第7話 気象制御の仕組み


 サンシャインシティを構成する建物のうちの一つ、ワールドインポートマートビルは、かつて水族館やプラネタリウム、その他テーマパークなどの施設があった建物である。現在はこれといって再利用されることなく、半ば放置された区画であるが、水族館の一部分は魚介類の養殖場として再利用されている。しかしながらそもそも水族館の施設はあまり養殖に向いておらず、またそれを管理できる人材も不足していることから、この養殖場は非常に小規模なものとなっていた。


 そんな旧水族館の階下、四階の部分は文化会館同様展示ホールとなっている。現在その場所は、一人の男の居住スペースであると同時に図書館でもあり、そして分校の教室でもあった。


興津おきつ先生ー。いるよね」


 本棚や積み上げられた蔵書によって迷路と化した広大な部屋。翔太たちがその部屋の入口に立つやいなや、紗代はこの部屋の主を大声で呼びつけた。その呼び方がいることを前提としているのは、その人物が夕方以外の時間でこの部屋から出てくることがあまりない故であった。


「紗代ちゃんかい? 奥にいるから入ってきて」


 紗代の声に反応した男は、溌剌とした大声で返事をしてくる。紗代は一度翔太の方を向き、小さく頷いてから中に入る。


 この蔵書の殆どは、サンシャインシティの近場にある図書館から移したものである。その他は、ジャンクショップに流れてきた書籍を買い占めたり、はたまた主自身が池袋エリアの書店や図書館の跡地に踏み入り遺物として回収してきたりしたものだ。


 それらによって構成された本の迷宮を、紗代を先頭に進んでいき、初見である絵真ははぐれて迷子にならないよう必死についてきていた。翔太や紗代が迷わず進むことができるのは、幼少の頃から通い慣れているせいである。


 程なくして、開けた場所に出てくる。そこは図書館らしく広々とした長机が置かれていた。当然、その机周辺も蔵書が雑然と転がっている。


「やあ、こんな時間にどうしたんだい?」


 翔太たちが散らかった読書スペースに辿り着くのと同時に、奥から一人の壮年男性が本を片手に持って姿を現した。スラックスにワイシャツ姿のその男は、十年前は高校の教員であり、現在は図書館の司書であると共に分校の教師で、更には書籍専門の遺物回収人でもある興津であった。年齢の割に声だけは青年のように若々しい興津は、その声で翔太たちの訪問の理由を尋ねた。


「先生、PCある?」


 翔太は単刀直入に本題を切り出した。


「PC? あるけど、何に使うんだい? ネットは繋がることは繋がるけど、重たくて非情に遅いよ」


 教え子たちの訪問理由に、興津は小首を傾げながら返答した。


「いや、別にネットには用がない。さっきまでデジカメで写真とって遊んでいたんだが、容量がいっぱいになっちゃったんで、その整理に」


「うちの店にはSDカードを読み込むカードリーダーがないので、デジカメの画像が移せなくて」


 翔太と紗代はそれぞれここに来ることになった理由を述べた。興津はそれで納得したようであり、傾げた首を元に戻した。


「ここを頼ってきてくれてありがたいのだけれど、残念ながらここでもSDカードは読み込めないよ。USBならあるから、リーダーか、それとも接続用のケーブルさえあれば可能なのだけれどもね」


 興津は教え子たちの期待に応えられないことが悔しいのか、沈んだ表情を浮かべる。


「ああ、SDカードではなく、デジカメ本体をPCと繋ぐのか。ケーブルは……」


 翔太は絵真を見やり、ケーブルの有無を確認しようとしたが、問いかける前に絵真は顔を左右に振って持っていないことを示した。


「紗代、ジャンクショップにはないか?」


「んー。探してみないとなんとも」


 一応翔太は紗代にも尋ねてみたが、その返答は芳しくはなかった。


「ところで、その子は?」


 万策尽きた翔太たちであるが、その輪の中にいる見知らぬ子、絵真の存在が気になるのか、興津は会話が途切れたタイミングで問いかけた。


「えっと、この子は――」


 紹介がまだだったことにようやく気がついた翔太は、興津に絵真を紹介した。絵真の事情を理解した興津は「わざわざ遠くから……」と呟いて感心した。


「一度ジャンクショップを覗いてみるといいよ。今日は遅いから、明日にするといい。でもせっかく来てくれたのだから、何か温かい飲み物でも用意するよ」


 興津はそう言って奥へと消えていった。翔太としてはそこまで長居するつもりではなかったのだが、申し出を断る前に興津は行ってしまったので、仕方なく一杯だけ付き合ってから帰ることにした。


