増えていくばかりで、気が狂いそうだ。いや、もうおかしくなっているのかもしれない。

 おかしいからこんな声が聞こえるのだ。

 ニカは耳の中で木魂する嘲笑に歯を食いしばりながら上官の下に行く。

「貴様、今、なんと言った!」

 すぐ近くで椅子を蹴倒す音と共に、怒声が響く。

 この口論もおかしいのは自分だけじゃない気がしてむしろほっとする。

 口論は激しくなってきて、他の官吏達が止めにかかる。そこからなぜか新たな口論が始まって乱闘寸前の大騒ぎになる。

 自分よりも体格が二回りほど違う男達の間にいると危険なので、ニカは扉の近くまで待避する。

 そして、扉が開いて隣の部屋からも騒動を止めようと人が入ってくる。

「え、ちょ、うわあ! えっと、ニカ、でいいよな」

 そして男数人に押されてなぜかクロードが転がり込んできた。

「何をなさっているんですか、危ないですよ」

 この人はついさっき会ったばかりなのに、もう名前を忘れたのかと思いながら、ニカはクロードの袖を引いて壁際に避難させる。

「ああ、酷いことになってる、どうすんだ、これ。なあ」

「本当に何をしに来たんですか、あなた」

 壁際の棚にくっついておろおろしている姿には、呆れるより他ない。

「待て、待て、拡大させるな馬鹿!」

 クロードがそう声を上げるとほぼ同時に、止めに来ていたはずの官吏も喧嘩を始める。

(この人、喧嘩が始まるのに気づいたのか?)

 ニカは訝しげにクロードを見る。しかしながら、彼に止められそうにはない。

「本当に、やめろって!」

 側で、クロードが悲鳴じみた声を上げる。しかし、その声は到底揉めている男達に届くものではなかった。

 騒動が激しくなってきたせいか、がたがたと近くの棚が激しく揺れる。あちこちの棚も、机も一様に騒音をたてている。

 それにしても激しすぎる揺れ方で、棚の引き出しが半ば飛び出している。

 向かい側の棚の引き出しが床に落ちて、インク瓶が派手な音を立てて砕けちった。

「そこにいると危ないですよ!」

 ニカは慌てて棚の前にいるクロードを呼ぶ。

「え?」

 こちらを向いたクロードの丸くなった瞳を見て、ニカは息を呑んだ。

(金だ……)

 琥珀だったはずのその色は、淡い光を纏っていて黄金に変わっている。

 一体この人は何なのか。

「殿下!」

 我に返ったニカがクロードの頭上に落ちてくる木箱に気づく。

 しかしクロードが彼の声に反応して動いたときにはすでに遅かった。


***


 夫が乱闘に巻き込まれて負傷したと、報告を受けたフィグネリアは、すぐさま彼がいるという設事の応接室に向かった。

「無事、だな」

 軽傷だとは聞いていたものの、長椅子の上で座ってくつろいでいるクロードの姿を見て、忙しなく動いていた心臓がやっと静まった。

「すいません。落ちてきたちっちゃな木箱で額切っちゃっただけです」

 ばつが悪そうな顔でクロードが前髪を持ち上げ、左眉の上辺りに軟膏が塗られた布を貼り付けられているのを見せた。

「それだけですんでよかった。深くは切れていないな」

 クロードの隣に腰を下ろして、フィグネリアはまじまじと彼の患部を見る。布に血が滲んでいて、痛々しい。

 あまりにも見つめすぎたせいか、クロードが苦笑してフィグネリアの頬を撫でた。

「本当に大丈夫ですよ」

「それならいいが……、何があった。ルーロッカ様と対峙したわけではないのだな」

 膝がくっつくほどクロードに近づいていたフィグネリアは、わずかばかり身を離して訊ねる。

「はい。妖精が動いて様子を見に行ったんですけど、部屋の中で大騒ぎになっててそのうち、隣の部屋の人が駆けつけてきて、で、扉の近くにいた俺は押されちゃって中に。妖精達を止めようとしたら、混乱しちゃったみたいでそのせいで棚が揺れて、物が落ちてきたんです」

「混乱した……?」

 ルーロッカに反撃されたのかと思ったのだが、今ひとつ掴みにくい状況だ。

「近くにルーロッカ様がいて動けって命令してて、そこに俺が逆に動くなって言って、どうしたらいいかわからなくなったってかんじでした」

「だが、お前の言うことはあまり聞かないのだろう」

 再三クロードは妖精達を止めていたが、効果ははまるでなかったはずだ。

「そうですよね……目の前でごたごたしてて夢中だったし。あんまり意識してるとかえっていうこときかせられないのかもしれないです」

 クロード自身もよく分かっていないらしい。

「それで結局ルーロッカ様の器になっている者の目星はついたのか?」

 クロードはそれが、と首を捻る。

「俺、最初、妖精達の気配を追ってたら律事に行っちゃったんですよ。そこで襲われたジトワ二等官を発見した、ニカと会ったんです。ニカの周りは妖精の気配が強かったんですけど、騒動が起きた部屋にいたニカはルーロッカ様じゃなかったんです」

「関係なかったということか?」

「そうでもないと思うんですよね。騒動が起ったのもニカが部屋に戻ってすぐぐらいだろうし、何かを隠してる雰囲気だったし。でも、気は強そうだったけど、神霊様に勝てるほどには見えなかったな。……あ! 律事でザハールと会って、勝手に動かれると困るとか言われました」

 面倒だなとフィグネリアは顎に手を当てる。

「エリシン五等官は不正事件どころかルーロッカ様の件に関わっているのか。律事の邪魔になるのは避けたいが」

「どうしましょう」

「神霊様のことは隠して、エリシン五等官のことはお前に任せてもらえるよう話してみるか」

「任せてもらえると思います?」

 子供っぽい仕草で小首を傾げるクロードに、フィグネリアは言葉に詰まる。

 彼の純真そうな眼差しとふんわりとした雰囲気は、大事を任せるには頼りなく見える。

(……クロードがこうなのは母君の守役としての判断もあったのだろうな)

 第一公子と第二公子が相続権を巡り殺し合い、他の残る公子もいがみあうハンライダの王宮で、異母兄達と違い後ろ盾のないクロードの感情を穏やかに保つには、彼に対抗心というものを抱かせないことしかできなかったのは想像に容易い。

 陰惨な王宮の辛苦を押し流せるほどの愛情で囲いを作り、立ち向かうよりも内に籠もっている方がいいと思わせる幸福な場所を彼の母親は築いたのだ。

 そのかわり、クロードは自分に対しての期待は犠牲になってしまったのだろう。

(思ったよりも、根深いな)

 フィグネリアはそっと鼓動に寄り添うようにクロードの胸に顔を埋める。

 やる気もあるし成果も上げているのに、彼はまだ囲いから出きっていないのか自分に対する評価は低い。

(というより、私がある意味母君と同じ位置にきてしまっているせいか)

 フィグネリアはクロードから身を離して眉根を寄せる。

 自分のために頑張ってくれるのはいいけれど、そこにばかりに留まってしまうとたぶんクロードのためにはよくはない気がする。

「フィグ? やっぱり難しい、ですよね」

 クロードが声を萎ませて、フィグネリアは首を横に振る。 

「いいか。交渉は私がする。お前は一言も喋らなくていい。ただ一点、臆するな」

「うう。難しいけどやってみます」

 とはいえ本人には前向きさがあるのだからそこまで、心配はいらないだろう。

「よし。その心構えを忘れるな」

 フィグネリアが頬を指先で撫でた後、部屋にまた来客があった。

「クロード! 大丈夫か!?」

 部屋に入るなり叫んだのはイーゴルだった。さらにその後ろにはサンドラもいる。

「本当にたいしたことなさそうね。よかったわ」

 よかった、よかったと笑うふたりに、何をそんなに驚いているのかクロードは、呆けたままでいる。

「兄上、今日の朝議ですがお聞きのとおり乱闘騒ぎで予定通りには、進まないかと思います」

 そんな夫はさておき、フィグネリアがそう告げるとイーゴルが腕を組んで唸る。

「やはり、こちらに兵を何人か置いていた方がいいのではないか?」

「いえ。人が多いとさらに危険だと思います。兵が喧嘩を起こすことになると、怪我人がまた多く出ることになるかと」

 今回の乱闘騒ぎで怪我人も数人出た。さらに屈強な兵士まで加わわれば、なおさら危険だ。

「神霊様も何が楽しいのかしらねえ」

 サンドラが困り顔でつぶやく。

 兄夫婦には今回の事態は仔細に話してあった。三月前の騒動の後にクロードの能力について話したが、あっさり受け入れたふたりは今回も素直に事態を飲み込んでくれた。

「神霊方は私達の理解の範疇外にいますから。しかしあくまで、ルーロッカ様は喧嘩を起こすきっかけを与えるだけなので、人間側が抑えればすむ話なのですが」

「それができたら苦労しないわよねえ」

 サンドラが典型的なディシベリアの男の代表であるイーゴルを見て言う。

「ディシベリアの男たるもの、闘争心はわすれてはならん」

 イーゴルの言うことに、姉妹は顔を見合わせて苦笑いした。

 そうしていくらか現状について話して、イーゴル達が先に部屋を出た。

「後ですぐ会えるなら、来なくてもよかったんですけどね。これぐらいの怪我だし」

 ふたりが出て行った後にクロードがぽつりとつぶやいた。

「実際目にするまでは安心できないだろう。私も最初きいたときは、本当に心配したのだからな」

 フィグネリアはクロードの手を握って唇を尖らせる。

「う、すいません。でも、そうですね。義兄上達ってそういう方達ですよね」

 何か得心がいったらしく、クロードが嬉しそうに微笑んだ。

「そうだ、そういう方達だ。さあ、私達も行くか」

 手を繋いだまま部屋を出かけてフィグネリアは迷った。いつもなら公の場ではこういうことは控えているが、もう少し触れていたかった。

 しかし、そこはこらえて指を解く。

 ちらりと見たクロードは気にせずに扉を開けてどうぞ、と言っている。

 いつも公私は分けると口を酸っぱくして言っているものの、これはこれで面白くない。

(面倒くさいな)

 そんな自分の心情にフィグネリアはどこまでも冷静にそう思い、ふっと疑念を覚える。

(母君が亡くなられたとき、クロードはどうやって悲しみを抑えたのだろうか)

 婿に来てすぐに文書で母親の死は階段からの転落事故になっていたが、状況からしてクロードの異母兄に突き落とされた可能性は高い。そしてその一件で彼が亡くしたのは母親だけではなかった。

 クロードの母は臨月間近だった。クロードのことだから、きっと初めての同母の兄弟を心待ちにしていたのに違いないだろうに。

「フィグ?」

 立ち止まっていると、クロードがきょとんとした顔をする。

「なんでもない」

 フィグネリアはクロードの横に並んで歩く。

 そこに踏み込んでいいのかどうかは、まだ分からなかった。


***


 翌日、フィグネリアとクロードは大広間近くの部屋にいた。

 その部屋には大柄な男でもゆったり座れるひとりがけのソファーが円形に並び、それぞれの傍らにはサイドテーブルがある。大臣達が朝議前に話し合ったり、他に来賓とのごく簡単な会談で使う部屋だ。

 フィグネリアはクロードと並んで座り、正面にいる男を見据える。

 ザハール・イサエフ。

 何度か顔を合せたことはあるが、会話はほとんどしたことがない。藍色の瞳は底が読めず肩に力が入る。

「エリシン五等官について、クロード殿下に任せたいということですが、何の信用も実績もない者に関わらせることに不安があります。皇女殿下、そこはご理解いただけますね」

 控えめな口調でありながら、高圧的にザハールが言う。

「ああ。それは十分に分かっている。だがそちらが威圧的に詰問するよりは、クロードの方が話を引き出しやすいだろう。実際、何か話したそうにはしていたらしい」

 フィグネリアも怯まず、しかしながらも対抗することなく、足を組みソファーに背をもたれる。

「なるほど。同じ歳で背格好もよく似ていて、雰囲気も話しかけやすい」

 ザハールは場の雰囲気に呑まれてすっかり萎縮しているクロードに視線を向けて、ふっと笑む。

「しかし皇女殿下、エリシン五等官は今回の不正について重要なことを知っている人物です。おそらく彼が密告者だとこちらは考えています。下手なことはしたくありません」

「それは分かっている。三日。それだけもらえないか。その間に成果をあげられないのなら、そちらに任せる」

 譲歩を見せると、ザハールは少し考える。

「……残念ながら、私はあなたに対する信頼がない。皇女殿下が先帝陛下崩御の後に、内政の均衡を保ったことは評価しています。政務を統括されたこの三月で、以前よりは政務の流れはよくなったこともです」

 ただし、とザハールは続ける。

「腹心であり、最大の手駒であるラピナ公の嫡男が独断で簒奪計略を立てていたことに気づかなかった、というのは酷い手落ちかと思われます。皇女殿下が現在の立場を手に入れるために見て見ぬふりをしていた、というならある程度評価はしますが」

 痛いところを突かれたフィグネリアは動揺を無表情で隠す。

 ラピナ公嫡男、タラスは外から見れば腹心にも見えたかもしれないが、そうではなかった。彼に忠義心がなかったわけではない。自分が彼の忠心を信じていなかったのだ。

「……その落ち度は認める。彼の行状に目が行き届いていなかった私を信頼できないというのも分かる」

 ザハールが藍色の瞳を鈍く光らせる。

「皇女殿下の実像は曖昧すぎるのですよ。現皇帝の影であり、それ以上に先帝陛下の影を引きずりすぎてしまっている。先帝陛下の信奉者は影だけ見て、あなたを大きくとらえる」「だが実際は質の悪い模造品だ」

 卑屈さは滲まさずにフィグネリアは淡々と言う。

「先帝と比べれば、の話ですよ。けして無能ではないでしょう。過大評価させず、過小評価もさせないためには、あなたの実像をはっきりさせる必要がある。そのためには人脈を築き、正しい評価を世間に浸透させなければならない。それができていないところ見ると、どうにも人を扱うのが不得手のようですね」

「ああ。私は周囲を警戒しすて、信頼関係を築くのを怠った。そんな私の人選は信頼できないのはもっともだな」

「ええ。皇女殿下はなぜ、自覚しながらも、最も重要な婚姻という切り札をふいにされたのですか」

 クロードがザハールに視線を向けられて肩をすくめる。

「ふいにしたつもりはない」

「私の目にはそうは見えませんが」

 フィグネリアはすっかり気迫負けしている夫を横目で見て、どう返すべきか迷う。

「私の方がよほどあなたの隣に相応しいと思いませんか?」

 妙な方向に話が飛んで、さすがにフィグネリアも眉根を寄せた。

「……思わん」

「なぜです。私はあなたに欠けている人脈を持っています。九公家の繋がりだけでなく、中立派の一部も。そして、私自身は伯父上の手駒になる気はない。それにあなたの政策には惹かれている。政策を推し進める上で足りない人脈、財源は私が補える」

「ならば私に仕えればいい。重用する」

 そう言い捨てると、ザハールは不敵な笑みを浮かべる。

「これだけのものを持参して、ただの臣下の地位では割に合いませんよ。次期皇帝の夫、それより下では満足いきません」

「その件については交渉決裂、だな。それよりエリシン五等官の件に対しての返答は?」

 いつの間にかザハールに会話の主導権を持って行かれていることに気づいて、フィグネリアは自分の方に引き戻す。

「条件をもうひとつ足させてもらえるのならいいでしょう。私としても、皇女殿下とお話しする機会を無駄にするのは惜しいのです。この不正調査の報告は大臣からではなく、私からこうして一対一であなたに報告するというのは? お互い、有益な時間を過ごせるかと思いますよ」

「いいだろう。予定より早くエリシン五等官の件が終わればそこまでだ」

 条件を呑むと、ザハールは小さく笑った。

「早く、終わればですか。期限内にどうにかできるとは思いませんがね。君からは僕に何も言うことはないのか?」

 ずっと大人しくしていたクロードが水を向けられてまごつく。

「そうやって黙って皇女殿下の影に隠れているだけで、安泰だと思っているのなら、改めた方がいい。君が無能であればあるほど、君を次期皇帝の伴侶という政治的重要な位置に選んだ、皇女殿下の判断能力にますます疑心がもたれる。どれほど皇女殿下が有能でも、それひとつで足を引っ張られかねない。反論は?」

「……俺は、フィグの足を引っ張ったりしません!」

 言葉は強いものの、クロードはすっかりザハールに押されて体が引けている。

「言うだけなら簡単だ。財も、能力も、外交的価値もない君が一体何の価値が示せる?」

 クロードが完全に沈黙した。フィグネリアはうずうずしながら夫の様子を見守る。

 ここで自分が口を挟めば、さらに彼は自分なしでは何もできないと印象づけるだけになってしまう。

 とはいえ容赦がなさ過ぎるザハールの言葉には文句が言いたく仕方がない。

「皇女殿下、私は三日であなたの気を変えてみせますよ。そこでただの置物にしかならない彼よりもずっと、あなたのためになると。では、また後ほど」

 言いたいだけ言って、ザハールが席を立つ。

 扉が閉まってからフィグネリアは体の力を抜いて、ソファーに埋まるようにする。

「……食えん男だな」

「うう。まともに言い返せませんでした……けど、俺が駄目だとフィグまで駄目って言われるなんて考えてませんでした」

 気落ちしているクロードの声は湿っぽい。

「気にするな。奴の言う通り私もまだ未熟だ。お前だけのせいでどうにかなるわけではない」

「未熟って、フィグの未熟と俺の未熟じゃ全然意味が違いますよ。それに、あの人、フィグのことよく分かってないみたいですし。だって、朝議でもちゃんとまとめてるじゃないですか」

 クロードが不満げにするのに、フィグネリアは苦笑する。

「まとめている、か。それも父上のやり方を踏襲しているにすぎん。あの方は本物の天才だった。今の私と同じ十八で反九公家派と中立派をまとめあげて地盤を築き、先々帝の周囲の者も取り込んで改革を進め、その後わずか二年でアドロフ公を味方につけ帝位についた」

 自分がそれだけのことをできるかといえば無理だ。

「父上は自ら動き、広く能力を周囲に示して九公家派もその辣腕に沈黙した。しかし、私はただそのやり方を王宮の中で詰め込まれたにすぎない。それだけでは、人はついてこないだろうな。私は父上の築き上げたものを護りながら、自らのやり方も見つけていかねばならない」

 ごく身近にいた人間はまだ自分のことを知ってくれているが、まだ何も広げられていない。

 執政に説得力を持たせるには、父の受け売りばかりではどうにもならない。

「先帝とほとんど同じことができるだけでも、俺から見たらすごいことですけどね……」

 クロードがソファーの肘掛けに顎を乗せてため息をつく。

「三日しかないのだから、しゃっきりしろ。不正事件と、ルーロッカ様、お前に両方やってもらわねばならない」

 フィグネリアが渇を入れると、クロードはびくりと背を伸ばす。

「分かってます。あの人とフィグがふたりっきりの時間をたくさん作らないように、早く解決します」

 持ち直したクロードはいつになくやる気だった。その方向性は何か間違っている気もするが。

 珍しく対抗心らしきものは持っているようではあるし。

「じゃあ、さっそくニカに会いに行ってきます!」

 クロードがそう言って立ち上がり、忙しない様子で出て行った。

「いい機会といえば、いい機会だな」

 ひとり部屋に残されたフィグネリアはつぶやく。

 側にいると手助けをしているつもりで、自分はクロードに新しい囲いを作ってしまう。

「……義姉上や兄上もこんな気持ちか」

 今さらながらに、何もできずに黙って見守るしかできない兄達の心境を痛感させられる。

「いかん、私は私でやるべきことをせねばな」

 つい考え込んでしまいそうになったフィグネリアは、ザハールがいた席に目を落とす。尊大な男だったが、けして虚仮威しではない。

「人脈づくりとして手始めにかかるにしては難題だが、私も父上に囚われてばかりはいられないか」

 ひとつ深呼吸して、夫が頑張るのだからその分自分も頑張らねばと、フィグネリアは気を引き締めた。

 



 空元気をフィグネリアに見破られる前に小会議室から出たクロードは、広い中央の通路に出た頃には足下ばかりを見ていた。

「財力か……」

 床に敷かれているこの浅黄の絨毯はイサエフ家が献上したものである。イサエフ家の領地ではこの独特の色で染めあげた糸で、上質の織物を生産している。国内に限らず、国外でも人気が高く高値で取引されている。

「人脈とか」

 アーチをくぐって政務室のある方に入ると白い目が向けられる。昨日の乱闘に巻き込まれてしまったことは、大騒ぎになったので皆知っていて、額の方に特に視線を感じる。

「外交的価値。あるはずがないよなな」

 祖国は黴びたパン屑。自分はその中でも半ば忘れられた存在。

「それから能力」

 まずこれだと自信を持てるものなど何ひとつない。フィグネリアは頑張りを褒めてはくれるけれど、ザハールのように不遜なほどの態度をとれるほどの能力があるとは思えない。

「何があるんだろうなあ。俺」

 ニカのいる設事第三政務室の扉の前に立ってクロードはぼやく。

「あ」

 そして扉を叩こうと手を伸ばした時、先に開けられてそこからニカがちょうど出てきた。

「クロード殿下……」

 目を丸くするニカはどことなく顔色が悪い。目の下にもうっすらと隈ができている。

「話があるんだけど、今、具合が悪いのか?」

「……いえ。ただ昨日の乱闘騒ぎで怪我人や謹慎者が出たので人員不足で忙しいだけです。お怪我は?」

「たいしたことない。それより時間があるなら、ゆっくり話したいんだけど無理か?」

 無理と言われても困るのだがと、クロードは不安な顔でニカの表情を窺い、妖精の気配に注視する。やはり昨日と同じで濃くわだかまっている。

 彼に一体なぜそんなに引き寄せられているのだろうか。

「大丈夫です。自分は書類の書き損じが増えていてかえって邪魔になるので追い出されたところなので。応接室にご案内します」

 ニカが自嘲するわけでもなく淡々と言って、応接室まで先導する。そして品のいい風合いのソファーに腰を下ろして、クロードはニカと向かい合う。

 どことなく空気が重たく話を切り出しにい。

「自分に話って何ですか」

 戸惑っているとニカから先に口を開いてくれて、助かったとクロードは思う。

「えっと、ジトワ二等官が襲われた朝、どうして呼び出されたか心当たりはない、のかなっていうのを訊きたいんだけど」

 ニカが両膝の上に置いてある拳をきつく握りしめる。嘘は得意そうに見えないが、そのかわり頑固そうだ。

「別に、悪いことしたわけじゃないんだろ。むしろいいことして、怒られそうになったとかだろ」

 不正の密告のことをぼかして反応を探る。ニカの目は落ち着きなく揺れている。だがその口は固く閉ざされたままだ。

「じゃあ、ジトワ二等官とは仲悪かったわけじゃないよな。確か二代前に、ジトワ伯爵家の推挙でエリシン男爵家は、跡継ぎがいなくなった家の領地を預けられたんだよな。それで仕官するだけの領地を得られたんだよな」

 クロードは昨日のうちに学んだことを再確認する。

「……仲がいいとか、悪いとかそういう関係ではありません。ご存じかと思いますが、エリシン家の財政事情はよくありません。ジトワ家の支援を得てやっとの状況です」

 確かに資料を読んだ限り赤字すれすれだったのは覚えている。フィグネリアの眉間の皺の厳しさの方が印象に強いが。

「あんまり赤字が続くと、領地没収になるんだっけ?」

 厳正な調査と審議が行われた結果、土地の事情よりも領主の采配の酷さが目立てばそうなる決まりがあったはずだ。

「祖父の代で傾いてしまってそれから立て直せないままなんです。父が四等官から五等官に降格されて、俺が仕官する歳になるまでの間に代りに仕官していた叔父も五等官留まりで、財政を補填するだけの俸禄も貰えないままでした」

 官吏の等級は世襲され、実力があればさらに上に行けるが、なければ下に落とされる。そして次の世代にそのまま引き継がれる。だから、ニカは五等官なのだ。

「ううんっと、ジトワ家になんかあると、エリシン家はもたないのか。でも、ジトワ家には何の得が……あ」

 そこだ。その力関係を利用されて不正の手伝いをさせられている可能性は高い。

「……父が降格され叔父が五等官留まりだったのは、ジトワ家に功績を取られたり、不手際の責任を被せられたりしていたせいです。財政援助を申し出て、返せる当てもなく、ジトワ家は父の頃は三等官だったのですが、今では二等官です」

