第17話 ナカミ

何かが聞こえたのか、弾かれたように頭を上げたライが周囲を見回し、叫ぶ。


「タマキ、この家に巣喰ウ感情の渦は、憎悪ではナいぞ。絶望だ。それモ母親のものではなイ!」


気づいたときには、家から流れ出ていたあの黒い渦が周囲を取り巻き、密度を増やしながら徐々にその輪を縮めているところだった。

振り向くと金縛りが解けたらしい誠一郎は、パニックに陥っていた。震えながら血が出るまで床にこぶしを叩きつけたり、由香里を起こそうと手を伸ばしたりしながら、わめき散らしていた。


「ちゃんと謝ったじゃないか、違う、俺じゃない、アイツの呪いだ!金だって言うとおり払った! 何が悪い、俺はちゃんとやった!」


もがけばもがくほど、黒い輪はジリジリと面積を小さくしていく。

環は死んだように動かない由香里を抱きしめ、小さくなった。こんなおぞましいものが見えるだけの能力は何の役にも立たない、少女を救ってやることすらできない、とわが身を呪った。


「坤便をアけロ!」


ライの声が突き刺さる。

環が反射的にテーブルから落ちそうになっていた弁当箱の半分ずれているふたを取ると、ライは弁当箱を包んでいたバンダナのような布をくわえ、振り払うように一閃させた。

黒いうねりはそれを嫌がるようにザザッと身を割り、一瞬ためらうような動きを見せた。

ライは振り向きざまに、床に落ちていた誠一郎の血を拭き取ると、器用に弁当箱に放り込む。


ズゴゴゴッツ!ズッズズズズッ!

ぐごあァァァァァアゲブブブボガァ



たまっていた下水が一気に流れるような鈍い音と共に、黒いうねりが弁当箱の布を追いかけ、同時に吸い込まれる。

環がすかさず持っていたふたを被せ、ぐっと上から体重をかける。

いきなり耳が痛いほどの静けさが訪れた。

床には魂が抜けたように呆けた誠一郎と、動かない由香里が放り投げられたように横たわっていた。


「きゅ、救急車呼んだほうがいいかな」


「いヤ。じきに目をサます。どこかに寝かセテやれ」


ライはそれ以上何も話さない。


「えーと。これはいったいどうすれば……?」


おそるおそる声をかけるが、犬のような横顔を見せるだけで、動かない。


「……すべてはその男の罪ヨ」


「まあ、それは想像がつくけど」


「ん……う、んん」


由香里の意識が戻ったようだ。


「由香里ちゃん! 私のことわかるかな」


「いえ。あ……ぼん、やりと……。私、あなたと話した気が、する」


何かを探すような、非常に心許ない表情をする。

誠一郎は由香里に催眠術でもかけていたのだろうか。


「ワレがここまデ手を貸すいわれハナいのだが、環のハツ仕事だ。大サービスしてヤロう。娘を連れてイケ。父親は放ってオけ、オノレの責任ゆエ、存分に悔いルガよい」


表情は分からないが、ライはあまり機嫌がよくないようだ。背中を見せたまま先に立って歩き出した。


「オォそうダ。坤便を忘れるなヨ。決して開けぬようニ」


環は坤便であった弁当箱をキッチンにあったラップでぐるぐる巻きにしたうえで、ビニール袋を二重にして封印した。

由香里はその様子を無言でじっと見つめたまま、立ちつくしていた。


小さくすすり泣く誠一郎に「由香里ちゃんは今晩預かりますね」と声をかけ、テーブルの上に名刺を置き由香里を促して外に出た。

家を取り巻く黒い奔流は跡形もなくなり、月明かりだけが青白く落ちていた。風もないのに、門の横の百日紅の花がやけに揺れていた。


バイクの後ろに由香里乗せ、倫太郎の待つ実家に戻った。実家は門扉から玄関まで清められており、清浄な気が漂っていた。

怯えた様子の由香里に「大丈夫、ここは私の家。安全だから」とささやき、中に招き入れた。


「あら、いらっしゃい。お腹空いてるでしょ」


リビングに入ると、キッチンから澄子が明るく声をかける。こういうときはおばちゃんの屈託のなさに気がゆるむものだ。案の定、由香里は少しホッとしたように小さく頷いた。

すぐに出てきた味噌汁とおにぎりを眺めながら、ゆかりは小さくため息をつく。


「まあ、とりあえず食べなさい。おいしいからね。話はその後だ」


いつの間にかあらわれた倫太郎に促されるまま、おずおずとおにぎりをかじる由香里の目からぽろっと涙がこぼれた。

その後はエグエグ、グスグス、ムグムグ、といろんな音を立てながら無言で食べ続けた。涙も鼻水も一緒くたになった横顔を見ながら、環は初めて生の由香里に触れた気がした。


「由香里ちゃん、えっと、どういう状況なのかわかってないよね」


落ち着いた頃、環がゆっくりと問いかけると、食後の麦茶を飲みながら由香里は少し考えるように口を開いた。


「たぶん、何が起こっていたのかはわかります。私は、私じゃなかった。お母さんがいなくなっても悲しくなかったし、あんなに憎かったあの女もどうでもよかった。水槽のこっち側から外を見ているみたいで、なにも感じなかったしなにかをしようとは思わなかった」


「やはりそうか。オマエの母親は恐ろしく強イ意思の持ち主よ」


ライが少年の外見にふさわしくない話し方で発言する。しかし、リビングに会する全員がそれを奇妙だとは感じない。


「自分の娘にそんな……」


環は絶句する。


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