 翔太たちは並んで長机の席につく。分校に通っていた頃の翔太は座る位置を勝手に決めていて、分校を卒業し調べ物で図書館を訪れる際もその定位置に座っていた。そして今回も、その定位置に座る。絵真と紗代はそんな翔太を挟み込むようにして座る。


 近場にある本を手に取ってなんとなく中身を眺めていると、興津がトレイを手にして奥から現れ、それに伴い翔太たちは本から視線を外した。興津はそのまま教え子たちの前にマグカップを置いていく。薄い湯気を放つそれはココアであった。配り終えた興津は、自身の分のマグカップを片手に翔太たちの対面の席に座った。


「先生。どうせだし、何か話をしてくれないか? ただ飲んでいるだけだと、なんだか味気ないし」


 翔太は一口飲んでから、場が静まり返っていることが気になった。そしてそれを紛らわせようと思ったが、翔太自身何か話のタネを提供できるほど蘊蓄があるわけでもなかったので、多方面に造詣が深い興津に丸投げした。


「別にいいよ。何を話そうかな……そうだ――」


 興津は別段嫌がることもなく、翔太のリクエストに答える。


「――『ブラックスワン理論』、という言葉を知っているかい?」


 そして興津はココアを一口含んで間を置いてから、これから話すテーマを告げた。


「……いや」


 知っているかと問われ、翔太は正直に知らないと返事をする。両脇を見やれば、絵真は小首を傾げており、紗代はポカンと口を半開きにして固まっていて、誰もそのブラックスワンなんたらの知識がないことが窺えた。


「ブラックスワン、直訳すると『黒い白鳥』という意味になるが、果たして黒いのか? それとも白いのか?」


「いや、『黒い』って形容しているし、白を表しているのは『白鳥』という名詞だから、普通に黒いんじゃないのか?」


 順当に考えれば翔太の言う通りである。しかしながら今更、名詞だの形容詞だの話をする必要性は感じられない。でもそれは掴みでしかなく、話の本題ではないことが窺えた。


 興津は翔太の答えに素直に頷く。


「では、何故『白鳥』という名前なんだ?」


「流石に命名の経緯については……」


 興津の新たな問いに、翔太は言い淀んでしまう。翔太にとって白鳥は白鳥でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。それ故、今まで名前の由来をあまり気にしたことがなかった。


「そこまで難しい話じゃないよ。白い鳥だから『白鳥』。ただそれだけ。世界に生息している個体全てが白いから名前に色を取り込んだ。それは鳥類学者の間では常識となり、揺るがない事実となった。そしてそれは世間にも浸透する。英語において、『無意味な頑張り』という意味で『黒い白鳥を探すようなものだ』ということわざが生まれるほどにね」


 興津は一旦話を区切り、ココアで喉を湿らす。


「でもその常識は、前触れもなく、唐突に破綻した」


 そして興津は教え子たちの興味津々な視線を受け止め、満を持して語る。


「黒い白鳥、『黒鳥』が発見されたんだ。それは突然変異とかではなく、ちゃんと固有種として生息している鳥として。それにより白鳥は必ず白い鳥ではないことが証明されてしまい、鳥類学者が築き上げた根底が覆ってしまったのだ。そしてその根底の上に積み上がっている定義なども道連れするように事実ではなくなった。このことが由来となって、『常識では考えられない現象の発生により、甚大な影響が引き起こされる』ということを総称して『黒い白鳥のブラックスワン理論』と呼ばれるようになった。主に経済や災害などで用いられる言葉なんだ」


