ーⅢー Miserable Miracle



 試験期間。

 それは、大学生ならば誰もが戦々恐々とする、戦いと断罪の場。

 大学生はいかに単位と評価を効率よく稼ぐかを馬鹿らしいほど真剣に考え、そして教員達と戦う。

 もちろん大学生である私にとっても、それは同じ。

 出来る限り単位を稼がなくてはならない。それもいい評価の単位。そして、私は誰かの「心」を手に入れなくてはならない。


 さて、勉強を始めなくては……。




 変な夢を見た。

 いい評価をとることに夢中になっている女の子の夢だ。

 どうも、ここのところ試験勉強ばかりしていたので、頭がおかしくなってきたのかもしれない。

 大学も三年目になると慣れるかというと、そういうわけでもない。何度も同じ授業を受けるわけではなく、評価の方法は授業ごとに様々だからだ。

 しかし、僕は昨日で試験がすべて終わっているので、泣いても笑ってもすでに全ての単位の評価は決定している。つまりはもう夏休みなわけだ。


 だが、夏休みだからといってのんびりしているわけにもいかない。

 早速顔を洗う。毎度毎度僕の寝癖はひどい。今回は前髪がひっくりかえっていて、額の傷が丸見えだった。これじゃあせっかく前髪を伸ばしているのにその髪型がまったく意味をなさない。

 とりあえず水をかけてみることにして、なんとか見られてもいいくらいに整えた。

 時計を見て、朝ご飯の用意をするには時間が足りないことに気がつく。

 朝はいいか。夏だし死にはしないだろう。

 僕は素早く着替えると、真夏特有の水分を吸いきった重たい空気を振り払うようにして部屋を出ようとした。

 その時だった。


「真中さーん、いますか?」

 そんな言葉とともに、目の前の扉をごんごんと乱暴に叩かれたので、僕は思わずあとずさった。

 僕は、はあ、と大きくため息をついてから扉を開けた。

 扉の先には思ったとおりの人物がいた。

 こげ茶色に染められた短い髪、大してスポーツをしている様子はないのに黒く日焼けした肌、そして長身で黒縁眼鏡、極めつけは和やかなテノールボイス、とくれば、僕の知り合いにたったひとりしかいない。

 佐貫悠太郎さぬきゆうたろう。僕の高校からの後輩である。大学でも学部学科単位で後輩だ。

「よかったー。真中さん起きてらっしゃったんですね。おはようございますー」

 佐貫はにこにこと楽しげな笑みを浮かべ、僕に軽く頭を下げる。

「どうしたんだ佐貫。僕は今から出かけるところなんだが……」

「あ、もしかして、あの、その、バイトの占いの先生のところですか?」

「うん、まあそうだな」

 彼には一応僕のバイト先の店を占いの館と説明していた。そうじゃないといろいろと厄介なことになるだろうと思ったからだ。

「よかったー」

 彼は心底ほっとしたような顔をした。

「えっなんで?」

 まるで話がかみ合わない。だから僕は今から出かけるんだぞ。

「実はですね、その占いの先生にちょっと視てほしいものがあるんですよー」

 そう言って佐貫は心底心配そうな顔をした。いちいち自然なオーバーアクションをするのが、彼の不思議な癖である。

「なるほど……」

 佐貫のように気楽な日常を送ってそうな奴でもそんな悩み事があるのか、とは言わなかった。

 実際、彼は毎日にこにこと楽しそうに素敵なキャンパスライフを送っているように見える。授業だって大して出席していないし、なんでもサークルでは宴会部長のような役職を任されているそうだ。

 まあ、そんな佐貫でもちゃんと成人したひとりの男だ、悩みのひとつやふたつ、あって然るべきなのだろう。

「真中さんの働いているところって、なんか不思議な事件、みたいなのも占ってくれたりとかするんですか?」

「ん? ああ……どっちかというとむしろそっちのほうが本職のような……」

「えっそうなんですか! じゃ、じゃあ、あの、僕もその占いの館についていってもいいですかね?」

「ああ、いいよ」

「ほんとですか! ありがとうございますー」

 佐貫は心底嬉しそうな顔をした。彼の表情は基本的に「心底」が付属している。

 確かに、占いというよりは、怪奇現象を調査するとか、そういうものが事務所の所長――もちろん、御厨智子みくりやともこのことであるが――の本職であるので、僕は間違ったことは何ひとつ言っていない。

 だが、どこか釈然としないものが残るのも事実だった。

 なんだ、この違和感は……。


 すでに高くなり始めている日は、僕の肌を灼くには十分だったようだ。

 最寄りの地下鉄の駅まで五分強ほどしかかからないはずなのに、僕の両腕はすでにかなり赤くなっている。

「真中さんって日焼けしやすいんですねえ……」

「まあ、もとが白いからな」

「確かに。僕は焼けようがないですからね」

 佐貫は楽しそうに笑う。

「そう言われればそうだな。……で、どんな案件なんだ?」

 僕は一応、彼に事情を聞くことにした。言い方はあまりよくないが、佐貫のような見るからに一般人がたまたまうちに持ってくるような、そんな偶発的な事件は、御厨智子が即座に突っぱねる可能性が高いからである。

「いや、それはとりあえずお勤め先で占い師の方にお会いした時にということで」

 そもそも御厨は占い師ではない。そのうえ、御厨が佐貫の悩みを解決するという保証はない。

 が、そんなことを佐貫が知るはずもない。

 そこでちょうどよく銀色の車両がホームに滑り込んできたので、僕たちは無言で乗り込んだ。


 地下鉄で二十分ほどかけて、大学がある地域とは反対側の閑静な住宅街に出た。

 縦波市でもこの近辺は、高級住宅街として有名である。確かに、立ち並んでいる家はどれも普通のものよりもかなり大きく、上品なたたずまいである。

「こんなところに占いの館ってあるんですねー、全然知りませんでした」

 佐貫は間抜けた声を出しながら心底楽しそうな表情をしている。

「やっぱり、こういう少しお金に余裕のある人たちのほうが、お悩み解決とかにお金を払おうっていう余裕もある、ってことなんですかねえ?」

「いや、智子さんがここに館を創ったのは、多分そういう理由じゃないと思うが……」

 御厨智子が、そんな簡単な理由であの事務所を作ったとは思えない。

 というか。

 さっきの佐貫の言動、なんだか嫌な予感がする。

「なあ、佐貫、もしかしてお前、相談するのはいいけど、ちゃんとお金……というか対価は持ってるのか?」

「いや、あの、お金ならちょっとはありますけど、真中さんの知り合いということでなんか、ちょっとお安くしてもらえないかなあと思って、特に、なんにも持ってきてないです。すみません」

 佐貫は心底申し訳なさそうな顔をして、ばつが悪そうに笑った。顔だけ申し訳なさそうなくせにこういうところに期待しているあたり、かなり図々しい奴だ。

 まあ、御厨はそもそも対価に現金を請求することは稀であるし、所詮僕と同じような貧乏学生である佐貫の財布の中身なんて高が知れているので、期待はしなかったが。

 にしても、そういうところに相談しに行くのだから、少しくらいは持っていくのが常識だろうと思うのだが、こいつ、いったいどうするつもりだったんだろう。もしかして僕にでもたかるつもりだったのだろうか。

 ちょっと、先輩として怒ったほうがいいかもしれない。

「あのなあ……」

「あの、智子さん、って結構有名な方だったりします?」

「えっ。なんで?」

 怒ろうとした瞬間、突然の質問に面食らった。

 なんだそりゃ。

「いや、あの、有名な方だとちょっとお金が……」

「ああ……そういうことか。いや、智子さんは、お金はあまりとらないタイプだから、安心してくれ。対価はとるけど」

「それはいったい?」

 佐貫は心底疑問そうな顔をしている。

 答えると長くなるので、ここは無視して先に進む。


 そうこうしているうちに、事務所のある建物が見えてきた。

 といっても普通の一軒家なのであるが。

「ここですか……なんか、思ったより小ぢんまりしてるというか……その、普通の家ですよね」

「当たり前だろ。占いの館なんだから。城かなんかだとでも思っていたのか?」

「はい」

 ここで何の臆面もなく「はい」というところが佐貫らしい。

 確かに、高級住宅街にしては少し小さな家だ。二階建ての白い家という、一軒家の中でもある程度標準化された、ごく普通の住宅である。そのため塀や門も周りと比べると若干地味で、それがほんの少しだけ、浮いている。とはいっても、普通の住宅街に行けば、そこそこ立派な家になると思うのであるが。