「それは、完全に行き詰まってるな……」

 逼迫して泣きついたはいいが、借金の返済は手柄の譲渡や責任被りで返し、そうすると出世はできずに自力で財政の補填はできず、また借りをつくり負の連鎖が続いてるのだ。

(でもなんで密告なんて。結局自分の立場も危うくなるよなあ)

 理由は見えないものの、こうなると口を割らせるのは難しそうだった。

「だから、呼ばれたら行かなくてはならないんです。理由が分からなくても」

 それで心当たりがないということに筋は通るが嘘だろう。

「そうか。うーんと、襲った相手とかは見たりしてないんだよなあ」

「自分がジトワ二等官をインク瓶で殴り倒すのはできません」

「それは分かってるけど……俺より腕力あったとしても無理だよな」

 クロードはニカの細そうな腕を見る。貴族は所領の大きさ関係なく十歳頃から十五まで帝都の軍に入隊するので、彼もさすがに自分よりは腕力がありそうだが。

「力もそれほど強くありません。本当に何も知らないんです」

 もう帰りたそうにしているニカに、クロードは困る。

 こんな調子で三日が過ぎてしまうのは避けたい。フィグネリアが自分にできると任せてくれたのだ。それにあの必要以上に偉そうなザハールに、彼女が責められてしまう。

「よし、別の話しよう。話題が尽きて本題話す気になるまでとことん話し合うぞ」

「なんでそうなるんですか」

「だってそれ以外に俺、できないし。ほら、命令したって言う気ないだろ。そもそもフィグとかザハールみたいに、命令口調とか絶対格好つかないし。だからって、諦めるわけにもいからないから、引き延ばし作戦だ」

「……言ってしまったら、作戦にはなりません」

 ニカの目は非常に冷たい。

「でも、作戦に乗ってくれないと俺、困るんだけどな……」

 語尾を徐々に弱らせながら、クロードはうなだれる。

「…………もう好きにして下さい」

 その情けない様子に、ニカがぐったりした声で折れたのだった。


***


「フィグ、何か仕事ないですか?」

 中央宮から離れた小宮で政務に追われていたフィグネリアは、戻って来たクロードの言葉が一瞬理解出来なかった。

「……エリシン五等官の件はどうした?」

「えっとですね、いろいろあって。じっくり話そうということになりました。それなら狭い応接室で向き合ってるより、広めの所で何かしながらの方がいいかなと」

 クロードが廊下を視線で示す。フィグネリアは席をたってそちらを覗き込むと、ディシベリアの人間としては小柄な少年が廊下で緊張した面持ちで直立している。

「連れてきたのか。まあ、別に構わんが資料整理ぐらいしかさせられないがいいか?」

「大丈夫です。重要な書類は触らせられないのは分かってます。俺、書庫の方にいますから」

 クロードがそこで一度言葉を切って、声を潜める。

「それと、中央宮から離れるとニカにまとわりついてた妖精達も一緒に離れていきました」

「どういうことだ?」

「まだ分からないんですけど、ルーロッカ様が妖精達に命令してくっつかせてたのかもしれないです。笛も吹いて様子見してみます。何もない限り、穏やかな曲調で吹いて、何かあったときはそれ以外にします」

「そうか。これから私もザハールと少し話し合うことになった。妖精に関しては気をつけておいてくれ」

 ついっさき、先にいくつか相談しておきたいことがあると、ザハールからの伝言があったのだ。

「ここに呼んだんですか?」

 クロードは不服そうだった。

「問題はないだろう。いちいち表に出て行くのは煩わしい」

「……何か困ったことがあったら呼んでくださいね」

 それを言いたいのは自分の方なのだが。

 フィグネリアはそう思いながら、まだ納得いっていない様子で部屋を出て行くクロードを見送り、政務に戻る。

 笛の音が聞こえてきたのはそれから少し経ってからだった。

 柔らかい音だ。ふわふわとしていて、聞いている内に羽毛の詰め込まれたクッションに埋もれている気分になる。

「皇女殿下」

 すっかり音に耳を奪われていたフィグネリアは呼ばれて、いつの間にか扉が開いていたことに気づく。衛兵に挟まれてザハールが立っていた。

「すまない、気づかなかった。すぐに隣に」

「いえ、ここでも結構ですよ。そちらの台に資料を広げてもよろしいですか?」

 ザハールが持っている紙筒と紙束をフィグネリアに見せて、部屋の脇にある台を示す。かまわないと返答すると、彼は紙筒を広げてあらかじめ台の上のあった重石をその四隅に乗せる。

「……なるほど。これは、面倒だな」

 台の側に移動したフィグネリアは眉根を寄せてつぶやく。

 紙筒の中身は不正があったとされる、橋や舗装路の修復などの公共工事が行われた場所に印がされた地図だった。帝国西部のあちこちに印があり、九公家縁者の領地も含まれている。

 昨日の報告ではまだ上がっていなかったものだ。

「残念ながらガルシン公家の縁者もいますよ。工費の水増しなどというせせこましいことをやる身内がいて残念です」

「せせこましいが、これは合せると相当な額になるな。……起点はこれだが、枝葉を伸ばしているのはこちらか。東の方も探りを入れた方がよさそうだな」

 フィグネリアは各領主の関係と不正事件の順序を頭の中で整理しつつ、さらに関わりがありそうで、ここ近年の内に補修工事が行われた場所を指で示す。

「そうですね。手繰っていけばまだ広がりそうです。しかしこれほど拡大するまでに、気づかなかったということは、監査に多大な問題があるのでしょう」

 隣に立っているザハールの言葉には棘があった。

「内でいがみ合うことばかりに目が行きすぎたのだな。そして、私は監査の体制を維持し切れていなかった」

 父が築いたものは、その死によっていくつも崩れ始めている。まだ盤石でないのは父自身分かっていた。安定させるのに少なくとも後、十年はかかるだろうと言っていたわずか一年後に、謀殺されてしまった。

「先帝陛下はご自分の死期を見誤られた。そして肝心の嫡男はあの通りで帝位に即かれてからは、ことごとく運に見放されていますね」

 そればかりは父にはどうしようもなかったことだ。

 大神官長に毒を盛られるなど誰にも予期できない。産まれてくる子供のことなどなおさらだ。

「それは、先帝陛下と皇帝陛下に対する不敬だ。口を慎め」

 敬愛する父と兄を侮辱することは許しがたく、フィグネリアは声を厳しくする。

「事実でしょう。皇女殿下を授かったことが唯一の救いでしたね。先帝陛下はいずれ、あなたに帝位を継がせる気だったのでは? アドロフ公もご高齢です。御嫡男は彼の方ほどの傑物でもなく、退位する頃にはアドロフ公も代替わりし九公家も完全に抑えられ、皇太子を帝位につける必要はなくなるとお考えだったと思っていたのですが」

 フィグネリアは沈黙する。

 そう思わなかったわけではない。アドロフ公の孫である兄は、九公家との均衡を図るための後継者だ。九公家さえ抑えれば何も問題はない。

 実際、父が執政の術を直接教えるのは自分にだけだった。

 イーゴルには基本的なことだけ教え、後は迷ったときにはまずフィグネリアに相談する、ひとりでけして決断はしない。大臣達や諸侯とフィグネリアで意見が割れることがあれば、妹の裁量を信じろと言い聞かせていた。

 実に素直にイーゴルはそれを呑みこんでいた。

 そして自分には、常に正しい判断をしなければならない。お前の過ちひとつが国を傾ける結果になり得るといつも言っていた。

 だが、自分にはずっと兄の影であれとも言っていた。父の真意がどこにあったかは分からない。

「お心当たりはあるようですね。いずれにせよ、崩御が早すぎた。せめてあなたの縁組みだけでも決めておかればよかったものを」

「またそこに話が戻るのか」

 台の上の資料を手に取り、フィグネリアはため息をつく。そして不正事件の詳細がまとめられたものを見て眉間に縦皺を刻んだ。

「ジトワ二等官が関わっているものが三分の一、か。最初の頃にも関わっているのは間違いなさそうだな。本人からの証言はまだとれないのか」

「残念ながら、負傷した頭が痛い、怪我のせいで記憶が混乱していると言い逃れされてましてなんとも」

「呆れた男だな。やはりエリシン五等官から詳細を聞き出すしかないな」

「それもなかなか難しいと思いますよ」

 ジトワ家とエリシン家の関係を聞かされたフィグネリアは額を抑える。

「小狡いことばかりしているな、本当に。しかしならばなぜ、密告など」

「さあ。そのあたりはクロード殿下がなんとかしてくださるのでしょう。何か進展はありましたか? 呑気に笛など吹いておられたようですが」

 ザハールが小馬鹿にして言って、一歩距離を近づけてくる。

「今、資料整理をしながら書庫で話し合っているところだ。そのうちなにか聞き出すだろう」

 フィグネリアは逃げることはせずにザハールを見上げる。挑む視線は難なく受け止められてしまうが、目はそらさない。

 口は余計なことを言わないようにしっかり閉じる。

(抑えろ。そのうち、必ずクロードが成果をあげて自分でこの男を黙らせる)

 ここ最近溜まりに溜まっている鬱憤は、そろそろ限界にきそうだが忍耐あるのみだ。

「あなたがそこまで自信が持てる理由が分かりませんね。私の方が格段に上手くやれる気がしますよ」

「だが、聞き出せなかったのだろう」

 薄く笑うと、もう一歩踏み込まれる。

「できないわけではありませんよ。言ったでしょう。あなたと話し合う時間が欲しいと」

 ザハールの視線は地図に移され、ガルシン公家の縁者の領地を長い指で示す。

「もし、エリシン五等官の証言が引き出せなくても、道はすでに幾通りも用意しています。一番楽なのは、身内からですね。昔から面倒事の火種を抱えているし、切り捨てるのにはちょうどいい」

 次に、と西の端を示す。

「この石材の産地辺りには伝手があります。資材の動きはイサエフ家で調べた方が早いのですでに手は打っています。明日か明後日には報告が来るはずです。……この件が終わったら今後のために監査役に推挙したいと考えていますが、いかがですか?」

「監査の人選は一度見直すつもりだった。結果と他の身辺の調査に問題がなければ考える」

 フィグネリアがそう言うと、ザハールは上辺だけの礼を述べて他の案もいくつか出す。

 口を挟めることは何もなかった。

 肩がぶつかりそうなほど近くにいたザハールがフィグネリアから身を離す。

 しかし彼の視線はフィグネリアに再び合せられる。探るでもなく、挑むでもな、誘い込むような隙をつくっている。

 これは一体、何を狙っているのか。

 暖炉の薪が爆ぜる音が部屋に大きく響く。

「……噂はまるきりのでたらめですか。残念だ」

 しばらくしてがっかりした顔で、ザハールがため息をついた。

「何の噂だ」

 嫌なものを感じてフィグネリアは声音を低くする。

「いえ。ラピナ公家派の方々が皇女殿下に若君が誑かされ散々利用したあげくに捨てられたと嘆いているのですよ。そしてかわりにあのよく分からないハンライダの公子を籠絡して、何か企んでいるなどとも。そこから発展して皇女殿下は利用できそうな男がいれば、この人気のない執務室に引き込んで毒牙にかける悪女だという面白い噂が一部で」

 あまりにも予測の範疇外過ぎて、頭がついていかない。

 そんな根も葉もない噂が出回っているなど、想像もしていなかった。自分の耳にまでは入っていないので、そこまで広まっていないはずだ。はずであってほしい。

 石になってしまっているフィグネリアに、ザハールが楽しげに笑い声を漏らす。

「ふたりきりになれば、何か仕掛けてこられるかと思いましたが、そのご様子では無理そうですね。期待していたのですが、実に残念です」

 再び近づいてこられてさすがにフィグネリアは後退った。

「く、くだらん噂を真に受けるな!」

 うっかり動揺が表に出てしまって、自分への怒りで頬に血が上る。

「そんな噂でも、真に受ける人間は大勢いるのですよ。同僚達の間でも私があなたに誘われると賭けた方が多かったですから。そして多大な声援を受けてここまで来たわけです」

「王宮内で賭け事をする奴があるか」

「この所忙しいですから、それぐらいの楽しみはないと。ちなみに私は誘われない方に賭けました。勝っても負けても損はしない」

 嫌味なほど秀麗な笑顔でザハールはしかし、とつけ加える。

「この賭けは負けた方が嬉しかったですね」

 完全に面白がられている。

 これは何を言ってもただ楽しまれるだけで反撃のしようがなかった。

「こういうときの返し方は、私が思わず揺れてしまうほどに迫るのが常套ですよ」

 さらに心情を見透かされて、下がることも進むこともできない。フィグネリアは負けを認めざるをえなかった。

 たまらなく悔しい。ここまでやり込められるのは久しぶりで、ふつふつと闘争心がわき上がってくる。

 そして意地でも自分の側に引きずり込んでやると決意を固くする。

 なんのかんのと言いつつ、ディシベリアの血は濃いフィグネリアだった。


***


 狭い小宮の中で最も広い書庫は日当たりが悪く寒い。火を入れたばかりの暖炉の前を陣取り笛を吹いたクロードは、すぐ側のテーブルで唖然としているニカを見る。

 彼の周りにはもう妖精の気配はない。むしろ自分の方に集まってきているぐらいだから、問題はなさそうだ。

「ニカ、笛の音に何か違和感とかないか?」

 念のために確認してみると、ニカはまだ目を見開いたままで首を横に振る。

「いえ。素晴らしいと思います。人間なにかひとつぐらいは取り柄があるものだと……」

 本音がこぼれ落ちているのにも、気づいていないらしい。それはまあいいかと、クロードは暖炉に一番近い席に座る。

「よし、話するか。うーんと、話題、話題……何かないか?」

「だからなぜいちいち自分に聞くんですか、あなたは」

 心なしかニカの対応が厳しくなっている気がする。

「よく考えたら、俺、あんまり人間と会話しとことないんだよな。あ、吏事関連はそっちに積んで」

 クロードはテーブルの上の書類に手を伸ばし、ニカに指示する。

「その割にはよく喋りますよね。これはこちらでいいですか」

「うん、いい。よく喋るっていうか、考えてること全部口に出してるのが正しいな。フィグにたまに怒られる。でも可愛いって言うのはいいよな。本気で怒ってるフィグは恐いけど、そういう時に怒るフィグは可愛いんだよな」

「……お幸せそうで何よりです。その話題には乗れません」

「ニカはまだそういう相手いないのか? 帝都には貴族のお屋敷もいっぱいあるし、そこに住んでる令嬢とか」

 資料を整理しつつ訊ねると、ニカの表情が暗くなる。

「官舎住まいで馬を飼う余裕すらないのに、帝都に屋敷を構えられるほどの家との付き合いなんてもてません」

 何か触れてはいけない部分に触れてしまったらしい。

「そっか。なんていうか、大変だよな。うう。すでに話題がない。そうだ、俺に聞きたいこととかないか?」

「ありません」

 ニカはてきぱきと資料を分けながら、きっぱりと言った。

「ないのか。ニカは仕事できそうに見えるけど、なんでこの頃、間違いが増えたんだ? というか、今もちゃんとできてるし」

 話す方に集中してしまっている自分の手元の書類はさほど減っていないが、ニカの方はあっという間に減っている。

「……資料整理は慣れていますから。政務室は、騒がしくて集中できないんです」

「喧嘩が多いから?」

 ニカの手が止まった。

「そうですね。あと三月もすれば昇格試験なのにこんな状態で……」

 痛々しいほどに、彼の声には焦燥があった。

「ニカも、試験受けるのか?」

「受ける、つもりでした。そのために、蝋燭代だけは惜しみませんでした。ですが、ジトワ二等官からの推挙がなければ受験資格は得られません」

 官吏の昇格は功績が上官に認められ、その上で試験を受けてから昇格が決まる。いろいろとニカは、ジトワ二等官に弱みを握られているらしい。

「もう無理なんです。出仕できなくなったとしても、普通なら軍に行けば帝都に残れるけど、俺はこんな体格だし武術は得意ではないからそれもできません」

 断定しながらも、ニカの声にはそんなのは嫌だという強い思いが滲んでいる。

「ニカは、どうして帝都に残りたいんだ?」

 クロードも手を止めて訊ねる。

「最初はただ、領地を護って家も建て直したかったんです。でも、たったひとつだけ年上で、でも俺よりずっと小さなフィグネリア皇女殿下が九公家を敵に回しながらも先帝陛下の遺志を引き継いでるって聞いて、家のためだけじゃなくて、できるだけお側近くで仕えたいと思うようになったんです」

 ニカの瞳に宿る光が強くなる。

 先帝崩御の時、フィグネリアはまだ十三。今よりも背が小さくて、頼りなさげな体でいながら、今と変わらず真っ直ぐに背を伸ばして毅然と前を見ていたんだと、クロードには容易に想像が出来た。

 彼女の働きが人を介するうちに装飾も施されれ、同年代には強い憧れをもたらしていたのだろう。

「そっか。なんかいいなあ。俺、子供の時そういのうの全然なかったな」

 大きすぎる期待はフィグネリアには負担だと知っている。しかしそれは別として、きらきらとしたものが詰まっている、ニカの言葉や瞳が無性に羨ましくなる。

 子供の頃は、今日という一日が楽しければそれだけでよかった。期待なんてしても意味がないし、先のために何かすることは考えたことがなかった。

「クロード殿下は、その、なぜ公子という立場にありながら、軟禁同然の待遇に甘んじられていたのですか? あ、いや、すいません、答えたくない、ですよね」

 ニカがしまったという顔で歯切れ悪く言葉を彷徨わせて、クロードは目を細めて表情を和らげる。

「不満がなかったから、かな。今でもなんでそんな悪いことみたいに言われるのか、いまいち理解出来ないんだよな。母上は元々侍女だったから、身の周りには昔から最低限の人しかいなかったし。あの塔の中にいれば、嫌なことなんてなんにもなかった」

 塔の外に出なければ誰にも詰られない、兄達にも小突かれたりしない。

 妖精達がいつも側にいて、じゃれついてきていたからそんなに寂しくもない。たまに、式典などで外に出て嫌なことがあっても、妖精達に愚痴を言うとそれなりにすっきりした。

「あ、そういえばいつからかな。ずっと昔はそれなりに怒ったりはしたけど、いつの間にか全然気にならなくなったんだよなあ」

 フィグネリアに怒れと言われたけれど、難しい。なんであんなに腹が立ったのか、まったく思い出せない。

「……最初は抑えてたのではないですか?」

「ああ、それもあるのか」

 嫌なことは耳にも目にも入れず、母のことを思い出したり、妖精達と遊んで気を逸らす。いつの間にか、意識しなくてもいつもその状態でいられるようになった。

「おかげで、毎日楽しかったけどな」

「そういう楽しいはあまりよくないと思います……」

 ニカが手元にある最後の書類を所定の場所に置く。

「よくないのか。フィグもそんなこと言ってたな。あ、手が空いたんならこっち頼んでいいか? 俺、同時にふたつのことするの苦手なんだよな」

 クロードは自分の書類を半分ニカに渡す。

(フィグのことだといろんな気持ちでぐちゃぐちゃになるけど、それは悪くない気はするか)

 落ち込んで、悔しくなって、哀しくなったり、怒りもあってすごく我が儘で。

 あまり経験したことのない自分の心の煩雑な色模様に戸惑うけれど、いけないことという感覚はない。

「クロード殿下? 申し訳ありません、やはり余計なことを……」

 自分の手元をじっと見つめていたクロードは、ニカに謝られて顔を上げる。

「……ん、気にしてないからいいって言っただろ。ニカは人がいいんだな。こういう俺のためにザハールに腹立ててくれたり、嫌なこと言ってないか気にしてくれたり、話も聞いてくれるし。そうだ。乱闘騒ぎの時も俺のこと助けようとしてくれたよな」

「それだけで人がいいと判断する殿下の方が、人がいいと思いますよ」

 ニカが悲しそうに眉尻を下げる。

「それだけのことなのかな。俺はそういう人間はあんまり知らないけど」

「ほとんど人と話したことがないのなら当然でしょう。……あなたは、本来ならもっと敬われるべきお生まれなのです。もっと尊大でもいいと思います」

「でも、身分が高いってだけで、偉そうにしてもなあ。いっぱい努力してるニカの方が俺よりずっと偉いと思うし。別に敬語とかなしで普通に話してくれた方が落ち着く」

 ずっと嫌なことからは全部逃げてきた自分は、ニカに対して威張れることはない。

「……自分はそんないい人間ではありません。ただの臆病で卑怯な人間です」

 自分自身に苛立ち、蔑むニカの姿は見ていて気が重たくなる。

(なんだかなあ。すごく真面目で思い詰めすぎる性格っぽいし、家同士の関係があっても、悪いことしそうにないんだけどなあ)

 不正に関わっていると暗に仄めかしているようでもあるが、クロードはそうではない気がした。

「ニカ、手を貸して欲しいこととかあるんなら聞くだけは聞くから。……実際に、俺ができることってないかもしれないけど」

 クロードは不正事件を解決したい気持ちよりも、ニカが苦しんでいるのをどうにかしたくて言ってみたもののすぐに後悔した。

 解決できる見込みもないのに話してくれるはずもない。

「……ごめん、詐欺っぽいよな。料金はもらうけど品物は渡せるかどうかわかんない、みたいでさ」

「その例えはどうかと思われますが……」

 苦笑するニカはさっきより少しは表情が柔らかい。だが、それからまた沈黙が長引いた。

「助けて欲しいとは思ってはいません。助けられたいわけじゃないんです……」

 そしてニカが罪悪感をちらつかせながら、そう言った。

 あまり悠長なことは言っていられないものの、無理に聞き出す術も気持ちもないクロードは話題を変えることにする。

「……ニカは、勉強何が得意なんだ? 俺は史学が好きだなあ」

 問いかけると、すっかり瞳から生気をなくしているニカが、目を合わしづらそうにしてからぽつりと答える。

「……算術です。史学はあまり得意ではありません」

 それからクロードはニカと、時々つっかえながらもとめどなく話す。帝都での暮らしだとか、故郷の馬の話や父親との思い出。他にも政務官としての仕事の話。

 一個、一個がニカにとって大事なものだというのは、語るときに瞳に活力が戻る姿で分かる。

(全部、なくすかもしれないのに、不正の密告なんてどうしてしたんだろう。助けて欲しくないってどういう意味かな)

 ニカには自分にはないものがたくさんある。それを全部投げ打つだけの理由は思い当たらなかった。

 

***


 日暮れ頃になってニカを中央宮の中央通りへと送り届けた後、クロードは小宮には行かずに寝室に戻る。中ではフィグネリアが先にテーブルについていた。

「今日は口論が起きなかったそうだ。エリシン五等官がルーロッカ様と何らかの関係はありそうだな。不正事件の方はどうだ?」

「そっちはまだ、駄目です。いろいろ話したんですけど、肝心のことは全然喋ってくれなくて」

 ほとんど役に立てなくて気落ちしているクロードは、フィグネリアの隣に腰を下ろす。

「でも、フィグが可愛いっていっぱい話せてちょっと楽しかったかも」

「待て、何の話をしていたんだ。これ以上、妙な噂が広がる真似をするな」

 クロードは厳しいフィグネリアの声にびくつきながら、小首を傾げる。

「妙な噂ってなんですか?」

 フィグネリアは何も答えずに頬を染めて顔を背けた。可愛いのだが、ものすごく気になる反応である。

 顔を覗き込むと、彼女はさらに視線を別に持っていってごにょごにょと、ザハールから聞かされた噂を話した。

「なんですか、その無駄に夢と浪漫が詰まった噂は。実際は、執務室じゃ俺にだって何にもさせてくれないのに。というか、変なことされてませんよね」

 クロードは真剣にフィグネリアに確認する。

 駄目だと言われている自分ですら側にいると触れたくなるのに、そんな噂を聞いたなら躊躇わずにあれこれしたくなるはずだ。

 例え髪の一筋だろうと触れたのなら許せない。

「されるか、馬鹿め。だが、下らん噂に動じてしまったことは確かだ。これ以上負けはせん。いいか、何が何でもあの男を引き込むぞ。そのためにはお前の役割はことさら重要だ」

 闘志を燃やすフィグネリアは先ほどと打って変わって勇ましいものだった。

「別に、引き込まなくてもいいと思うんですけど。まあ、言われなくても、もちろんやってみせますよ」

 そんな妻の勢いに引っ張られて、クロードは力強くうなずく。

「よし、その調子だ。……それで、エリシン五等官に私のことをなんと話したんだ」

「普通に、フィグは可愛いって言っただけですよ。そうだ、ニカはフィグに憧れてるから、王宮で仕官し続けたいって言ってましたよ」

 そう言うと、フィグネリアは苦い笑みをこぼした。

「憧れ、か。そう思ってもらえるほど、できたた人間ではないがな。しかし、ならばなおさら密告が腑に落ちないな。ザハールの見当違いでもないだろうが」

「うーん、なんか知ってそうでしたよ。えっと、ジトワ家とエリシン家の関係は?」

 クロードの質問にフィグネリアがザハールから聞いたと返答する。

「密告してニカになんの得があるかっていうと、不正に関わってたなら減刑とジトワ家と縁を切ることが目的になりますよね。関わってなかった単純に功績になって、やっぱりジトワ家と縁を切れる」