 興津の語る雑学に、翔太たちの好奇心が刺激される。実際にその言葉が日常生活でどのような活躍をするのかは謎だが、しかし知らない知識を得る瞬間はいつだって衝撃的であり刺激的である。それが悪い話ではないのなら、その瞬間は薬物のように人に快楽を与える。知識欲は全ての人間に共通する愉悦であった。


「でだ、その『ブラックスワン理論』は、今現在の世界情勢に通ずるのではないかと、僕は考えている」


 しかしその雑学は、思わぬ方向に飛び火していく。現代において世界情勢といえば、それはすなわち気象制御システムの暴走による世界的な大災害を意味している。


「地球工学をもとに、様々な分野の粋を結集して作られた気象制御システム。日本のものは、日本神話に登場する太陽を神格化した神、『天照大神あまてらすおおみかみ』から捩って〝アマテラス〟と名付けられた。そのシステムは、下手すれば深刻な気象変動を引き起こしかねないと懸念され続けていたが、それらの声を跳ね除けられるほどの安全性を確立したからこそ実用化され、事実運用されてからこれといったトラブルもなく人々の生活を豊かにした」


「でも、実際に事故を起こし、制御を失った」


 翔太にとって〝アマテラス〟が正常に稼働していた時代のことは、幼さもあってはっきりとは覚えていない。しかしながら眼前にいる興津という男性は、長い間〝アマテラス〟がもたらす恩恵を受けて生活してきた人である。翔太としては、気象制御システムの安全性ほど信用できないものはないが、過去を生きた興津にとっては、その安全性に絶対の信頼を寄せていた時代があったのだ。


 だからこそ、興津は先程話したブラックスワン理論と気象制御システムの暴走を結びつけようとしていた。暴走は、保証された安全性に予測不能のトラブルが発生したため、甚大な被害をもたらしてしまった、と。


「そもそも、どうして人は気象をコントロールしようとしたんだ?」


 気象。それは即ち、地球上に存在する普遍的な理である。その自然の掟を、人類はいかなる理由で掌握しようと考えたのだろうか。


「気象制御は、別に革新的な行いではない。それこそ、効果があったかどうかは謎だが、古代より雨乞いなどといったオカルト的行為で雨を降らせようとしていた。二十世紀には人工降雨を始めとする科学的な気象制御の実験が数多く行われていたし、それらは兵器として軍事利用も検討されていた。しかしそれはどちらかといえば、人々の命を守る行いでもあった。古代の人が雨乞いをしたのも、旱魃で作物が育てられず餓死してしまうから、それを防ぐため雨を願った。科学的に気象制御を研究するのも、毎年発生する自然災害を食い止めようとした結果だし、軍事利用も言ってしまえば、自国を守るための手段を得ようとしたためだ。人間が地球上の生物である以上、気象は恩恵でもあると同時に脅威でもある。人間は元来、自身に迫る脅威を排除しようとして躍起になるきらいがあるからね。人類が気象に手を出すのは、いわば必然であり、掌握するのは時間の問題だったのかもしれないな」


 気象を掌握しようとして失敗してしまった事実を知る翔太にとって、人類が気象に干渉しようとした行いに対して釈然としない思いが募る。翔太は、かつて気象によって引き起こされる自然災害がどれだけの被害をもたらしていたのかがわからないが、それでも今現在の劣悪環境と比べれば大分ましなのではないかと、どうしてもそう考えてしまうのであった。


「その、人々の命を救うために、自然に立ち向かったのは理解した。でも今の〝アマテラス〟の惨状を知っている以上、正常であった十年前のそれを想像することが難しい。人々が平穏に生活できるよう〝アマテラス〟は気象を安定させていたが、実際問題、それらはどうやって実現させていたんだ?」


 無限の可能性を秘めている科学技術も、魔法のような万能の力ではない。そこには確固たる理屈や理論があるのは間違いない。


「僕は一般人として〝アマテラス〟の恩恵を受けていたので、専門的な知識は残念ながら持ち合わせてなく、君たちに委曲を尽くした説明はできない。ちょっとかじった程度のにわか知識でよければ解説するよ」