 僕は門をくぐって扉を開ける。

 後ろを振り返ると、にこにこと笑みを浮かべた佐貫が、困ったように門の前に佇んでいた。

「おい、どうした。入らないのか?」

「いや、なんか、ちょっと、緊張しますね……」

「今から緊張してどうすんだよ」

 表情があまりにもにこやかすぎて全然緊張しているように見えないのだが、これはいつものことで、佐貫は確かに緊張していた。経験的にそれはわかる。

 が、わかっていてもツッコミを入れたくなるものなのだ。

 待っていてもいっこうに門をくぐろうとしないので、僕は佐貫の手を引いて家の扉の前まで連れていき、そこで待たせることにした。

「まずは僕が事情を話してくるから、お前はここで待ってろ」

「わかりました」

 佐貫は直立不動で待機し始めた。

 ともかく、僕は家に入る。

 玄関を抜けるとすぐに階段があるがここは無視して直進する。その先が一般的なリビングルームとなっているが、この家の場合はここが「事務所」である。

 事務所には家具がほとんどなく、扉を開けるとすぐに大きな木のテーブルが目に入る。

 そして、その奥には豪華な椅子に腰掛けた御厨智子が、僕を見つめていた。

 その西洋彫刻のように整った顔が僅かに歪む。

 それは表情だけで嗜虐性を汲み取るには十分な微笑みだと、僕はいつも思う。

「真中、友達を連れてくるのは別に悪いことではないと思うわ。人は常に助け合わなくては生きていけない……そうでしょう? けれど、約束の時間に三分二十五秒遅れる、というのはどうかしら? 約束を破ることの代償がどれほどのものか、貴方は痛いほどよく理解わかっていると思うのだけれど?」

 御厨智子の黒髪が妖しく揺れる。

「申し訳ありませんでした」

 僕は謝る以外に選択肢がなかった。

 御厨はそんな僕を見て、ふっ、と微笑みを浮かべた。艶のある黒髪がなびく。

「では、連れてきますね」

 僕がそういうと、彼女はつまらなそうな目をして軽く頷いた。肯定の仕草だ。

 こりゃ、あんまり聞く気がないな。

 しかし、もう佐貫を連れてきてしまったので仕方がない。


「あ、あの初めまして佐貫悠太郎といいます。えっと……」

 僕が佐貫を連れて再び事務所に帰ってきたとき、長方形のテーブルには、御厨と向かい合うようにひとつ、そして御厨とその椅子の横に、向き合っている二人を横から見る形になるようにもう一つの椅子があった。御厨が用意したのだろう。

 僕は佐貫を御厨の正面の椅子に座らせ、僕は横の自分の席に座った。

 佐貫はやはり緊張していた。無理もない。ただでさえ常人離れした美貌を持っている上に、底知れない不思議なオーラを漂わせている御厨智子を前にして緊張しない者の方が少ないだろう。それこそ、「何か」を持っていない限りは。

 もっとも、それ以前に佐貫はこういう場面があまり得意というわけではないけれど。

 僕は御厨の方を見た。御厨は佐貫を悠然とした姿勢で迎えていた。目は佐貫をとらえているものの、口元はきっと結ばれている。

 しばらくの間の後、結ばれていた御厨の口がふっと緩んだ。

「こんにちは。佐貫君と言ったわね。貴方、一見して『何も抱えていない』ように見えるけれど、本当に私に何か解決して欲しいことでもあるのかしら?」

 御厨は優雅な微笑みを浮かべながら、気だるげにそう言った。

 佐貫は心底困ったような顔をして、

「はあ、実は……僕の成績なんですけど……」

 と、家でプリントしてきたらしい成績表を手にとり、話を切り出した。

 僕らの学年はつい昨日まで試験だったけれど、佐貫の学年は履修てきる専門科目の都合上、先週末で試験も単位評価も全て終わっている。

 彼はその成績表が不可解だという。

 僕は成績表をのぞき込んだ。

 「良」や「可」がほとんど、中には「不可」もある中で、「ドイツ語2B」の単位だけが「優」になっていた。

 佐貫によれば、この「優」はありえないらしい。

「別に、これくらいよくあることだろ。たまたまテストがあたったとかそんなんじゃないのか?」

「いや、そうじゃないんです。僕、この授業にほとんど出席してなくて、先生から『佐貫君、残念ながら君は出席点がつかないので不可が確定しました。試験は出なくてもよろしい。再履修は違う教員を指名した方がお互いにとっていいと思います』ってメールが来ちゃったんですよ。優なんて、どう考えてもあり得ない感じですよね?」

「いやおい待て待て。出席が足りないってお前、どんだけサボったんだよ。というか、それで試験出なかったのかよ。試験出てれば単位もらえたかもしれないじゃんか。何してんだよ」

「はあ、すみません」

 佐貫の話があまりにもツッコミどころ満載だったので、思わず畳みかけるように話してしまった。

 というか、試験来るなって教員に言われるって、どんな喧嘩をふっかけたんだよお前。しかも授業ほとんど来てないのに。意味がわかんねえよ。

「しかし、お前のダメさ加減はともかくとして、確かにおかしいな。そんなに不可です不可ですって言ってきた人の授業の単位が優なのは、変だ」

「そうなんですよ。しかもその先生、優なんて滅多に出さないらしいんですよね」

「なるほど……」

 って、おい。

「……なあ佐貫、お前どうしてそんな先生の授業とったんだよ」

「いやあ実はですね、そこしか空いている時間が無くて……」

「空いている時間だったらちゃんと授業出ろよ。語学の授業は出席してナンボだろ」

「いやあ僕朝弱いんですよねー。やっぱり一限に授業を入れるんじゃなかった……」

「……」

 僕は呆れた。いくらなんでも酷すぎる。

 まあ、昔から佐貫はこういう奴なのだけれど。


「成る程。確かに、その成績表、ちょっと何かあるわね。佐貫君、貴方、大学の試験が始まる迄に、何か不思議な人に出遭ったとか、そう云う事って無かったかしら?」

 御厨はどうやら佐貫の成績表から何かを感じたらしい。その目の先が明らかに佐貫ではなく彼が持っている成績表に向いている。

 しかし、今更ながら思ったのだが、別に佐貫はこれを御厨智子のところまでわざわざ相談する必要がないような気がする。いい評価を貰ったのならば、たとえそれが事務的な手違いか何かだったとしても、黙っていれば訂正されることはない。せっかくの「優」が訂正によって「不可」になってしまうとなればなおさらである。

 佐貫は確かにいろいろ抜けているところはある。だが、経済学部でやっていけるだけの合理性をきちんと備えた人間であることは間違いがない。こんなに手間をかけて、自分の単位を落とそうという不合理なことを正義感からわざわざするような男だとは思えない。

 なんだ、これ。

 考えれば考えるほど、意味が分からないぞ。

「そう……これは本来であれば確かにあり得ない成績だわ。しかも、それをわざわざ私のところまで真中を介して持ってきたというのも、同じくらいにあり得ないわね。佐貫君、結論から云わせて貰うと……貴方は何かとんでもない怪異ものに、出遭っているはずよ」

「はあ……」

 佐貫は完全に考え込んでしまっている。

 何か心当たりでもあるのだろうか。

「そういえば、ずいぶん前にその授業に出たとき、同じ経済学部の女の子と話をしました。実はその子が言っていたことが、すごく頭に引っかかっていて……」

「なんて言ってたんだ?」

「『この授業、私が何とかしてあげる』って言われたんです」

 佐貫は心底怯えきったような表情をした。彼のオーバーアクションを取り除いたとしても、怯えているのは明らかだった。

 が、いかんせんオーバーすぎてこちらにその怖さが伝わってこない。

 そんな佐貫を見て、御厨智子の口の左端が歪んだ。

 何かおもしろい標的ものを見つけたと言いたげなその表情は、何度見ても背筋にぞわっとした嫌な感触を覚える。

「それで、成績表を見て驚いてしまって。その後彼女からメールが来たんです」

「お、おう……」

 授業で数分話した程度なのにメールアドレスを交換する技術を持つ種族を、僕は寡聞にして知らなかったのだが、まさか今目の前にいるこの浅黒い肌のさわやか眼鏡がその種族だったとは驚きだ。さすがは某サークルの宴会部長である。