「だが、エリシン家の財政は補填してもらってあれなら、繋がりが切れた途端に破綻する。昇格できたとしても厳しい。それに、そんな手段でしか財政を維持できないのなら、領地没収もやむをえん」

 財政管理については得に手厳しいフィグネリアが断言したということは、エリシン家の財政の立て直しは不可能に近いということだろう。

 しかし、割り切れないものがある。

「こういうやりかたで昇格する人は罰したりしないんですか?」

「試験に通れば認める。他家の財政を助けられるほどの余裕があるということは、それだけ財政管理を上手くやっているということだ。実際、ジトワ家の納税額は大きい。こちらとしてはきちんと、納めてくれれば文句は言わん。しかしジトワ家の場合は、工費の水増しで得た利だろうから別だがな」

「うぐ。でも、最初に上官に気にいられないと、試験も受けさせてもらえないんですよね。それを盾に取られたら、嫌なことでも従わないと」

「そういった場合は吏事に訴えればいい。律時と吏事で審議され上官は相応の罰を課せられる。エリシン家の場合は素直に赤字を申請して、領地を縮小すれば立て直しは出来たはずだ」

 淡々とフィグネリアが言うのに、クロードは夢を語るニカを思い出す。

「フィグのこと尊敬して憧れて頑張ってるのに……」

 彼女の理屈は分かるけれど、心情としては呑み込みきれない。

「そうだな。今の官吏の登用制度はもう古い。領地の大きさに関わらず、能力のある者を登用する仕組みを新たに作らねばならない」

 フィグネリアが最後に告げた言葉にクロードは、目も口も開く。

「それ、すごいです。そしたら、ニカもまだ機会があるんですね」

「そう感心するな。これは父上の案だ。昇格の制度の不正を減らす整備に手間取られて、まだそこまでは手をつけられてはいなかった。これから、だったのだがな。それにだ、長年の慣習を壊すのは容易くはない。何年もかかかるだろうな。父上のやり残されたことも、少しずつやっていかねばならないが、難しいな」

 そう語るフィグネリアは、たったひとつしか違わないのに、ずいぶん大人に見えた。

「なんだか、今、フィグに憧れるニカの気持ちがよく分かった気がします」

「……お前にも手伝ってもらうからな。とはいえ、私達だけにはどうにもならん。そのためにはザハールを引き入れるのは必須だ」

 話題が戻ってきて、クロードはしょうがなくうなずく。

「俺がもうちょっといろいろ持ってたらなあとは思うんですけどね」

 フィグネリアのやろうとしていることは自分にとっても魅力的で、できるだけ力になりたい。それなのにやれることは限られていてもどかしい。

「どちらにしろ、全部は手に負いきれない。できることをそれぞれがすればいいと、教えてくれたのはお前だろう」

 フィグネリアの声音はとても優しかった。

「……ただ私は、そうだな。少しお前に頼りすぎかもしないな」

「そうですか?」

 フィグネリアはいろんなことをひとりでこなしてしまう。

 自分ができていることといえば、彼女が抱えているたくさんの荷物を落ちないように片時も目を離さないでいるくらいしかなく、ぐらつきそうになったら支える程度だ。

 本当は半分ぐらいは肩代わりしたい。

「ああ。せっかくお前にはお前にしかできないことがもっとたくさんあるだろうに、私ばかりが独占してはもったいない」

「俺は別にそれでもいいんですよ。フィグが全部でいいんです」

 フィグネリアが困り顔で微笑んで、クロードは何が駄目なのかと小首を傾げる。

「だが、さっきはエリシン五等官のことも気にかけていただろう。視野が広がった方が得られるものが増えるはずだ」

 確かにニカとたくさん話をして、それまで気にならなかったこともちょっと見えた気もする。

「分かりそうで、まだよくは分からないです」

 これまで全部、何もできない自分が頑張れたのはフィグネリアのためだからだ。

 役に立たない。何も持っていない。分不相応。

 いくら外から言われたって、フィグネリアひとりが認めてくれればそれで満足だった。だが、今はそれでは駄目だとザハールに言われてしまっている。

 もっといろんな人に認めてもうのに、必要なのはそういうことなのだろうか。

「まあ、その内分かってくれればいい」

 よしよしとうなずいて、フィグネリアが微笑んだ後にふと真顔になる。

「……本当は、私だってお前を独占したままでいたいのだがな」

 つぶやかれた言葉は思わず漏らしてしまったらしく、フィグネリアは視線のやり場に困っていた。

 クロードは手を伸ばしてフィグネリアの頬を両手でそっと包むように挟んで、鼻先が触れそうなほど顔を近づけて、視線の逃げ場を奪う。

「俺がフィグのことひとじめしたくても、義兄上と義姉上やリリアさん夫婦みたいにフィグのこと大事なにしてる人、ニカみたいにフィグを目標にする人、他にもフィグのこと必要としてる人がいっぱいいて無理だけど、俺にはフィグだけだし、独占されちゃってもいいですよ」

「少なくとも、家族はお前のことを大切にしているぞ。これから、他にもお前を必要とする人間は必ずできてくるはずだ。だから、私もお前は独占できん」

 少しむくれた口調でフィグネリアが言う。

「……そうですね、義兄上達は俺のこともちゃんと心配してくれてましたね」

 大した怪我でもないのに様子を見に来てくれた義兄夫婦を思い出し、胸の奥にまた幸せを見つけた気分になる。

「そうだ。私達はお互いを独占しあうのは駄目だ」

 言葉とは裏腹に、今のお互い見つめる先は相手だけだった。

「でも、ちょっとぐらいの間なら許されませんか?」

 返事を聞く前に、クロードは桜桃色の唇を啄む。その唇が笑みに変わって、幾度となくふたりは口づけを交わす。

 氷に似た薄青の瞳が熱に溶けるのが、綺麗だった。

 今この瞬間は、フィグネリアは自分だけを見ている。でも、視線だけでは物足りなくなる。

「愛してます」

 クロードは冷たい石のピアスがついた耳朶に唇を寄せて囁き、甘噛みする。

 五感全部、ひとりじめできるのは自分だけの特権だ。

 そうして、自分も同じように五感全部、彼女で満たされたい。

 首筋に唇を移すと、甘すぎない清涼な香りが鼻腔をくすぐり、耳の中に甘い吐息が転がり落ちてきた。

「っ、こら、待て。まだ日も暮れたばかりなのに……」

 形ばかりとすぐ分かる弱い抵抗に、少し体を離してもまだ間近にある豊かな胸元の留め具を外しにかかる。

「だから、せめてベッドまでは我慢しろ」

「……ベッドまでですね」

 言質を取ったクロードがそう言うと、フィグネリアはむくれる素振りを見せながらも首は縦に振ってくれていた。


***


 翌日もニカと書庫で話すことになったクロードは、小宮に繋がる柱廊の途中で足を止めた。

 冬になって雪よけのために両脇には、木製の帳が下ろされている日が多いが、今日は解放されて雪景色が楽しめる。奥の森の側には、親子とおぼしきリスが見えた。

「この国のリスってもこもこしてるよなあ。俺の所のリスってもっとこうしゅっとしてて、小さいんだよな」

 薄茶色の毛玉のようなリスを眺めるクロードは、ニカに両手を狭い幅を示して上から下に移動させる。

「夏毛の時は細いですよ……あれかな、この間、王宮で見たリスって」

「王宮にリスがいたのか?」

「はい。四日前、五日前だったか、よく覚えてないんですけれど入り込んできてて、外に逃がそうと思ったけど捕まえられなかったんです」

「外より中の方が暖かいからまだいついてるかもな。俺もここすごく寒くて苦手。……それにしても、一回ぐらい触ってみたいな」

 うずうずとクロードは触り心地よさげな毛皮を纏ったリスを見つめる。警戒心が強いらしく、近づくとすぐに逃げてしまうのだ。

 そんなクロードの視線に反応したのは雪の妖精達だった。風の妖精達みたいに大暴れすることはないが、笛を吹いてくれるの、という期待をひしひしと感じる。

「寒いから、お前ら便乗するな! 後で、後でな」

 そして風の妖精達がそこに乗りかかって冷たい風を吹かせて、クロードは身を縮込ませた。

「どうしたんですか?」

 端から見ていると明らかに不審なクロードの様子に、ニカが一歩退く。

「ごめん。気にしないでいいから、忘れといてくれ」

「はあ。……あの、幻聴が聞こえるとかそういうのではありませんよね」

「? いや、そういうのじゃない。俺は大丈夫だから。本当に大丈夫」

 それならいいがと心底心配そうなニカに、クロードはひっかかりを覚える。

 あまりにも真剣すぎるのと、顔色も心なしか悪くなっている気がする。

「君、本当にやる気があるのか?」

 考え込んでいるとそんな声がかかった。振り返ってみれば、ザハールが白けた顔で立っていた。

「ありますよ。今から話すんです」

 むっとしながら、クロードは返した。

「話す、ね。エリシン五等官、君もこんなことで時間稼ぎしても無駄だと、わかっているんだろう。どう転んでもエリシン男爵家は終わりだ。そろそろ現実を認めて、全てここで言ってしまえばいい」

 ザハールに見下ろされたニカが首をすくめる。

「強情だな。まあいい。明日にそこの彼が何も聞き出せないなら、僕と一対一で話し合ってもらう。覚悟しておくように」

「なりません。ニカ、行くぞ。あ、それと俺の奥さんに絶対変なことしないでしないでくださいね」

 クロードは目をまん丸くしているニカを呼んで、早足で歩き出す。しかし、すぐにザハールに追いつかれるどころか追い越されてしまう。

「君、足も遅いんだな」

 たどりついた小宮の廊下を長い足で優雅に歩きながら、振り返ってザハールが微笑んだ。

「性格悪いなあ……」

 清々しいまでに嫌味たっぷりのザハールの後ろ姿に、クロードはそうぼやいて書庫の方へと向かう。

「クロード殿下、今日は珍しいですね」

 ニカに言われてクロードは何がだろうと首を傾げる。

「いつもは何も返さずに寛容にされているのに」

「あ、そうだ。今、俺、怒ってる。なんでだろ?」

 まだザハールの言葉に対する苛々が胸に残っていて、クロードはその正体を探るかのように自分の胸に触れてみる。

 馬鹿にされたからだろうか。それはいつものことなのに、今日に限ってはちょっと違う。

 そうだ、とクロードは気づく。

 フィグネリアのために頑張っている気持ちを、やる気がないなんて軽く見られたからだ。

「あ、なんか少し分かった気がする。というより思い出した?」

 兄達にいじめられて罵られて、自分を否定された時の気持ちが、ぼんやりとながら胸にある。まだはっきりとは掴めないけれど、先へ一歩進んだ気がする。

「何がですか」

 怪訝そうなニカに、うんとクロードはうなずく。

「いろんなこと。それはいいから、今日もじっくり話すぞ」

 クロードは書庫の扉を開けて、今日はすでに火が入れられている暖炉の前の席までそそくさと移動した。

「ニカ? どうした?」

 書庫のから数歩のところでニカは立ち止まっていた。

「クロード殿下、自分は殿下が望まれるようなことを話すつもりはありません」

「話したくないなら別にいいよ、とは言えないから、それは困るなあ」

 クロードが椅子に座ったままニカを真っ直ぐに見る。

「申し訳ありません……」

 ニカはうつむいて心許なさげに拳をぎゅっと握りしめる。

「俺が役に立てることなんてないかもしれないけど、ニカがどうしてそんなに困ってるか知りたい。それから、できることないか一緒に考える。知らなきゃ考えることだってできないし、でも、解決できる見込みなしだと喋る気にならないか」

 そこまで言って、クロードはこれでは昨日と一緒だと気が沈んでくる。

「……あの、明るく言っておきながらそんな顔するのはやめていただけませんか?」

 気持ちが顔にでてしまっていたらしく、顔を上げたニカがため息をつく。

「殿下は、自分が駄目だと言う割にはしつこいですよね」

「しつこいのか……」

「だから、いちいち落ち込まないでいただけますか。あなたの前向きさは変です」

 変だと言われても、とクロードは考える。

「いや、だって駄目は駄目だけど、やらなきゃフィグが困るし。それは俺は嫌だし、だったら駄目だけどやってみる? 自分が思ってるよりはできること多いけど、あくまで人並み程度にぐらいだろうから、どこまでできるか分かんないけど」

 それに、とクロードはつけ加える。

「ニカの大事なものがよく分かんないままなくなっちゃうのはすっきりしないんだ。上手く言えないけど、俺、大事なものってあんまりないからさ、聞いててすごく羨ましかったし、なくなるのは嫌っていうか、仕方ないってこともあるだろうけど、仕方ないの一言ですますのも嫌だし……」

 自分でも訳の分からない気持ちをどうにか言葉にしようと、悪戦苦闘してしているうちに、ニカが歩み寄ってきて隣の席に腰を下ろした。

「殿下はおかしいです」

「ニカ、さっきから正直だな。いや、俺が言いたいことは言っちゃえって言ったんだけどな」

 ここまで言われるとは思わなかった。というより、本当に聞きたいのはそこではないのだが。

「……自分も、変なんです」

 ニカがクロードの方は見ずに、机の上に置いて組んでいる自分の手に目を落とす。それから躊躇い瞳を一度伏せて、彼は一呼吸する。

「幻聴が、聞こえるんです。このところずっと。だから何も集中できなくて」

 机に肘をついていたクロードは思わず姿勢を正す。

「いつからだ? 最近って四日とか五日ぐらいで、政務室の方にいるときだけってことはないのか?」

 ニカが顔を上げて目を最大限に見開いていた。

「そうです。官舎やここにいる時は何も聞こえないんですけど、あの一体に入ると聞こえてくるんです。いろんな声が。知っている声も、知らない声も」

 間違いなくルーロッカだろう。ということは、ニカの近くにはた迷惑な神霊は確実にいるのだ。

「具体的にどんな声だ」

 真剣に詰め寄ると、ニカは言いづらそうにする。

「周りが自分をどう思っているか、それより自分が自分をどう思っているか、知らない声が耳の中でずっと喋ってるんです。それで、あんなこと」

 勢いづいて言ってしまったらしく、ニカが言葉を戻すかのように息を呑んで口を噤むがもう遅い。

「密告のきっかけはそれなのか?」

 クロードが訊ねると、ニカはゆるゆると口を開いた。

「はい。書類を処理しようとしていると、全部嘘だって声が聞こえたんです。それで、確認していて、何枚かはただの書き損じではないことに気づいたんです」

「でも、気づかないふりもできただろ」

 そのうちばれることがあっても、放置しておけば発覚は遅れる。ニカの立場ならそのまま廃棄する考えが真っ先に浮かんでもおかしくない。

「していれば、よかったんですよね。自分でも馬鹿だと思います。あのとき、こんなことのために仕官しているわけではないんだと、ただそればかり頭にしかなくて……」

 ニカが自嘲する。

 彼の家を建て直すために、国のために、フィグネリアのために、そんな思いはその瞬間に全部踏みにじられたのだ。

「でも、律事まで行こうとしたときに我に返ったんです。ある日突然廃棄する書類が不正の証拠になると気づいたなんて言って、誰が信じますか? 俺はこの二年ずっと、ジトワ二等官に書類の廃棄を頼まれていました。一体いつから不正の証拠隠滅に荷担していたなんて、分らないんです」

 それに、とニカが声を震わせる。

「叔父や父は直接関わっていたかもしれない」

 吐き出して彼がきつく目を閉じる。言葉も仕草も何もかもが痛々しくて、クロードも胸の辺りが苦しくなった。

「それでも、密告はやめなかったのか」

「はい。だけれど万が一父や叔父を裏切ることになるかもしれないと思うと名乗りを上げられませんでした。先々代のジトワ家には恩もあります……」

 たくさんのことに板挟みになっても、正義心は捨てきれなかったニカは匿名での密告という方法で折り合いをつけたらしかった。

「そっか。ごめん。そういう事情なら、話せなかったよな。うう、でもザハールにもフィグにもこれ、報告しないとなあ……」

 結果的に自分もこれからニカの苦渋の決断を無為にしてしまうのかと思うと気が重い。

「殿下、気になさらないで下さい。自分は、裏切り者になりたくなくて逃げていただけなんです。殿下のお話に付き合っていたのだって、イサエフ二等官の言う通り、時間稼ぎだったんです。本当に申し訳ありません」

「不正を隠さなかっただけでも、偉いと思うけどな。だって、明らかになったニカの仕官し続けたいっていう夢、なくなっちゃうんだろ。ニカは家族のことも好きだし、他にいろんな大事なものもあるのに……」

 正しいことをしたのに、ニカは失うしかないなんて悲しいとクロードは思う。

「……ジトワ家との繋がりも絶てず、いずれ時期がくれば領地縮小しなければならないのは分かっていました。エリシン男爵家はもうとっくに駄目だったです、事によっては爵位もなくなる。結局はそれが真実なんです。最初から、叶わなかった夢で、失うはずのものだったんです」

 感情の薄い声で喋るニカの瞳には夢を語る輝きはどこにもなかった。

「幻聴もそうです。ジトワ二等官のことで取り調べを受けていたとき、全部言おうとは思ったのです。ただ、周りが自分が不正事件について何か知っている、荷担していると言っている幻聴が聞こえて、なにも言えませんでした。逃げたいから、あんな声が聞こえるんです。最後には俺には何かを変える力はない。そう思ってるんだろうって、いつも語りかけてくるんです」

 失望を生む真実。

 ルーロッカはニカにそれを容赦なく与えている。酷いことだけれどそれを引き起こしたのは人間側だ。

 遅かれ早かれこうなっていたことは変わらない。

(やりきれないな)

 クロードはうち沈むニカを見ながら、胸ポケットの笛に意識を向ける。

『けして、誰にも知られないようにしなさい』

 いつも穏やかだった母が声を厳しくするのは、自分の力についての時だけだった。

 人間にとどまらず神霊までもが、この力を巡って騒動を起こして身を持って母の言葉の重さを知っている。

 だけれど、力のことに囚われない人もいるのを自分は知っている。

「……イサエフ二等官に全て話してきます。調査を混乱させる真似をして申し訳ありませんでした」

 ニカが立ち上がって、クロードは思わず引き止めてしまう。

「幻聴はニカのせいじゃない。えっと……」

 一瞬躊躇ったものの、ニカの重石をひとつぐらいはとりたくて全部話した。力のことも、ルーロッカのこともなにもかも。

 自分から話すのは恐かったが、ニカならちゃんと力のことも、正しい判断をしてくれると心の中で信じる気持ちもあった。

 言葉を挟む余裕すらなく唖然として話を聞いてたニカが、ゆっくりと深呼吸する。

「……つまり、俺の幻聴や口論は全部ルーロッカ様が起こしていて、あなたは神の楽士で……申し訳ありません、少し頭の中を整理させていただいてもよろしいですか?」

「うん。いきなりこんなこと話しても信じられないよな。俺も話しちゃって落ち着かないし。あ、言い忘れてたけどこれ、秘密だからな」

 クロードはいまさらながらに心臓が早鐘を打ってきて、気持ちを静めるために銀の横笛を取り出して握る。

「そういうことは最初に言うものですよ。ですが、幻聴は自分のせいで違いありません。ルーロッカ様は真実しか仰らないのですから。ですが、ルーロッカ様は神界にお帰りいただかないとなりませんね」

 思ったよりも冷静なニカの反応にクロードも落ち着きを取り戻していく。

「それにしてもこの国の人って本当に神霊様とか妖精とか当然なんだな。フィグも妖精自体には驚かなかったし」

「自分にとっては異教の方達が神を奉りながらも、存在自体はほとんど信じないという方が不思議ですが」

「そういうもんなんだなあ。それでな、さっきも話した通りニカの近くにいるはずだから協力してほしいんだ。密告は、まずはフィグにニカが何も知らないって話してから、ザハールの所、行こう」

「……皇女殿下は信じて下さるでしょうか」

 ニカの気鬱な表情に、クロードは力強くうなずく。

「大丈夫。フィグはちゃんと話をきいてくれるから。い、今から行ってみるか?」

「心の準備が、まだ。皇女殿下と直接お話するというのも……」

 話している時点で相当に緊張しているのが見えて、クロードはうんと笛を見る。

「ひとまず落ち着こうか、俺ら」

 そしてクロードは笛に口をつける。

 流れ出した旋律に暖炉の炎が揺れ、その周りの暖まった風がゆったりと音と共に部屋に満ちていった。


***


 その頃、フィグネリアは応接室に兄のイーゴルと共にいた。

「今年は南の方も酷いな」

 雪の被害をまとめたものを読んで、どっしりとソファーに座るイーゴルが眉根を寄せる。

「ええ。ロンバ街道まで埋まると思いませんでした。この辺りで物流が滞るのはあまり、よくはありませんね。国境付近常駐の兵を幾人か動かしていただければと思います」

「分かった。国境警備についてだが春には人を増やしたい。サムルとマーハの砦周辺を護りの要とした布陣を組むつもりだ」

 頭の中で地図を描きつつ、フィグネリアはうなずく。

 敵対国であるロートムとの関係は三月前の騒動から緊張が続いている。今すぐどうこうなるわけではないが、増強することにこしたことはない。

「予算はできるだけとれるようには配慮しますが、雪害がこれでは難しいかもしれません。春まで、遠いですね」

「今年はスノウェン様が一度も降りてこられなかったから、皆覚悟はある程度はできていたがな。そのかわりアトゥス様が恵みを約束して下された。そう気落ちせずに持ちこたえるしかないな」

「そうですね……」

 兄妹で神妙な顔で向き合っていると、外から侍女がザハールが来ていると声をかけてくる。

「例のガルシン公の甥御か。俺は軍に戻るか」

「兄上が遠慮することはありません。話が終わるまで待たせておけばよいのです」

 せっかくの兄妹水入らずの時間を割いてまで、ザハールに対応する気にはなれない。

「そう重要な話はもうない。後は銃について相談があったが、これも資金がたりんという話だからな。ここで話し合っても解決はできんだろう。卑怯な手で奪われた国の財を取り戻すのが先決だ。それは俺にはできんことだから、全部任せてしまうが、大丈夫か?」

「大丈夫です。クロードもよく働いてくれていますから」

 自信を持って微笑むと、イーゴルも嬉しそうに首を縦に振った。

「そうか。俺の力が必要になったら声をかけてくれ」

 ぽんと、頭に手を置いてからイーゴルが退出していく。今でもこうやって兄に頭を撫でてもらったりするのは好きで、嬉しくなる。

 口元についそんな気持ちを出してしまっていたフィグネリアは、ザハールが部屋にやってきて表情を引き締める。

「扉は閉めてもよろしいですか?」

 入って来てそう言うザハールにフィグネリアは静かに是を返す。

「今日はまた一段と隙がないですね。あなたに琥珀はあまり似合わないと思いますが」

 飴玉に似た琥珀の玉が乗ったフィグネリアの耳たぶに目を向けて、席についたザハールが肩をすくめる。

「かまわんだろう。好きなのだから」

 さらりと返して書類を早く渡せと話題を切り替えると、ザハールが面食らった顔をした。

「これは賭けに勝つのは厳しそうだ」

「……今度は一体何を賭けているんだ」

「いえ、前の賭けの結果はつまらないということで、今度は私が皇女殿下を落とせるか、に変わりました。今度は落とせないが多かったですね。悔しいので落とせるに私は賭けてきました」

 はたして律事はこの忙しいときに何をやっているのだろうか。

 書類をめくると特に遅れていると感じることはない。とはいえ昨日の今日でそう大きい進展もない。

「話し合うことはあまりなさそうだな」

「この件に関しては、ですね。同僚や部下が優秀なので、仕事は任せて私はあなたの気を引きに」

 ザハールの表情や声音に甘さが含まれるが、その藍色の瞳は攻撃的だ。

「私の気を引ける話題があるのか?」

 フィグネリアは傲岸に問う。

「技術革新。それについて私は興味があるのです。皇女殿下は銃について今、普及を進めているようですが、軍備以外に手をつけられる気は?」

「ある。なるほど、織機の改良による大量生産が目的か」

 ディシベリアの技術は隣国ロートムに大きく遅れをとっている。今のままでは軍事でも財政でも勝てなくなる。しかしながら、人々の意識を変えるのが難しくそちらに予算を割くにも、なかなか同意が得られていない。

