渡り鳥の心臓 祈り人の指先

渡り鳥の心臓

 鳥が渡る。

 遠くエッサウィラの海の門から黄昏に放たれて、かれらは南へ翼を張った。大気に混じる水の匂いを嗅ぎわけ、嵐よりも先に海を渡るために。

 大陸内部にあって岩砂漠に囲まれたティシサへ寄せる風に、潮の香りが混ざることはない。しかし海の向こうから訪れる兆しは感じ取れた。いつもよりしつこく絡まる外衣が、流れる砂礫が、オウギサボテンに咲く花が気配をたたえて教えてくれる。

 立ち止まる馬の真似をして、少年はかすかに鼻を鳴らした。

「――雨がくる」

 少年は、ティシサにありて古くは傭兵として生計を立てた騎馬一族の二長を祖とする、七人兄弟の六番目に生まれた。名をアンハと言う。

 ティシサはかつては戦の拠点となった砦の街だ。塀は人の背をゆうに超す高さにそびえ、黎明には長い影を落として朝陽すら侵入させまいとする。赤土にはまだ夜の名残が佇むが、空は紫、流れる風に雲は黄色、見る間に紺青と明けゆく大気を、白い鳥の群れが渡っていく。

 鳥も騎馬祭をするみたいだ、とアンハは空を仰いだ。天上の砂漠に、鳥は馬。整然と並び旅立っていく鳥たちは、証を求めて飛ぶわけではないだろう。年を越すために必要な移動だ。命を賭した旅路だろう。それでも、その情景はすでに盛り上がっていた気分をさらに高揚させた。

 今日は伝統の騎馬祭が行われる。

 枯草と静寂に包まれるばかりの赤砂漠を、花火銃の突き抜ける破裂音と蹄の荒々しさ、砂埃が彩る年に一度の祭りだ。曲芸じみて馬を操る男たちの腰には、女たちが夜をなべて編んだ帯が結ばれる。彼らは赤砂漠を旅立ち、北の旧砦跡へ向かう。そうしてかつて異教のものどもを退けたその騎馬術が、未だ血の内にあることを示す。

 アンハの腰にも、母が編んでくれた帯が結ばれている。

 帯には色糸で複雑な文様が編み込まれるのが決まりだ。たとえばサフランの鮮やかな黄色に、藍で染めた糸で描いた水玉文様は、雨の文様。騎馬祭を終え男たちが戻る頃、ティシサには雨が降るため、『雨と共に戻れ』という祈りが込められている。

 アンハの帯は渡り鳥の文様だ。ミソハギで染めた紫に、生成の糸で稲妻のように翼が編み込まれている。これもまた『渡り鳥のように往き、そして戻れ』という意味だ。

 この日ばかりは、普段は子どもだと相手にされない少年たちも馬を自由に駆ることができる。手綱を引きながら、大人たちの後ろについてそのときを今か今かと待ちわびている。

「やっぱり、砦の石を見つけた奴が一番だろ」

 アンハは、友人たちに向けて言った。

「前へ行きすぎても、後ろに下がりすぎても駄目なんだからそれしかない」

 祭に参加する少年たちの間では『誰がいちばんすごいか』を毎年競う雰囲気がある。アンハは昨年、同い年の中で一番早く砦跡にたどり着いた。今年もそうなるつもりだ。

「でも砦はもうないじゃないか。どうやって砦の石かどうかわかる?」

「俺、知ってるよ。砦には火金石が使われていたんだ」

 かつて異民族が住んでいた北の砦は、今はもう何もない。昔、戦があった頃に雷に打たれて燃え落ちたそうだ。その雷は神の怒りだったとか、いや雷といわれたものこそ我らが騎馬一族なのだとか、諸説あったが明らかではない。ただその戦を元に騎馬祭は行われるようになったらしい。

 砦が燃え落ちたのは火金石が使われていたせいだ、というのも噂のひとつだ。

 火金石は、火に入れると不思議な色合いに輝きながらよく燃える、らしい。

 伝聞ばかりだが、アンハが生まれたときにはすでに北の砦はなかったのだから仕方がない。祖父や父へと継がれていた話で憶測するばかりだ。

 ただ一番にたどりつくよりも、火金石を取ってくることははるかにすごいことに思われた。

「なら火金石を持ってきた奴が勝ちな!」

 ぱあん、と乾いた破裂音がして、薄青い空に白い煙がたなびいた。あれこれと喋っていた少年たちは口をつぐみ、みなが一斉に鐙に足をかけて騎乗する。

 体の倍もある馬にひらりと乗り上げると、隣家のビスラが駆け寄ってきた。ひとつ上のこの少女は、女のくせにアンハと同じくらい背が高く、おまけにすぐ年上ぶるので苦手だった。