「それで、そのメールの内容は?」

 御厨があくまでトーンは冷静に、しかしその奥に愉快でたまらないという感情をちらつかせながら言った。

 佐貫は心底怯えきった表情のまま、一息つくと、こう言った。


「『成績表、見たでしょ? これが私の商売です。貴方の心を、いただきます』って」


 ほう。

 ためた割には、普通だな。だって口説き文句だし。

 というか、ちょっといいかな。

 僕はおもむろに立ち上がると部屋の隅にある空のゴミ箱までつかつかと歩き、

「ただの逆ナンじゃねえか!」

 とゴミ箱を蹴飛ばした。

 もちろん、僕専用のゴミ箱なので中身はいつも空だ。ゴミは散らばらない。

 からん、こん、かん。

 プラスチック製のゴミ箱は僕の蹴りでも簡単にふっとび、反対側の隅のほうに転がった。

「……真中、落ち着きなさい」

 御厨智子にそう言われた瞬間、急激に思考が冷めていく。

「ああ、はい。申し訳ありません」

 深呼吸をしてから、深々と御厨に頭を下げる。

 そして。

「佐貫、すまん。取り乱した」

 不本意だが佐貫にも頭を下げた。

 佐貫はあっけにとられてしまったようで、ぽかんと口を開けている。

 そして、数秒黙ってから放った言葉が、

「……いえいえ、真中さんの突然のブチギレはいつものことですから」

 という微妙なフォローだった。だがこれが佐貫の優しさなのを僕はよく知っている。

 僕はふらふらともとの席に戻って、崩れ落ちるように腰を下ろした。

「なるほどねえ……貴方の状況がなんとなく、理解わかってきたわ。けれど、佐貫君、貴方は運がいいことに、まだ何も抱えていない。従って、何もする必要はないわ」

 御厨は佐貫に笑顔でこう言った。

 なんだ、この言葉の奥に秘められている真意は。

 僕はとても嫌な予感がした。

 ということは、つまり。

「真中、貴方がこれを解決しなさい」

 ですよねえ。

 御厨のこの言葉で僕はその予感が的中したことを悟った。


 結局僕らは、御厨智子から調査を命じられたために、事務所から家に帰ることになった。パソコンがある僕の部屋の方が、大学に関する資料は集めやすいからだ。

 帰り道、佐貫からさらに詳細を聞いた。

 佐貫と話した謎の女子大生は、三嶋みしまさくらと名乗ったという。学年は佐貫と同じで二年。会ったときは明るい栗色のセミロングで、髪をドリルに巻いていたそうだ。

「朝からの授業だというのにかなり化粧がしっかりしていたし、身につけている小物もいろいろあったんですが、パステルカラーということ以外は色も形もバラバラで、なんだか派手な人だなあという印象がありますね。あと、美人なんですけど、見た目的にはお茶目というよりは、どちらかというとクールな感じですかね。話した感じでは、かなり頭がよさそうでした。そう、です、ね……少なくとも真中さんよりは鋭い感じがしましたね。だからドイツ語を教えてもらおうと思って話しかけたんですけど……」

 完全に余計な一言があったが、気にしないでおこう。

 しかし困ったな。その三嶋さくらという人物が、佐貫の言うとおりの格好をしていたとしたら、かなり特定が難しくなる。そんな雰囲気の女子大生は、この縦波大学に山ほどいるからだ。

「他に、その三嶋さくらさんの特徴はないのか?」

「そう、です、ね……ちょっと、覚えてないですね。なにしろそれっきりだったので」

「そうか、お前授業出てないもんな……」

「はい」

 佐貫は悪びれた様子もなくにこにことしている。

 しかし、御厨の言ったことが微妙に頭の中にひっかかる。佐貫がまだ「何も抱えていない」とは、どういうことなのか。実際に佐貫は怪異に遭遇している。怪異に遭遇した人間はもれなく何かを「抱える」はずで、御厨智子にはそれが「視える」はずなのだ。

 なぜ、佐貫は何も抱えていないのか。そして、なぜ成績表だけが、怪異を抱えているのか。

 それがわからないことには、どうもこの事件、進展しないような気がする。


 地下鉄の最寄り駅に着き、出口の階段をあがると、

「あっ、真中さん」

 また、見知った顔と出会う。

 経済学部の後輩、雨宮桃子あめみやももこである。

「おう、ミヤコ。大学に用があったのか?」

 僕がそう問いかけると、彼女は微妙な表情をして、

「いえ、大学ではなくて真中さんに、です」

 と、ピンク色のかわいらしい眼鏡を押し上げながら言った。

 ショートカットの髪が、若干跳ねている。ワックスを使っているようには見えないが、寝癖にしてはキレイだ。

 そういえば、佐貫と雨宮は初対面だったな。

「そうそう、こいつは僕の高校の後輩の佐貫だ」

「初めまして。えっと……」

「初めまして雨宮桃子です。ミヤコって呼んでください」

「あ、わかりました。ところで雨宮さんって、経済学部の方ですよね?」

「はあ、そうですけど? 何故わかったんですか?」

 雨宮は佐貫を見上げた。ピンク色の眼鏡の奥から訝しげな視線がのぞく。

 その視線の強さに、佐貫は一瞬たじろいだ。

「あ、それは、あのー、いつも僕が授業に出ると前の方に座ってらっしゃるので、どこかで見たことがあるなあと思いまして」

「はあ……よく覚えてますねえ」

 雨宮はまだ佐貫を睨むように見つめている。

 彼女は確実に佐貫にいい印象を持っていないだろう。

 僕も、このふたりは、合わないと思う。

「そんなことより、今度はどうしたんだ、ミヤコ?」

「そうですそれですよ! まあ、ここで話すのもアレなんで、どこかで座って話したいんですけど……」

 困ったことになった。これから、佐貫と大学の成績に関する資料を集めるところだったのに。

 どう考えても雨宮は佐貫に自分の話を聞いて欲しくないだろう。

「うーん、わざわざ遠くから僕を訪ねてきてくれて申し訳ないんだけど、今日はこいつと用事があるからなあ」

「そうですか……ならば仕方ありませんね」

 そう言って雨宮は不満げな顔をする。といっても、これが彼女の地顔なのだが。

 笑っていれば小動物のようなかわいらしいところがあるのに、彼女はこういう細かいところでやたらと損をしているような気がしてならない。と思ったが、それ以前に彼女の性格自体が相当な損なので、ここが変わったところで大したことがないことに気づく。残念。

「ごめんな、ミヤコ」

「いえ、私の方こそなんの連絡もなく急に訪ねてきてしまって申し訳ないです。明日は空いてますか?」

「えーと、お昼から夕方までならなんとか」

「わかりました、あ、ところで御厨さんのところにいくのはいつですか?」

「まさか……君も智子さんに用があるのか?」

 なぜだろう、とても嫌な予感がした。

「はい、なんでも最近聞いているだけで不愉快な怪異を見つけてしまったので」

 雨宮は露骨に嫌そうな顔をした。

 ちなみに、雨宮は非常に成績がよく、以前単位を落としてしまった科目の再履修を手伝ってもらったことがあるほどだ。

 そんな彼女が、不愉快になるような怪異。

 まさかというか、ほぼ確定であるのだが。

「なあ、まさかとは思うけれど、もしかして、それって単位を売りつけてくる女がいる、って話じゃないだろうな?」

「あ、それですそれ!」

 雨宮の眼鏡の奥の目がまん丸になる。僅かな希望が巨大な大槌によって粉砕されたような気分だが、それでも僕は平静を保った。

「もしかして、今日そこの……えっと……」

「あ、僕は佐貫悠太郎といいます」

「佐貫さんも同じなんですか? じゃあ彼女と『契約』したってことですか?」

 雨宮は汚いものを見るような目で佐貫を見た。

 一歩あとずさりしたように見えたのはきっと気のせいではないだろう。

「おいおいどういうことだよいきなり。よくわからないじゃないか」

「どういうもこういうも、なんでも単位と男の身体や金を引き換えに生活しているクソビッチがいるという話ですよ、それじゃないんですか?」

 ひどい言いようである。

 ちなみに、雨宮は女子にしては非常に背が高く、当然僕より背が高いので、怒ったような顔をして見下ろされるとほんの少し怖い。

「えっ、さくらさんってそんなに怖い人だったんですか? 困ったなー」

 佐貫は全然困ってなさそうな口調で心底困ったような顔をした。どっちなんだよ。

「その女、さくらっていうんですか? いかにもビッチ臭い名前ですね」

 雨宮は完全に全国のさくらさんを敵に回すであろうビキニクラスの爆弾発言をぶちまけた。

 しかし、一度解決したというのに、またすぐに別の怪異に遭遇しているとは、雨宮もかなりの悪運の持ち主のようだ。どうやらその真っ直ぐな性格も災いしているのかもしれない。