「我が領地の浅黄の染織は希少で質がいい、というのが大きな売りです。ただ質がよすぎるため、高価で手を出しづらい。絨毯やタペストリーはそう頻繁に買い換えるものでもありませんし。衣服に使う生地の方はやや値は下がるが、まだ売れます」

「生地を増産したいわけか。希少性は絨毯などの高級品に残し、生地は値を下げ手に取りやすくして収入を安定させたい、か」

「大体はそうですね。実際手に取ってもらって質の良さを知って、高級品の方にも手を伸ばしてくれればと。しかし加減を間違えれば、これまで築いてきたものが全て失われる。危険も多いですが、手を出す価値はあると思うのですよ。そこに投資するだけの財もある」

 ですが、とザハールが言葉を切る。

「それをするには職人達の説得がいる。皇女殿下が銃から手をつけるのは、その手間がいらず技術力の向上によって何がもたらされるかを端的に示せるからでは?」

「……銃は戦が起らねば無用の長物だ。ロートムに動きがあるので、必要に迫られているからにすぎない。だが、それが他のことへの足がかりになればいいと思っている」

 思ってはいるがなかなか進まない。もたもたしている内に、どんどんロートムに引き離されていくというのにだ。

「しかし、それも資金繰りができなければ技術者の育成も何もできないでしょう。かといって職人達の説得も難しい。堂々巡りです」

 ザハールが長い間をとって、ゆるりと口を開く。

「問題の根本には神霊方への信仰がある」

 フィグネリアは躊躇いのない明確な声に息を呑んだ。

 彼は触れてはいけない領域に踏み込もうとしている。

「およそ四百年前に染料の元となる鉱石の鉱脈を神霊ルマラリ様が授けて下さったのが、我が領地の浅黄の染織の始まりです。さした特産もなく、豊かでもない地がそれで大きな財をなした。職人達にとって糸を紡ぎ染め、機を織ることは神事と同義です。無論、坑夫達にとっても。これは我が領地に限らず、ディシベリアの主要な産業の元を辿れば必ず神霊方にいきつく」

 主要どころか、ありとあらゆる場所で聞く話だ。ディシベリア繁栄の影に神霊達はいる。

「我々は一度神霊方とのあり方を見直す時期に来ていると思います。そうでなければ、エリシン家のように潰れてしまう」

「神霊方をジトワ家に置き換えるのは乱暴だぞ」

 もちろん、とザハールが珍しく素直にうなずく。

「ただし、ルマラリ様は我々に富をもたらすために、鉱石を与えられた訳ではない。ただ綺麗な浅黄色の大きな絨毯が見たいから、この鉱石を使って作れと仰っただけなのです。そして余った分は好きに使っていいとそれだけです」

「そこが問題だな。そもそも何をもって余りとするのか」

 所有権はあくまで神霊達のものであるという前提があるからこそ、やり方を変え量産するという方向に人々の意識を向けるのは難しい。

 それに神霊達のものさしというのはよく分からない。今もイサエフ侯爵家は年に一度大神殿に絨毯や織物を献上しているが、神霊からの反応は十数年に一度、今年のは綺麗で気にいったとだけあるだけらしい。

「そうです。ルマラリ様が飽きた、もういらないと思えば鉱脈は自分達で探さねばならなくなる。その手段にはどうにか着手して量産の体制は整え始めていますが、鉱脈は神霊様の物で、神子様が妖精の動きを感じて見つけた鉱脈以外は勝手に掘り起こしてはならないと言って、坑夫達が動かない」

 神霊を降ろせるのは大神殿の大神子のみだ。地方の神殿の神子達は妖精達の動きをぼんやりと読んで鉱脈を見つける。それも神霊によって妖精達の動きが大きくなっているからこそ見つけられるのだ。

「あまりにも不確かなものに依存しすぎている現状は、どうにかしなければならないと思いませんか? このままでは私達はひとつの所に留まったままです」

 その意見は自分と同じだが、とフィグネリアは腕を組む。

「しかし、どう見直す気だ」

「それが残念ながらまだ見えないのです。しかし、ロートムの信仰するナルフィス教にある使徒や悪魔の名は、神霊方と共通しています。元は我々と信仰は同じだったのでしょう。何らかの理由と方法によって、彼らは神霊方から離れた」

「それでも、ディシベリアと肩を並べる大国であり続けているか。宗旨替えするつもりか?」

「いえ。そこまで変えるつもりはありません。私もあちらの信仰はあまりに神霊方を人の都合のよく伝えていて好きではないので。どこかに、よい落としどころが必ずあるはずです」

「……人の思う通りになるとは考えられんがな」

 神霊達の力の脅威は身を持って知っている。下手に怒りに触れれば、人間など指一本動かすこともできずに打ちのめされるだろう。

「だからといってこのままでよいとは思ってはいないでしょう。今は変革の時期に来ているのです。先帝陛下がその種を蒔かれ、あなたが育てている。そしてあなたもまた、新たな種を蒔こうとしている。かといって水も養分もあなたひとりでは賄えない。そのためには、私の持っているものが必要でしょう」

 ザハールには財もあれば人脈もある。物事を冷静に見ることもできる。そしてなによりも自分の目指す方向性に理解もある。婚姻という代償だけで手に入るのなら、以前の自分ならば多少は考えたかもしれない。

「必要だな。婚姻を結ぶ以外に条件はないのか?」

 すんなり認めてフィグネリアが訊ねると、ザハールが不服げな顔をする。

「なぜあなたは頑なにあの公子にこだわるのですか。あなたは自身の能力についても冷静に判断できている。伯父や父が無理だと一言で捨てた、私の改革案に耳を貸すこともできるというのに、一点だけまともな判断ができていないのが納得がいきません……また、笛ですか」

 ふと聞こえて来た笛の音に、フィグネリアは耳を傾ける。優しい音だ。何かに例えるべくもなく、クロードの穏やかで心が安まる笑顔が思い浮かんでくる。

「……祭事の楽士に選ばれただけあって演奏は素晴らしいとは思いますがね。まさか、これで神霊方のご機嫌でも伺うつもりですか?」

 冗談めかしてザハールが笑いながらも、笛の音がする方に視線が向いてしまっている。

 妖精どころか神霊ですら陶酔させてしまう音色に抗える者はいない。

(世界の影の王、か)

 フィグネリアは地母神ギリルアの言っていた、妖精王のもう一つの呼び名を思い起こす。

 神界と人間界の境界の調整を図っているかもしれない存在。

 地母神ですら全てを把握出来ずにいるという彼が、変革期を迎えるディシベリアにいることに意味があるのだろうか。

 フィグネリアは一抹の不安に心を揺らしながらも、やがては笛の音に全てが押し流されていってしまった。


***


「フィグ、ちょっと……」

 ザハールが退出してすぐの頃、クロードが悪戯が見つかった子供のような顔をして、執務室の入り口で突っ立っていた。

 フィグネリアは何かあったのだろうかと、彼の前に立って琥珀の瞳を覗き込む。

「ごめんなさい。ニカに全部喋っちゃいました」

 クロードが徐々に視線を別に逸らしながらニカに妖精王としての力や、ルーロッカについて話したことを説明する。

「自分の判断は間違っていたと思っているのか?」

 すでに説教待ちの体勢でいるクロードに、フィグネリアは穏やかに問う。

「ええっと、ニカになら大丈夫だと思いました。でも、こんな大事なことフィグに相談もなく、勝手にいろいろ喋っちゃって……」

「相談はあった方がいい。だが、その力の危うさは自分自身がよく分かっているだろう。お前が大丈夫だと思うなら、私はその判断を信じる。驚きはしたがな」

 自分からクロードが力について話すのは初めてだ。なにやら大きく前進したように思えて嬉しくて、フィグネリアは口元を綻ばす。

「それは喋っちゃった自分が一番びっくりしてます。あ、で、ニカがそこにいるんでルーロッカ様についてどうするか、と不正事件についてフィグと相談した方がいいってなって……」

 クロードが廊下にいるらしいニカを手招く。だがなかなか部屋にまで入って来ないらしく、一度彼は廊下にまで出た。

「ニカ、そんなに緊張することないから。フィグはいろいろすごいけど、美人で可愛い普通の女の子だから!」

 聞こえてくる夫の声に、フィグネリアは恥ずかしさと呆れで脱力しそうになる。

「説得するにしても、他に言いようがあるだろう……」

 しばらく待っているとニカがクロードの背に隠れる格好で部屋に入ってくる。と言っても、クロードと同じ背丈なのでまったく隠れていないが。

 すぐさまニカは跪いて、深く頭を下げる。全身からみなぎる緊張に、ザハールと違い形ばかりでないとすぐ分かる。

(クロードが話してもいいと思ったわけだ)

 フィグネリアは苦笑してニカの前に立つ。

「楽にしていい。面を上げ、立て」

「……い、いえ。自分如きが皇女殿下を見下ろす形になるのは無礼かと」

 顔すら上げず、声を上擦らせるニカにフィグネリアはもう一度立つように促す。

「男共は皆、私より背が高い、いちいち気にはしていられん」

 そうつけ加えるとニカがやっと立ち上がる。はらはらと彼を見守っていたクロードも、ほっとした顔をしていた。

「ほら、普通の女の子だろ。間近で見ると遠目で見るよりもっと可愛いし!」

「……お前は余計なことは言わずに、要点だけ喋れ」

「だって、ニカ、緊張しすぎて話進まなそうですし」

 フィグネリアは身の置き場に困っているニカに目を向ける。まだまだ表情は硬いが、クロードの調子に多少は力が抜けているらしかった。

 それからとつとつと話し、不正問題は後日に回し明日にでもクロードふたりでルーロッカの居所を探る予定をたてた。

 しかし、その予定通りにことが進むことはなかった。 

 

***


「資料がない……?」

 翌日の朝、自分の鍵のついた執務机の引き出しを開けたザハールは、自分の目を疑いつつ鍵穴を確認する。無理にこじ開けた形跡はなかった。

 というよりさっきは確かに鍵がかかっていたので、資料の入れ忘れということもあるが、それは自分の性格上ないはずだ。

「ザハール! まずいぞ」

 同僚が駆け込んできて半分焼け焦げた書類を持ってくる。目を落とせば、引き出しの中にあったはずの資料である。

「なるほど、まずいな。どこにあったんだ」

 あげくに自分の身内関連である。

「隣の政務室だ。証拠隠滅じゃないかって疑われてる」

「他に燃やされているものは? 誰かが器用に開けたらしくてこの通りなんだ」

 空になった机の引き出しを見せる同僚の顔から色がなくなる。

「嘘だろ、誰が。まさかお前皇女殿下に馬鹿やって消されそうになってるんじゃないだろうな」

「それはないな。こんなことをする方ではない」

 ザハールは言い切ってなくなった資料の中に、ジトワ家関連も入っていることを思い出す。

 言いがかりをつけるならニカを三日も放置しておいたのは、身内絡みの不正の件を隠すためだとかなんとかだろう。

「他の九公家派がうるさいだろうな。とにかく大臣の所へ行ってくる。久々の長期休暇がもらえるかもしれないな」

 そう嘯いて同僚を見やると、彼は呆れた顔をする。

「お前本当に気をつけろよ。その性格だからあっちこちに敵作ってるだろう」

「ただの正直者だよ、僕は。後は頼んだ」

 ザハールはわらわらと集まってくる不安げな部下や同僚達を、大丈夫だと軽口でいなして部屋を出る。

 そうして彼は五日の私室での謹慎処分に決まった。

 それから間もなくして、ニカがジトワ二等官襲撃の件で拘束されることになった。



 その日の王宮は大わらわだった。

 ザハールが混乱を避けるために不正事件の調査から外され、ニカが拘束されるまでの間に設事と吏事で口論と乱闘が一件ずつ。ニカが拘束されてからは、律事で二件の口論。そして律事を中心にして耳鳴りがすると、訴える官吏も多く出ていた。

「耳鳴りは蔵事まで広がったか……」

 フィグネリアはザハールの謹慎についての報告を受けてから、大臣達と共に大広間から一歩も出られずにいた。次から次に報告が入ってくるのだ。

 隣にいるクロードはそわそわとしながら、自分の方に目を向けて首を小さく振る。

「皇帝陛下、本日は一切の政務を取りやめるしかない状況かと思います」

 フィグネリアは後ろの玉座にいるイーゴルに進言する。

「そうだな。これ以上の解決はできんだろう。一旦政務から離れて、頭を冷やさせろ」

 イーゴルが昏迷する事態に一様に渋面でいる大臣達にそう告げて、フィグネリアも言葉をつけ加える。

「二等官以上は各自私室に待機。三等官以下は官舎あるいは屋敷に戻り、呼び出しがあれば出仕できる状態で待機と命じてくれ。エリシン五等官は拘留したままにしておいて、監視は後で新たにつける」

 そこまで言ってフィグネリアは隣のクロードに、朝議の記録を見せるよう紙の端を引く。

「なお、一度に移動すると混乱するので次の順番で出て行くこと」

 フィグネリアが外事を始めにあげ、それから順に言葉を連ねていって最後に律事にたどりつくと、クロードが彼女の意図に気づいて小さくうなずいた。

 その命に異論は出なかったが、蔵事大臣がひとつかまわないかと声を上げた。

「この状況、神殿にも相談するべきでは。口論はともかくとして、耳鳴りは神官方に診ていただいた方がよいのではありませんか?」

「そうですね。耳鳴りは妖精の喧噪とも言いますし」

 吏事大臣が同意してクロードの目が泳ぐ。

 実際、耳鳴りの方も妖精達らしいのだが、いかんせんここでそれを明かすわけにもいかない。

「本日中に神殿に書簡を送る。皇帝陛下もそれでよろしいですか? ……では、今は速やかに官吏達を休ませることを優先しろ」

 大臣達がそこで妥協して各自書記官を連れて持ち場に戻っていた。残されたフィグネリアは、強張っていた肩の力を抜いて椅子に深くもたれかかる。

「それで、クロードどういう状況なのだ、これは?」

 朝議までクロードと会話する間がなかったイーゴルが、困り顔で義弟を見下ろす。

 フィグネリアも朝に妖精が動いたと聞いたきりで、それ以後のことはクロードの目配せで妖精が関係していると、分っているだけだ。

「すごく、ざわざわして混乱してるっていうか、喧嘩って程じゃないんですけどまとまっていないみたいです。そのせいで普通は声を運んでるけど、上手くいかなくてほとんどが耳鳴りになっちゃってるんだと思います」

 イーゴルが黙考してからフィグネリアを見る。

「妖精達まで喧嘩をしそうになっている、でいいのか?」

「兄上、申し訳ありません。私にも具体的にはよくは分りません。風の妖精は複数いるという時点で理解しきれていないもので」

 花や石なら一輪や一個単位でいるというのは分かりやすいのだが、風となると複数いるというのは掴みにくい。

「たぶん頭で理解するのは難しいと思います。それよりなんで今日になって、こんなことになっちゃったんでしょう」

「そこだな。変化が急激すぎる。この二日の反動か?」

 ニカが小宮にいた二日間は口論騒動は起きなかった。二日にかけて出仕していない官吏も他になく、ルーロッカが彼と関わりがあることは確かだろうが、器となっている訳でもないというのが腑に落ちない。

 フィグネリアとクロードは顔を見合わせて唸る。

「……俺ができることはなさそうだな」

 そうすると、心なしか寂しげにイーゴルがつぶやいた。

「兄上の手が必要ならばすぐにお願いします。今は、軍の方で雪害対策に集中していただければと思います」

「分かった。何かあったらすぐに、呼ぶんだぞ。クロード、フィグネリアを頼んだ」

 イーゴルはそう言ってクロードの髪をかきまぜて退室していった。

「頼まれちゃいましたよ、俺」

「信頼されてるということだ。ほら、呆けてないで行くぞ。今から全員が王宮の外、あるいは私室のある棟に移動する。乱暴だが、これが手っ取り早い」

 フィグネリアは乱れた髪をなでつけているクロードを急かして立ち上がる。

「はい。妖精の動きをたどるんですね。ルーロッカ様が入ってる人間がいるなら今は、近くに妖精の気配が濃いだろうし」

「その通りだ。可能性の高い律事は最後に回してある。エリシン五等官の近くにいるのは確かなのだろう」

 今日の騒動は設事を起点にして隣り合った吏事、それからニカが拘束されてから律事へと移っている。確実にニカの後を追っているのは間違いない。

 クロードが早足でフィグネリアの隣に並んでこくこくとうなずく。

「ニカも騒動が起きるときは資料を運んだりした直後か、同じ政務室で起ったかだって言ってましたよね」

 クロードが言葉をそこで止めて、一度口を引き結ぶ。

「今日になってなんでジトワ二等官は、不正をしていることに気づいてニカを呼び出したら、殴られたなんて証言を変えたんでしょうか……急に思い出したなんて不自然だし、拘束は早いですよ」

「功を急いだにもほどがあるな。ザハールの後任は、ガルシン公家派と対立している。ザハールを出し抜こうとしか考えていないかもしれんな」

 フィグネリアは悔しそうな夫に同意する。

「ちゃんとニカの話を聞いてくれそうにないですよね」

「……一度そこは切り離しておけ。ルーロッカ様を見つけて、落ち着いてから対応する」

 フィグネリアは温和な声で、落ち込むクロードを諭す。

 ニカとは力のことを打ち明けられるほど信頼していて、その関係は大事にしてやりたいと思うが、事情が事情でフィグネリアは複雑な心境でいた。

「はい。俺もニカが正しいことをしたこと、やってないことちゃんと証明させてあげたいです。行きます」

 顔をしっかりと上げてクロードがそう言い、フィグネリアは気の持ち直しが早い姿に安心する。

 そしてフィグネリア達は中央通路の出入口にたどりつくと、そっと扉を開けて様子を窺う。

 右手側からぞろぞろと官吏が出てきて、その多くが王宮の外へと向かい、一部は二等官以上の私室がある左手側へと移動している。

「どうだ?」

「この中にはいないと思います。まだあっちの政務室の方で妖精達の様子がおかしいです」

 そしてしばらく待つと設事の集団が来たが、クロードは首を横に振る。さらに吏事が来ても彼は同じだった。

「いないです。まだ、あっちにいます」

 そうして最後に律事が出て行った後に彼は右手側に視線を向けた。もうあそこにはニカしかいないはずだ。

 先ほどまで人で溢れていた中央の通りにフィグネリアとクロードは出る。

 薄曇りで窓から差す光は弱々しく浅黄の絨毯も色褪せて見える。外気が入ってきていたせいで空気も冷たく肌に凍みる。

「行くか」

 フィグネリアが声をかけると、隣で寒さに首をすくめているクロードが、重たげに首を縦に振った。


***


 人気のなくなった政務室が並ぶ廊下は、どこまでいっても同じ場所を歩いている気がしてくる。

「今どこにいるか分からなくなっちゃいそうですね」

 見える景色が全く変わらず物音ひとつしかしない廊下は不気味で、クロードは一歩だけ後ろにいるフィグネリアにそう声をかける。

「三棟目の第十五廊だ。ここは蔵事第二政務室と第三政務室の間だな。不安にならずとも現在地は私が把握している」

「……フィグ、ここほとんど来たことないんですよね」

「王宮の見取り図は覚えていると言っただろう」

 それは聞いたがまさか部屋のひとつひとつまで覚えていたとは思わなかった。妻の頭の中がどうなっているか、時たま本気で不思議で仕方なくなる。

「じゃあ、俺は心置きなくルーロッカ様探しますね。というか、ニカの所だろうな……俺達が探してること、ばれちゃったんでしょうか」

「そうなると、ザハールの件からおかしいな。証拠隠滅の疑惑で朝議が長引き、その間にも揉め事が多発して動けずにいる内に、エリシン五等官の拘束だ。神霊様が不正事件についてどこまで理解しているかが不明だが」

「そうですね。細かいところまで、理解してるとは思わないんですけど……とにかく、試しに笛吹いてみますね」

 クロードは胸ポケットから笛を取り出して、慎重に音を奏でていく。音にだけでなく、妖精達の動きにも注視して。

 滑らかな絹糸のごとき音に妖精達は絡め取られ、側にすり寄ってくる。しかしそれを阻み遠いところで彼らを繋ぎ止める力がある。

 そう遠い所ではない。

「クロード」

 張り詰めた声のフィグネリアに肘のあたりをつつかれて、クロードは音を止める。

 足音がしている。

 フィグネリアが短刀に手をかけて身構えて、クロードも周囲の妖精達の気配に意識を研ぎ澄ませる。

 明かりの乏しい廊下の向こうに人影が見えてくる。そしてその立ち姿にふたりは見覚えがあって、困惑する。

 薄明かりの中で最初に目を惹いたのは金糸の髪だった。

「ここで何をしている」

 フィグネリアの鋭い声に男、ザハールが不快げに眉根を寄せる。

「それはこちらの台詞ですよ、皇女殿下。政務室側を空にしていったいなにをしていらっしゃるんですか?」

「それはこちらの事情だ。お前は謹慎中ではないのか?」

 訊ねながら、フィグネリアが目でルーロッカかどうか聞いてきて、クロードは違うと同じように目で返す。

「そうですが、外が騒がしくてなにごとかと思って混雑に紛れて出てきたら、あなた方がこちらに向かうのを見て、不審に思いこっそりと後をつけさせていただきました」

 笛を持っているクロードは、ザハールに視線を向けられて愛想笑いで誤魔化す。

「なぜこんな人気のなくなった場所で笛を吹いているのですか?」

「とにかくお前は私室に戻れ。謹慎が長引くか、命令違反で降格もありうるぞ」

 フィグネリアが間髪入れずに強い口調で命じるが、ザハールは引く気がなさそうだった。

「ここで何をするつもりかお聞かせいただけたら、戻りましょう」

 口元だけの笑みで解答を強要するザハールに、夫婦は前進も後退もできずに膠着状態になる。

 それからすぐに耳元で妖精達がざわめいて、クロードは辺りを見回す。大きな力が近くで動こうとしている。

 ざあっと廊下の奥から風が激流のごとく押し寄せてくる。立っていることも、目を開けていることすらままならない。

「お前ら、動くな!」

 それでもどうにか、クロードは踏みとどまって周囲に命じる。

 一定の塊だった風はほどけるが、一部は従わずに暴れ散らして廊下に冷たい風が吹き荒れた。

 肌を斬りつける鋭さはないものの、体に容赦なくぶつかってきて巨大な拳に殴られている感覚だ。

 風が耳を掠めるときん、という音と共に耳奥で一瞬痛みが走った。

「いった……フィグ!」

 隣にいたフィグネリアが耳を押さえ、膝をついて顔を歪める。耳鳴りがする、と掠れた声で彼女がつぶやく。

 目の前でフィグネリアを苦しめているのは妖精たちだ。

 いつだって自分に寄り添ってくれていた妖精達が、彼女を傷つけたのはこれで二度目だ。

 だが後でその事実を知った以前とは違い、頭が真っ白になるほどの衝撃を覚えた。

 それと同時に、怒りもあった。彼らが自らの意思で動いているわけではないと分かっていても、抑えきれないほどに感情が逆立つ。

 その後は命じるまでもなかった。

 クロードの怒りに触れた妖精達は怯え身を竦めるように動きを止めた。

「クロード、多少目眩がするが大丈夫だ」

 フィグネリアが耳から手を離し、よろけながら立ち上がる。妖精達への憤りに気が向いていたクロードは、彼女の体を支えてしょぼくれる。

「……フィグ、止めきれなくてすいません」

「たいしたことはない。ひとりで立てる」

 ほら、とフィグネリアが促してクロードは彼女の背に添えていた手をひっこめた。

 見たとおり大丈夫そうでほっとできたのは束の間だった。

「これは、どういうことかな」

 膝はついていなかったものの、耳を塞いでいたザハールが驚愕と警戒の入り交じった表情でクロードを見ていた。

 そして持っている笛に目を落として何かに気づいた顔をした。

「神の楽士か」

 自力でザハールが自力で答にたどりつくと、フィグネリアがクロードを背に庇う格好で一歩前に出る。

「仮にそうだとしたらどうする」

「どうすると言われてもそう簡単には答はだせませんが、興味深いですね。口論騒動は君が起こしていた、というわけではなさそうだね」

 フィグネリアの後ろで彼女の判断に任せっきりでいたクロードは、自分から前に出る。

「この騒動を収めようとしてるんです。だから、邪魔、しないでくれますか」

 強気なふりをしながらも、この力についてザハールがどんな風に思っているか考えると恐かった。

「僕に勝てるところ、あるじゃないか。何もできないのにやる気だけはあると思えば、それが切り札だったか」

「違います。この力でどうこうしようなんて俺、考えてません。そんなことしたら、いろんな人が混乱するし、余計な面倒事も増えてフィグを困らせるから、誰にも言わないでもらえますか」