 なぜ来るのかと思わず身を引いてしまったが、何のことはない、風習通りに出発前の挨拶をするために近づいてきただけだ。

 ビスラは馬上のアンハに向けて、両手を抱擁の形に開いた。

「行く道に神の加護がありますように。気をつけていくのよ、アンハ」

「わかってるよ」

 早速年上ぶった態度に唇をとがらせながら、祈られる側の作法として右手を心臓の上に当てる。他のものはみな母や姉に送られているのに、なんで自分はビスラに送られているのだ。わけがわからない。

「前に飛び出したり、勝手な方へ行くのも駄目なんだからね。置いていかれたって知らないんだから」

 さらにビスラが釘を刺すので、アンハは得意げに胸をはってやった。

「渡り鳥は心臓に羅針盤を持ってんだぜ。だから一人でだって行けんだ」

 渡り鳥の文様が編み込まれた帯を見せつけると、ビスラは呆れたように眉をつり上げた。

「馬鹿ね! 渡り鳥は、置いていかれたら死ぬしかないのよ」

「置いてなんかいかれるもんか」

 ぱあん、とまた乾いた銃声がする。火薬の臭いに誘われるように、アンハはきびすを返した。

「いってきます!」

「……もう、アンハ!」

 砂埃をあげて走り去っていく馬の群れへ向けてビスラはもう一度両手を開いたが、アンハは振り向かなかったので見えなかった。

「あんたの行く道に、神の加護がありますように!」

 三度、花火銃が高らかに鳴いた。



 目を開けると満点の星空だった。

 夜空の真中に放り出されたようで心許なく、散らばった体を集めようとする。うわん、と羽虫の飛ぶような余韻がして、全身が痺れて痛んだ。ばらばらに感じた四肢はちゃんとすべて繋がっていて、伸ばした指先はぎこちなくだがちゃんと動いた。

 生きている。

 何がどうなったのだったか――三度瞬きする間に思い出した。

 落ちたのだ。

 馬から投げ出された瞬間、まるですべてが止まったように音が消えた。

 遠ざかる馬の背。なびくたてがみ、青白い空、月、赤い岩、土。近づいてくる地面を少しでも遠ざけたくて腕を伸ばし、頭を抱え、目を閉じて。体全体が、まるで銅鑼のように衝撃的に鳴ったのを最後に、ぷつりと記憶が途絶えている。

 アンハは息を吸って、吐いた。染み渡るように痛みはあったが、嫌な感じはない。どうやら骨は折れていないらしい。よかった。

 軋む体を引き寄せるようにして体を起こす。

 誰も、いない。

 さらにかき集めるようにして立ち上がる。

 日の落ちた赤砂漠は、地の底から寒さが忍び寄る。腕をさすりながら、辺りを見回した。

 誰も、いない。

 足を踏み出すとびりっとした痛みがあった。挫いたのかもしれない。それ以上体重をかけないように、引きずりながら歩く。一歩、十歩、二十歩。岩のかけらが、祭のために新調した長靴の下でざりざりと鳴る。

 降るような星空だった。夜の表面を星がすべり落ちていく。いくつも、いくつも。

 星の落ちる先を見つめていると、ふと岩陰に何かが落ちているのが見えた。そっと近づき、目をこらす。鳥、だろうか。

 近づいても逃げようとしない鳥は、ふるえているようだった。怪我をしているのだろうか。体が冷え切っているのかもしれない。飢えているのかも。

「お前も置いていかれたのか」

 思わず声をかけて、アンハはそっと手を伸ばした。鳥はふるえたまま、敬虔にすら見える仕草で目を伏せた。

「……俺と一緒だ」

 騎馬祭での落馬は珍しいことではない。知ってはいたが、まさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。朝になればみなと合流できるだろう。命の心配はない。けれど、もういっそ死んでしまえばいいのに、とアンハは思う。

 体の痛みも、疲労もあったがじっと待つことにはとても耐えられず、星を見ながら北へと足を引きずった。

 そうしてしばらく歩く内に焚き火の明かりが見えた。みながいるかと近づいてみたが火は小さく、人影はひとつしかない。炎に照らされた顔は老人のものだ。

 こんなところでただひとりでいるなどおかしなことだった。躊躇いも迷いもあったが、寒さに強ばりはじめた体が火の暖かさを恋しがった。やみの中で見る火はとても魅力的だった。