 そんなことはどうでもいい。

「まあいいや、とにかく、ミヤコ、君もやっぱり僕の家で話を聞こう。大丈夫だよね?」

「ええ、大丈夫です。むしろ佐貫さんは、私がいてお邪魔じゃないでしょうか?」

「いや、そんな、僕と真中さんがまるでホモカップルみたいなこと言わないでくださいよー」

「言ってねえだろ」

 そしてそこでにこにこするな、気持ち悪いだろ。というか本当に勘違いされるだろ。

「えっ、真中さ……そうなんですか?」

 雨宮は目を見開いたまま、固まっている。

 そら見ろ。畜生。

「道理で恋人がいないと思ったら……そういうことだったんですか?」

「いやだから違うって! というか案の定君今地味にひどいこと言ったな」

「あれ、雨宮さんってそういうのがお好きな方なんですか?」

「お前はお前でなんて事を聞いてんだよ!」

 ちなみに彼女は「そういうのがお好きな方」だ。この前某「そういうのがお好きな方」の知り合いが大好きな、明らかにそういう趣味の人が好むであろう漫画のキャラが彼女のスケッチブックからたまたま見えてしまったという事件があったのでそれはほぼ間違いない。

「……すみません、取り乱しました。いや、人間ってどんな繋がりのカタチもアリだと、私は思うのですよ。決してその……男同士だけではなくですね」

「わかったから頼む黙ってくれ」

「真中さんすみません……まだ夕方なのに女子大生をこんなに興奮させるようなことを言ってしまって……」

「うるせえお前も黙れ」

 右にはむっつりとした顔のピンクの眼鏡の少女、左にはにこにこと笑みを崩さない黒縁眼鏡の青年。

 なんだ、この無駄に対になっている組み合わせ。全然ちぐはぐなのに。


「つまり、その三嶋さくらという経済学部の女子大生が、誰かの不可になるはずの単位をなぜか良や優にして、その見返りにその人に金品その他を要求する、ということでいいのかな」

 もうずいぶん夜も更けた頃、僕は自分の部屋でふたりの話を聞き、まとめた。

「そうですね、おそらくまとめるとそんな感じになると思います」

 雨宮はコンビニで買ってきたカップラーメンを啜りながら答えた。眼鏡は曇らないように外してある。眼鏡をとった彼女の顔は慣れないが、漫画などでよくあるように別に美人になるわけでも不細工になるわけでもなく、木の実をかじっていそうな小動物みたいな顔をしている。まあ、どっちかといえば可愛い部類なのだろう。どっちかといえば。