 ザハールから視線を逸らさずに、クロードは必死に虚勢を張る。

「……いいだろう。言わない代わりに、現状をきちんと説明してもらおうか。なぜ妖精達がこんな騒ぎを起こしているのか、君の口から」

 クロードはフィグネリアにいいですか、と表情で伝える。彼女は仕方あるまいとうなずいた。

 それからここまでの経緯をできるだけ手短に説明する。以前の騒動の真相まで話さねばならなくて、少々もたついたがどうにか喋り終えると、ザハールは二度ほどうなずいた。

「事情はよく分かった。厄介だな」

 確かに厄介なのだがその一言で収めてしまうのもどうかとクロードは思った。

 しかしながら、この国の人間はことごとく妖精の存在を受け入れているのだと、改めて強く感じた。

 受け入れられるのはいいが、だからこそ妖精を従える力に人が惑わされるのだと思うと複雑だ。

「それでひとつ気になるのだけど、妖精を使って引き出しの鍵を開けるっていうことは可能なのか?」

「できないことはないはずです。でも自分の過失を押しつけるのはどうかと思いますけど……」

 鍵には鍵で金属関係の妖精がいるはずだ。神霊なら動かせるだろうが、都合の悪いことを妖精やそれを扱うものの責任にしてしまうのはよくない。

 ルーロッカの関与は五分五分といったところではあるが。

「過失はしていない。僕が鍵をかけ忘れる、あるいは書類をしまい忘れるという初歩的な間違いをするはずがない」

 その自信はいったいどこからくるのだろうか。

 呆れを通り越して感心の域にたどり着いたクロードは、態度も身長も大きいザハールを見上げる。

「ひとまず、事態を整理するか。ルーロッカ様が攻撃を仕掛けてきたということは、見つけてほしくはないか、何か癇に障ることをこちらがしたのかのどちらかだと思うのだが」

 フィグネリアがクロードに顔を向ける。

「両方な気がします」

 ここにはルーロッカの好きな真実が潜んでいて気の短い人間が多い。絶好の遊び場から離れたくないのは予測できる。そこに、妖精の動きを抑えようとする自分が入り込んだ。

「子供がおもちゃを取り上げられそうになって、暴れるのと変わりないな。……しかし、これが神の怒りを買う、という事態か」

 ザハールがやれやれとため息をついた後に、なにやら興味津々な様子でつぶやく。

「お前、今、ちょうどいい機会だと思っているだろう」

「滅多にない体験ですからね。私は神霊様の声も直接聞いたこともなければ、妖精の動きを肌で感じ取ったこともありませんから」

「そんな呑気なものじゃないんですけど」

 クロードはこのままついてくる気がありありと分かるザハールを半眼で見る。

「それは分かっている。さっきのも十二分に脅威的だったからな。人手は多い方がいいだろう。君ひとりに皇女殿下を任せるのも不安だ。というより、皇女殿下が君の護衛代わりか」

「私がするのはは援護、だ。神霊様には太刀打ちできん。だが、人手が多いにこしたことはにないな。ついていけないと思ったらすぐに逃げていい」

「逃げるときは皇女殿下も一緒ですよ。貴女に万一のことがあれば国の損失が大きすぎる。それは、君も分かっているだろうね」

 ザハールの言葉はいつもの小馬鹿にした風ではなく、重みのあるものだった。

 以前もタラスに言われたことだ。フィグネリアのことを認めきっていないザハールでさえ、彼女に少なくない期待をかけている。

 こうやって、たくさんの人間がこれからもフィグネリアを必要とするだろう。

「分かってます」

 クロードは多くは言わずにそれだけ返した。

「……私は撤退するか前進するかはクロードと一緒に決める」

 淀みない口調でフィグネリアが言い切った。

「それで、私は独断で動けということですか。いいでしょう。自分の身は自分で護ります。さて、ルーロッカ様は結局、誰に降りてきてるんだ? エリシン五等官でないのは、間違いないのだろう」

「間違いないとは思うんですけど、ニカが小宮にいる間はなにも起こらなかったんですよね。ニカのは身近に様子の変わった人や、いつも近くにいる人で不自然な様子はないそうです。でも、幻聴の聞こえ始めた時期は最初に異変があった時より後なんです」

 そう、ニカが幻聴が聞こえ始めたのは今から五日前ぐらいだったらしい。それより前から口論騒動はあった。

「皇女殿下、最初に口論騒動があったのは外事でしたか?」

 クロードとフィグネリアはザハールの問いかけに同時にうなずく。

「王宮入り口近くから奥へ移動し、五日前に設事で最初の口論騒動だ。それからは設事とすぐ近くの吏事に偏り始めた」

 限りなく狭い範囲でしか妖精を動かさず、気ままに場所を変えていたのに、お気に入りの場所を見つけたのかそこから動いていない。

「各政務室を自由に動き回れる人間はそういないはずですが」

「そういう人間と会った覚えがないって、ニカも言ってました」

 そしてまたどこに糸口があるのか分からなくなる。

 ザハールが顎に手を当てて思案しながらクロードを見やる

「ルーロッカ様は喧嘩を見たいのだろう。ただエリシン五等官は揉め事は起こしていない、わけではないか」

「でも、ジトワ二等官の件は違いますよ。ニカには無理なはずです。なのに拘束だなんて」

「エリシン五等官は拘束されたのか?」

 ザハールが問うのにはフィグネリアが答える。

「僕が両者の証言と、状況を見た限りエリシン五等官には不可能だ。鼠を捕まえようとして屈んでいたなら、物音には過敏になっていただろうし。……そもそも屈んでいたというのも、このごろ鼠が出るという話を聞いて、エリシン五等官にも身長差があっても不可能ではないと思わせるためかもしれませんが」

 腕を組んで憤慨するザハールの隣でフィグネリアが首を傾げる。

「しかし、それならば最初からエリシン五等官に罪を着せていないとおかしくないか? それより、鼠が出ているなどという報告は聞いていないぞ」

「鼠が出ていると言っても、はっきりと姿を見た人はいないそうですよ。物音がしてそれが鼠ではということです。書類などへの被害も出ていませんし、わざわざ報告することはなかったのでしょう」

 フィグネリアはそれで納得したが、クロードはそうではなかった。

「あの、いつからですか。それと、どのあたりで出たんですか?」

 ニカの周辺で起きた変わったことが、ひとつだけあったはずだ。

「外事と、蔵事、あとは吏事でも出たと言っていたかな。いつからかは知らないが……」

 はたと気づいたらしく、ザハールとフィグネリアが同時にクロードを見る。

「クロード、まさかエリシン五等官が鼠を見たと言っていたのか?」

「いえ、鼠じゃなくてリスだそうです。具体的には覚えてなかったんですけど、四、五日前だから時期は合っているはずです。ジトワ二等官、鼠ってはっきり言ってなくて鼠か何かって、証言してましたよね」

 合ってはいるのだが疑問点も多い。

「君、神霊様がリスに降りてくることが可能なのか?」

「いや、俺に聞かれても困りますよ。けど、王宮内自由に移動できるならありえるんじゃないですか。アトゥス様も合わない体って言ってましたよね」

 フィグネリアに同意を求めると彼女は半信半疑で唸った。

「まあ。確かに合わん体だが……単に目撃されたからエリシン五等官に張り付いていたわけではないのだろう」

「エリシン五等官については喧嘩を起こさせたいというわけでもなそうだが、君から見てどうだ?」

 ふたりに答を求められてクロードは、記憶を巻き戻していく。

「ニカだけは悪意というより失意が主なんですよね。最初会った時から思い詰めてるところもあって、精神的に疲れてて。ルーロッカ様はたぶんリスで、妖精を動かせる範囲も狭くて不便で……新しい器?」

 神霊が降りるには、器が空でなくてはならないという言葉を思い出し、クロードは顔色をなくす。

「ニカを新しい器にするつもりなんだ。だからニカの器を空にするために、妖精を常に近くに置いて、声を聞かせてたんだ」

 自分が使い勝手のいい体に移るためだけに、ニカに失意を与えていたのだ。あまりにも勝手すぎる。

「神界には戻らず器を乗り換えることが可能なのか? それに、ならばなぜ騒動を起こさなかったのだろうな」

 フィグネリアも深刻な顔で考え込む。

「ここで考えるより、ニカの所行きましょう。もしそうだったら止めないと」

 アトゥスの言う通り器の中身が傷ついてしまうならニカが危うい。そんなことには絶対にさせたくない。

 クロードの訴えに反対する者はなく、彼らは歩幅を広げて先の見えない廊下の奥へと突き進んだ。

 

***


 律事の政務室がある棟の一室は簡易の牢屋になっていた。部屋に入るとさらにその中は六つの小部屋に分けられていて、鉄格子こそはないがどの部屋も外から鍵をかけるようになっている。

 その一室のぼろぼろになっている絨毯の上で、ニカは毛布を被って膝を抱えていた。

 ジトワ二等官の証言は、信じるにはあまりにも稚拙だと思った。だけれどそれで拘束されてしまったのだ。

 ザハールの後任だという律事官はきっとまともにとりあってくれない。どうせなら手柄が増えるというぐらいしか頭になさそうで、早く認めろと言うばかりだった。

「約束、したのにな」

 膝の上に額をつけてニカはぽつりとつぶやく。

 クロードと一緒に今日はルーロッカを探すことになっていたのに、これではもう無理だ。迷惑ばかりかけて、嫌になる。身から出た錆だから、いっそジトワ二等官の件も認めてしまった方が、ことは丸く収まるだろうか。

 クロードもフィグネリアもきちんと話を聞いてくれたけれど、何も残っていない自分ができることはそれしかないのかもしれない。

「ニカ」

 低い男の声が扉の前でして、ニカは顔を上げる。

「誰、だ……」

 聞きかえしながらも、いつも自分の心の声を囁く幻聴と同じ声だと気づいて声が震える。

(ルーロッカ様だ)

 今、扉の向こうにいるのはきっとそうに違いない。

「なあ。ニカ。ここから出してやるから来いよ」

 かちゃりと鍵の回る音がして、わずかに扉が開く。

「お前が閉じ込められたのは、予定外だったんだけどな。ちょっとあの紙束がなくなりゃ、妖精王もお前にかまってられなくなると思ってたんだけどよ。悪いことしちまったな」

 ニカは身を竦めて扉の隙間をじっと見るが、人影らしいものはない。

「どうしたんだよ、出て来いよ。そこにはいたくないんだろ。なあ、早くこっちこいよ」

「……あなたには従えません」

 これ以上は呑み込まれてしまってはいけないと、ニカは首を横に振る。

「どうしてだ? 駄目なんだろう。もう何も叶わない、お前には失意しかない。ほら、空っぽになっちまえ。そうしたら、楽しいぞ」

 男の楽しげな笑い声が外から入ってきてニカは耳を塞ぐ。しかし、声は遮断できない。

 歯を食いしばってニカは耳の中で響き続ける音に耐える。

「嫌だ」

 男の声をはねつけると、舌打ちが聞こえる。

「しぶといな。あ、くそ、妖精王の奴、かぎつけて来や、が……魔ばっかり……やがって」

 男の声が乱れる。その隙間に笛の音が入り込んできていた。

「クロード殿下……」

 圧倒的な存在感をもっていて心を惹きつけてやまない音色。こんな音を奏でる人間はたったひとりしかいない。

「ニカ、ついてこい」

 笛の音がおさまって男に呼ばれ、ニカは迷う。

「ほら、来いよ。おもしろいもの見せてやるから、きっと気が変わるぜ。力を手に入れるんだ」

 扉の隙間からするりと何かが入り込んできて、ニカは目を瞬かせて手をのべる。いたのはリスだった。数日前に見たのと同じだろう。

「お前、まだいたのか」

 毛玉に似たリスはそのまま近づいて来て、手の上に乗った。警戒心が強いのに珍しいとニカは持ち上げる。

 丸いつぶらな瞳と目が合った。

「行こうぜ、ニカ」

 そしてリスはあの男の声を発する。頭の中でその声は反響してニカは喉を引きつらせ、彼を落とそうとするが腕はまるで動かなかった。

「そう怖がるなよ。体半分、借りるだけだ。俺はルーロッカ、お前はニカ。ちゃんと半分だ」

 肩の上にルーロッカが移動し、ニカの体は本人の意思を無視して歩き出す。

「ニカ、試しに力使ってみようぜ」

 ざわりと周囲で何かがさんざめく。空気が同時に動いて、廊下の向こうへと流れていくのを感じた。

 心臓が激しく鼓動する。

 何が起ったかは頭では分からない。しかし体は人が持てる力を超越した感覚が残っていた。その後に、恐怖が襲ってきた。

 あれだけのものが、一瞬で打ち消された。

「さすがに、まだこの距離と状態じゃかなわねえか。でも、妖精王の奴も嘘つきだな」

 ルーロッカが肩口で耳障りな笑い声をあげる。

「あいつに味方になってもらおうぜ。そしたらおふくろにだってそう簡単に連れ戻されねえし、もっと派手でおもしろいことができる」

 ルーロッカは提案してきている口ぶりだが、ニカに是非を決める権限などあるはずがなかった。

 

***


「ん、そっち? もうちょっとあっちじゃないのか?」

 クロードが廊下を妖精と相談して歩いているのを眺めながら、フィグネリアは進んでいた。

「……神子様と似たものかと思っていたが、ずいぶんと違うものだな。会話もできているのですか?」

 隣にいるザハールに問いかけられて、フィグネリアは違うと答える。

「いや、なんとなく分かるそうだ。妖精は言葉は発さないらしい」

「なるほど。それでも意思の疎通はできていることには違いがないのか」

 ザハールが興味深そうにつぶやくと、クロードが振り返る。

「俺の力は一財産築こうとか、権力を握ってやろうとか、そういうことには使いませんからね」

 念押しされたザハールが薄く笑う。

「利用価値はありそうだけど、僕は自分で把握しきれない大きな力には手を出さない。張本人である君自身、よく分かっていないのなら余計にだな」

「お前のことだから技術革新のために利用するなどと言い出すかと思ったが、その考えなら助かる」

 ザハールがクロードの力に変な期待を寄せてしまわないか、不安でしかたなかっただったフィグネリアは、本心からそう言った。

「言ったでしょう。不確かなものには頼りすぎるべきではないと。皇女殿下、あなたは彼をどうするおつもりなのですか」

 質問の意図がよく分からず、フィグネリアはザハールを見返す。

「今回の神霊方でさえ把握できていない事態を、引き起こしている要因は彼である可能性が高い。私はそれが問題だと思うのですが」

 クロードに責がある言い方をされて、フィグネリアは眉をつり上げた。

「どうするもなにもラウキル様の時にしろ、今回のルーロッカ様の件についても、こちらが抱えている問題が露見されたにすぎん。できるだけ、神霊方が好みそうな問題の芽を摘み取っていくだけだ」

 確かに神霊が降りてきやすい状態を作り上げてしまったのはクロードだ。しかし、その神霊が地上にいついてしまう要因を作っているのは人間側である。

「確かに工費の水増しをしたのも、鬱憤を抱えているのも人間ですけれどね。第二の真実を司る、か。悪意と失意がこの国の真実だとすれば気が滅入りますね。この不正事件が拡大したのは、国の体制に問題があるからでしょうし」

「だから護るべきものは護り、壊すべきものは壊して変えていかねばならない」

「……何を護り、壊すか決められてはいますか?」

 ザハールの声は真剣だった。

「いや、明確には決められてはいない。私ひとりで裁量するものでもないからな。それぞれに譲れないものがあるだろう。勝手な判断で無理に壊せば歪みが出る」

 そのためにはどうしても繋がりがいる。人脈が築けていないことは考えていた以上に痛手だ。

「ならば、なおさら彼は隣に置いておくべきではないのでは。神霊方と深く関わり合いになることは避けた方がいいでしょう」

 ザハールがクロードの背に鋭い目を向ける。聞こえていないことはないだろうが、夫は振り返らない。

「フィグ」

 会話の間には入ってこずに妖精の動きを追い続けていたクロードが、警戒の声と共に立ち止まる。

 それからすぐに足音がする。人間のものということはニカだろう。すでに彼はルーロッカに体を奪われてしまっているのかもしれない。

「クロード、早くすませれば、エリシン五等官への影響も少ないはずだ」

 クロードの隣に立ったフィグネリアは、悔しさに震える彼の手に触れる。

 姿がはっきりと見えてきたニカの表情は不安に満ちていて、フィグネリア達は戸惑う。 ルーロッカが表に出ているとは見えない。

「よかった。まだ、リスの中にいる」

 ニカの肩にリスの姿を見つけたクロードが安堵のため息をつき、自分からニカへと歩み寄っていく。

「ニカ、それただのリスじゃないからこっちに渡してくれないか?」

「無理です。俺の体、まともに動かないんです……申し訳、ありません」

 起伏のほとんどない声でニカが言う。顔には表情があるのに、言葉にはまるで反映されておらず、不均衡さに薄ら寒いものを覚えた。

「妖精王、俺らと一緒に遊ばねえか?」

 リス、ルーロッカが笑う。

「本当にリスに降りてきているんだな」

 それを見たザハールが感心した風に言う。フィグネリアもまだどこか信じられない気持ちでいたが、喋ると同時に口を動かし、笑うときには体を揺するリスを見れば疑いようがない。

「遊びません。ニカになにしたんですか?」

「体貸してもらってるだけだよ。なあ、まずは妖精共なんとかしてくれよ。せっかく移行しかけたのに、お前がこいつを遠くに連れて行っちまった上に、笛を聞かせたもんだから妖精共がうまく言うこときかねえんだよ」

 ルーロッカが早くしてくれと、ニカの肩をもこもことした尻尾ではたいた。

「駄目です。そうしたらニカの体全部取る気でしょう」

「全部は取らねえよ。お前が協力してくれりゃ、この狭い体でも我慢してやる。だから一緒に遊ぼうぜ」

 執拗にクロードを誘うルーロッカに、不安を覚えつつフィグネリアはやりとりを見守る。

「皇女殿下、隙が出来たらエリシン五等官とまとめて取り押さえますよ」

 ザハールがそっと囁いてフィグネリアはうなずき、クロードにも大丈夫かと確認する。

「笛を吹いている間ぐらいは、妖精達の気は引けると思いま……っわ」

 クロードがそう言って笛に口をつけるが、足下が揺らいだ。敷き詰められている床石が飛び出したり、沈んだりを繰り返して床が不規則に波打っている。

「またこれは、とんでもない光景だな……皇女殿下、こちらへ」

 ザハールが目の前であり得ない動きをしている床に唖然としながらも、クロードの側に行こうとしているフィグネリアの腕を引く。

「……逃げるのなら、ひとりで逃げろと言ったはずだ」

「これから国を変えようと思っている人間が、自ら身を危険にさらすものではありません。ここで姿が見えれば、十分でしょう」

 ザハールの真摯な声に、フィグネリアはその場に留まる。

「ああ。そうだな」

 平静に言いながらも、彼が困ったときにすぐに手を伸ばせば届く距離まで行きたくて仕方がなかった。

「こら、お前ら止まれ! ……笛、吹いてやるから大人しくしろ!」

 クロードの最初の言葉には反応が鈍かったが、笛と聞いて石の妖精達がぴたりと動きを止める。

「お前ら、本当に現金だな」

 その場全員の思考を代弁してクロードが立ち上がる。

「そうだぜ。妖精共はお前の笛が好きだ。その力があればなんでもできる。気にくわない奴らだって、お前にひれ伏す。誰もお前には逆らえない」

 ルーロッカが落ち着いた調子でクロードに語りかける。

「そういう使い方、するつもりはありません。考えたこともないですよ」

「嘘だ」

 クロードが再び笛を吹こうとすると、すかさずルーロッカが告げる。

 先ほどまでの軽い口調とさして変わらないのに、彼の短い言葉は皮膚を刺し心臓まで入ってきて、その場に縫い止められるかのような錯覚を覚える。

(さすがに神霊様、ということか)

 フィグネリアは畏怖に震える自分の体を抱き、止まっている夫を見る。

「クロード……」

 側にいないと、と咄嗟に思う。しかしザハールに先ほどより強く腕を引かれて、前には進めなかった。

「真実を見ろ。お前の中に埋もれた真実を。欲したのは何だ」

 びくりとクロードの肩が震える。

「望んでない。そんなこと、俺は望んだことなんか」

 彼の声はとても弱かった。

 動揺する心い反応しているのか、あたりで風が揺れ石床や壁も小刻みに震えやがて建物自体が不安定に揺れ始める。

「よせ、君は皇女殿下を瓦礫に埋もれさせる気か」

 ザハールの忠告にクロードが振り返る。その瞳には光が滲んでいる。酷く幼く、脆い表情で自分を見ている。

 いや、違うのかもしれない。

 もっと遠くをかつて、彼が失ったものを見ているのだろうか。

「心配すんなよ。てめえはともかく、守役は大丈夫だぜ。なあ、そうだろ。どうしてもっと早くに人間共にその力を見せつけてやらなかったと、考えただろう」

 クロードが口を引き結んで、ルーロッカに向き直る。

「ああ。ほら、見えてきたはずだ。お前が隠していた真実が」

「クロード、耳を貸すな。クロード!」

 フィグネリアは声を張り上げてルーロッカの声を遮ろうとするが、クロードはこちらを振り返りはしなかった。

 神霊の声はすでに彼の心の奥深くまで入り込んでいるのだ。本能の赴くままにルーロッカは失意を、或いは悪意を孕んだ真実をクロードの中から引きずり出そうとしている。

 せめて、視線だけでもこちらに向かせなければ。

「離せ。クロードの側に行く」

 フィグネリアはザハールの腕を振り払うが、彼は離してはくれなかった。

「彼があの状態で、ルーロッカ様から貴女を護る保証がどこにありますか」

「護ってもらうつもりはない。とにかくクロードの意識をこちらに向けなければ始まらない」

 ザハールがクロードを一度見やり、それから嘆息してフィグネリアをの耳元に口を寄せる。

「貴女はクロード殿下を、私はルーロッカ様を押さえます」

 解放されたフィグネリアはクロードに駆け寄ろうとするが、再び床が揺れ動いて足を取られる。

「大人しくしてろよ。こいつがその気になったら、お前だってなんだって手に入れられるぜ。こいつの力の恩恵を最大限に受けられる人間なんだからな。てめえは別だけどな」

 どうにかクロードの側までは近づいたザハールを、ルーロッカが嘲笑する。

「……っ、イサエフ二等官!! 右へ!」

 ほとんど喋ることもままならずにいた、ニカが息苦しそうに警告を発する。

 浮き上がった床石が真っ直ぐザハールめがけて飛んでいく。

「まったく、神の怒りとはとんでもないな。……これは元に戻るのかな」

 なんとか避けたザハールが真四角に抉れた床と、自分の側に落ちた床石を見比べる。フィグネリアはそれに安堵しつつ、ルーロッカの隙を伺いクロードに近づこうと考える。

「さあ、妖精王。見てみろ。こいつだって妖精共を使えばこの通りだ。もう分かっているはずだ。同じことをしたかっただろう。お前をこけにして、大事な物を奪った奴らに」

 しかし、彼女が動き出す前に辺りが静寂になる。わずかに聞こえていた柱時計の音や、動くときの衣擦れ、靴音。

 何もかもが響かなくなる。

 そして薄暗い廊下の隅にわだかまる影が膨らんで辺りが漆黒に包まれる。

 全く何も見えずフィグネリアはクロードの名を呼ぶが、その声は口から出ることはなかった。喋れないわけではなく、口から出しても音にならないのだ。

「おおっと。思った以上にすんげえなあ。さあ、こっちに来いよ。妖精王」

 くぐもった声が闇の中で弾んで、爛々と輝いているルーロッカの目が見えた

 妖精を使役できるルーロッカだけが喋れるらしかった。

(これは、クロードが影の妖精で暗がりを作って風の妖精で音を消しているのか……?)