 ざらりと長靴の立てる足音に、老人がアンハをじっと見つめた。

「焼いてやろうか」

 びくっとした。

 無害そうな老人の顔をして実は食人鬼か悪霊か。思わず固まったアンハに老人はつと指をあげた。

「お前じゃないぞ。その鳥だ」

「ああ、」

 腕の中に目を落とす。そこにはふるえるばかりの鳥が抱かれている。アンハは首を振った。

「まだ生きてる」

「ほう。人の手に触れてしまったら、鳥はもう飛べぬぞ」

「知ってる。翼が折れているんだ」

 老人は眉をはねたが、それ以上は何も言わなかった。代わりに手を招き火のそばへ寄るように示す。アンハはありがたく従った。

 不思議な老人だ。商人でもなさそうだし、巡礼者でもなさそうだ。旅装のように見えるが荷物は革袋ひとつしかない。身軽そうだが、その袋からはなんでも出てきそうな、そんな雰囲気があった。

 年月を経てしわの刻まれた顔からは表情がうまく読み取れない。

「爺さんは、どこまで行くの」

 さしたる意味もない問いだった。渡り鳥のように海を渡るのか、それとも風に逆らいエッサウィラへ向かうのか。ただ手持ちぶさたに、言葉が出ただけだった。

「どこまででも。長い旅だ。終わりがない」

「帰らないの?」

「帰る場所がない」

 ぱしん、と薪がはぜて音を立てた。

「……帰りたくないってこと?」

 一拍あけて、老人が楽しそうに笑った。

「帰りたくないと思っている内に、なくなってしまったな」

「どのくらい旅をしたらそうなるの」

「時間は数えないことにしている。数えずとも勝手に過ぎていくから」

 ふうん、とアンハは唇をとがらせた。

 じわりと伝わる火の熱が、体の内から冷たい息を吐き出させる。しかし大きく息をついたアンハと違って、鳥は寒いのか痛むのか、ただふるえるばかりだ。

 翼が折れていることは、触れてすぐわかった。折れたのは一晩以上前なのだろう。飛ぶことも動くこともできず、けれど岩陰に助けられて獣にも襲われずにいた。おそらく今夜が峠だろう。外衣でくるんでも冷たさが伝わってくる。未だ止まらぬふるえだけが、小さな命を教えている。

 小さな額から嘴へ指の背でなぞる。この鳥は、何をこんなにおびえているのだろう。

 金色の目は茫洋として、捉えどころのないやみを見つめるようだった。何も見てはいないのに、何かをじっと見ているような――その視線の先を思ったとき、ふとアンハは理解した。

 死ぬんだ。

 知っていた。翼が折れていたから、だから抱き上げたのだ。しかしこの理解はしんと胸の内に落ちた氷のようにはっきりとしていた。

 鳥は、己の死を悟っているのだ。

 ――渡り鳥は、置いていかれたら死ぬしかないのよ。

(そうか)

 改めて腕の中を見下ろした。理解の氷が溶けるように身に染みていく。

(お前、死ぬんだな)

 抱いた鳥の冷たさが、胸の氷の冷たさが、一息にアンハを包んだ。

「寒いのか。ふるえているぞ」

「違う。ふるえているのは俺じゃない」

 鳥のふるえが移ったのだと答えると、老人はうなずいた。

「鳥でも死はおそろしかろう」

 吹き込んだ風が火を揺らして花を散らした。薪を足す皺だらけの手をアンハはただ見つめていた。老人は言う。

「その鳥は渡りを繰り返すが、実のところ、帰るところはないのだよ。かれらは旅の中で生まれ、旅の中で死ぬ。その生そのものが大きな旅だ」

 アンハはふと、己の帯を握りしめた。渡り鳥に帰るところがないのなら、帰れという祈りは無効になるのだろうか。だとしたら、自分が置いていかれたのはそのせいなのか。

「生きている限り飛ばねばならぬのもつらかろう。翼を休めながら次の旅立ちのことを思うのも忙しない。……ところが鳥は、そんなことは考えぬのだな。あれこれ言うのは人の理屈よ。鳥にとっては生きることが飛ぶことだ。旅することが生きることだ」

 老人は革袋から水筒をだし一口あおった。アンハへと差し出すので受け取ってみると強い酒の匂いがする。飲んだことがないわけではなかったが、得意ではない。しかし断るのも子供っぽいように思われて、アンハは口をつけた。かっと火のような液体が喉を焼いて、胸の底が燃えた。