「でも、私が聞いただけだと……その……えっと」

「佐貫です」

「ごめんなさい、私、よほど興味がある人じゃないと名前を覚えるのが遅くて……」

 真ん中辺りが余計だ。

「いえいえ。覚えるまで名乗りますので安心してください。雨宮さんに覚えてもらうのが今日の僕の目標ですから」

 なんだそりゃ。

「まあともかく、佐貫さんのケースはなんというか、私が聞いた限りでは初めてです。大概、三嶋さくらは、そこそこ高額な食事なんかをおごらせるのが相場みたいですね」

「ほう、そうなのか」

 なんというチャラい単位売りだろう。というかそれ、

「まあ要はただのクソビッチなんですけどね」

 またしても雨宮は僕よりも先に言いたいことを言ってしまう。

「だからこそ、……えっと」

 いや、雨宮、それ酷すぎるだろ。さっき名乗ったばっかだぞ。いい加減覚えろよ。

「佐貫です。ちなみに漢字はにんべんに左、貫通の貫と書きます」

「そう、佐貫さん、あなたに対してどうしてこんな要求をしたのか、考える必要があると思うんです」

「あー、確かに、僕もそうだと思いますね」

 佐貫は心底嬉しそうな顔をした。なにが嬉しそうなのか、僕にはよくわからない。

「なるほど。じゃあ佐貫、お前その三嶋さくらに対して何かいいことでもしたのか?」

「いえ、そんな記憶はないですね」

「ですよねえ……」

 当たり前だ。心当たりがあればすでに言っているだろう。

「あと、真中さん、さっきあなたが言ってたことですが、御厨さんは、えっと……」

 なんべんやらせる気だ。

「佐貫です。こんなに黒い肌をしているのにうどんみたいな名前だ、って考えたらちょっと覚えやすいかもしれませんね」

 佐貫は佐貫で余計なことを言っている。かえって覚えにくい。

「すみません、御厨さんは佐貫さんに『何も抱えていない』と、言ったんですよね?」

「ああ、はっきり言った」

「ということは、佐貫さん自身に怪異は降りかかっていない、ってことですよね?」

「ああ、そういうことになるな。僕もそこがすごく気になっているのだけれど、智子さんは教えてくれやしない。『自分で解決しろ』とだけだ」

 僕は肩をすくめた。

 しかし、勝手なところはあるものの、僕に解決出来ない怪異を無理矢理押しつけるようなことをしないのが御厨智子である。

「本当に気味の悪い怪異ですね」

 雨宮が首をひねりながら言った。眼鏡をとっているせいなのか藪を睨むような非常に目つきの悪い形相になっており、直視できない。

「あの、すみません」

 微妙な沈黙の中、佐貫がおそるおそるといった感じで手をあげた。

「なんだ?」

 何かいいことでも思いついたのだろうか。

「トイレ、お借りしてもよろしいでしょうか?」

 トイレかよ。

 佐貫は心底苦痛そうな顔をした。

 顔から察するに、結構我慢の限界が近いのだろう。

「んなもん訊くなよ……。台所のすぐ脇な」

「あっ、はい、ありがとうございます」

 佐貫はその柔らかな物腰からは想像も付かないほどの荒々しい足音でトイレに向かった。

「えっと……あの……」

「佐貫だよ……いい加減覚えてやれよミヤコ……」

「すみません、何故だか佐貫さんって覚えにくくて」

「そうか? 僕は覚えやすいと思うが」

「なぜでしょうね……」

 雨宮は首をかしげた。

「ただ単に君と佐貫の相性が悪いだけだろ」

「まあ、確かに、私ああいうタイプの人、ちょっと苦手、というか、むしろ真中さんがそういう人と付き合っていることが不思議ですよ」

「はあ、そうか?」

 確かに言われてみるとそんな気がする。

 そうかもしれないと思いつつ雨宮を見ると、彼女の顔が少し赤くなっていた。

「どうしたミヤコ?」

「あ、あの付き合ってるというのは、その、恋愛的な、い、意味じゃないですよ、ええ。はい」

「わかってるよ! 間違えるわけねえだろ!」

「いやそのさっきの件で真中さんが、どうも、私のですね、趣味をですね、ご、誤解しているような気がしてですね」

「誤解してねえよ! むしろどう誤解するんだよ!」

「ご、誤解していないとなると、私、逆に困る訳なのですが……」

「知るか! とにかく落ち着けミヤコ!」

 よくよく考えると落ち着いてないのは僕も同じなのだが、それはさておいて。

 雨宮を鎮めている間にいつのまにか佐貫が戻ってきていた。

「あ、あの、なんか、僕の話してました?」

 佐貫は笑顔で何度も聞いた台詞を言った。

「お前トイレから戻ってきたときいっつもそれ訊くよな! そうそうお前の話なんかするかよ!」

「いやあでもさっき、真中さんが『佐貫は~』みたいなことを言っていたような気がするので」

「気にし過ぎだ! あとたぶんそれ空耳だから」

 正確に言うと確かにそれは空耳ではないのだが、とりあえずここは空耳ということにしておかないと面倒なことになるので空耳で通すことにする。

「そうなんですかね。まあ、とにかく、僕はどうやって三嶋さんから逃げればいいんでしょう?」

「逃げるの前提かよ!」

「いやあ、これ、多分勝てないですよ」

 佐貫は苦笑している。何が勝てないのかよくわからない。

「しかし、考えれば考えるほど、変ですよね」

 雨宮はカップラーメンを食べ終わったというのに眼鏡をかけるのを忘れたまま考え込んだ。

「まあ、その、なんだ」

 とりあえず僕は切り出した。

「今日はもう遅いし、そろそろ電車もなくなるだろうから、君たちは帰ったほうがいい。また、明日にでも考えよう。寝れば何かいいアイディアが出るかもしれないからな」

 実を言うと、僕は寝ることによって確実に事態が好転すると踏んでいるのだが、それについてはここでは割愛する。

「そうですね。そんな気がします」

「僕もそう思います。わざわざおうちまで押しかけてきてしまってすみません」

 佐貫はそう言って心底申し訳なさそうに両手をあわせた。

 ほんとだよ、とは言えるわけもなく。

「まあ、とりあえず今日はこれまでということで。また明日僕の家、ってことでいいかな?」

「そうですね、それで」

「じゃあ今日と同じくらいの時間でいいですか?」

「まあ、そんなんでいいや」

 本当は少し早いような気もするが、よくよく考えると今日の僕の起床時刻は大学生とはいえかなり遅かったので、自省の念もこめて同じ時間ということにしよう。

 そういうわけで、僕は雨宮と佐貫を送り出し、寝ることにした。


 そのときだった。

 僕の携帯電話がブルブルと震え始めた。

 佐貫か雨宮が忘れ物でもしたのだろうか。

 僕は携帯電話をとって、番号を見た。

 そこには、まったく予想もつかない番号があった。

 とりあえず着信をとる。

「おう、フヒトさんチッス」

 軽薄な印象を与える男の声が、電話口から聞こえた。

「おう、どうしたこんな夜中に」

「夜中じゃねえよ! まだ二十三時やんけ!」

「十分夜中だ」

「日付変わってねえし!」

 彼の名は坪井浩之つぼいひろゆき。経済学部の同期である。

「で、用件はなんだ?」

「なんだよ冷てえなあフヒトさんよお」

「ないのか?」

「アタイ、サミシイカラデンワシタノー」

 坪井はたどたどしい言葉でふざけた。どうやら酔っているようだ。

 非常にイライラする。

「切るぞ」

「ちょっまっちが! 真面目な用件あるから! 切んな!」

「じゃあなんだ?」

「……あのさ、成績ってもう出た?」

 坪井はさっきまでの浮ついたテンションはどこへやら、ひどく落ち着いた様子でそう言った。

 やはり成績のことだった。彼が突然僕に電話してくるのは十中八九成績のことだ。

 同期である程度同じ授業をとっているためか、彼はよく僕に授業の内容の質問をしてくる。

「いや、三年はまだだけど……」

「そうか、よかった。ああそうだ、この前のマクロ、ありがとな。おかげでなんとか単位きそうだわ」

「それはよかった。図書館で勉強した甲斐があったな」

「ほんとそれだわマジ助かった。こんどラーメン全のせおごるわ」

「ああ、楽しみにしてる……ん?」

 僕は何かが頭に引っかかった。

「おう……どした?」

「なあ、もしお前が受けている何らかの授業が単位認定の危機にあったとする」

「うん」

「そこで、ちょっと頭が切れそうなかわいらしい女子大生が、『単位、なんとかしてあげる』って言ってきたら、お前はどうする?」

「え、なにそれめっちゃカミじゃん。とりあえず一緒にお勉強するよね」

「なるほど」

 思ったより普通だ。彼ならもっと踏み込んだことをしそうだと思ったのだが。

「んで本当に単位とれたら、お前と同じように牛丼なりラーメンなり好きな飯をだな……まあ女の子だしそこはパスタあたりが相場だろうな。かわいかったらちょっと高くても我慢はする……かな」

 なるほど、なんか少し見えてきたぞ。

「ほう……で、その女の子を好きになるとかはない?」

「え、そんな一緒にお勉強しただけで? くっ……ふっ……」

「何がおかしい」

 坪井はどうやら必死で笑いをこらえているようだ。

「いやお前、さすがに童貞じゃあるまいしそんなわけねえだろ! フヒトさんめっちゃウケるなそれ……まあ、その女の子が俺のタイプだったらともかく、いきなり普通の女の子とちょっと勉強して飯おごったくらいで? そんな気分にはならねえだろうが!」

 まったくこれだから童貞は困るわー。

 坪井は笑いながらそう言った。

 なるほど。なんだかよくわからないがとりあえず何かがつかめたような、そんな感じがする。

「ありがとよ」

「いやいや大したことしてねえし。しかしなんだ? そんなこと訊くってことは、ついにフヒトさんにも春が到来したってことかい? ははは笑えねえ」

 笑ってやがる。

「いや別に違うけど」

「なんだ違うのかよ。つまんねえな」

 ちょっとアテが外れただけでこれとは、なかなかひどい。

「まあとにかく、向こうから勉強教えてあげるとか言ってくる女は信用しちゃいかんぞ真中くん」

 坪井はおどけた声でそう言った。

「そういう女は別にお前が好きなんじゃない、勉強を教えたことによるなんらかの対価が好きなんだよ。そしてそれは大抵限りなく金に近い、『何か』なんだよな」

「ほう、さすが坪井、わかってるじゃん」

「まあな」

 こういう考え方を聞くと、彼には悪いが坪井もきちんとした経済学部の人間なんだなあと思ってしまう。

「そりゃ、俺はお前のような童貞くんじゃないわけだし、多少は女の子のこと、知ってるよ」

「確かにそりゃそうだろうな」

 正直本当のところはどうなのか僕にもわからない。坪井が女の子を連れているところなんてほとんど見ないし、会うのは大抵ゲーセンだからだ。

「まあでも、そうやって近づく女はお前にあながち興味をもっていないわけじゃあないんだろうし、なんとかこう連絡先をつかむなり何なりすればいいんじゃないすかねー?」

「いや、だから僕の話じゃ」

「わかってるっつの。そいつに言っとけってこと」

「ああなるほど」

「んじゃまあ成績出てないのは分かったし、俺はもう寝るわ。あ、成績出てたらメールしてくり。じゃあな」

 そう言い残して電話は切れた。

「はあ……」

 なんだか、すごく疲れたような気がする。

 けれど、今日一日でそこそこの収穫は望めた。

 これは、いい兆候だ。なんとか明日もこの調子でいけますように。

 僕はそう願って布団に寝っころがり、部屋の電気を消した。

 暗闇は一瞬で眠気と倦怠感を連れてきて、僕を襲った。



 ここは、どこだ。

 真っ暗で、何も見えない。

 とりあえず、僕はどうやら立っているらしい。

 それくらいしか、分からなかった。

「真中くん?」

 奥の方から、声がする。

 きりりと鈴が鳴るような涼しさと、はちみつのようなねっとりとした甘さが不思議に溶けあったようなその声の主を、僕はよく知っている。

 そうか、ここは夢の中なのか。

 今度はどうやら、無事に引き当てることが出来たようだ。

「いるの?」

 彼女の声が、だんだんと僕に近づいてくる。

「ああ、僕はここだ」

 僕は声を出して場所を知らせた。

「また、来てくれたんだ」

「ここには、きっと僕しか来られないよ」

「確かに、そうだね」

 彼女は言った。

 そう言いながら微笑んでいる姿を僕は想像した。

「ねえ、今、見えてる?」

「いや、全然。何も見えない。咲ちゃんの声だけだ」

 志島咲子は、きっと悲しそうな表情をしている。なんとなくそんな気がした。

「そう。じゃあ……」

 彼女の声がいったん途切れると、左手を手のようなものに握られた感触がした。

 ひんやりとした柔らかな感触で、咲子の手だとすぐにわかった。

「今、真中くんの左手を握ってるんだけど、わかる?」

 思った通りだ。

「ああ、それはわかる」

「よかった……」

 咲子は、はあ、とため息をついた。

「まだ、私の存在は不安定なのね」

「そうみたいだね」

 左手から伝わる手の感触は、あの時とまったく変わっていない。きっと、その透き通るような肌の白さも、あの時のままなのだろう。

 今の僕にはやっぱり見えないけれど。

「ねえ、それで、今度はどんな怪異に逢ったの?」

 咲子の気配がぐっと近づいた。きっと彼女は僕の目と鼻の先で、上目遣いでこっちを見上げているに違いない。

 粉雪を無理に固めて作った雪だるまのように真っ白な一重まぶたと、目元に絶妙な泣きぼくろを持つ彼女の上目遣いは、いつも僕をぞくりとさせる。

 その無邪気なまでの迫り方が、少し怖いけれど、これも彼女ならではだった。

「ああ、なんだか妙な怪異だった」

「そりゃ、怪異はいつも妙だよね……」

 咲子はきっと右手の人差し指を顎の上に乗せている。

 そんな気がした。

「なあ……大学の単位って、そう簡単に操作できるものなのか?」

 僕は咲子に訊いた。

「うーん……」

 咲子の手が僕から離れた。腕を組んで考えているに違いない。

「どこをいじるのか、によるよね。たとえば、すでに決まってしまった単位の評価を改竄する、とか、そういうことならかなり簡単だけど、評価をつける人の心そのものを操って評価をいじるとなると難しいんじゃないかな……」