 フィグネリアはルーロッカの位置を頼りに、数歩先にいるはずのクロードへと向かう。

(この暗闇は、なんの象徴だ)

 ルーロッカが引きずり出そうとした真実が、母親を殺されたことへの復讐心であるのなら、もっと嵐に似た激しい動きがあるのではないのだろうか。

 フィグネリアは腕を伸ばす。おそらく、この距離にクロードはいるはずだ。

 しかし指先に触れるものはなにもなかった。

 声にならないと分かっていても、フィグネリアは夫の名を何度も呼ぶ。

 拒絶されている気さえしてたまらなく不安になる。

「だから、余計なことはすんじゃねえよ」

 ルーロッカの声が耳元で聞こえて、フィグネリアは歯噛みしてふたつの獣の瞳を睨みつける。

「怒るなよ。人間共の王なんだろ、お前。妖精王を手に入れようとした人間の王は山ほどいるけど、手に入れられたのはお前だけなんだぜ。欲しい物はなんだって手に入るぞ。あの笛の音をたまに聞かせてくれるんなら、俺の兄弟達もお前にいろんな物を与えてくれる」

 勘違いも含んだ甘い誘いはフィグネリアを苛立たせるものでしかなかった。

 クロードの価値を勝手に限定されるのは気にくわない。

(クロード、どこにいる)

 フィグネリアは足を一歩進めて、深い闇を手探りする。そのうちに幾種類もの花の香りが入り交じった甘い匂いが肺まで満たしていく。知らない香りのはずなのに、馴染み深くもあった。

 そして石床を踏みしめていたはずが、芝生の上を歩いている感触に変わる。

 真冬のディシベリアではありえない暖かさも肌に感じた。

 春の夜だとフィグネリアは思う。

(……どういうことだ? これも妖精がもたらす力なのか)

 ふと側に人の気配を感じてフィグネリアはそちらへ手を伸ばす。闇が歪んで隙間に夫の後ろ姿が見える。

 彼の腕を取ると、ルーロッカの舌打ちが耳に届いた。

「守役、後はお前がどうにか言いくるめとけ」

 急に闇が弾けて元の薄暗さが戻ってくる。

 そうしてすぐ側ではクロードが倒れているのが見えた。

「クロード!」

 フィグネリアはすぐにクロードを引き寄せるが、彼は意識がないらしくそのまま倒れ込んできて抱き留める。そのままま床に寝かせて頭を自分の膝に置き、呼びかける。

「……ルーロッカ様には逃げられましたね。彼は無事ですか?」

 ザハールがクロードの顔を覗き込んでしかめっ面になった。

「気を失っているだけのようだ。クロード」

 夫の頭を膝の上に置き、その手を握ってもう一度フィグネリアは呼びかける。手を握る指がかすかに動くだけで、瞼は閉ざされたままだ。

「彼は目覚めるのですか? このままなら一度引き上げた方がよさそうですが」

「……少し、待ってくれ。そう長くはかからない」

 繋いだ手のぬくもりから、フィグネリアは直感していた。

 彼の心は自分の側にある。だからすぐに琥珀の瞳はすぐにまた自分を見てくれるだろうと。


 

5



『嘘だ』

 ルーロッカのそんな声が響いた瞬間、クロードはまずいと思ったが、次の瞬間には分厚い壁の中に閉じ込められたように、周囲の音が遠ざかっていった。

 その中でルーロッカの声ばかりが鮮明に響いていた。

 冷たく薄暗い王宮の廊下の向こうに、故国の王宮の塔の庭先の、春を間近にして植物たちがふっくらと蕾を膨らませている光景が重なって見える。

 銀に一滴の蜜を溶かし込んだ淡い金髪の女性が、テラスの揺り椅子の上にいて、その腹部は丸く膨らんでいる。

(母上だ……)

 忘れてしまっていたと顔は今、優しい笑顔も愛に満ちた眼差しもはっきりと分かる。

 懐かしさや喜びよりも、恐れが胸を締めつける。

(もうすぐ、死んでしまう。おなかの赤ちゃんも一緒に)

 いや、もういなくなっている。ふたりともずっと昔に、あれは事故なんかではなかったはずだ。母はあの日に第三公妃に茶会に呼ばれ、かつて仕えた縁もあってか躊躇しながらも呼び出しに応じてしまった。

 臨月を間近にした母が人気のない階段を上り、そこで第三公妃の子である双子の兄達が遊んでいてぶつかったというのは、偶然というには不自然すぎる。

 それに、兄達は階下に落ちた母を眺めて笑っていたと、駆けつけた女官達が言っているのを聞いた。

『真実を見ろ。お前の中に埋もれた真実を。欲したのは何だ』

 ルーロッカの声が大きくなる。

「望んでない。そんなこと、俺は望んだことなんか」

 じわり胸に広がっていく感情は粘ついて、硝子片が混ざっているかのように鋭い。

 そこへザハールの忠告が微かに聞こえ、クロードは振り返る。フィグネリアがそこにはいた。

 今の自分の一番大事なもの。

 祭事の櫓の上から落ちそうになったフィグネリアに手を伸べて、妖精達に手を貸してもらって護れたことが、ふっと思い出された。

『――なあ、そうだろ。どうしてもっと早くに人間共にその力を見せつけてやらなかったと、考えただろう』

 クロードはルーロッカに向き直る。ルーロッカを肩に乗せているニカが何か口を動かしているが、聞こえなかった。

「クロード、まだ先よ」

 その代わり母の声が現実のものに聞こえる。すでにクロードの意識は過去へと呑まれていた。

 暖かな陽射しが降り注ぐテラスで揺り椅子に座る母がころころと笑っていた。

 あの頃の自分はいつ赤ちゃんが産まれてくるのか楽しみでしかたなくて、毎日まだと母に聞いていた。

「だって、早く会いたいんです」

 小さな命が宿っている腹部を撫でて、クロードは唇を尖らす。もう数ヶ月は先だと知っていてもその日が待ちきれなかった。

「まだ準備ができていないのよ」

「俺もまだ準備はできてませんけど……。兄上達よりつよくもなれてないし、かしこくもなれてません」

 クロードは母の膝に身を寄せて眉尻を下げる。

 初めての同母の兄弟はきっと自分と同じように、双子の異母兄達に意地悪されるだろう。護ってあげるために力が強くなったり、口でも勝つために賢くなりたかった。

 でも思い描くとおりに上手くいかずに、昨日も作法の講義の後に足を踏まれて、悪口に何も言い返せなかった。

「あなたは人に対して妖精達の力が強すぎることを、ちゃんと分かっている賢さと、そして力に頼らない強さがあるわ。それだけでいいのよ。いつかきっと、その強さも賢さもあなたを助けるわ」

 それから、と母が自分の手を取って新しい命が宿る腹部に当てる。

 掌ごしに鼓動が伝わってきている気がして、クロードは笑顔になる。

「たくさん愛して、幸せにしてあげて。きっとこの子もたくさんあなたを愛してくれるわ」

 うん、とクロードはうなずく。

 知っている。どんなことがあっても、母の”愛している”の言葉ひとつで悲しいのも悔しいのも、辛いのも全部大丈夫になる。

 あの頃の自分は、明日を待っていた。漠然とだけれど、目指すものもあった。

 何もできない自分だけれど、少し変わろうとしていたのだ。

『――もう分かっているはずだ。同じことをしたかっただろう。お前をこけにして、大事な物を奪った奴らに』

 視界がぶれて床石が飛んで行くのが移り、ルーロッカの声が割り込んでくる。

 そう願ったのは真実だった。

 一度たりとも自分の名を呼ぶこともなかった父は、母の死について何も手を打たなかった。

 だれも何もしてくれないのなら、自分の手でと思った。

 妖精達の力を使えば誰にも負けないと知っている。その考えの一瞬の後に、母の姿が頭をよぎって、怒りも憎しみも全て喪失感が吸い込んでしまった。

 そして真夜中に妖精達に寄り添われて自分は墓地に佇んでいた。

 蕾だった花。すでに散った花。まだ時期を迎えていない花。

 棺を埋めるときに自分以外に花を手向ける者がいなかった、母と生まれて来られなかった兄弟のために、妖精達に頼んでありとあらゆる花を咲かせていった。

 喪失感と一緒に明日への期待と何かを目指していたことを、記憶の奥深くに埋葬してしまう。

(誰だろう……)

 芝生を踏みしめて側に寄ってくる気配がある。ここには誰ひとりとしていないはずだ。

 不思議なことに警戒心は湧かない。ゆっくりと空虚な胸が満たされていって、夜が遠ざかるのを感じた。


***


 クロードの目尻に滴がこぼれ落ちる見えて、フィグネリアはそれを指でそっとぬぐう。

 閉ざされた瞼の奥で彼は一体何を見ているのだろうか。

 フィグネリアが光を注ぐかのように夫の瞼に口づけを落とすと、睫が震え彼はゆっくりと目を開いた。琥珀色の瞳は潤んでいたが、しっかりとフィグネリアを見つめ返していた。

「大事ないか?」

 まだ少しぼうっとしていていとけない雰囲気に、フィグネリアは心配そうに目を細める。

「……大丈夫です。頭の中がぐるぐるしてるけど」

 クロードが半身を起こして、頭を軽く振ってから辺りを見渡す。大丈夫と言う割には、彼は自分の手をしっかり握りしめて離さなかった。

「……ニカとルーロッカ様は?」

「逃げられたよ。君が辺りを暗闇に包んでいる内にな。まったく、これぐらいしか役にたたないのに、そんな調子でルーロッカ様は捕まえられるのか?」

 ザハールが苛立たしげにクロードを見下ろし、きつい言葉を浴びせかける。

「すいません……」

 吐息ほど微かな声で返事をするクロードはどこか遠くを見るような目をしていた。

 触れるだけすぐに崩れていきそうな危うさを覚えて、フィグネリアは夫の手を強く握り返す。

「神霊様相手だ。そう簡単にはいかない」

 そしてねめつけるとザハールが鼻白んだ。

「それはそうでしょう。しかし、彼は自分の力すらまともに制御できていなかった」

 沈黙したままクロードが繋いだ手を解いて立ち上がる。ふらついてもおらず、体は特に異常はなさそうだった。

 だが、内側は別だろう。

「制御、できたらたぶん、他の誰にもできないことできるんですよね、俺。力に頼ることはいけないことだけど、もっと早くから使ってたら母上達が死んでしまうことはなかったかもしれない。異端だって言われたって、誰にも俺をどうすることなんてできなかったのに」

 クロードの声には感情が薄く、表情にも読み取れるものがない。フィグネリアは独り言なのか、語りかけているのかすら曖昧な彼を制止する。

「クロード、少し座って気を落ち着かせろ」

「……どうして、悲しいのを忘れるのに、一番幸せだったことも一緒に忘れてしまわなくちゃいけないのかな。幸せなことは忘れたくないのに、でも力を押さえるためには必要で、力がないと、それ以外俺にはなんにもなくて」

 クロードの瞳は揺らぎながらも、フィグネリアをずっと見つめていた。

 幼い彼の世界の全てを占めていた母親の喪失は、記憶から消してしまわねば耐えられないものだったのだろう。

 抱き寄せたいと手を伸ばそうとしたフィグネリアは、ゆるりと動かしかけた手を止める。

 今、全てを自分が抱きとめてしまうのは違う。

「クロード、私が愛しているのはその力があるからではないのは分かっているだろう」

 でも、と言いかけたクロードがフィグネリアの眼差しに口を噤む。

「私の心を動かしたのは、お前が妖精を従える力以外に持っていたものだ。それは母君がお前に教えた愛することの幸福や、お前の素直さだとか優しさ。それから、ここへ来てお前が新しく得た物も多いだろう」

 確かにクロードはないものが多かったけれど、本当に空っぽではなかった。

「エリシン五等官が密告の真実を告げる気にさせたのも、お前が持っているものが彼の気持ちを動かしたんだろうな。何もないわけではない」

「あるんですか?」

 疑わしげな視線にフィグネリアは苦笑する。

「あるんだ。母君の愛情は、怒りや悲しみだけでなくお前のそういうものも一緒に包んで隠してしまっていたのだろうな」

「……それは、駄目なことだったんですか?」

 クロードが傷ついた顔を見せて、フィグネリアは首を横に振る。

「いい、悪いで別けられることでもないだろう。亡くなってもお前を護り続けられるほど、深く愛していたことは確かなんだ。他に誰も、お前を護る者がいなかったから、そうするしかなかったのだと思う」

 フィグネリアは一度言葉を切って、夫に微笑みかける。

「私はお前を母君と同じようにはなれない。お前を護る者は他にもたくさんいるし、なによりお前自身が自分で自分を護れる。悲しみも幸福も全部、抱えられるだけの強さを得ていけばいい。今のお前なら、得られるはずだ」

「できる、かな」

 やっとクロードの視点が定まってきて、フィグネリアはうなずく。

「ああ。助けがいるなら手を貸す。迷ったなら、一緒に考える。私はそうやって、お前が自分を信じられる気持ちを護っていく。だが、答を持っているのはお前だ。私ではなく、お前自身の中に必ず答はあるはずだ」

 クロードがしばらく沈黙する。

「……ニカを助けたくて、力のことを話すって自分で決められたみたいにですか?」

「そうだ。そうやって、これからもたくさん答を見つけて、強くなっていけばいい。どうしても抱えきれないものは私も一緒に抱える。……だが、お前が強くなればなるほど、私は今まで以上に甘えてしまいそうだから、そこは自重せねばな」

 冗談めかしてそう言うと、クロードがやっと明るい表情を取り戻してくれた。

「フィグがいっぱい甘えてくれると、嬉しいな。そうなりたいです。でも、フィグが全部じゃ、なれないんですよね。他にもっとたくさん大事なもの、見つけないと」

「ああ。そうだな」

 フィグネリアは大きく首を縦に振る。

「でも、たぶんどんなにたくさんのものを手に入れたって、俺が一番大事なものはフィグだってことは変わらないと思います。今、俺が誰にも負けたくないって思えるのは、フィグのために頑張りたいって気持ちで、それがずっとこれからも俺の支えになるんだと思います」

 言いながら、クロードが抱きすくめてくる。

 せっかくの我慢が台無しだとフィグネリアは思うが、縋りついてくるものでなく存在を確認するものだったのでされるがままにしておく。

 フィグネリアは彼に応えて短い間抱き返しすぐに腕を解く。先にクロードから離れていくが、遠くに行った気はしなかった。むしろもっと近いところにいるようだと思う。

「もう、本当に大丈夫だな」

「はい。よし、ニカ助けましょう。今度はルーロッカ様に負けたりしません」

 クロードが息をひとつ大きく吸い込んで、背を正す。表情には緊張感はあるが明るさが戻っていた。

「それで、君はルーロッカ様がどこにいるかは分かっているのか?」

 壁際で退屈そうにしていたザハールがそう言って、クロードが視線を宙に向けてそれから視線の先に向けて歩き出す。

「こっちです、隠れる気はないみたいですね。でもなんだか妖精がすごく不安定です」

「……それは君が制御不能になってたからじゃないのか?」

「う、それはあると思いますけど、本当にすいません」

 クロードが素直に謝るのにザハールは興ざめした顔を見せる。

「あまり気にするな。たいしたことはなかったが……しかし、花の匂いがしたり床が芝になったりして辺りが春のようになってていたのは、あれも妖精か?」

 フィグネリアはあの闇の中でのできごとが気になって訊いてみる。

「俺の中にいる妖精達の一部とか? 取り込んでるってことは今この場にいない妖精達が、俺の記憶から再現してたのかもしれないですね……」

 クロードが短く沈黙し、ゆっくりと口を開く。

「墓地で、たくさん花を咲かせたんです。寂しくて、苦しくて、ただ辛くて気持ちが抑えられなくて、なんでもいいから壊してしまいたいと最初は思ったんですけど、結局、母上達のために花を咲かせたんです。そうだ、あのときも妖精達と繋がってましたね」

 隣で過去を語る夫は寂しげではあったけれど、危なげな様子はなかった。

「花か。お前らしくていいな」

 フィグネリアは優しい気持ちになって微笑する。

「僕は何も感じなかったが、皇女殿下にだけ作用していたのか?」

 ザハールが首を傾げ、夫婦は顔を見合わせた。

「単に、俺が無意識のうちにフィグのこと呼んだからかもしれませんね。愛の差ですよ。あれ……?」

 突如クロードが何かに気がついて足を止める。

「クロード、どうした?」

「いや、二手に別れてる。あっちと、それからもっと奥……? 片方が弱くてもう片方が大きいです」

 フィグネリアとザハールが、クロードにどういうことだと視線を向けた。

「妖精を扱う力のほとんどは今、ニカで、その力を使う意思決定はリスの方が持ってるんだ……」

「扱う力というのはなんだ? 神霊様は命じているだけと仰っていたが」

 クロードが気づいたらしきことはさっぱり意味が分からず、フィグネリアはもう一度聞きかえすが、クロードも考えあぐねているらしくなかなか返答がなかった。

「……すんごく、大事なこと思い出してきた」

 そして彼は深刻な顔でつぶやいて、また考え込み始める。

「命じるって言っても、人間が言葉を発するのとは少し違うんです。そこに、俺の笛の音に似た力が付随してるんです。俺の場合は引っ張り寄せて繋げるけど、神霊様は背中を押すみたいな感じで真逆ですけど。ううんと、馬に鞭を使うのと似てる? 鞭と、それを振るう意思?」

「妖精を扱う力が鞭で、命じるというのは腕を上げて叩く動作のことになるのか?」

 ザハールの確認にそんな所だとクロードがうなずく。

「今は、ニカに力をほとんど移しちゃっててリスの体だけじゃ、ほとんど妖精を動かせないはずです」

 フィグネリアはここ数日の口論騒動について反芻してみる。

「……エリシン五等官と遭遇したと思われる日から口論の件数が増えたのは、妖精を扱う力を合った器に移して、その効力が高まったからか。そして、一定以上距離を取ると命令が届かずエリシン五等官が小宮にいる間は口論は起きなかった、ということか」

「そういうことだと思います。でも、なんで二手に別れたんだろう……」


 クロードが眉根を寄せながら政務室へ続く廊下の奥へと目を向けた。


***


 ニカは政務室の一室の部屋で椅子に腰掛けて、机に突っ伏していた。体は重たく動かないが、それはひどい疲労感のためで、四肢の感覚自体は自分に戻ってきている。

「ああ、くそ、妖精共こっちだ。こっちこい」

 目の前ではルーロッカが苛立たしげに尻尾で机を叩きながら、周囲に向かって怒鳴り散らしていた。

(クロード殿下はどうなったんだろう)

 辺りが暗闇に包まれた瞬間に、感情に流れ込んできたクロードの失意が蘇ってきて、ニカは唇を噛んだ。

 自分が時間稼ぎで話すことを羨ましそうに、楽しそうに彼が聞いていたことを思い出すと、また罪悪感でいっぱいになる。

(……人がいいのはあの人の方だろうにな。駄目だとか言っていたけれど、俺の方がよほどだ)

 自分自身のことを駄目だと言いながら、それでも手を貸したいと言ったクロードを思い出してニカは自嘲する。ただ口元はほとんど動かなかった。

(……目を開けていられない。このまま意識をなくしたなら、どうなるんだろうか)

 意識が朦朧としてきてニカは瞼を下ろしかける。

 今度こそ全てルーロッカに持って行かれてしまうのかもしれない。どんなことが起こるかは想像がつかないが、ろくでもないことになるのは間違いない。

「おい、おい、ニカ。しっかりしろ、今繋ぎ直してやるからよ。ったく、妖精王の奴、ちっとばかし妖精共を引っ張り込みすぎなんだよ。おかげでお前と俺の繋がりが緩んじまってるじゃねえか。ここまで離れてもまだ妖精王に引っ張られそうになってやがる……だから、こっちだつってんだろうが!!」

 ルーロッカが叫んで、意識が少しはっきりしてくるかわりに、四肢の感覚が再び鈍くなっていく。だが、今ならまだ動ける。

「妖精王の奴、起きやがったな……こっち来るな」

 ルーロッカに侵食されている部分でニカも同じことを感じる。

「やっとその気になったみたいだな」

 楽しげにルーロッカが笑って、違うとニカは思う。クロードはけしてルーロッカについたりしないだろう。

(皇女殿下がお側にいる。それに、あの人自身が自分の力のことをよく分かっているはずだ)

 クロードは何度可愛いと言っても飽き足りないぐらいフィグネリアが好きで、きっとどんな失意に呑まれたって、彼女さえいれば本当に空っぽになんてならないだろう。何よりあれだけ卑屈になりながらも、力を利用したりしない彼がそう簡単にルーロッカの誘いに乗るとは思えなかった。

 ニカは重たい手足を指先から徐々に動かしていってふらりと立ち上がる。

 自分が離れている間、騒動は起きなかった。

 距離を取ればルーロッカが力を振るえずにクロード達も取り押さえやすくなるはずだ。

(本当に駄目になってしまう前に、ひとつぐらいは何かしないと)

 クロードはこんな自分のために、大事な秘密まで喋って助けようとしてくれたのに諦めてしまうわけにはいかない。

 ニカはそのまま部屋の外に向けて力を振り絞って駈け出す。

「ニカ! こら、何勝手なことしてんだ!」

 部屋を出て廊下を少し行った所で足が硬直しそうになって走れなくなる。

 だがそれでもニカは足を動かして歩き続けた。


***


 廊下の向こうからニカが壁伝いに歩いてくるのが見えて、クロードは身構える。

「ルーロッカ様がいない……ニカ、どうしたんだ? 大丈夫か?」

 クロードはニカの近くにルーロッカが見えず、周囲を見渡すがそれらしき姿がない。そしてニカの足取りがおかしいのにも気づいて不安になる。

 今、動くべきか否か。

 三人が迷っている内にニカが膝からその場に崩れ落ちてしまった。

「ニカ!」

 クロードが真っ先に駆け寄り、フィグネリアとザハールが後から動く。

「……ルーロッカ様は、奥です。申し訳あり、ません。ここまでは引き離せ、たんですが」

 壁に背を預け息苦しそうに喋るニカは寒い中、滴るほど汗をかいていた。瞳孔が開ききっている瞳も焦点が合っていない。

 自分がルーロッカに惑わされ、時間を食ってしまったせいに違いない。

「ごめん、すぐになんとかするからな」

「あいにく、俺はラウキルと違って単純じゃねえからな。音には簡単にはつられねえぜ。それに、今は止めとけよ、ニカが壊れちまう。嘘じゃねえぜ。俺は、真実しか言わない」

 笛を取り出していると、どこからともなくルーロッカの声が聞こえてきた。

「ニカに、何が起こっているんですか」

「力の移行がほとんどすんじまってるのに、離れるからこうなるんだよ。人間の体で俺の力だけ制御しきれねえからな。妖精共で繋がってるから、下手に切り離すとどうにかなっちまうか俺にもわからねえなあ」

 ルーロッカがおもしろがる風に言って、クロードは歯噛みする。

 そしてニカに意識を集中させれば、ありとあらゆる妖精達が絡まり合って渦を巻いているのが分かった。すでにそれぞれの属性は半ば失われ、一個の力の流れへと変質してしまっている。

 不快な感覚だった。

 妖精達にだって属性によって特性があるのに、無理矢理こんな形にしてしまっている。

 ふっと意識をルーロッカの方に向ければ同じような妖精の動きが分かる。

 妖精同士が呼応して、震える。確かに繋がっている。

 クロードはニカへと視線を戻す。彼の方から感じる力の方が強く、もうほとんどルーロッカに体を侵食されているらしかった。

「妖精王、真実は見えただろう。俺と遊ぼうぜ。お前の望みも全部叶うだろう」

「……今の俺の望みはニカを助けることです」

 クロードは妖精達の様子を探る。彼らを上手く解けばニカからルーロッカの力を追い出せるかもしれない。

「余計なこと、考えるんじゃねえよ」

 ルーロッカが低い声で言って、周りの妖精達がざわつく。

「クロード」

 フィグネリアがどうするかと名前を呼んでくる。

「今、笛を吹くのは本当にまずいと思います。上手く、妖精達と繋がれれば解くこともできるはずです」

「君は、それができるのか」

 ザハールの厳しい問いかけにクロードは間を置いて、首を縦に振る。

「やります」

 あの夜に内にある妖精と繋がった感覚は今、はっきりと思い出せる。それにいくらか母から教えられた記憶も鮮明になってきた。

 母はもうすぐ下の兄弟が産まれると分かった頃、妖精達との関わり方や神霊達のことを教えてくれていた。最も幸せだった頃の記憶は、痛みをまだ伴っているけれど怖れはない。

 クロードは側にいるフィグネリアと一度目を合わせて、ニカに向き直る。

「させねえぞ。笛の音はもったいねえが、まあどうせまたすぐにお前は現れて俺らの邪魔、するんだろうなあ」

 ルーロッカの言葉に元の軽薄さはすでになかった。

 肌に触れる気温が一気に下がって、吐息が真っ白になる。

 外気に触れている指先や頬の辺りが痛みと熱を伴い、あたりに微かに漂う水の妖精が氷変質し始めている。

「……凍死させるつもり、というより身動きをとれなくするつもりか」

 ザハールがまだそこまで堪えていないのか、平静につぶやく。

「クロード、動けるか?」

 長い睫を凍らせているフィグネリアが、クロードの背を撫でる。どうやらディシベリアで産まれ育ったふたりは、まだ耐えられるらしい。

「大丈夫です!」

 一方経験したことのない気温に身動きがほとんどとれないクロードは、どうにか歯を噛み合わせて答える。唇は切れたらしく、わずかに血に味がする。

 自分がどうにかしなければ、自体は動かない。

 思考すら凍結してしまいそうな寒さの中、半眼を伏せる。

(力の根源は内側に。外からたどる)