「飛べず、旅も出来ぬというのは死ぬことよ。しかし鳥も空の上で生まれるわけではない。ならばこうして地に落ちた今、ようやく帰る、といえるのかもしれん」

「……それも、人の理屈だと思う」

 喋ると呼気に酒の匂いがして、アンハは顔をしかめた。けれど老人は、違いない、と笑った。

 酒で温まり胸はどくどくと激しく鼓動するのに、抱く鳥へ熱が移りそうな様子は一向にない。鳥も酒は飲むだろうか、とほんの少しだけ考える。

 人は神への信念を貫く限り死後は永遠の国へ行くというが、鳥はどうなのだろう。鳥にも神はいるのだろうか。『行く道に神の加護がありますように』と祈ろうにも、神は鳥を加護してくれるのか。

 たった一口だったが思った以上に酒はよく回るらしい。思考も回る。コマのようにくるくる回る。

「鳥に神さまはいるの」

 アンハはそう問うた気がする。老人の声が、静かに帰ってくる。

「南には、鳥の神がいるという」

 酒の熱が火の熱と絡まり合って、ひたひたと眠りが世界ににじみだした。温まっていく体が煮込まれて夢の具材になっていく。

「この神は、火に生まれ火に帰るそうだ。そして幾度死すとも、火の中より蘇る」

 ぽつり、老人の声が波紋のように眠りの鍋へ広がって、アンハは息継ぎするように現に意識を向けた。

 冷たくなった鳥が手に触れる。――もう、ふるえていない。

「なら、火に帰してあげて」

 それは声になったのか、それともならなかったのか。


 けれど、アンハは夢を見たのだ。

 鳥は、火の中で燃え上がる。はじめ燻った火はやがて鳥の羽を焼き、包み込むようにそのすべてを包んでいく。

 明るい火だ。どんどん燃えていく。

 ふと鳥の真中がより明るく光を上げた。赤から黄色へ揺らめいて緑に青に紫へと変化していく。

 ああ、鳥の魂が燃えている。

 帰るのか。鳥の神さまは、その魂を拾い上げてくれるのか。

(お前の行く道に神の加護のありますように――)



 目を開けると、まだ夜明け前だった。

 紫に染まる空がずいぶん遠くに見える。

 体を起こすと、すでに支度を調えた老人と目があった。老人はアンハに手を差し出すように言う。寝起きの覚醒していない頭で言われた通りに差し出すと、ぽとりと手の中に何かが落とされた。

 黒い石だった。なんだろう、と持ち上げてみると朝陽の中で不思議な色に揺らめく。まるで昨日の火のようだ。

「そいつは火金石だ」

 アンハはぽかんと口を開いた。

「昔、ここより北に火金石で出来た砦があってな。落雷で崩れ去った折、火金石はすべて燃え尽きてしまったと言われている」

 その話は知っている。北の旧砦跡の話だ。だがそれがなぜここに、と目を白黒させていると、老人は笑った。

「……鳥は、きらきらしたものが好きなんだなァ」

 そいつは坊主のもんだよ、と老人は楽しそうに笑いながら、立ち上がった。

「それじゃあな」

 まだぼんやりした頭が理解に追いつかない。けれどアンハは、あわてて両手を開いた。

「行く道に神の加護がありますように」

 老人は目を瞠り、それから右手を心臓に当てて、流れるような動作で両手を開いた。

 鳥のようだ、とアンハは思った。

「坊主の行く道にも、神の加護がありますように」

 老人は迷う様子も見せず、そのままきびすを返して南へ行く。鳥の行く方へ、風の吹く方へ。

 遠ざかる背を見送りながら、アンハはもう一度、鳥のようだ、と思った。

 旅をするのだ。生きている限り、あの老人は旅を続けるのだ。そう思うと不思議とこみあげるものがあって、アンハは立ち上がってまた言った。

「幸運を! 行く道に神の加護がありますように!」

 思いつく限りの祈りをアンハは叫んだ。老人が見えなくなるまで叫び続けた。

 手の中には火金石が握られている。

 やがてアンハは老人とは逆の方角へ、北へ向けて歩き始めた。北の砦から戻るみなと合流するために、そして共にティシサへ帰るために。

 ――砦へ行かずして、火金石を手に入れたことを問われたらどうしようか。

 アンハはふと考える。

 その頭上を、鳥の群れが渡っていく。朝の風に翻る帯には、白い渡り鳥。


 もし問われたなら、これは渡り鳥の心臓だったと答えよう。

 目指す先に、騎馬の立てる砂埃が見えた気がした。

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