 興津はそう断りを入れ、翔太たちが同意する前に勝手に語り始めた。


「気象制御システムは先進国とその周辺の国の気象を掌握するため、はるか上空に打ち上げられた装置なんだ。大分違うけど、イメージとしては、人工衛星みたいなものかな。複数機打ち上げられたそれは、ネットワークによって繋がっており、お互いの気象制御の情報を随時リンクし合っていたのだ。まあそれ故、稼働中の気象制御システムの一機、日本の〝アマテラス〟が誤作動を起こしたときには、その情報を全機共有してしまいそれをもとに各機気象制御を修正してしまったので、世界的な大暴走へと至ってしまったけどね」


 興津は翔太たちが理解できるよう、噛み砕いた解説を心がけた。


 興津曰く、従来の気象制御は、飛行機やロケットなどで凝結核を空中に散布し、雲を発生させて雨を降らせていた。しかし今上空にある気象制御システムは、そのような方法を採用してはいない。


 採用しているのは、気圧の操作。太陽光などで暖められた空気は、比重が軽くなり上昇していく。それにより地上から上空へ空気が流れることで低気圧が発生する。そして上昇した空気は上空で冷まされ、今度は地表へ向かって空気が流れていき、高気圧となる。


 気象制御システムは、その太陽光の照射を制御することで、気圧のサイクルを間接的にコントロールしている。気象制御システムには大型の鏡やレンズが搭載されており、太陽から照らされる光を上空で受け止め、そして搭載されているそれらの機能をもって地球に照射される太陽光の強弱を可変させている。故意に加熱された空気は低気圧を生み出し、そして低気圧はその過程で雲を生成、雨を降らせる。気象制御システムの人工降雨の仕組みはこのようになっているのだ。


 そして太陽光の操作は何も気圧を変化させるだけではない。純粋に太陽光の強弱によって地表の気温も変えることができるのである。


 ちなみに、気象制御システムが捉えた太陽光を反射して他の気象制御システムに送ることにより、事実上地球は二十四時間どこでも太陽光の照射を受けることが可能であり、スペック上気象だけではなく昼夜すらも制御することもできるのである。しかしながらそれは地球の生態系に多大なる影響を及ぼすに加え、倫理的に許容することができないため、機能に制限が設けられている。ただそれでも日照時間についての制御は、ある程度認められていた。


「暴走した現在は言わば、昼間は太陽光の照射が最大になり気温が上昇している。これは虫眼鏡で太陽光を一点集中させて紙を燃やす理科の実験に似ているのかもしれない。一方夜間は太陽光の照射の場所を変え、急激に大気を暖めて大型の低気圧を生み出していると推測されている。それも爆弾低気圧と呼ぶにふさわしい巨大なものをね。ただ、夜間の気温が氷点下になるメカニズムは、残念ながらよくわからない。放射冷却だけでは説明がつかないんだ」


 興津の説明は要点を的確に捉えているため実にわかりやすく、翔太はすんなり理解することができた。それは両脇にいる絵真も紗代も同様であり、半開きになった口からは感心による吐息が漏れ出ていた。


「じゃあ、気象をコントロールするために太陽光を制御しているから、日本の気象制御システムの名前は、日本神話の太陽神の名前を使っているのか」


「そういうことだ。実に粋なネーミングだろ」


「粋というか、センスがスゲェ……」


 翔太は言い得て妙な命名に、その名前を名付けた人間に対して感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。


 興津の話は時間を忘れさせるものであり、事実時計の針はここに訪れたときから大きく動いていた。出されたココアも、今はもうすっかり冷めてしまっている。


 時間の経過にようやく気がついた翔太たちは、咄嗟にマグカップに残ったココアを飲み干して立ち上がる。


「興津先生、夜分に訪れてすみませんでした。とても勉強になりました。ココアごちそうさまです」


「別にいつでも遊びに来てくれても構いませんよ。本に埋もれるのも好きですが、こうして賑やかなのも悪くないです。それになにより教え子と話をするのはとても楽しい。またきてくださいね」


 紗代のお礼に、興津は微笑みながら答えた。


「先生ありがとう」


 翔太も礼を言い、傍らの絵真も深々とお辞儀をした。


「はい。おやすみ」


 興津は席に座ったまま手を振り、教え子たちの退室を見送っていた。

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