 ルーロッカの支配下になく自分の側に寄り添っている妖精達の気配を捉えてから、自分の内側へと意識を持っていく。

 心臓よりも、もっと奥深くに混在する妖精達。あまりにも自分自身と一体化していて、今まで気づきもしなかった存在を見つける。

 自分でありながら、自分ではないものがいるのは奇妙な感覚だった。

 だけれど、とても心強い。

(記憶と力を繋ぐ。それから外へ)

 ハンライダの春。鮮やかな色彩が溢れかえり、肌に触れる風は優しく暖かい。一番好きな季節だった。

 懐かしいと内側の妖精達がさんざめいて、外にいる妖精にもそれは伝播していく。

 繋がっていく。

 クロードの瞳が光を帯びて、凍てついた空気がふわりとした暖かさを持つ。

 芯から凍てついた体がやっと暖まってくる。

「くそ、妖精共こっちだ!」

 ルーロッカの命に周囲の床石が浮き上がるが、宙で小刻みに震えながら動かずにいる。

 拮抗するふたつの力の間で妖精達はとまどっているらしかった。

(押しつけるんじゃなくて、ひとつになる)

 手を差し伸べるように内側の妖精を戸惑う石の妖精へと向ける。見えない指先同士が触れ合った。

「静かに」

 命じるのではなくお願いすると、彼らは静かにもとあった場所へとあるべき姿でおさまった。

 そしてそっと繋がりを解いていけば、周囲の温度がゆっくりと元の冷たさに戻っていく。

 繋がりは絶たれても妖精達はすでにみんな自分の方へと、気が向いている。

 もはや誰もルーロッカの言葉を聞きはしない。

「ルーロッカ様、諦めて下さい」

 クロードは黄金の瞳で廊下の先のわずかに空いている扉を見据える。あの影にいるのは間違いない。

「妖精王、ニカがどうなってもいいのかよ」

「俺が力を抑え込みます。どっちにしろ、ルーロッカ様は何もできませんよ」

 脅し文句をはねつけると、それ以上は反ってこなかった。

「フィグ、ルーロッカ様をお願いします。俺はニカを」

「……ああ、わかった。お前は、お前だな」

 フィグネリアがまっすぐに顔を覗き込んできて安心したかのように微笑んで、ルーロッカのいる方へと向かう。

「僕も皇女殿下の手伝いに行く。君は……いや、いい」

 ザハールがニカに目をやって、言いかけた言葉を止める。それは気にはなったが、クロードはともかくニカを助けることだけ考えることにした。

「ニカ、もうちょっとだからな。ニカ、聞こえるか?」

 意識が朦朧としているらしく、ニカの反応は薄い。

 クロードはルーロッカと繋がる妖精の塊を解こうとするが、ニカの内側深くまで侵食していることに気づいて止める。

 これはルーロッカの力を外に押し出してしまわねばならない。

「ニカ、今からなんでもいいから考えろ。楽しいこととか、ああ、そうだ。どうしても諦められないもの!」

「……もうありません。やるべきことはやり終えました」

 途切れ、途切れの声にクロードは眉根を寄せる。

「終わってないだろ、まだニカが不正はしてないって証明してない。ジトワ二等官だって殴ってないんだろ」

「それはもう、いいんです」

「よくない。一緒に考えるって言っただろ。俺だってニカのこと、まだ助けられてない」

 ニカの返事がほとんど聞こえなくなってきて、クロードは一生懸命ニカの心を動かせるものを探す。

「えっと、そうだ。家、立て直すんだろ。それ、フィグのためになるから。フィグの好きなものは黒字だし!」

「…………馬鹿でしょう。あなたは」

 ニカが小さく笑う。

「あ、もうそれでいいや。ほら、ええっと。いざなんか馬鹿なこと言おうと思っても難しいな」

 必死にニカが楽しくなれる言葉を考えていると、ニカがまた笑った。

「殿下はやはり変ですよ。でも、あなたと話すのは楽しかったです。……利用しておいてこんなことを言うのは、失礼でしょうが」

「俺も楽しかったからそれはいい。あとでまたいろいろ話そう。まだ話したいこととか俺もあるし」

 すでにいろいろと諦観してしまっている風なニカに、クロードは必死で語りかける。

「……また皇女殿下のことですか?」

「あー、そうだな。大体それかもしれない。でも、そういうこと以外ももっと、俺にもよく分かんないけどさ、話せること、あると思う」

 ニカが緩やかに首を縦に振った。

「……自分も、殿下ともう少し話がしてみたいです」

 ニカの中から外へと押し出される力を感じる。クロードはそれを妖精達に捕えさせて、ルーロッカへと押し戻す。

 後は、絡まった妖精達を解いて元に戻すだけで難しいことはなかった。

「ニカ、楽になったか?」

 訊ねると彼は少し血色のよくなった顔でうなずいて、クロードは上手くいったことにへたり込みそうになる。

 実際妖精達と繋がった反動か、体は疲労感で重かった。

 しかしルーロッカを捕まえるまでは、終わりではない。

「じゃあ、そこでちょっと待っててくれよな」

 妖精達もそう大きく動いていないので大丈夫だろうが、念のためクロードはふたりと合流することにした。


***


 政務室の椅子があちこちで揺れて、フィグネリアは眉根を寄せる。

「皇女殿下、彼は本当に妖精を止められているのでしょうね」

「そのはずだが……」

 クロードが妖精を暴走させてしまった時のように、椅子が飛んでこないか身構えるが、その気配もなくただ揺れているだけだ。

「もしかしてこれぐらいしかできない、といことでしょうか」

 ザハールが小馬鹿にして鼻で笑う。それに機嫌を損ねたのか、さらに椅子が激しく揺れ動くが浮く様子はない。

 どうやらその通りらしい。

「ち、ちっくしょう、人間が馬鹿にしやがって! 妖精王の助けなしじゃなんにもできなかっただろうがよ! だいたいなあ、まともな器に降りてきたら俺らはあいつには、負けねえよ。今回は条件が悪かったんだ!」

 部屋に声が響くが、ただの負け惜しみである。

 これに振り回されていたかと思うとどっと疲れが押し寄せてくる。フィグネリアはため息をひとつついて、床に屈み込む。

「ルーロッカ様、ひとつ伺いたいのですが私の引き出しから書類を持ち出したのはあなたですか?」

 そこでザハールがルーロッカに問いかける。

「おう。そこの人間は正直者だな。嫌いじゃねえぜ、俺は。ニカがいなくても、鍵をちょいと開けて、それをどうにかしたがってる人間に一言、二言ぐらい吹き込むことはできるんだぜ」

 ルーロッカがいやらしい笑い声を響かせる。

 おそらくザハールかガルシン公家に反する者の悪意をルーロッカは利用したのだろう。

「朝、誰もいない時間というと、火入れ係の彼か……。なんとかできるな。それと、ジトワ二等官について、何か目撃していませんか? インク壷で殴り倒された人間のことですが」

「ああ、あいつか。山ほど嘘ついてるやつだ。面白い真実を抱えてるのに出し惜しみ、しやがるんだよな。ありゃ、俺を捕まえようとしたから、ちょうど真上にあったあれ、割って驚かそうと思ったら、近くにニカがいて変に力が動いちまったんだよ。移行なんて初めてでまだ勝手が掴めてなくてな。せっかく面白いことになってんのに、死んじまわなくてよかったぜ」

 フィグネリアとザハールは目を見合わせて、頭を抱えたい気持ちを共有した。

 本当に神霊というのは訳が分からない。

「エリシン五等官の容疑を晴らしてくれるつもりか」

「いいえ。私は完璧主義なんです、自分の関わった仕事に汚点が残るのは許せません」

 存外まともらしい、とフィグネリアはくすりと笑う。

「少しは、私に気が引かれましたか?」

 その笑顔を見つけてザハールが問うてくる。

「あいにく、私にとってはクロード以上に惹かれる相手はいない」

「私情だけで伴侶を決めるなど、執政者としてはいかがとは思いますが。しかしながら、貴女にとって彼が必要、というわけでなく。彼にとって貴女が必要というのはよく分かりましたよ。面倒なものに好かれたものですね」

 ザハールの口調は軽かったが、表情だけはひどく深刻そうだった。

「……言っておくが、私にとっても必要だ。面倒なものでもない」

 言いながらフィグネリアは、ザハールは自分の気を引きたいと言葉にしているものの、知りたがっているのはクロードのことばかりではないかと、引っかかりを覚える。

「後で、ご自分の首を絞めることにならなければいいと思いますが。本当に面倒なことだ」

 ザハールはつまらなさそうな顔をして、部屋の片隅を目指しさくさくと動き出す。そしれ彼に合わせてフィグネリアも近くに動く。

「さあ、ここですね、ルーロッカ様」

 そしてザハールが乱暴に椅子を蹴り上げて、その衝撃に驚いたルーロッカが飛び出し、待ち構えていたフィグネリアは彼を掴み上げる。

「ちょっと待て! てめえらなんでわかった!?」

 フィグネリアは手の中で喚くルーロッカを見下ろす。

「一瞬ですが、喋り始めの時はこちら側から音が大きく聞こえ、椅子が動くときにもこちら側が少し激しかったので」

 ルーロッカの力の使える範囲は狭いとクロードが言っていた。起点になる力を動かす場所に自ずと強い力が働くだろうと、予測してみていただけだ。

「離せ! 離せ!」

 フィグネリアは噛みつかれないように、うまくルーロッカを抑えているので無駄な足掻きにしかならない。

 むしろ柔らかい毛が気持ちいいぐらいだ。

「フィグ、ルーロッカ様は、捕まえ、てますね」

 ちょうどそこ入ってきたクロードがそれを見て安堵した顔を見せ、フィグネリアは彼の側に寄る。

「それ触っていいですか?」

「待て、お前が持つと噛まれるぞ。尻尾ぐらいなら大丈夫だろう」

 指の隙間から出ている尻尾を見せると、クロードがそれをそっと撫でて満足げにした。

 いつも通りの夫だとフィグネリアは、目元を和ませて彼を見つめる。

 妖精達と繋がっている間のクロードはどこか別人に見えて、ラウキルに囚われて笛を吹いていた時よりもずっと、人より遠くへ行ってしまった気さえした。

 あまり、力は使わない方がいいのかもしれない。しかしそうはさせてくれないだろうかと、文句を言っているルーロッカに目を落とす。

「フィグ、どうかしましたか?」

 黙考しているとクロードに心配そうに呼ばれ、フィグネリアは顔を上げた。

「……エリシン五等官はどうした?」

「ルーロッカ様の力を元に戻して、妖精達も動かせなくしてあります。とにかく、ニカの消耗も激しいし、一緒に神殿に連れて行きましょう」

 具合が悪い以上運ぶのに問題はなにもないと、フィグネリアはクロードの言葉にうなずく。

「ザハール、お前の謹慎もできるだけ早く解くように手配する。誰にも見つからずに戻れ」

 今回のことで最も被害を被ったであろうザハールは、早急に律事に戻すべきだろう。このまま仕事はまともにできそうな彼が抜けたままだと、不正事件も解決が遠くなる。

「もちろん誰にも見つからずに戻りますよ。ただし、謹慎は自分で解きます。三日もあれば復帰できる算段です。君も、その力で僕に借りを作るのは、不本意だろう」

「う、でも本当にできるんですか?」

 少し申し訳なさそうにクロードがそう告げる。

「僕は、自分の能力をちゃんと把握しているし、価値もよく分かっている。まあ、三日経てば分かる」

 ザハールはどこまでも自信に満ち溢れていて、ここまでくるといっそ清々しいとフィグネリアは感服する。

「では、楽しみにしている。どうしても、無理なときは助ける。では、私達はエリシン五等官をつれて神殿に行くか」

 フィグネリアは少し迷って、クロードの手を取る。

「……いいんですか?」

「いいんだ。今は政務中ではない」


***


 大神殿についたフィグネリア達はすぐに大神官長のルスランに面会を求めた。

 籠の中で暴れ喋るリスを目にしたルスランは、蒼白になってすぐに準備を整え、先日と同じ塔の上に三人を通した。

 フィグネリアは後の説明の面倒さに気を重くしつつ、敷物の上で目を閉じている大神子に神霊が降りてくるの待つ。

「……ルーロッカ、兄様?」

 そうして鈴の音と共に降りてきたアトゥスが、大きな瞳をぱちくりとさせて籠の中を見る。

「おう。俺だよ」

 ぶすくれた声でルーロッカが答えると、彼女は袖口で口元を覆い肩を震わせる。

「あ、あのルーロッカ兄様がこんな可愛らしい格好で……」

 そこまで言って耐え切れずにアトゥスが吹き出した。彼女は肘掛けに突っ伏すようにして息苦しそうに笑い声を上げる。

 こちらは笑い事ではなかったのだが、とフィグネリアは思いながら後ろで唖然としているニカをちらりと見やる。

 当事者の彼は自分以上に強く思っていることだろう。

「うるせえ、笑うな! アトゥス、帰ったら覚えとけよ!!」

「ああ、覚えておきまするぞ。その小さくて、可愛らしい姿を。他の兄弟達にもしっかり伝えておきまする……っ!」

 笑いが止まらなくなってしまっているアトゥスが、毛を膨らませたルーロッカに追い打ちをかけられて肘掛けに再び突っ伏す。

「すいません、アトゥス様、はやく連れて帰ってくれませんか。それとですね……」

 クロードがニカを呼び寄せて、前に出るように促す。それからルーロッカに器にされかけた話をすると、やっとアトゥスが笑い止んで真顔になる。

「ふうむ。器はそう大きくはないが、なんというか、妾でも入れそうじゃのう」

 不穏な言葉にフィグネリアはぎょっとする。クロードも怯えた顔をしているニカを背に庇う。

「だ、駄目ですよ」

「分かっておる。しかし、これは妾には手におえんのう。しばし待っておれ。すぐに母様を引っ張り出してくるからの」

 そうアトゥスが言うと、その表情が幼いものへと変わる。どうやら大神子本人に戻ったらしかった。

「……リスさん。かわいい。ほわほわ」

 そて大神子は体を乗りだして籠の中のルーロッカを見て愛らしく笑った。

「うるせえ。かわいい言うんじゃねえよ!」

 子供にも容赦ないルーロッカの罵倒に、大神子がびくりと震える。その大粒の瞳がみるみる潤んで、フィグネリア達は動揺する。

 これは絶対に泣いてしまう。

「大神子様、大事ありません。ただの口の悪いリスです」

 妹のリリアを宥め慣れたフィグネリアが最初に動いて、小さな体を腕に抱き寄せて背を撫でる。

(口が悪い時点でただのリスではないな)

 自分自身の言葉に冷静な指摘を入れつつ、あやしていると大神子は嗚咽をもらすことなく涙を引っ込めてくれた。しかし彼女はフィグネリアからは離れずに、怖々とリスを見つめる。

「子供相手に何酷いことしてるんですか」

「……いくら神霊様と言えど」

 少年ふたりがいたいけない大神子の姿に批難の声をあげると、ルーロッカはうるさいと喚いた。

 そこへ鈴の鳴る音が聞こえて、フィグネリアは大神子の背から手を離す。

 神霊が降りてきた合図、つまりすでにこの少女は地母神ギリルアだ。

「そうよ。子供には優しくしないと駄目よ、ルーロッカ。あら、また面倒をかけてごめんなさいね」

 ギリルアが身を離してふふ、と優しい笑みを浮かべる。フィグネリアは相も変わらず緊張感のないギリルアに脱力しながら、ちらりと普段はのほほんとしている夫を見る。

 強すぎる力を持つ者はこれぐらいおおらかに構えていなくてはならないのかもしれない。

 そういうことにしておいた方が、心情的にも悩まなくてすむ。

「いらっしゃい、ルーロッカ」

 ルーロッカが母親の呼びかけに舌打ちしながらも、開けられた籠から出てその側まで駆ける。

「あらまあ。本当に可愛らしいわ。もう少しこのままでもいいんじゃないかしら? 面倒くさいし」

 さらりと本音を漏らすギリルアに、ニカが愕然としているのが見えたフィグネリアは彼に同情を覚えた。

 それと同時に、リスを愛でる口調と人間へと向ける優しさにまるで違いがなく、ぞっとするものがあった。

「申し訳ありませんが、連れて帰っていただけますか」

 フィグネリアが緊迫した声で請うと、ギリルアが気が進まなさそうにしながらもうなずいた。

「それで、そちらの方とも繋がってしまったのですね。あら、あら、まあ……ルーロッカ、後でお仕置きね」

 ニカを見ながら実に嫌そうな顔をしながら、ギリルアが自分の掌の上に乗っている息子をねめつける。

「分かったよ、って、痛い。おふくろ痛い!! あとでお仕置きでも何でも受けるから、そっとやってくれよ!!」

 そしてルーロッカがギリルアの掌の上でばたばたともがく。

 親子の間で何が行われているかさっぱり分からずに、三人は口を半開きにして様子を見守るしかなかった。

 そのうちに、ルーロッカは動かなくなりぱたりと倒れた。

「ルーロッカは連れて帰りましたのでご安心ください」

 にっこりと告げるギリルアの掌で動かないリスが、三人は気になってしょうがなかった。

「あの、ギリルア様、リスは!? あ、動いた。よかった。生きてる」

 誰よりも先にクロードが声を上げると、リスが動き出した。それからギリルアに呼ばれて、ニカを連れ彼女の側にまで寄ったクロードがリスを受け取りその体を撫でる。

「大丈夫ですよ。その器の中身と、ルーロッカは全く合わないものですから、侵食しあうこともありません。その代わり、子供達はいろいろと狭い思いをしてしまうのです。そちらの方も大変ね」

 ギリルアが立ち上がり、緊張するニカの目の前に立つ。

「この方は、子供達と波長が合いやすいのですね。神界に戻らなくても、移行ができるぐらいだから、他の子達も間違って降りてきてしまうかもしれないわ。少し、待って下さいね」

 ギリルアがニカの額に触れる。

 彼女の表情からはふんわりとした雰囲気は失われ、赤い瞳が宝玉さながらの輝きを持ち、見る者の言葉を奪う。

「さあ。これで勝手に子供達が降りてくることはないでしょう」

 そして元の表情に戻ったギリルアがクロードに目を向ける。

「ありがとうございます。あの、こういう風に動物に降りてきてしまうことってあるんですか?」

「いいえ。動物、というのは器は人より大きく常に空きがあるものですが、姿形が本来のわたし達とかけ離れているため、よほど波長がしっかりと合わなければ無理です。一瞬合っただけで降りてしまうことはありません。神界との繋がりが切れるということもです」

「やっぱり、俺のせいですか?」

「ええ。移行も本来ならそう簡単にできるものではないのですが、そちらの方も波長が合いやすいという素質を持っていたこともあってのことでしょう」

 ギリルアがニカに視線を向けて面倒ねえと、つけ加える。

 本当に今回の件は異例中の異例だったらしい。

「俺と、妖精達の繋がりの関係はアトゥス様に聞いたり、母上に教えてもたっらことを思い出したりして分かってきました。笛の加減はまだ掴めてないですけど、笛で気を惹かなくても、妖精達に動いてもらうことはできるようになったんで、ある程度は笛を吹く回数だとかは押さえられそうです」

「……そうね。少し、落ち着いては来ています。ですが揺らぎはまだ大きいので、できるだけ早くしていただけると、助かります」

 ギリルアのお願いに、クロードは至極真面目にうなずいた。

「ニカみたいな目に合う人が出るのは嫌ですからね」

 そうして、ギリルアはお願いしますと一言だけ告げて戻っていった。

 自分を取り戻した大神子がまたリスに怯えるので、もう大丈夫だと大人しいリスを撫でさせる。幼心に傷が残らなかったことにほっとしつつ、三人は階下に降りる。

 そこでは落ち着きなさげなルスランがいて、フィグネリアがクロードに話していいか許可を取り、説明をすることになった。

「……妖精王、ですか。そのような記録は一切こちらでは見たことがありません。神の楽士についても、民間の伝承程度しか。しかし、神霊様が大神子様以外に降りる、という記録はあります。後日、来ていただければと思います」

 しかし、とルスランがクロードをまじまじと見る。

「なるほど、ギリルア様と雰囲気が似ておられますな」

 自分がつい先ほど思ったことを言われて、フィグネリアはええ、まあと言葉を濁す。

「似てますか?」

 心外そうなクロードに、ニカも遠慮がちに首を縦に振る。

「真に尊い方というのは一見して分からないものでしょう」

 ルスランが生真面目に言うのに、フィグネリアとニカはどうだろうかと思ったが、口にはしなかった。

「皇女殿下、この方のお力の危うさはお分かりですね」

「ええ、分かっております。夫の力はそう易々と人が欲を持って扱ってはなりません」

 暗にロジオンのことを言葉に含ませると、ルスランが深くうなずいた。

「このことは私の胸に収めておきます。では、くれぐれもお気をつけください」

 ルスランに見送られたのちに、三人は診療所まで向かう。そして用意してもらった個室へと入る。

「エリシン五等官は病で休養しているということにするので、しばらくはここで大人しくしていてくれるか」

 フィグネリアが言うと、ニカはその場に膝をついて頭を垂れる。

「このたびは、誠にご迷惑をおかけしまた。全て自分の愚かさ故のことです。どのようなご処分も承る所存であります」

「ニカ・エリシン。お前自身は罪をひとつでも犯したのか?」

 厳かに問いかけると、ニカはうつむいたまま何も答えなかった。

「フィグ、ニカは」

 夫が口を挟むのをフィグネリアは視線だけではねのける。

「今回の件の責任をとり全ての責めを負うつもりならば認めん。お前はまだ偽り続ける気か」

「……申し訳ありません。短慮でした」

「私が罪なき者を罰するほど愚かだと思うのか」

 ニカが顔を下げたままいいえ、と声を震わせる。絨毯にぽつりと染みができる

「今、課すべきはエリシン家の領地縮小のみだ。不正の調査が進めばさらに処罰が下ることもあるかもしれん。それまでは、軽々しくそんなことを口にするな。今は、自分の体を休めることだけを考えろ」

「はい。申し訳ありません、でした」

 三度謝罪を述べてニカが深呼吸して顔を上げる。涙は浮いていたが、それ以上こぼれおちることはなかった。

「ニカ、元気になったらまた会おう。まだいろいろ話したいことがあるから」

 クロードが柔らかい笑顔でそう言うと、ニカがこくりとうなずく。

 いずれ、ニカは帝都を去ることになる。

 そう思うと、この少年達の姿に明るいものは見いだせなかった。



 ルーロッカを捕えて三日が経った頃だった。ザハールは無事自力で謹慎を解いていた。

 書類を燃やしたのはガルシン公家派と相対する派閥の五等官だった。そして自分の後任の二等官とも繋がっており、まとめて排除できた。信頼している部下や同僚らが事前から、怪しいと彼らに目をつけてくれていたおかげだった。

 そしてザハールは報告を兼ねて私室にフィグネリアを招いていた。

「本当にやってのけたのか」

「ええ。私の持てる人脈の成果です。どうぞ、おかけください」

 余裕ぶった笑顔で出迎えれば、フィグネリアが冷めた顔で部屋に入ってくる。

「なんというか、実にお前らしい部屋だな」

 フィグネリアが部屋の見た目は質素な調度品を眺めてつぶやいた。

 暗褐色で統一された家具は派手さはないが、見る者が見れば質が高く値も張る物だと分かる品だ。素人目に見て高級と分かるものは、床に敷かれたイサエフ候領で織られた絨毯ぐらいだろう。

