3.「ブラックコーヒー」

 秋特有の、透き通った、しかしそれ故に人の不透明さを責めるような風が、何の空気を読まずに通り抜けていく。購買の出入り口から出てきた女子生徒数人がどうでもよい冗談を言いながら身を震わせる。


 そして、彼女。先週僕には到底分からない「何か」があったはずなのに、今日もまたここにいた。まるで、この場所に救いを求めているみたいだ。ただ、いつものおしゃべりな彼女はいなかった。コーヒーの缶は相変わらず真っ黒で、よく似合っていた。


 これがきっと、本来の彼女なのだろう。おしること一緒に納得させた自分を口に流し込んだが、なかなか喉を通らない。高く青いはずの空は、コンクリートの天井で灰色に染められていた。


彼女の視線が下がり、ためらいを見せた言葉がようやく浮き出る。


「ごめんなさい」


 何を言っているのかよく分からなかった僕に、彼女はごめんなさい、ごめんなさいと言葉を繰り返す。僕は無理矢理声を割り込ませた。


「……ちょっと待って、僕は君に何もされてないんだけれど」


 彼女がはっとしたような、しかし悲しそうな表情で僕を見た。息を大きく吸い、不意に右の人差し指を一本立てる。まるで、演劇でも始めるかのようだった。周りの雰囲気がぱっと明るくなる。思わず辺りを見回す僕に、自嘲するような、それでいて軽やかな笑顔をつくった。


「あたしは、嘘つきなんだよ?」


 いたずらっ子がタネをばらすような、そんな表情で彼女は言った。


 ようやく、先程からの彼女の台詞が先週の僕に対する答えだということに気がつく。


 しかし、でも――受け取れない。そんな重たいもの、受け取れるわけがない。僕自身を安心させるために声にした言葉が彼女の深い所を突いてしまうだなんて、思ってすらいなかった。


頭で考えるより先に飛び出た言葉は、どこか言い訳じみていた。


「僕は、そう、僕だって嘘ぐらいつく。自分や相手を守るために嘘をつかない人なんていないよ、そんなに深く考えるようなことじゃ――」


 それは果たして誰のために吐かれたものだったのだろう。 彼女? それとも、僕? 何にしても、この時間を失いたくなかった。彼女とのつながりは、ここにしか存在していなかった。


 ううん、と再び大人びた、子ども特有の無邪気さなど微塵も無い雰囲気をまとった彼女が首を振る。変化が急すぎて、枚数の足りないパラパラ漫画を読んでいるみたいだ。


「君は、私のことどう思ってる?」


 恋愛小説を本棚から適当に引き抜けば載っていそうなありふれた言葉が飛び出した。「早く」とせかされ、口ごもりながら言葉が飛び出る。


「そりゃあ、純粋で、きらきらしていて、少し幼さが残っていて、守ってあげたいような、可愛い――」


 可愛い僕の好きな子、と言いかけて、さすがに自制を働かせる。それでも出してしまった本音に、顔だけでなく体中の体温が増していく。うわ、えっと、と声を上げる僕に、彼女は笑みを浮かべた。


「うん、そう。あたしは幼い。……可愛い、かな。ありがとう」


 でも、と彼女は表情を曇らせた。赤と青の自動販売機達は、何も知らないふりをして自分のいるべき場所にたたずんでいた。


「でも残念、不正解なんだ」


 風が僕らの間に滑り込み、明確な壁を作り上げた気がした。僕は何も言えず、彼女の黒々とした瞳を見つめる他無かった。


「ごめんね、あたしは君が考えてくれてるような奴じゃない。別人、そうだね、君の言う通り。あたしはずっと昔から、自分じゃないあたしを演じてる。……そっちの方が、居やすいから」


 知ってる? 幼いって人を守ってあげなきゃって気持ちにさせるの。これならたまに素が出ても、「大丈夫?」で終わらせてくれる――。


 大きく息が吸い込まれていくのを感じた。


 やはり、騙されていたのだ。僕も、彼女の友人も。胸の奥底にある部屋の中の一つが、丸ごと消失したような感覚に陥る。先程まであったはずの熱が完全に消えていた。今はただひたすらに、寒かった。


 僕の表情の変化に、でもさ、と彼女は後ろめたそうな、下手をすれば泣いてしまいそうな、乾いた笑みを浮かべた。


「あたしも君も、来年の今頃は受験勉強の真っ只中。君達は進路もしっかり決まっていて、自分がどうであるとか、悩むこと無く学力を上げることに必死になっているんだろうね」


 私の幼稚さは、もう要らないんだろうね。


 あたしは、いつからこんなによわっちくなっちゃったんだろう。

 人の目ばっかり気にして――小説のヒロインでもないのに。


 言葉の中には、明らかな今後の不安と諦めとが入り混じっていた。


 彼女の顔が下がっていく。僕はかけるべき言葉が見つからず、彼女の髪が顔を隠していくのを黙って見ていた。次に顔を上げた彼女の表情は、無邪気な笑顔に何かにすがるような感情を託したものだった。


 大きく揺れる瞳がこちらを突き刺す。声だけが明るく響く。


「そうは言っても、あたしの居場所は此処。住んでいるマンションの部屋も、廊下も、エレベーターの中でさえも明るいあたしのいる場所。……コーヒーなんて、『あたし』に合わないでしょう?」


 強風が、落ち葉を全て外へと追い出した。色鮮やかな桜の葉達が去った後の地面に残るのは、コンクリートの灰色だけだった。


 僕は一体、何を言えばよいのだろう? 慰めの言葉? それとも裏切られたことに対する怒りの言葉? 


 情報が一気に頭の中で洗濯槽の中のようにかき混ぜられ、交錯し、何も思い浮かばなくなる。


 結局、僕が口にしたのは一言だけだった。


「そうだね」


 彼女の目が極限にまで開かれた。目をふっとそらすと、自動販売機の方を向く。乱れた二つの髪の束で表情が隠される。心臓が、一瞬動きを止めた。自分が何か失言をしてしまったことは確かだった。


 君になら、と呟いたはずの唇が声にはならないままうごめく。

 これが、現実。


 読み取れてしまった音の無い言葉は、僕の心臓を一刺しにし、自動販売機の大きな筐体へと吸い込まれていった。


 彼女は、否定して欲しかったのだ。漫画や小説に出てくる熱血的な一言でも、TVのスイッチを入れればどこかの放送局でやっているような恋愛ドラマの台詞でも良かった。純粋でもなんでもない、人間不信とアイデンティティーの拡散を同時にくらった面倒な性格の彼女には、自分よりは信用できる「他人の言葉」が必要だった。


 彼女は自販機の方を向いたまま、一つ大きく息をついた。それは自分の中に溜め込んだ何かを全て吐き出しているようにも見えた。


 静かになった自動販売機の周りで、友達同士の楽しげな話し声と急いで教室に帰っていく生徒の足音がこだまする。彼女が再び顔を上げたとき、そこにあるのはいつも通りの明るい笑顔だった。


「そろそろ、戻らなきゃ」


 彼女はうわごとのように呟くと、缶を捨て僕の前からいなくなった。



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