「なるほどなあ……」

 御厨智子は、成績表に「何かある」と言った。

 つまり、三嶋さくらは評価を改竄できる能力がある、ということだ。

「あ、単位売りの子、みつけた」

 咲子はうれしそうに、僕の肩を叩いた。

 いつの間にか彼女は、そんな能力も手にしていたようだ。

「この子だよね?」

 目の前に、金色に近い茶髪をお嬢様のようにくるくると巻いている、女子大生らしき女の姿が浮かんだ。夕方だというのに化粧はばっちりだし、ありふれているようでいて、どことなく知的な印象を漂わせている。派手ではあるが決して目立つタイプではない。

 これが、佐貫の言っていた三嶋さくらという女だろう。

 彼女は、どことなく焦っているようだった。せっかくばっちり化粧をしているのに、顔色が優れないせいでかえって醜くなっている気すらしてくる。待ち合わせに遅れそう、とかそういう焦りではない。もっと、例えるならばこの試験に遅れてしまったら第一志望の大学に入学することはできない、といったような必死さが垣間見えるくらいの、少し大きな焦りだ。

「真中くんからするとあまり好きなタイプではないみたいだね」

「そうだね」

 咲子は僕の心を見透かすように言った。

 彼女は僕の好きなタイプを完全に見抜いている。大学生になって久しぶりに出会った彼女を見ればすぐに分かることだった。

 閑話休題。

「とりあえず、この女の子、多分そこまで強い能力はないと思うから、智子さんがいなくても、なんとかなるんじゃないかな」

 咲子は淡々とそう言った。

「ただ、この子、確実に舞さんの息がかかってるから……まあ、ここから先は言わなくてもわかるよね?」

 咲子はいつの間にか僕の右の二の腕をつかんでいた。何のつもりだろうか。

 ともかく、相手が相手なのはわかった。

 しかし、僕は何の能力もない。せいぜい、こうして夢の中で他人の意識と交錯するくらいしかできない。

 どうすればいいだろうか。

 その時だった。

「そういえば……真中くん、人魚姫って知ってる?」

 咲子の甘くしなやかな声が脳に響く。

「知ってるけれど……それが彼女となにか関係が?」

「ううん、ないけど」

 ないなら話すな、と言えるはずもない。

「なんかさ、人魚姫って悲しい話のイメージがあるじゃない?」

「うん、そうだね」

 僕の知っている限りで言えば、人魚姫というおとぎ話は、人間の王子様に恋をしてしまった人魚姫が、その恋い焦がれる想いのあまり、魔女の甘い言葉に騙されて、自分の声と引き替えに足を手に入れ、もし王子様の心をつかむことができなければ泡となって消えてしまうという呪いをかけられるのだが、結局王子様は人魚姫の愛を受け止めることができず、人魚姫は魔女の呪い通り泡となって消えてしまう、という話だったような。