「私は物事の本質を大事にしていますので。しかし、呼び出しておいてこう言うのもどうかと思いますが、あなたは脇が甘いですね」

 無防備にソファーに腰掛けるフィグネリアにザハールは肩をすくめてみせる。

「何がだ?」

「いえ。根も葉もない噂が広がる要因には、おそらく貴女の無頓着さがあると思いますよ」

「…………しかし、お前は私の夫の座など本当はどうでもいいのだろう」

 さすがに気づいていたかと、ザハールは笑顔で肯定する。

「どうでもいいというわけでもありませんがね。次期皇帝の夫という地位は、十分に魅力的です」

「それよりも、クロードが一体何者であるかが重要だったのだろう」

 答を突きつけられて、ザハールはうなずく。

「三月前の騒動で、ロートム寄りの国の公子が何者かに拉致されて、捜索中に皇帝が銃撃され、銃撃犯であるロートムの密偵も公子も神殿にいた、となると少々、できすぎな気がしましてね。地母神様の介入がなければ、あなたに疑いがかかったはずです」

 あの騒動の後のフィグネリアが表に出てきたことを考えれば、彼女がなんらかの計略を張り巡らしていたと疑うだけの理由はある。

 しかし地母神ギリルアが密偵を捕える際に負傷した彼女を癒やした。この奇蹟で疑惑は払拭されてしまった。

「だろうな。地母神様が慈悲をかけて下さらなければ、九公家派がもっとやかましかったはずだ。それで、挑発してボロが出るのを待っていたのか」

「ええ。ところが全く予想外の事実が飛び出してきて、困っているところです」

 ロートムとフィグネリアがひっそり手を組んでいるだとか、あるいはクロードが二重で密偵をやっているだとか穿っていたわけだが、実際はそんな簡単なものではなかった。

「利用するつもりはないのだろう」

「もちろん、刃物を素手で掴む真似はしません。しかし、今後も神霊方が降りてくることになれば、否が応でも人目についてしまうこともあるでしょう。ロートムと繋がりがあるなら技術革新に利用できると思ったのですが、これでは神霊方への脅威の方が深まってしまう。正直、私も気が引けてはいますよ」

 ザハールは前髪をかき上げて嘆息する。

 リス一匹であの騒動だ。下手に神霊の気に障ることをしてどんな面倒事が起こるかと考えると、二の足を踏んでしまう。

「気持ちは分からんでもないがな。上手くやっていくしかない。クロードも、力を制御できはじめている。いずれは神霊方も大神子様以外に降りてくることはなくなるだろう」

「そのいずれがすぐ来てくれればよいのですが」

 ザハールは棘を含んだ言い方をして、フィグネリアの表情を窺う。彼女は不快さも現わさずに受け流している様子だった。

「皇女殿下、私はロートムの信仰の世界は神の掌の上に成り立つという考えだけは、どうにも共感してしまいますよ」

「……そうだな。私も同じように感じる」

 フィグネリアの僅かな間は重たいものだった。

「それでも貴女は、彼の妖精王としての力を利用せずに改革を推し進める気ですか?」

 何よりも知りたかったことを問う。

 神霊のあの力を目の当たりにしても、はたして彼女の決意に揺らぎはないのか。そして側にある大きな力に、誘惑されないだけの意思の強さはあるのか。

「ああ。私は、そうするつもりだ」

 薄青の瞳は揺るがず前だけを見ていた。薄氷に似たその瞳の奥にあるものはけして、脆いものではない。

「だがひとりではできない。お前にも手伝って欲しい」

 しばし間を置いてフィグネリアはそう言った。

「手伝う、ですか」

 彼女にはあまり似合わない言葉だと思ったが、悪くはない。ただしうなずけるかどうかは別だった。

「少しだけ、考えさせていただけますか?」

「……その気になったらいつでも声をかけてくれ。これから私は神殿に行く。あまりクロードを待たせてはおけんからな」

 夫の名を言う時の彼女は年頃の少女らしいものが垣間見えた。早く会いに行きたいと如実に分かる表情だった。

 フィグネリアの夫に向ける愛情は疑いようがない。打算などどこにもなかったのだ。

 あれこれ考えを巡らせて裏を読もうとしていた自分が馬鹿馬鹿しくなってきて、ザハールはやけくそに笑ってしまいたくなった。


***


「あの人、本当に自力で謹慎解いちゃったんですか」

 フィグネリアは神殿で先にニカを見舞っていたクロードと落ち合い、ザハールの謹慎が解けたことと、私室に行ったことを話した。

「それと、呼ばれたからって、素直に部屋にひとりで行っちゃ駄目ですよ」

「別にかまわんだろう。特に危険はないと判断した」

「……フィグ、変な所で危なっかしい気がします。なんていうか、命の危険がなければ問題ないって決断しちゃうでしょう」

 クロードの指摘にフィグネリアは今気づいたという顔をする。

「殺されかけることに慣れたせいか。しかし、今回は本当に危険は何ひとつなかった」

 それは追々考えるとしてと、フィグネリアはザハールの本当の目的を教える。

「……冷静な人でよかったです。これで利用できるなんて思われてたら大変でしたね」

 しみじみとクロードが言って、フィグネリアも強くうなずく。

 能力、判断力、財力等々、ザハールは性格以外は申し分ない逸材だ。

 そしていつもとは違い大神官長の住まう塔のひとつ手前の塔で神官に案内され、その塔の奥へとふたりは進んでいく。手燭なしでは前の見えない最奥は壁一面が本で埋め尽くされていた。それは塔のてっぺんまで続いているらしい。

「すごい」

 クロードが感嘆するのに、フィグネリアもああ、と応える。けして外には持ち出されることのない大神殿の膨大な記録は、歴史の長さを物語ってる。

「皇女殿下、こちらに」

 ルスランが手招く燭台の置かれた古びた机には、いくつかの記録が広げられている。降りてきた神霊の名前の記録だったが、年号にフィグネリアは顔を強張らせる。クロードも気づいたらしく、顔色をなくしている。

「どれも、大きい戦争の前後ですね」

「そうだな。……内乱を回避できたのは運がよかったのか。ルーロッカ様も、降りてきていらっしゃるな」

「それから、ラウキル様を手伝ったった神霊様もいますね。……神霊様が降りてくっていうのは、聞いてなかったけど母上が神霊様のこと教えてくれてたのって、そういうことかな」

 神霊が同時に複数、大神子以外にも降りてくるという事例の年の前後には必ず世が乱れているということだ。そして人の暗部に即する神霊や、争いを好む神霊が多い。

「……いずれの記録から読み取れることは、人が乱れれば、神々が引き寄せられるということだけです。妖精王、というものとの関わりは一切の記録にございません」

 ルスランがクロードの炎が映り込んで煌めく琥珀の瞳を見る。

「記録に残っていないのなら、けして知られるべきことではないでしょう。そして形として残すべきでないものです。ただ、あなたは俗世でいずれ王となるやもしれない方です。妖精王の力が血によって繋がれるものならば、記録として残しておいた方が賢明やもしれません」

 次の代とは限らず、何代か先のディシベリア皇帝の中にクロードと同じ力を持った人間が出るかもしれない。

 その時にどうするべきか、今から備えておく必要はあるだろう。

 フィグネリアはクロードにどうするか問いかける。

「……少し、考えさせて下さい。ずっと口伝で残しててきたことなんで、それが正しいことかどうか分かりません。……大神殿でも、ロジオン大神官長みたいな人がこの先、出ててこないとも限らないですし」

 クロードが睫を震わせて苦しげにつぶやく。

「ええ。私にも記録を残すことが正しいとは言いいきれません。人は大きすぎる力に惑わされるものです。私が生きている内に、どうかご判断いただければと思います。ここの記録はお望みならいつでも、閲覧できるようしておきます。私からの話は、それだけですので、後はごゆるりとどうぞ」

 ルスランが立ち去って、フィグネリアとクロードは近くのソファーに並んで座る。

「そうですよね、俺達の子供かずっと先が力を引き継ぐんでよね」

 クロードが不安そうにして椅子に深くもたれかかる。

「そして、大きな戦の前触れであるかもしれない、か」

 想像以上に大事だ。このまま自分が帝位につけば彼との間に出来た子が、子孫が帝位について妖精王としての力を連綿と受け継いでいくのだ。

 誰がどう利用するかなど、今の自分達にはなんの想像もできない。

 大神官長ですら、その力に惑い妄執を抱いた。誰にこのことを伝えるべきか。安心して託せる相手は、自ずと自分達だけになってしまう。

 記録に残さなかった、のではなく、口伝でしか伝えようがなかったのだ。

「……俺みたいに伝えてくれるべき相手がいなくなっちゃうこともあるんですよね。その時のことを考えると、ちゃんと記録にしておくべきだとは思うんですけど」

「形に残した物を第三者に渡さず、というのは難しいな。焼失もある。国が消えてなくなっているかもしれない」

「その前に、教えてもらっていないこともたくさんあるだろうから、俺がこれから自分で知っていかなきゃならないんですよね」

 どんな可能性を考えても暗雲は立ちこめている。

 静かに考え込むフィグネリアとクロードは手を握って肩を寄せ合う。


「……俺、フィグと一緒にいていいんですよね」

「それを決めるのは私とお前のふたりだけだ。私はお前がいないと嫌だからな」

「じゃあ、ずっと一緒ですね。俺達」

 幸せそうにクロードがはにかんで、フィグネリアはうなずいた。

「……でも、子供は早く欲しいです。フィグに似た可愛い女の子と、フィグに似たかっこいい男の子。どっちも欲しいな」

「どっちにしろ私に似るのか。私はお前に似た、優しい子がいいな」

 かといって不安ばかりではない。抱えるものは重たいけれど、ふたりでなら抱えていけるはずだ。

 しばらくふたりはそうやって寄り添い合った後に、未来のために過去の記録に目を通すことにした。

 

***


 さらに七日後。不正事件は着々と解決へと向かって行っていた。


 六日前にジトワ二等官がようやく証言を始めていた。ニカを呼び出したのは律事の動きに気づいて証拠隠滅の手伝いをさせるためだったらしい。そして、しばらくは口封じに殺されかけたのではと怯え、真実を明らかにせよという幻聴が聞こえ、それでも責任逃れをしようとニカに罪を押しつける気だったらしい。

 後はフィグネリアの采配で各担当官が動き、ザハールが集めていた証拠も揃って事件の全貌は明らかになり始めている。

 そうして、ニカにかかっていた嫌疑も、エリシン家に向けられていた疑惑も全て晴れたところだった。

「さて、エリシン五等官は領地縮小のみでよろしいでしょうか。少々状況を混させたこともありますが、密告自体は悪いことではありませんし、ジトワ二等官の件もただの事故、でした」

 朝議で律事大臣が報告して、隣にいるクロードの表情が明るくなる。

「退官はやむを得ませんが、しかたありませんね」

 設事大臣同意して、今度は彼はしゅんとする。

「では、十日中に退官し、帰郷するように通告します」

 吏事大臣が言って十日と、落ち込んだ声でクロードがつぶやく声が聞こえる。

「では、次の議題は各没収となった領地のふりわけについて、となりますが……」

 蔵事大臣がすぐに次の話題に移り、ニカのことは誰も気にかけない。フィグネリアはただひとり、ペンを動かす手を鈍らせて物思いに半ば没頭しているクロードを見る。

 そして、椅子の下の彼の足を軽く踏む。

 今は朝議に集中しろ。

 伝えたい言葉に気づいたクロードは申し訳なさそうな顔をして、書記に勤しみ始める。

 やがて、ひとつの領地についての振り分けで、西街道沿い側の領主に引き渡すか、東街道沿い側の領主に引き次がせるで、吏事大臣と設事大臣が揉め始めた。

 お互い付き合いの深い領主に引き継がせたいらしく、口論は長引いた。

 フィグネリアとしてはどちらに持って行かれても、利害は同程度なのである程度は意見を出させておくことにした。

 クロードが記録しながら何かに気づいたようで、フィグネリアは彼の視線の先で会話に入れないが、まごまごしている産事大臣を見る。

「その手もあるか」

 フィグネリアはふむ、とうなずいてクロードを促す。え、という顔をしている夫をもう一度、促すと彼は恐る恐る手を挙げた。

 意見をぶつけあっていたふたりに睨まれて、夫は一度びくりと肩をすくめる。

「え、えっと両街道からは外れますけど、南の街道沿い側でも問題ないんじゃないんでしょうか。産事大臣、どうですか……?」

 恐る恐るクロードが問いかけると、産事大臣がほっとした顔で割って入ってくる。農業などの産業を司る彼のほうが、上手くふたりの意見をまとめて南側で折半に持ちこみやすいだろう。

 そしてその日の朝議は予定通りに終えた。

「……恐かったです。フィグが毎回あれに耐えてるのはすごいです」

 執務室に戻る途中でクロードが疲れ切った顔と声で落ち込む。

「なぜそこで沈む。最初にしては上等だ。というかお前、ずっと大人しく書記官をするつもりか」

「え? 違うんですか」

「当たり前だろう。私がどうしても出られないときなどは、いずれ代行してもらう」

 そのために横で慣れさせているのだ。少し早い気がしたが、あの二人の舌戦に入って行けただけでも十分だ。

「フィグの、代行……」

 とてつもなく重たげにクロードが言うのに、フィグネリアは苦笑する。

「いつかの話だが、大きな腹を抱えて朝議に出られん時もある」

「あ! そっか。そうですよね。他に具合の悪いときとかも無理させたくないし、頑張ります!」

 気持ちが浮き上がってきたクロードが何度も首を縦に振る。

「代行であるが、お前の意見もさっきのように言っていい。お前が、やりたいと思ったことは検討して、手伝いもする」

「俺のやりたいことか……もうちょっといろいろ、考えてみます」

 真顔でそう言うクロードは、いつもより少しはしゃっきりして見えた。

 

***


 そして二日後。

 小宮の応接室にはザハールとニカが訪れてきていた。帰郷の準備で忙しくなる前に、最後に挨拶をしたいというクロードの希望だった。ザハールもいるのは、世話になった礼と迷惑をかけた詫びしたいとニカが望んだからだった。

「誠に、ご迷惑をおかけしました」

 直角に腰を折ってニカが、ソファーに悠然とかけているザハールに言う。

「大変迷惑を被った。君が密告を隠し立てせずにいればこんなややこしいことにはならなかったんだ」

 フィグネリアは今日も尊大なザハールに呆れる。

「まあ、どちらにしろ、不正絡みの予測は外れ、お前は賭けにも全敗だな」

「…………神霊様が関わっているなんて予測の範疇外ですから。しかし謹慎は自力で解きましたよ」

 そう言ってザハールがクロードに視線を向ける。

「その点では僕の人脈も実力を示せたわけだが、君は僕に勝った気になったか?」

 挑発するザハールに、ニカを座らせていたクロードが睨み返す。

「なってないです」

 そして彼は言い切った後に、でもとつけ加える。

「勝てるものつくります。フィグ、えっと、前に言ってた領地に関わらず有能な人材を登用するっていう官吏登用制度の改革、俺、やってみたいです。フィグがいろいろ動くよりも、なんにもない俺が、なんにもなくたってやれることがあるってちゃんと示せたら、もっと早く、できる、気がします」

 なぜか段々弱腰になってくる夫にフィグネリアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「気がする、のか?」

 問い返すと、クロードはぐっと言葉に詰まる。

「や、やります! 俺、いろいろ考えてたんですけど、やっぱり一番したいことはフィグのためなんです。でも、それが他の人のためになるならもっといいって思って。これから、必要な人脈とか頑張って築いていこうかと思います。フィグに頼りすぎなくても、自分達でも何かができるかもしれないって思って欲しいです。で、それですね」

 クロードが緊張しきった様子で背を伸ばす。

「俺、ひとりじゃ心許ないんです。かといってフィグに全部手伝ってもらうのは違うと思うんです。そこでですね、俺の人脈一号として、ニカに手伝ってもらいたいんです」

「…………殿下、正気ですか?」

 真っ先にそう聞いたのは、指名されたニカ本人だった。

「うん。本気だ。……駄目ですか?」

 クロードがおずおずと聞いてくるのに、フィグネリアは驚きつつうなずく。

「問題はないが、その場合エリシンはお前の侍従扱いになるな」

「侍従?」

 クロードが目を瞬かせながら、ニカを見る。そこまでは考えてなかったらしい。

「君、自分が一応”殿下”と呼ばれる身分にあることを忘れているだろう。エリシン君、この不甲斐なさそうな彼を主君とする気があるか?」

 ニカはずいぶん悩んだ後に席を離れる。

「……殿下、そこに立っていただけますか?」

 クロードが戸惑いながら言われたとおりにすると、ニカが膝をついた。

「う、え、ニカ!?」

「今だけでいいのでしゃんと立ってていただきたく思います」

 おろおろとするクロードがニカにぴしゃりと言われ、真っ直ぐに背を伸ばし緊張でがちがちに固まってしまっている。

「……すでにどっちが主君か分かりませんね」

 テーブルの側に立つフィグネリアの隣に移動してきたザハールが茶々を入れた。

「いいから黙って見ていてやれ」

 フィグネリアは少年ふたりを見ながら、ザハールの足を踵で踏みつける。

「忠を尽くし、義を持って魂滅するまで、貴殿に仕えることをここに誓います」

 滑舌のいい、実の明朗な若者の誓いが部屋に清々しく響く。

 覚悟を決めた少年の鋭い眼差しを受けた、若いというより幼いに近い主君は呆然としていた。

 それから我に返り、気の利いた言葉を探そうと迷う素振りを見せ、おもむろに口を開いた。

「よ、よろしくお願いしま……すは違うな。ごめん」

 かろうじて頭は下げなかったものの、ぐだぐだすぎるしまらない返答だった。

 誓いを立てたばかりのニカは脱力してうなだれ、長い長いため息をついた。

「……まるで子供の遊びですね。本当に、あれで問題がないのですか?」

「クロードはお前が思っているほど子供ではない。私は、改革も、治世もなにもかもひとりでやろうとしていた。抱えきれないと自分で分かっていながらだ。誰かに助けてもらおうとはせず、差し伸べてくれている手にすら気づきもしなかった。それを、教えてくれて、忘れないようにいさせてくれるのは、クロードしかいない」

 フィグネリアはまだまだ未熟な主従関係を築いている夫を見ながら、優しく目を細める。

「あなたは身内に甘いのが最大の欠点かと思いますよ。皇帝陛下に対しても、夫に対しても長所と欠点は冷静には見えているが、欠点を自分が全部補ってしまおうとしている傾向が見られます」

 ザハールの指摘をフィグネリアは無言で受け止める。

 間違っていることはなく、末の妹などこれでもかと甘やかした自覚もあるので言い返せない。

「……しかし皇女殿下は未熟な点はまだあるが、期待をかけられるだけの要素はあります。ルーロッカ様と対峙して、命まではいかないが多少は身を犠牲にして貴女を護っていいと思った」

 ザハールの声がゆっくりと真剣さを帯びてきて、フィグネリアも表情を引き締める。

「協力する気にはなったのか?」

「ええ。あくまで協力です。私は貴女には膝を折らない。誰の手駒になるつもりもありませんから、言いたいことは言わせていただきます」

「それでいい。私も言いなりになるだけの駒は欲しくない」

 自分の言う通りに誰も彼もが動くのならば、ひとりでやることと変わりはない。

 ザハールはこれからも容赦なくいろいろ言ってくるだろうが、それも真っ向から聞くつもりだ。

「それと、彼にも多少の期待はかけてもいいかもしれません。貴女は確かに変わられた。以前は宴でも常に皇帝陛下の側に張り付いて、近づいてくる人間に警戒心ばかりしか見せず、受け入れる態度が欠片もなかった」

 ザハールがすっかりふたりで話こみ始めている主従に目をやる。

「そういうこともあったな。ずいぶん前のことに思える」

 クロードばかりを見ているフィグネリアに気づいて、ザハールが笑い声を漏らす。

「あなたの夫の座は本当によさげだと考えていたのですが、一緒に馬鹿になりたいとは思いませんね」

 フィグネリアはきょとんとして首を傾げる。

「新婚で馬鹿になっているのは彼だけだとお思いでしょう」

 出会った結婚式当日からクロードはいつも頭に花が咲いている状態で、多少馬鹿だろうと思いはするが。

「……私はさすがにああではないぞ」

「はたから見たら同じですよ」

 簡潔な一言に、フィグネリアは衝撃を受けて凍りつく。

 悪いことではない。とはいえ、心境は複雑だった。さっそく侍従に叱られている夫を見るとなおさらだ。

 そしてザハールの勝ったと言わんばかりの表情に、フィグネリアは腕を組んでむくれるしかなかった。

「あ、ちょっと、俺の奥さんにかまって欲しいからって、意地悪しないで下さいよ」

 フィグネリアの様子に気づいたクロードが、ザハールをねめつける。

「安心していい。僕は今の所、皇女殿下の地位と政策と体にしか興味がない」

「いや、安心できない点が二箇所ぐらいありますよ! フィグ、離れてこっち来て下さい!」

 クロードが言うのに、フィグネリアは分かった、と素直に彼の側に寄っていく。

 そして隣にいることで満ち足りていく感覚に、馬鹿になるのもまんざら悪くもないと思ったのだった。



エピローグ


「これで黒字だな……」

 フィグネリアは雪害対策の費用と、不正で持って行かれた分に罰金を足した分の額を見て満足する。

 いよいよ、来月には雪害対策費用が足りなくなると思っていたが、補填はどうにかこれでいける。

「さて、しかし。あいつは何をしに来たのだろうか……」

 フィグネリアは執務机から離れて真っ白な外の景色を臨む窓を開ける。

 外にはクロードとニカ、それとザハールがいた。三人はなぜか雪玉を投げ合っていた。

「結局、僕は鍵のかけ忘れで半年の減俸、だ!」

 ザハールが雪玉を投げて狙われたクロードがよろよろと逃げる。

 たった一点だけ、彼が解決できていなかったことがあった。ルーロッカが鍵を開けたことだけは、他に説明がつけようもなく、ザハールの管理不行届となったのだ。その処罰がやっと決まったそうだ。

 こればかりは申し訳ないと思うのだが。

「なんで、雪玉投げ合うことになってるんですか!?」

 クロードが言うとおり、この状況は意味不明だ。

「もちろん、前途あるひ弱な若者を鍛え上げてやるためだ。何、いきなり剣の稽古をつけてやろうと無茶を言っているわけではないだろう。特に、クロード殿下は剣を振り上げることもできなさそうだ」

 ザハールが今度はニカに向けて投げる。

「……イサエフ二等官、憂さ晴らしでは」

 ニカが雪に足を取られているクロードよりずっと俊敏に避ける。

「それもある。言っておくが、僕は子供の遊びとはいえど常に手は抜かず本気で行くぞ」

「それ、大人げないって、言うんですよって、うわっ!」

 クロードが寸前の所でしゃがんで雪玉を避ける。

「君達、僕に一撃でも当てられるか?」

 ザハールが器用にニカの雪玉を避けて、次にはクロードめがけて振りかぶる。クロードは片足を雪に沈めてしまい、避けきれない。

「殿下!」

 すかさずニカが盾になって雪玉を受ける。なかなかの忠誠心である。それだけでなく彼は政務官としても有能だった。

 彼がクロードの侍従となってからは、人手が増えたこともあるが、それ以上に彼の能力によって財務計算と書類の処理の速度が上がった。

「意外な掘り出し物だったな……」

 フィグネリアはやはり能力に応じて政務官は登用すべきだとつくづく思う。

「今の隙に、イサエフ二等官に当てて下さい!」

 ニカの後ろでクロードが足を抜いて雪玉を投げる。

「届かないな、あれは」

 つぶやくフィグネリアの予測通り、ザハールに届かずに途中でべしゃりと落ちた。その間にザハールの反撃を顔に受けてしまっていた。

「殿下ー!」

 ニカの悲痛な声が響いて、ザハールが楽しげに笑うのが見える。

「今、すんごく悔しかったぞ、ニカ」

 ふるふると頭を振って顔についた雪を払い、クロードが眉根を寄せているのが見える。

「そう思うのでしたら、当てて下さい」

「よし、当てる。絶対に当ててやりますからね!」

 フィグネリアは窓辺にもたれかかり、つい笑みを零してしまう。

 寒さも動くのも苦手なクロードが子供の遊びとはいえ、こうもむきになっているのを見るのは新鮮だ。

 混ざりたいとは思わないが、時間の許す限り眺めていたい。

「フィグネリア! 今日はまた賑やかだな!」

 そこへ誰よりも賑やかな兄のイーゴルがやってきて、外を眺める。

「なんだ、ガルシン公の甥御とも仲よくなったのか。友人が増えてよかったな」

「ええ。そうですね」

 ニカはともかくとして、ザハールは違う気もするのだが端から見れば、変わりないのでフィグネリアは同意する。

 そしてクロードがイーゴルの声でこちらに気づいて手を振ったので、同じように手を振って返した。

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