「でも、よく考えて。人魚姫は、王子様の愛を手に入れるために、魔女と『契約』した、って考えられない?」

「なるほど、確かに」

 人魚姫は、王子様とどうしても結ばれたかった。だからこそ、魔女の甘言に……。

「確かに、これはどう考えても取引の原則である等価交換とはとうてい言えないけれど、人魚姫と魔女が結んだのはれっきとした『契約』なの」

「そうか、人魚姫は王子様の心を得るために、魔女から足を提供してもらう。代わりに、魔女は人魚姫から声を受け取る」

「そう。それだけじゃなくて、王子様の心が得られなかった場合、人魚姫は泡となってしまう、という条件も、『契約』のうちってわけ」

「確かにそうだ。でも、あまりにも不公平なのは、誰が見たって明らかじゃないか? やっぱり人魚姫は魔女に騙され……」

「ねえ、真中くん、それって本当?」

 咲子の声が、少しだけ冷たく、尖った。

 僕は冷や水を浴びせかけられたような気分になった。

「な、何が?」

「それは真中くんの中の『人魚姫』だよ。本当は、人魚姫は魔女に騙されてはいないんだよ」

「え、じゃあ、なんで人魚姫は、そんなに不公平な『契約』を結んだんだ?」

「もう……真中くん、本当に分かんないの?」

 ふと、腕から咲子の手の感触が消えた。

 きっと彼女は僕の目の前で腕を組んで睨みつけているだろう。

 その姿にどこか性的な興奮を覚えてしまうのは、僕だけでいい。

 もちろん、彼女の姿は依然としてまったく見えないわけなのであるが。

「じゃあ、ヒント。真中くんがゴビ砂漠にいるとします」

「何でゴビ砂漠?」

「んー……思いついたから」

「あっそう」

「で、水がなくて、もう喉が渇いちゃってしょうがないとする」

 なるほど。

「そこに突然コーラの自販機が現れるわけ」

「何でコーラ?」

「もう、いちいちうるさいなあ。真中くんが大好きだからに決まってるでしょう!」

 その台詞、別の時に聞きたかった。

 まあそんなこと、言ってられないわけで。

「で、真中くんは大喜びでその自販機に飛びつくの。でも、その自販機の缶コーラは、なんと千円もするの」

「高っ!」

「でしょう? さて、真中くんは、このコーラを飲むでしょうか?」

 うーん、砂漠にずっといて、何も飲み物がなくて、今すぐコーラが飲みたければ千円払ってもいい気がする。


 ん、待てよ……。

 何か頭にひっかかるな……。

 昨日、アイツに言われたことも、こんな感じで頭に引っかかっていたのだけれど。

 なるほど、そういうことか。

「全部わかったよ。君のおかげで、全部つながった。ありがとう」

 そう言って僕は立ち去ろうとした。

「あっ、ねえ、ちょっと待って」

 咲子は僕の腕を強く引っ張って止めた。

「いくらなんでも突然すぎない? ここに来てくれるの、真中くんだけなんだから。もう少しお話しようよ」

 咲子はらしくもなく少し慌てていた。

「でも、そろそろ起きないと……」

 本当は、こんなこと言いたくないけれど、仕方がない。

「そう、そうね……ごめんなさい。また、待ってるから」

 咲子の声が消え入りそうになった。

「うん、きっとまた、会いに行くよ」

 僕はそう言った。

 いつになるかは、言いたくない。出来れば、もう来ない方がいいのかもしれない。

「もちろんそうして頂戴。絶対ね」

 そういって咲子は僕を抱きしめた。その感触も、小学生の時とほとんど変わっていなかった。


 どうでもいいことだが、僕は一年ほど前、彼女にばっさりと振られている。



 僕は逃げるように目を覚ました。

 全てが、つながっていた。

 元から謎は、それほど多くない。

 わずかな謎も、考えてみれば簡単だった。

 とりあえず僕は顔を洗った。

 時計を見るより早く。

 乱暴なノックが、部屋に響きわたる。

「真中さん、助けてください!」

 やっぱりそうか。

 僕は扉を開けた。

 そこには心底困ったような顔をした佐貫がいた。

「あの、メ、メ、メール、さ、さくらさんからメールが来ました」

「なるほど」

「きょ、今日のご、午後四時半、け、経済学部のけ、け、掲示板前で、待っていると」

「そうか。それでどうするんだ?」

「どうすればいいんでしょう?」

 やっぱり無策かよ。

「まあ、とりあえず、夕方まで待つか」

「大丈夫ですかね?」

「まさか三嶋さんが僕の部屋に押し掛けることはないさ。安心しろ」

「確かにその通りですね。ああよかった」

 佐貫はそう言いながら僕の部屋に入った。

 まだ僕は入っていいとは言っていないけれど。

 まあ、そういうところが、佐貫なのであるが。


 しばらくして、雨宮も部屋にやってきた。

「ミヤコ、なんとか謎が解けた」

「本当ですか?」

「真中さん、本当に僕は助かるんですかね?」

「大丈夫だ、お前に何かが起こることはない」

「そうなんですか? よかったー」

 佐貫は急に脱力した。そんなに期待されても困るけれど。

 だが、今までの僕と怪異が接した結果から考えるに、今回はそこそこ僕の予想が当たっている自信がある。

 まあ、どちらにしてもあまりいい話ではないとは思うのだけれど。

「おそらく、今回の件は、こんな感じなんじゃないかな……」

 僕は自分の推理を話した。

「なるほど、私は怪異の論理をよく知らないものなのであんまりピンと来ないのですが、『筋』は通ってますね」

「それなら確かに僕にだけこんなメールが来たのも説明がつきます」

 どうやらふたりとも納得してくれたようである。

「そうだろう。だから、掲示板の前に僕も行くことにするよ」

 僕は佐貫にそう言った。

「あの、私も行っていいですかね?」

 雨宮は紫色の眼鏡をなおしながら言った。

「なんで?」

「単位売りのクソビッチに私も文句を言わないと気が済まないので」

「いや、気持ちはわかるけれど、それはあんまりよくないと思うなあ。それに」

「いえ、たとえ真中さんの推理通りだったとしても、私の怒りは収まりませんので」

 じゃあ訊くなよ。僕が行くなと言ってもついてくる気だろお前。

「ああ、そう。まあ、ほどほどにしてくれよ」

「はい」

 雨宮はその瞳の奥に猛烈な嫌悪感と闘志を秘めていた。

 すごく、嫌な予感がする。


 ともかく、僕らはそんなわけで、適当に時間を潰した後、三人そろって縦波大学の経済学部の掲示板前に向かった。

 夕方といってもまだ八月の初頭、猛烈な湿気と肌を灼く日差しは健在だった。十分の間立っているだけでも汗が吹き出て腕や足は赤くなろうというのに、大学まで延々と上り坂をそれ以上も上り続けることは、苦行以外の何物でもなかった。

 大学の正門に向かう頃には、三人とも汗だくになっていった。しかし、その正門をくぐったところからも経済学部の掲示板は歩いて五分ほどかかる。

 よくこんな僻地に大学を作ったものだな、と思う。

 まあ、そんなこと言ったところでしょうがないけれど。


 掲示板前に、ひとりの女子大生が立っていた。

 間違いない、三嶋さくらだ。

 僕たちは彼女に近寄った。

 彼女も僕たちを見つけたようで、少しだけ戸惑った様子を見せた。

「あの、これ、どういうことですか?」

 三嶋さくらは、僕たちを見ながら佐貫に話しかけた。

「三嶋さくらさんですね?」

 答えようとする佐貫を制して僕が逆に問いかける。

「はい。貴方は?」

「僕は真中浮人といいます。佐貫の先輩で、ここの三年生です。君には少し聞きたいことがあって、ここに連れてきてもらいました」

「それは、なんでしょう?」

 三嶋は戸惑ったような目をした。

「あなたの『契約』は、どういうものなのでしょうか?」

 僕のその質問に、はっと三嶋の顔が緩んだ。

 その瞳は小刻みに震えている。明らかに、動揺している。

「おっしゃっていることがよくわかりません……」

「いや、わかるはずです。怪異に携わった者であれば、その意味くらい」

「貴女が行っていることはれっきとした怪異ですよね?」

 雨宮が僕の後に続いてそう言った。

「僕の成績表を、書き換えたのは君でしょう?」

 佐貫が恐る恐るといった感じで訊いた。

「それは、もちろん、そうだけど……」

「こういうことを言いたくないけれど、佐貫がどんなにテストを頑張っても優なんてとれるはずがないんですよ。これはつまり、『契約』でないとできない話なんです」

 僕の言葉に、三嶋は黙ってうつむく。

 ほんの少しの間をおいて、彼女は顔をあげた。

「真中さん、貴方はいったい、何者なんですか?」

 その顔には、焦りと怯えの表情が入り混じっていた。

「僕は単にある怪異の被害者なだけですよ。だから、怪異によって被害者をこれ以上増やしたくないだけです」

 僕は決然と、そう言った。

「では、私を助けて下さいませんか? このままでは私は……」

 三嶋さくらの言葉はそこで中断させられた。

 次の瞬間、彼女の頬が歪み、彼女は体勢を崩して倒れこんだ。

 僕の右手が痛い。

「甘ったれてんじゃねえよ」

 彼女を思いっきり殴り飛ばした僕は、そう言った。

「あんたは『契約』した身だろ。その代償は、何が何でも払わなきゃいけないんだ」

 頬を真っ赤に腫らした三嶋は、涙を溜めて僕を不可解だというように見つめた。

 全ては僕の予想通りだったようだ。

 だからこそ、僕は彼女を殴りつける必要があった。

 怪異の「契約」に、他人を巻き込むことは、許せないことだったから。

「貴方は……」

「僕はあんたを救いに来たわけじゃない。佐貫を救うために動いてんだ。あんたが死なないために僕がしてやれることは、はっきり言って何も無い」

「そんな……真中さん……」

 三嶋さくらは打ちひしがれたように倒れこみ、泣きはじめた。

「あの、真中さん」

「手を出すな佐貫。巻き込まれるぞ」

 三嶋に近づこうとする佐貫を制止した。

「ですが」

「お前は僕の苦労を水の泡にするつもりか」

 佐貫はそこで黙った。

「なあ三嶋さん、あんた、今日の夕方までの『契約』なんだろ? どういうものだか、教えてくれないか?」

 僕は、三嶋さくらに訊いた。

 三嶋は、その声を聞いた途端、泣きじゃくるのをやめた。

 その沈黙は、何か不気味な予感がした。

 僕の中の何かが叫び声をあげた。

 おもむろに後ろに飛び跳ねる。


 ひゅん、と何かが振られる音がした。

 目の前には、ナイフを手にした三嶋さくらが、立っていた。

 ああ、壊れてしまったか。

 いや、もしかすると最初から壊れていたのかもしれないが。

「私は、愛が欲しいだけなの」

 彼女は語り始めた。

「でも、みんな、何をしても私のほうを振り向いてくれない。どうして? 何がいけないの? 私よりバカでブスな女がみんな彼氏がいたりするの。ねえ、それっておかしくない?」

「卑しい人間ですね」

 突然、雨宮が日本語の弾丸を撃ち込んだ。

「なんですって?」

 三嶋は雨宮を睨みつけた。

「そんなこと、どうでもいいじゃないですか。たかがそんなことで怪異を引き起こそうとする貴女のほうが、そこら辺にいる惚れた腫れただのの話しかしない連中以上に、馬鹿で、醜女ぶすですよ」

 雨宮はナイフを構えている三嶋に臆さず続ける。

「そんな風に、視野が狭くて傲慢に構えているからモテないんじゃないですかね?」

「うるさい! あんたに何がわかんのよ! あんたに!」

 三嶋は雨宮の方へと向かっていく。

 これは危ない。なんとか雨宮を守らなくては。

 僕は何も考えずに走り出した。

 五時の鐘が鳴る。

 いつの間にか、結構な時間が経っていたようだ。

 僕は三嶋と雨宮の間にどうにか割り込み、三嶋に蹴りを入れようとした。

 が、手ごたえがあるはずの足がなぜか抜けた。

 かわされたか。

 と思ったが三嶋さくらは目の前にいる。

 次の瞬間僕は仰天した。


 彼女の腹に大きな穴が開いていて、そこを僕の足が通り抜けていた。


 「契約」が実行され始めたのだ。

 慌てて僕は足を引っ込めた。

 彼女は倒れこんだ。

 もう、立てる足もなかった。

 三嶋さくらは悲痛な面持ちで僕を見上げた。

 しかし、残念ながら、僕にはどうすることもできなかった。

 だってこれは、「契約」なのだから。

 そうして三嶋さくらは、砂で出来たお城が崩れ落ちるように、姿がばらばらに解けていって、瞬く間に消えてしまった。


「あらら、やっぱり約束を果たせなかったのかー。残念ね、さくらちゃん」


 どこからともなく、聞き覚えのあるアニメ声が聞こえてきた。

 咲子の言ったとおりだった。

 掲示板のかげから、小柄でポニーテールの女性が現れた。

 童顔ではあるが、どうみても年齢的に少し無理のある女子大生風の格好。

 そしてかわいらしく毒のないアニメ声。

 清楚そうにしているからこそ目立つ、計算された胸元。


「てことで、また逢ったねふーちゃん」

 六本木舞はかわいらしくウィンクをした。不気味なその仕草は、予想外にホラーな効果をもたらしている。

「三嶋さんは、貴女が?」

「うん、そゆこと。どうしてもモテたいっていうからねえ」

「どんな『契約』を施したんだ!」

「そんなに怒らないでよ。別に大したことはしてないもん」

 六本木舞はぷくっと頬を膨らませた。咲子も似たような仕草をよくやるが、それとは違って猛烈な違和感が僕に襲いかかる。そして、それは大抵、苛立ちに変わる。

「モテたいっていうもんだから、じゃあさくらちゃんの得意なものって何? って訊いたら勉強、っていうから、それを活かしてあげたの。さくらちゃんが念じれば、さくらちゃんが受けている授業限定だけど、念じた相手の評価がさくらちゃん本人と同じになるようにしてあげた、それだけよ」

 つまり、佐貫の成績表にあるドイツ語2Bの「優」は、三嶋さくらの成績、ということか。

 だいたい僕が佐貫たちに話した推理と同じだった。

「で、対価は?」

「んもう、ふーちゃんったら急ぎすぎぃ。早い男は嫌われるぞっ!」

 六本木舞はまたも下ネタを放った。だから以下略。

「そこまで強い力をあげたんだから、今日の五時までに処女だったらあんた死ぬよ、ってことにしたの」

「えええええあんなビッチっぽい女が処女? ああでもなんか、あの感じだったら納得しますけど」

 雨宮がどうでもいいところに驚いている。そこじゃねえだろ。

 まさか、そこまでは考えていなかった。

 せいぜい、人魚姫のように誰かの心を手に入れなければ云々、という形だと思ったのだが、実際の内容はもっと即物的だったのか。

 というか、それで四時半に経済学部の掲示板前って……。

 人のことを言えた身ではないけれど、人間って、切羽詰まると本当にとんでもないことを考えるんだなあ。

 いや、もう考えるのはよそう。

「まあ、大学生にもなれば、そりゃ誰もが彼氏作ってエッチしたくなるわよねえ。彼女もそういう性欲に耐え切れられなかったんじゃないの? ああ、悲しき哉女子大学生」

 六本木舞はいつものようにふざけた調子で締めくくった。

「他人事だな」

「他人事だよ。当たり前じゃん。だから楽しいんじゃない」

 どこがだ。女子大生の命を奪っておいて楽しいもくそもあるか。

「今回はね、ふーちゃんが喜ぶと思って、特別に、ふーちゃんの後輩も使ってみました。どう? 楽しかったでしょ?」

 六本木舞は、まるで自分の手料理を食べている彼氏に料理の出来を聞くような気軽さで僕にそう訊ねた。

 いい加減にしろ。

 僕が六本木舞につかみかかろうとしたその時だった。

「いい加減にしなさい、舞。有能でも忠実でもない限りなく普通でどうしようもなく異常な私の真中を好き勝手に弄んでいいのは私だけよ」


 そして、僕の後ろから妖艶という響きが最もしっくり来るような声がした。

 僕は、最狂最悪の魔女をふたり、知っている。

 ひとりは六本木舞。

 そしてもうひとりは、御厨智子だ。

 そのもうひとりの魔女が現れたと僕は知った。

「あら、あんたがこんなところに来るなんて、珍しいわね」

 六本木舞は、声だけで驚いた。

「まったく、随分と酷いことをするじゃないの……若くて前途ある女の子を弄んだあげく自分の血肉ちからにしてしまうなんて、相も変わらず貴女の趣味は凄惨ね」

 御厨智子は、こういう場面ではお馴染みの、豪華な襞がたくさんついた藤色のワンピース姿で後ろから登場した。

「いいじゃない。若い女の子大好き!」

 知っていた。そんなの随分前から知っている。

 そんなの、僕でも公言したことないぞ。

「佳くないわ。貴女のおかげで、こちらは随分と面倒なことをやらされているのだから。こちらの身にもなって頂戴」

「まあまあ、そんなこと言わずに最後まで付き合ってよ。せっかくこっちまで来たんだし、さ」

 この六本木舞の言動に僕は寒気を覚えた。

「なるほど、またしてもこれはまだ始まりだと、貴女はそう言いたいわけね。いい度胸をしているわね」

 御厨智子は眉ひとつ動かさずに六本木舞を見下ろした。

「ということで、モテない女子大生の悶々としたクリームパスタ、おしまい。次くらいでようやく肉料理かなー。んま、そんな感じで。六本木舞のお料理教室、まだまだ続くよ! じゃあまた!」

「おいちょっとまっ!」

 僕が叫んだ瞬間、突然目の前を閃光が走った。

 思わず目を押さえて伏せる。

 気がつくと六本木舞は消えていた。

「まったく、如何しようもない女ね……あ、そうそう、真中、ちゃんと対価は戴いておいたから、佐貫くんに宜しくお願いね」

 辺りにそんな声が響いた頃には、御厨智子も消えていた。


「結局、なんだったんですかね、アレ?」

 佐貫は心底よくわからなそうな顔をしながら坂を下る。

「まあ、お前は知らないほうがいい。ともかく、巻き込まれなくてよかったな」

「いやあ、僕、十分巻き込まれたような気がするんですが……」

「確かにそれはそうなのだけれども」

 しかし、佐貫は怪異を背負うことにはならなかった。

 僕や雨宮とはそこが決定的に違う。

「これは……佐貫さんが無事でよかったということでいいんですかね?」

 雨宮が僕を見下ろしながら言った。

「まあ、そういうことにしておこう」

 また、なにやら変な怪異が起きることは確かではあるが、今は想像したくもない。

 血のように赤く染まった夕空を見ながら、僕は小さくため息をついた。

 まあ、怪異に出遭うことで、咲子を引き戻す方法が、あればそれで僕はいいのだけれど。

「あ、そうだ、真中さん」

「なんだ?」

「御厨さんの言う『対価』って、なんだったんですかね? 真中さん、御厨さんに対価が必要とか、そんな感じのことをおっしゃっていたじゃないですか。それに、御厨さんも、対価はもらったとか、言ってましたよね? でも、僕、まだ何の対価も支払っていないような気がするんですけど」

 佐貫は心底疑問そうな顔をした。

「ああ、あれか」

 実は、その対価にちょっとしたアテがある。

「佐貫、お前、成績表を見てみろ」

「えっ? 何でですか?」

「いいから」

「はい……」

 佐貫はポケットから成績表を取り出した。

「ああ……」

 成績表を見た途端、佐貫はまるで九死に一生を得たかのように安堵したあと、何かとんでもないものを失ったような悲しい顔をした。

「ドイツ語の単位……不可になってました」

「やっぱりな。そういうことだよ」

 お前の対価は、そのドイツ語の単位ってことだ。

 と、僕は続けた。

「なんか、御厨さんらしいですね」

 雨宮はにこっと笑った。ぴょこっと飛び出た八重歯がほんの少しかわいらしい。

「ああ……ドイツ語再履修しなきゃなあ……」

「元はといえば授業に出ないお前が悪いんだよ。後期頑張ればいいじゃん」

「確かに、それもそうですね」

 佐貫はいつもの晴れやかな笑顔を見せた。

「じゃあ、今日は、景気づけにここで一発、ボウリングなんてどうでしょう?」

「ほんとお前ボウリング好きだよな!」

「いいじゃないですか! 地元に安いボウリング屋さんがあるんですよ」

 佐貫が好きなものは、ボウリングとカラオケである。

 だから、こいつが某サークルの宴会部長に抜擢されたのだろう。

「いいですね、たまには」

 雨宮が眼鏡をあげながらそう言った。

 おい、今の聞き間違いじゃないよな。

「ミヤコがそんなことを言うなんて珍しいな」

「真中さん、私を誤解してません? 確かに見た目はこんなんですけど、私遊ぶの好きですよ?」

 雨宮は眼鏡をかちゃっと上げて少しおどけた。

 完全にガリ勉キャラだと思ってましたすみません。

「あ、雨宮さんもボウリング好きですか! じゃあみんなで縦波駅の方まで行きますか! いやあ女の子とボウリングなんて嬉しいなあ!」

 佐貫のテンションがなぜか急激に上がった気がするが、よくよく考えればいつもの佐貫はだいだいこんな感じである。やっぱり怪異に出遭っていた佐貫は少しテンションが低かったようだ。

「あ、どうしよう財布に千円しかない……」

 佐貫が財布の中を覗き込みながら心底困ったようにそう言った。

「いいよ、ふたりとも。今日くらいは僕がおごってやるよ」

 先輩だしな。

「本当ですかーありがとうございます!」

 佐貫の返事は軽い。

「でも、真中さん、そんなこと言って本当に大丈夫なんですか?」

 雨宮はぎょろっとした目で僕を見つめた。

「まあ、いいから。たまにはこういうのも、悪くないしな」

「そうですか。ありがとうございます」

 雨宮は僕を見下ろしながら頭を下げた。


 縦波市の中心街の方向へ、夕陽と一緒に僕らは向かう。

 なぜかほんの少しだけ、暑さが和らいだような気がした。

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